『不安』


「あー、厭だ厭だ」
鷲尾養太郎は、ゲイバー《ねあん》に入ってくるなり、大きな声を出した。
「なんだい、明るいうちから飲んでるのが、気に入らないのかな? まあ、それなら君も御同様だろうって言ってやるけど」
満潮音純は薄く笑うと、グラスにくちびるをあて、金いろのカクテルを流し込んだ。鷲尾はため息をついて、
「あなた、今、他人からどんな風に見えるか、わかってますか」
「さあ。もう酔っ払ってる?」
「メスの顔、してます」
「へえ」
満潮音は小首をかしげた。
「どう見られてもまったくかまわないけど、つまり君は、僕がだらしない、といいたいわけだ」
「お幸せそうでなによりです、って言ってもらいたいんですか」
「なんでそんなに喧嘩腰なんだい? まあ、君に祝福してもらう必要もないけど」
鷲尾は満潮音の隣に座ると、目をそらして、
「そりゃあ、歳月にまったく変化しなかったあの美貌が、こんなにあっさり……」
「君こそずっと変わらないじゃないか、僕の顔目当てなのはさ。いや、みっともないと思うのは勝手だけど、いいかげん、飽きたらいいと思うがな。まさか、今さら僕を口説くつもりじゃないだろうね」
「悔しいんですよ」
「何が?」
「あなたは永遠に満たされない人だと思ってた。あなたの美貌はあなたの欠落の証で、この世を去る日まで、人間じゃないような涼しい顔をしてると思ってたのに」
「君も大概ひどいなあ。他人の不幸を願っていても、普通は本人の目の前で口に出さないものだよ」
「ファン心理なんてそんなものです。人気タレントの結婚報道が流れると、いつだって暴れる連中がいるでしょうが」
「ええ? 彼と同居してもう何年たってると思ってるんだい」
「新妻の顔して、よくいいますよ」
「それは褒め言葉として受け取ればいいのかな」
「なんというか、あなたのこんな様子を見るまでは、信じられなかったんですがね……」
「そうか、彼、盛大にノロケたか。まあ、可愛いもんだと思ってくれないかな。お互い、長い付き合いなんだからさ」
「あなたが可愛くて仕方がないって言ってましたよ」
「あー、ホントに? 僕も同じことを思ってたよ」
「あの人が可愛いですって?」
「初々しいっていうか、若い頃にやり残したことを一生懸命やってる感じがね。あんな姿を見るのは初めてだから、僕はとても楽しいよ。愛されてるなあ、と思うね」
「それはどうも。ごちそうさまです」
「ありがとう。一杯おごろうか」
「結構です。これ以上、惚気を聞かされたんじゃたまらない」
「じゃあ、離れて飲んでてくれないかな」
「どうしてです」
「ひたりたくて一人で飲んでるんだからさ」
「何にです」
「ふうん。ノロケていいの?」

*      *      *

昨夜、終わった後、知恵蔵がじっと自分の顔を見つめているので、
「ん、なに?」
「大丈夫か、つらくないか」
「うん。でも、もうちょっと、このままでいてもいいかな」
「ああ」
知恵蔵がそのまま仰向けになると、満潮音はその肩に頬を埋めて、
「今、僕、どんな顔してる?」
「いつも通り、綺麗だ」
「そう? 君が心配そうだったから、ずいぶんとみっともない顔をしてるんじゃないかと思って」
「みっともないことはない。表情はとろけてるがな」
「ほんとに? 恥ずかしいなあ……君の方は、そういう顔、しないのに」
「そうなのか。おまえに抱かれた後は、いつも茫然としてるんだが」
「僕がわかってないだけか。ねえ、本当にみっともなくない?」
「なにが心配なんだ? 録画でもしない限り、自分がどんな顔をしてるかなんて、誰だってわからないだろうが」
「いや、撮るのはちょっと、やっぱり、さ」
「わかってる。おまえはそういうのが一番厭だろうな。ああ、でも、見てみたいだけなら、方法はあるか」
「ん?」
「風呂場の鏡は防湿鏡だ。おまえがその両脇の壁に手をついて、私が、後ろから……」
満潮音はパッと顔を上げて、
「君、僕とそんなことがしたいの」
「どうした、軽蔑したか?」
「いや、ちょっとびっくりはしてるけど。あのさ、それって、僕が君にしてもいいの」
「おまえがしたいなら、別に。あと、そうされて、私が腰砕けにならないならな」
「本気で言ってる?」
「ああ」
満潮音はため息をついた。
「どうしよう」
「なんだ」
「言葉責めしないの、なんて誘っておいて、本当にその手の台詞を言われたら驚いてるって、いったい、なんなんだろうな、僕は」
「おまえが厭なら言わないし、しない」
「ううん。言われたい……っていうか、ほんとにお風呂でする?」
「まあ、曇ってよく見えないかもしれないが」
「そうだね。でも、君に愛されてる自分を、ちょっと、見てみたい、かも」
「じゃあ、今からするか」
「え」
「今ので全回復した」
「うそ」
「嘘じゃない」
「いや、それは見ればわかるけど、ほんとにいいの?」
「おまえもしたいんじゃないのか。こんならちもない甘え方をするのは、物足りない証拠だろう」
「別に、物足りない、わけじゃ」
「私だって無理にするつもりはない。だが、おまえがそんな風に、恥ずかしそうな顔をすると、そそられる」
「ん」
唇をなぞる指に、満潮音は軽く吸いついた。
「知恵蔵、あのね」
「どうしたい」
「いっぱい、いやらしいこと、して、ほしい」
「ああ。してやる」

