『満潮音ホームズシリーズ』解題暫定版


2018年10月、声優の辻谷耕史さんが脳梗塞で急死しました。享年56歳。
私は若いころ、辻谷さん演じるトリックスターが大好きでした。本人は大真面目なのに、そこはかとなく漂う嘘くささ。中の人とのキャラクターとは乖離しているはずなのに、この人にしか演じられないニュアンスがありました。「BLOOD+」に登場するときいた時も、出演を楽しみにしていました。そして吸血鬼、ソロモン・ゴールドスミスは期待にたがわぬトリックスターでした。ヒロインに優しく愛を囁いている場面でも「すごい、ひとっつも本当にきこえない」と、指さしてゲラゲラ笑っていました(最後はあっさり退場で拍子抜けでしたが)。満潮音純が淡いいろの髪をしていて、何かを超越した美形で、いつも白いスーツ姿で登場するのは、このソロモンのイメージを借りていたからで、別に辻谷さんの声でしゃべっていたわけではないのですが、私の中では勝手に「中の人」にしていました。
私の中に、親の影響で生まれた歪んだペルソナがあります。二十代半ばでその存在に気づいて、何度も滅ぼそうとしたり手懐けたりしようとしたのですが、なかなかその息をとめることができませんでした。自分の分身を主要キャラクターに据えている「美少年興信所」の中に悪役として登場させたのも、このどうしても死なないペルソナを、なんとか敗北させるためでした。
なのに辻谷さんの訃報をきいた時、このペルソナの声が途絶えました。
「え、死んだの? 本当に死んじゃったの? もう息を吹き返さないの?」
一週間は無音の状態が続き、本当に死んだのかどうか確かめるため、召喚の儀式を行いました。
それが「瀕死の探偵」です。
満潮音純はしゃべりましたが、もう辻谷さんではありませんでした。
つまり、「瀕死の探偵」以降の満潮音純は、それまでの満潮音さんとはすこし別の人なのです。私にとっては。

美少年興信所は、本編が終了し、大人組二人の後日談も『所長の憂鬱』でまとめてあったため、知恵蔵おじさんとのイチャイチャを散発的に書くぐらいで、おまけ的な本を出したりもしても、本格的に続ける予定はありませんでした。しかし、こうやって、もっと扱いやすいキャラクターとして使えるのなら、何かの機会にまたホームズネタで書いてもいいかもしれない、と思うようになりました。
なにしろシャーロック・ホームズは聖書の次に世界で読まれているシリーズで、なおかつ世紀末のロンドンを舞台に、クイアな展開のある物語ですから、美少年興信所のコンセプト(有名な文芸作品なのに、そう読まれていない作品を下敷きにする)として、元ネタにしてもなんら問題がないわけです。そもそもホームズは、しばしば勇敢な女性や美しい女性を讃えておきながら、女性を恋愛の対象として見ていないことを何度も明言しているのです。また、知人の鈴木薫が、ブログ「ロワジール城別館」内で、「tatarskiyの部屋」と題した、ホームズをクイア・リーディングの観点で読み解いた文章を紹介しており、「なるほど、tatarskiyさんの読みは面白い」と思っていたのもあります。たとえば同時代の「ジキル博士とハイド氏」、まともに読めば、ジキル博士が隠したかった当時の罪とは「同性愛」以外の答えはないのに(ジキル博士が「これは違う」と列挙している犯罪リストから、消去法でそれ以外の可能性がない。ハイドが殺人を犯したのがゲイ・ストリートだと知らなくてもわかる)、一般的にその読みは無視されています。オスカー・ワイルドがなんで投獄されたのか、男の恋人に裏切られたからだよ、有名な詩もあるのにみんな忘れちゃってるのか、みたいな気持ちになるわけで。


「瀕死の探偵」The Adventure of the Dying Detective

花がテーマのウェブアンソロジーに寄稿した掌編です。この頃、セアカゴケグモの日本上陸がニュースで話題にあがっていて、取り入れてみました。赤でなく黒い足長の姿なのは、ミステリでゴケグモといったらアシモフの『黒後家蜘蛛の会』だろうと思ったのと、「悪魔の足(The Adventure of the Devil's Foot)」にあう色は黒だろうというだけのことなのですが、つまりは架空のクモなので、こんな感じでいいかなと。
知恵蔵はワトスンと違って医者ではないので、近づいても仮病が見抜けないと思いますが、直接的な方法で確かめさせてみました。文字通り満潮音さんは弱りきっているので、病室でもなすがままだったりしていますが、いいのかそれで。

「最後の挨拶」His Last Bow

文学フリマで配布するつもりでつくった折本用短編。これで終わらせるつもりだったので「最後の挨拶」のモチーフを選んだのですが、知恵蔵が撃たれて満潮音さんが取り乱すという展開なので「三人ガリデブ(The Adventure of the Three Garridebs)」要素の方が強かったですね。なにしろ事務所を留守にさせて……。

