『空き家の冒険』


満潮音純が事務所から姿を消して三日、なんの音沙汰もないのは久しぶりで、門馬知恵蔵の不安は募るばかりだった。
実は三日前、知らない男が満潮音興信所にやってきて「おまえを訴えてやる」「あれは誹謗中傷だ。脅迫だぞ」「月のない夜は気をつけるんだな」とさんざん脅して帰っていった。
知恵蔵は首をかしげた。
「あっちこそ脅迫じゃないか。そもそもおまえを訴えようなんて、相手が誰だか知らないのか、あの男は」
「知ってはいるだろう。ただ彼が本気なら、僕を殺せるよ。元自衛官でハート警備会社の社長だ、飛び道具がなくとも、丸腰の男をひとり殺るぐらい、ぞうさもないさ」
「本気になりそうなのか」
「さてね。まあ濡れ衣を着せられちゃかなわないから、ちょっと出かけてくる。あまり心配しないで待っていてくれ」
「ひとりでいくのか」
「君単体や事務所が狙われることはないと思うからね。留守をよろしく」
言われて知恵蔵は留守を守っていたが、気持ちが沈むばかりなので、買い出しに出た。日が暮れてきて、事務所の窓をふと見上げると、カーテンにうつる人影があった。あの動きは間違いなく相方の物だ。
「満潮音!」
知恵蔵は事務所の扉を勢いよく開けた。
だが、そこにはただ、カーテンにうつった影があるばかりだ。プロジェクターで動く影をうつしているのがわかった。
「君も情報のアップデートをした方がいい。カーテンに在宅中の人間らしいシルエットをうつすのは、安い賃貸でも基本のセキュリティだよ」
振り返ると本物がいた。知恵蔵の膝から力が抜けた。
「あんまり驚かせるな……おまえが帰ってこないかもと思ったら、私は……」
満潮音は知恵蔵がくずおれる前に抱きかかえた。
「おいおい、こんなことで失神しそうにならないでくれ。僕は大丈夫だよ」
「どういうことか説明してくれ」
「ひとことでいうと、事件というほどのことはなくて、痴情のもつれの大渋滞なんだがね。君も僕の留守中に、なんらか調べていたと思うけど」
知恵蔵はため息をついた。
「おまえの依頼人だった杉野瑠美が、あの桑田という男の姪っ子だということに気づいただけだ」
スギノ貴金属の一人娘である瑠美は、歴史小説家の富井寛という男と婚約していた。一ヶ月ほど前、彼女は、富井が誰かにゆすられているようなので調べてほしいと言ってきた。
満潮音が「なにかお心当たりがあるのでしょうか」と訊くと、「前の奥様は病弱な方だったそうです。富井さんは取材旅行でしょっちゅう家をあけていて、浮気をしているのじゃないかと疑っていたそうです。それで、富井さんが九州の清水の滝に取材にいった際、探偵に素行調査を依頼したのですが、その探偵の方が行方不明になってしまったとか」
「富井さんが探偵を殺したとでも?」
「そうは思いませんが、なんらかの証拠を捕まれた富井さんが、探偵を買収したということは考えられますから」
満潮音は首をかしげた。
「失礼ですが、杉野さんはこれが初婚なんですよね。しかもまだ二十代です。ご実家も太い。なんらか弱みのある男より、いくらでも条件のいいお相手がいらっしゃると思うのですが」
「失礼ですけど、満潮音さんはもっと優れた助手が目の前に現れたら、今のパートナーの方とすげかえます?」
「彼は誠実な男です。少なくとも、病弱な妻をないがしろにして浮気をし、孤独なまま死なせたり、金目当てで若い女と再婚したりするようなことはしませんから、比べられても困ります」
「あらひどい。富井さんには、女の影はひとつもなかったんですよ。前の奥さんとの間に子どももいませんし、私が初婚でも問題ないんじゃないでしょうか」
「そこまで調べがついてらっしゃるなら、そちらの探偵に依頼された方が?」
「それはそうなんですけど、伯父が余計な口をはさむものですから。富井寛の大ファンで、何か調べようとすると邪魔をしてくるのです」
「むしろ結婚推進派というわけですね。わかりました。そういうことなら調べてはみますが、あまり期待なさらずお待ちください」
そう言って満潮音は杉野を帰し、調査を開始したのは知恵蔵も知っている。満潮音は「富井寛は、鍋島家を描いた『葉隠の頃』が面白かったけど、作家本人にはそんなに魅力があるかなあ。若い娘にそこまでモテるとは思えないんだが」と言いながら出かけていった。
富井寛は古くから続く儒学者の血筋で、実家は没落して裕福ではないが、最初の妻の家の援助もあり、小さな歴史系出版社を設立して、作家業のかたわら、今も経営している。なかなか忙しいはずなので、女の影がなくともおかしくはないが、そんなに取材に行っているのなら、旅先での浮気は考えられなくもない。だが今はとりあえず独身だ。長く続いている相手がいる現場をおさえられれば、婚約破棄の展開にもなるだろうが。そもそも富井本人がこの結婚に乗り気かどうかもわからない。
満潮音は一週間ほど前に調査結果をまとめ、依頼人に提出している。
「ゆすられているご様子も女の影もありませんが、念のため、富井さんに身辺に気をつけるようお伝えください」と付け加えた。杉野は素直に「わかりました」と帰っていったので、この依頼はここで終わったと知恵蔵は思っていた。
だが、そうではなかったらしい。
満潮音は苦笑した。
「実はね、僕もうかつで、桑田氏がねじ込んできたから気づいたんだけど、富井を調査中に失踪した山野龍之介って探偵が、どうやら桑田正雄の、母親違いの弟らしい」
「えっ」
「一緒に育ちはしなかったけど、兄弟仲は悪くなかったようだ。それで姪っ子を富井寛に近づけようとするのはおかしな話じゃないか。そうなると、答えはひとつだなと」
「婚約者としてふさわしいかどうかじゃなく、失踪の謎の方をとかせたいと?」
「うん。まあ、とくほどの謎じゃないけど、証拠が欲しいということかな」
「桑田は警備会社の社長だ、自分で調べればいいじゃないか」
「身内のことだから第三者にやらせたいんじゃないかな。訴えるとかほざいていたのも、外部への演出の一環というか、都合の悪いことを僕に押しつけるつもりなんだろう。だけど事態は、違う方へ展開しそうなんだ」
「違う方?」
「うん。じゃあ君で実証実験もできたことだし、でかけるか」