*      *      *

「僕がすこし甘ったるいことを言うと、あっという間にその気になってさ。僕にこんなに夢中だったのかって思うと、面白くなってね。まあ、いろいろ遊べて、楽しいよ」
鷲尾は首を振った。
「あなたが昔から、あの人を特別扱いしてたのは知ってましたけどね。甘ったるい台詞、ですって? そんなの、どんな策謀があっても、誰かに言ったこと、ないでしょう」
「そんなこともないよ」
「まあ、百歩譲って多門さんには言ったとしても、それは騙すためでしょう」
「僕ってそんなに悪者なのかい」
「そうじゃあなくて」
「なに?」
「ああ、韜晦もいい加減にしてくださいよ。厭だ厭だ」
「甘いことぐらい言ったっていいだろう? 年を考えろってこと? パートナーともっと楽しみたいって思うのは、そんなに変な話かな」
「うわー、聞きたくない……!」
鷲尾は両耳を塞いでしまった。
「本当に失礼だなあ、君は」
「私にまで素直に言わないでください!」
「ふうん?」
満潮音は薄笑った。
「じゃあ、君の前では今まで通りにしておくよ。ノロケもやめておく。冷酷で人を騙すことしかしない悪魔の申し子として、親の財産でさんざっぱら君をこきつかってやるから、覚悟しておくといいよ」
「それで結構です。永遠にポーカーフェイスでいてください」
「君も大概、ゆがんでるね。これからいくら頼まれようが、僕の甘ったるい様子なんて撮らせないからね。知恵蔵も触らせないよ」
「当たり前でしょう!」
満潮音は鷲尾の顔をのぞき込んで、
「ところでさ、彼が最近、僕の顔をじっと見てる時があるんだけど、なんでだと思う?」
「そりゃそうでしょうよ。ちょっと抱かれたぐらいで、そんなに可愛らしくなって、だらしないってあきれてるんですよ」
「やっぱり、そうなのかなあ。まあ、別にいいけど」
「こっちはよくないですよ。そんな、表情のある、あなたなんて」
「表情がある?」
「ええ。人間みたいで、気持ちが悪いです」
「僕も一応、人の子なんだけど」
そして真顔でこう続けた。
「じゃあ、今の僕は、そんなに綺麗じゃない?」
「いや。綺麗ですよ。残念なことにね」
「そう? ならいいや」
「なにがです」
「知恵蔵、僕の顔にぜんぜん興味がないみたいだったのに、最近、綺麗だって言うようになったからさ。柄にもない世辞なのか、惚れた欲目なのか、なんなのか考えてたんだ」
「あなたたちは、二人して……そういうのは、本人に言ってくださいよ……!」
「そうだね。じゃあ、帰るとしようか。またね」
カードで支払いをすませて、満潮音がバーを出ていくと、鷲尾は頭を抱えた。
「あー、厭だ厭だ」
バーテンダーが低く笑った。
「お疲れ様です」
「最後の顔、見ました? 照れてましたよ? 綺麗だって言われて嬉しいんですよ、あの人が」 「嬉しがったらいけないんですか? 幸せそうで何よりじゃないですか」
「本当に幸せならね。でもあんな隙だらけな顔をされちゃ……」