「犯人は二人」The Adventure of Charles Augustus Milverton

手紙がテーマのウェブアンソロ用に書きました。最近は原題に基づいて「恐喝王ミルヴァートン」訳の方が増えてきているかもしれませんが、結末のレストレード警部の台詞「犯人は二人組の男だったようですよ」から、今でも「犯人は二人」で通用する話なので、そのまま使っています。ところでグラナダTV版のジェレミー・ホームズの再放送を久しぶりにみていたら、なんと最後に警部は出てこず、当然「犯人は二人」の台詞も出てこず、茫然としました。だったらタイトルを変えておけばよかったのでは? 本放送の時どうだったか、もう思い出せず……。
返還不能(還付不能)というのは一般の方にはなじみのない用語だと思いますが、受取人が受け取れず差出人が不明のままですと、郵便局も永遠に保管していられませんので、郵便法に基づいて三ヶ月後に処分されてしまいます。大事な手紙にはリターンアドレスをお忘れなく、と言いたいのですが(というかそれがこの話の主題であったりもするのですが)、昨今は入手した住所を悪用する犯罪も多いようなので、悩ましいところです。
ちなみに、写真を取り戻すという話で「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。キャラクター名に「おうのしゅうぶん」と読める名前を投げ込んでいるのはそのためです。「ボヘミアの醜聞」は(おそらくは男の娘との)いかがわしい写真を取り戻してくれ、という話なので、どちらかといったらこちらの要素の方が強いかもしれません。 いただいた感想を見る限り、元ネタをご存じの方にも、ご存じない方にも、納得できるような形で書けたかなと思っていますが、いかがでしょうか。

「白面の騎士」The Adventure of the Blanched Soldier

テーマ「ハロウィン」サブテーマ「マスク」のネットプリント企画に書いたもの。
元ネタの「白面の兵士」は病気オチで、いただいた感想でも「虐待か病気かどちらかだと思った」と言っていただけたので、うまく書けたかなと思っています。元ネタは引き裂かれた恋人同士の話を婉曲的に描いていますが、美少年がこの興信所に依頼に来て、不幸になってしまうのはちょっと困るので……。
ハロウィンはあまり得意なテーマではありませんでしたが、軽くひっかけてみました。知恵蔵が不在なのは、元ネタもホームズが語る話で、ワトスンが出てこないからです。

「空き家の冒険」The Adventure of the Empty House

扉がテーマのネットプリント企画参加作品。
ホームズが「最後の事件(The Final Problem)」でライヘンバッハの滝で死亡したとして三年も行方をくらましていたのは、結婚していたワトスンとデキてしまったからだ、なのでワトスンの妻が亡くなり、ホームズが戻ってくる「空き家の冒険」でワトスンが失神するのも実は茶番なのだ、という読み解きを読んで「なるほど、それならわかる」と思いました。ワトスンが『四つの署名(The Sign of Four)』の最後で結婚した時、ホームズはその妻に不満を持ち「僕は結婚なんぞしないよ」と吐き捨てるわけで、納得はいきます。ホームズが女が嫌いだという話は『四つの署名』の端々に出てきますが、ワトスンをとられる嫉妬なわけですね(ちなみにグラナダTVのドラマ版ではワトスンは結婚しません。最後にワトスンは「本当にきれいな人だったねえ」と繰り返し、ホームズの返事は「そうだったかい、気がつかなかったよ」という、マイルドな嫉妬で終わっていました。原作ではモースタンと最初にあった直後の台詞です)。
つまり「最後の事件」と「空き家の冒険」はセットで扱わないといけないわけで、相似しているところを重ねていくと、こういう話になりました。たとえば冒頭で満潮音さんが「訴えるぞ」と脅かされるのは、モリアーティの兄弟を名乗る人が、彼の死について投書を重ねているというところからとりました。この冒頭、本編と関係ないように見えて割と意味不明なんですが、モリアーティが架空なんですから、文句を言っている兄はマイクロフトなんでしょうね。元ネタで殺されているアデル卿は、特に何もないのに円満に婚約解消をしているので、つまりモランがアデルを殺したのは恋人の裏切りと読んでいいかと思います。杉野瑠美はアデアの元婚約者とワトスンの元妻を兼ねさせています。そんなわけで痴情のもつれが渋滞しすぎました。
ちなみに今回の名前は菊池寛の「無名作家の日記」に登場する名字と、モデルになった人の名前(ペンネーム)を重ねてみました。子ども心にもわかりやすい嫉妬の話なのでいいかなと。
満潮音さんの最後の口説き文句はいい感想をいただきましたが、「五つのオレンジの種(The Five Orange Pips)」で夜中に依頼人が訪ねてきた時に「(こんなとんでもない時間にくるような)友達は君一人だよ」という有名な台詞のもじりです。そんな時間に僕たちは一緒にいるんだよという匂わしと、浮気を疑ってんのかいという皮肉が込められているわけですが、いろいろあった満潮音さんも、今は君だけだよ、という直球の口説き文句として読んでいただけて幸いです。

「ライオンのたてがみ」The Adventure of the Lion's Mane

登場人物の名前は、市川崑の映画「こころ」からとりました。

なお、原典のホームズの読み解きについてご興味をもたれた方へ、「ロワジール城別館(https://kaorusz.exblog.jp/)」で参考にした記事、後で読んで補強に使用した記事をご紹介しておきます。ブログ内をホームズの作品名か、記事名で検索してみてください。なお、tatarskiy名義以外の文章は、ブログ主の鈴木薫さんが書かれたものです。

ボヘミアの醜聞「彼らの悪、彼らの秘密――エドワード・ハイドからアイリーン・アドラーへ(下)」(鈴木薫)
三人ガリデブ「「三人ガリデブ」でワトスンはなぜあんなに感激したのか」(tatarskiy)
空き家の冒険&グロリア・スコット号&四つの署名「最後の事件ノート」「二人の男――作家としてのコナン・ドイルを誰も本気にしてこなかった(下)」(鈴木薫)「トランプの絵札――ホームズ物語の4つの長篇について(上) 」(tatarskiy)
グロリア・スコット号&ライオンのたてがみ「アッティス――“ライオンのたてがみ”の起源」(鈴木薫)


(2023.6脱稿、美少年興信所スピンオフホームズネタ解題)

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