「こんな近くに空きビルがあったんだな」
知恵蔵はうすぐらい建物の中をぐるりと見渡した。渋谷のテナントは入れ替わりが激しいが、一等地のビルが空というのは珍しい。再開発のためにすべて立ち退かせたのだろうか。
「こっちの窓から僕らの事務所が見える」
「本当だ。あいかわらず、窓におまえの影がうつってるな」
「それで、反対側の窓から見えるものがある」
「あのビルは」
「知らなかったかい、今はあそこに富井春秋社が入ってる。よく泊まり込んで執筆しているらしいよ。ほら、人影が見えるだろう」
「まさか」
「別のフロアなんだが、最近、あのビルの窓が割られてね。空気銃が使われたみたいなんだが、撃ち込んだ方向や威力から考えて、この建物から撃ったんじゃないかと」
「誰か富井寛を殺そうとしてるってことか」
「シッ、犯人が来たようだ。隠れて。声は出さないで」
痩せた男が姿を現した。慣れた手つきで空気銃を組み立てていく。そして、富井春秋社の方の窓を細くあけると、その窓を狙った。
ドオン、と音が響いた瞬間、突然大勢の人の足音が駆け上がってきた。
「山野龍之介、殺人未遂および銃刀法違反で逮捕する」
防護服を着た警察官に取り押さえられ、銃を取り上げられ、照らされた男の顔は、どこか桑田に面差しが似ていた。満潮音は山野に近づいていって、
「こんばんは。同業の満潮音というものです。僕があなたのことを通報しました。あなたの狙った窓にうつっていたのはただのシルエットで、富井さんは今晩は自宅にいます」
「探偵か。誰に頼まれたんだ」
「誰にも。あなたこそ誰かに頼まれましたか」
「いや。だいたい殺人未遂といわれたが、自分が撃った弾には人を殺すほどの威力はない」
「つまり脅しですね」 
山野は黙ってしまった。
「あなたと富井さんは学生時代の友人で、行き来があった。富井さんの奥さんはそれもあってあなたに浮気調査を依頼したのでしょう。しかし、シェイクスピアもこう言っています。《旅の終わりは恋人たちの巡り会い》ってね。実は富井さんの浮気相手はあなただった。旅先でねんごろになったあなたに、富井さんは囁いた。《妻の命はもう長くない。姿を隠して三年待っていてくれ。そうしたら君を迎えに行く》と。あなたは富井さんを信じて海外へ行った。なのに帰国したあなたが見たのは、妻こそ亡くなっていたものの、若い婚約者がいる富井さんの姿だった。なんという裏切り。殺してもあきらたない。卑劣な脅迫者になってもいいと富井さんにつきまとった。あなたのお兄さんは、僕に脅迫者役を押しつけて、あなたの殺人を防ごうとしたのですが、その気持ちは伝わっていなかったようですね」
 満潮音は山野に顔を近づけ、声を低くして、
「まあ、富井さんも大概ですから、婚約はすみやかに破棄されて、スキャンダルが発覚し、富井春秋社も傾いてしまうことでしょう。あなたが手を下さなくとも、いずれ滅びますよ」


満潮音は事務所に戻ってくると、ソファに身を沈めた。
「残念ながら確証がでてこなかったんだけど、たぶん桑田氏も富井寛と関係があったみたいなんだよ。だから姪っ子と結婚させようとしたんじゃないかなと。そういう関係の持ち方って気持ち悪いから、なんならそっち方向でおどかしてやってもよかったんだけど、めんどくさいからやめといた。そしたら訴えてやるとか言ってきたんでふざけるなと思ってね、山野くんには気の毒だけど、彼の痴情のもつれの方を先に暴いちゃったってわけだ」
「ああ、だからおまえは富井の魅力がわからない、って言ってたのか」
隣に座った知恵蔵の肩に腕を回して、
「うん。山野君は富井に新しい扉を開かれちゃったんだろうけど、僕は不誠実な男はちょっとね。まあ僕もあまり誠実とはいいかねるけど、少なくとも今は、君一人、だけだよ」


(2023.5脱稿、美少年興信所スピンオフ。ペーパーウェル10:テーマ「扉」参加作品)

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