*      *      *

「ただいま。何か変わったことあった?」
事務所に戻ると、白いエプロン姿の知恵蔵が奥から出てきた。
「特にないな。そろそろ新しい依頼が来るといいが」
「そうだね。ところで、なんだかいい匂いがするけど」
「夕食だ。おまえが朝につくったものを温めただけだが、そろそろ戻るかと思って」
「いい勘だね」
「何もなければ、おまえは大概、この時間に食べるからな」
「そうだっけ」
「どうした?」
「なに?」
「変な顔をしてる」
「すこし酔ってるからじゃないかな」
「いや、違う。泣きそうだ」
「ほんとに?」
満潮音は目を伏せた。
「僕、君に、こんなに優しくされたかったんだな、と思って」
知恵蔵は首をかしげた。
「温め直しただけだといったろう、大げさだな」
「そうじゃなくてさ」
「どうした」
「そういうの、みっともないと思って」
「なにがだ」
「優しくされたいなんて」
「それはみっともないのか?」
満潮音は顔を背けた。
「《おまえは私が、死んだ方がいいんだろう》っていうのが、あの人の口癖でね。僕と顔をあわせると、吐き捨てるように言うんだ。バカじゃないかって思ってた。いったい何が不満なんだ、いい家の婿に入って成り上がったくせに浮気し放題、文句を言いたいのは家族の方だ、なんでそんな罵られ方をされるんだって。僕が思うとおりにならなかったっていうなら、勘当でもすればよかったのにさ。彼に死ねって言ったことないんだよ。死んで欲しいわけでもないし。なのに、なんでこんなことって、いつも怒ってた。でも、あの頃の親と近い年齢になったら、うっすらわかってきた。気力体力が落ちてきて、いろいろ思うようにならなくなってくると、血を分けた子どもから優しくされたいんだ。つまり《死なないで》って言われたいんだよ。ぞっとした。気持ちが悪い。あの人と同じになりたくない。やりたいことだけやっておいて、みっともなさすぎる。なんの呪詛なんだ、悪いところだけ似てるなんて、たまらないよ」
「満潮音」
「え」
静かに抱き寄せられて、満潮音は顔をあげた。
「私でいいなら、優しくする」
「知恵蔵」
「別に、今さら、駿介くんになにかして欲しいわけじゃないんだろう」
「うん」
「それならいい。それに、愛されたいって思うのはみっともないことじゃない。私だって、おまえに愛されたいと思ってる」
「ほんとに?」
「親父さんを嫌いなのはやり方が間違ってるからだろう。おまえはこれから間違えなければいいんだ。確かに何度も試されたが、今の私はおまえに信用されてるんだろう」
「もちろん」
「だったら私に、くだらないことを言う必要もない。安心して愛されてろ」
「うん」
「それで、どうする」
「愛されたいけど、先に食事にするよ。さめちゃうからね」
「いいのか」
「どうして」
「まだ不安そうな顔をしてる」
「ああー」
満潮音はうめいた。
「だめだ、今の僕は表情に出過ぎちゃうんだな。みっともないって言われるわけだ」
「誰がそんなことを」
「いや、うん、些末なことだよね。どんなにみっともなくても、君はちゃんと僕の不安まで見守ってくれてるんだから、それって幸せだよね」
「些末じゃない」
知恵蔵は満潮音の腰を引き寄せた。
「おまえは暴漢に襲われたばかりで、まだ本調子じゃない。だから不安なんだ。それは生き物の本能で、みっともないなんて思わなくていい。少しでも不安が和らぐなら、いつでも抱きしめるぐらいする。みっともないとかくだらないとか思わないで、甘えてくれ」
「うん」
満潮音の額に知恵蔵はそっと口づける。
「知恵蔵」
「なんだ」
満潮音はふっと口元を緩めて、
「やっと、昔の自分をほめたいと思えた……君を選んで、良かったよ」


(2019.4脱稿、美少年興信所・セルフ二次創作)

●注:『瀕死の探偵』および『所長の蜜月』で書いたお話の続編です。満潮音さんが弱ってる時の「if」設定と言うことでお読み下さい。

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Narihara Akira
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