『あきらめないで』


東京の一等地にある、やや古びた建物――その事務所は古いなりに趣きがある。木の扉にはまった磨りガラスに「MISIONE DETECTIVE OFFICE」「満潮音興信所」と、くすんだ金文字が並んでいる。
磨き込まれたクラシカルな受付机には慎ましげな美青年が座り、来訪者に優しく微笑みかけながら「いらっしゃいませ。ご用件を承ってもよろしいでしょうか」と挨拶してくれる、はずなのだが。
「……いない」
先ほど電話をかけた時、いつものあの物憂い柔らかな声の留守番メッセージではなく、固定電話で普通に応答してくれたのに。
「いらっしゃいませ」
奥の部屋から、白い三つ揃いを着た男が現れた。
「佐藤様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
応接室らしいところに通される。
「あの」
「所長の満潮音です。先ほど電話でお話をうかがった者は外出しております」
「そうですか」
自分でもあからさまに落胆した声だと思う。
満潮音は美しい微笑を浮かべて、
「どうなさいます? 今日はお帰りになりますか」
「あ、いえ」
通された応接室は天井が高く、こちらの調度も磨き込まれていて、どうも緊張する。
だいたい、目の前の所長なる男はいったい何歳なのだ。そんなに若いはずはないと思うが、年齢がまったくわからない。日本人離れした、性別も越境したような美貌で、かえってうさんくさく感じる。
居心地悪くソファに座りながら、
「実は、姉の猫が行方不明になりまして」
「あなたのでなく?」
「姉の留守中に、黒い猫を預かっていたのですが」
「逃げてしまった、と?」
「いえ、それがその、すこし複雑な話になりまして」
「なるほど」
満潮音は指をつきあわせて、
「猫探しが目的でしたら、専門の探偵をおすすめします。しかし、あなたのご依頼は、そういうお話ではありませんね」
「え」
「僕が介入してもいいのですが……おそらく、近日中に、あなたの本命の人が、あなたのお望みの答をもって、目の前に現れると思います」
「占い師みたいなことを言うんですね」
「あなたが仕事をしているフリーペーパーに載っている占いよりは、正確だと思います」
思わず身が引き締まった。
「なにをご存じなんです?」
「僕は探偵ですので、依頼人がどんな人間かも調べます。自分の身を守るためです。遠路はるばる来て下さって申し訳ないのですが、あなたの本命の方を大事になさって下さい。浮気はいけませんよ」
「浮気」
「いえ、言葉の綾ですよ。ここまでのご相談でしたら、料金はいただきません。もし、どうしても猫が見つからないとか、しばらく進展が見られないということでしたら、その時にまた、いらっしゃってください」
「あ、ええと、その」
「僕は生き物があまり得意でないので、先ほども申し上げましたが、本当に単なる猫探しでしたら、専門の探偵をご紹介します。しかし恋愛のご相談でしたら、守備範囲でなくもないので」
「……はい」
仕方なく、外へ出る。
名前と住所しか知らない人との距離を縮めようとして、奇妙な手を使ってしまった。その是非を第三者にきいてみたかった。この事務所の受付をやっている青年だったら、うまくいかなかったとしても、「あきらめないで」と微笑んでくれるのではないかと。
とはいえ、その彼の顔も知らないのだけれども。
青山通りを、とぼとぼと渋谷駅に引き返していく途中、
「鷹臣さん、今日のお昼は僕がつくるからね」
「それであれこれ、買い出しに注文をつけてたのか」
「うん。たまにはいいでしょ」
「じゃあ、巧君の腕前をじっくり見せてもらおうかな」
あの声……!
はっと振り返ったが、青年と少年の後ろ姿は素早く遠ざかっていって、追いかけるのはためらわれた。
今から引き返しても、あの青年に話を聞いてもらえるわけもなく。
「いいにおいがしたな……」
なんとなく力がわいてきた。
青い水玉のワンピースの裾を翻しながら、私は足取りも軽く坂を下っていった。


(2018.1脱稿、美少年興信所・番外編)

●注:2017年8月に、ペーパーカンパニー・正岡紗季先生からいただいたお題の消化です。オカワダアキナ先生の短編「猫を飼う」https://kakuyomu.jp/works/1177354054882986508 とコラボレーションしています。

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Narihara Akira
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