『夜明け前』


知恵蔵が目を覚ますと、隣に満潮音が寝ていた。
いつもの寝間着姿で、静かに寝息を立てている。
《いつ入ってきたんだ?》
満潮音が過労で倒れ、医者に安静を言い渡されたので、今はとりあえず別々の部屋で寝ている。
とはいえ満潮音は、一日中寝ているわけではない。朝昼晩と三食をつくるのは彼だ。暇すぎるから、食事ぐらいは好きなものをつくらせてくれというのだ。部屋では簡単なストレッチなどしていて、時々、知恵蔵も一緒にやらされる。
事務所はすっかり閉めているので、知恵蔵は今までの仕事の整理、最低限の買いだし、洗濯、あまり大きな音のしない掃除やらをして過ごしている。
二人とも動かないので、食事の量は減らされている。今までしょっちゅう事務所を飛び出していた満潮音が太ってこないのは、そういうわけだろう。昨晩の主食は卵と春キャベツの入った温かいそうめんで、いかにもヘルシーだった。昼のテレビで見たのを真似したのだという。「簡単だから君でもつくれるよ」とも。
まあ、いい年をした二人だ、朝食はそれこそトーストとヨーグルト、バナナぐらいで充分なので、知恵蔵も用意できないことはないのだが、普段から満潮音は食事をつくらせない。お育ちがよくて好みがあわないということではなく、ジャンクフードも好んでいて、刻んだタマネギとコンビーフを和えたのをバタートーストに挟んで美味しそうに食べていたりする。いや、むしろそこらへんは知恵蔵の好みに寄せているのかもしれないが……。
満潮音の身体が、かすかに震えた。
《もしかして寒いのか》
気温の上がり下がりが激しいので、空調の調整が難しい。明け方になると寒いのかもしれない。知恵蔵の体温を求めて潜り込んできたのなら、抱き寄せた方がいいのだろう。そてとも、いっそ……
《抱かれるだけの時は、こんな選択肢はなかったな》
彼が手を出してこなければそれでおわり、出されたら出されたで声も出せず、出されなければ心の奥底まで冷えてゆく――ということは、満潮音も? そうなのか?
「満潮音」
低く囁いて見たが、寝息は変わらない。
静かに身体を近づける。起こしたくはないので、そっと掌だけ重ねる。
すると満潮音が寝返りを打って、知恵蔵の肩に頭を預けた。
「ごめん、もう、ちょっとだけ……」
やはり眠いのか、とわかって知恵蔵は安堵した。
抱きたい気持ちはあるのだが、体力の落ちている満潮音に無茶を強いたくない。
眠っていたいなら眠らせておこう。
と、思ったが。
「知恵蔵」
「ん?」
「もうちょっと元気になったら、がっつり行くから」
「わかった」
それはつまり、今は全く回復してないということだろう。
「でも、こうやって君に甘えるのも、気持ちいいな」
「そうか」
知恵蔵は柔らかい髪を静かに撫でる。満潮音は眠たげな声で続ける。
「まじめな話さ、あの子達が戻ってくるわけでもないから、ここの事務所、売っちゃおうかなって思ってたりする」
「引き払ってどうする。実家に帰るのか」
「あんなとこ、僕の家じゃないよ。もう母さんもいないのに。あの人が死んだら売っちゃうか、親戚一同で相談してくれっていうつもりだ」
「別のところに住むのか」
「ここらへんも再開発で、地味にうるさいからさ。隠居先も考えておかないと。今のところ、固定資産税が平均家賃以下だから、ここにいるようなものだよ」
「本当に隠居するのか」
「人生五十年だよ。一世代前でも、定年は五十五歳だったんだ。僕だってこれから、どんどんコストパフォーマンスが落ちていく、そろそろ第二の人生に舵を切らないと」
「おまえがのんびり暮らせるとは、どうしても思えないがな」
「どうして」
「私を抱くこともできないほど弱ってるくせに、あれこれやってるだろう。資産運用が厳しいのはわかるし、ここを出て行くのは特に反対しないが」
満潮音はふっと顔を上げて、
「君はそれでいいの」
「おまえの行くところなら、どこへでも行くと言ったろう。私だって帰れるところがあるわけじゃない。ここが家みたいなものだ」
「ごめん、そうしたのは僕だよね」
「そこはおまえが責任を感じるところじゃない」
「でも」
「私はおまえと一緒なら、滅びてもかまわないと思ってる」
「怖いこと言わないでよ。君に滅びて欲しくない」
「そうだな。私もだ」
「ねえ」
「なんだ」
「どうして怖くないの」
「なにがだ」
「こういう時は、誰だって死にたくないものだよ。それを、滅びてもかまわない、とか」
「別に死にたいわけじゃないが」
知恵蔵は満潮音の額に口づけた。
「おまえは時々、自分を空っぽだっていうが、私だって虚無の塊みたいなものだ。自慢できることも、何もない」
「そんなこと、ないよ、君は……」
「でも、私には、おまえが、いるから」
「僕でいいの」
「そっくりそのまま、おまえに返す」
「僕には結局、君しかいなかったよ」
「それなら私だって、おまえだけだ」
知恵蔵は満潮音を抱きしめた。
「まだ暗い。日が昇るまで寝ていろ……すべては、明るくなってからだ」


(2020.3脱稿、美少年興信所スピンオフ)

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Narihara Akira
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