『不 在』

その夜、こっそり帰ってきて恋人の寝室へ忍び込んだウォンは、思いもかけない光景にため息をついた。
「おやおや……」
その枕元に、大きな熊のぬいぐるみが置かれている。その柔らかい腹部に頬を埋めるようにして、あどけないような表情でキースは眠っている。
いったいいつ、こんなものを手に入れたのだろう。
二十歳を越えた彼が、ぬいぐるみが恋しいとは思わなかった。幼い頃はこんな人形と添い寝をしていたのだろうか。三フィートを越える大きさだが、見ればむしろ東洋風な柔らかいラインをもつ、愛くるしい表情の熊である。女ならば大人でも喜ぶかもしれない。
だが。
これでは揺り起こして抱くわけにもいかない。
やれやれ、と思いながらしばらく寝顔を見つめ、やはり起きないのを確かめると、ウォンは私室へ引き返した。

「もういい」
数日前の晩。
キースにふいに押し戻された時、一瞬訳がわからなかった。
「体力の限界だ。触るな」
そう付け加えられて、何を言われたのかようやく理解した。疲れ果てているからセックスはごめんだと言われているのだ。
先日、彼らの基地の防衛を左右するシステムプログラムが攻撃を受け、ダウンした。侵入プログラムを撃退するとともに、実質上、そこにいる主だったサイキッカーの超能力で防衛ラインをはらねばならないことが一週間続いた。
幸いにして作戦は成功し、二度とこのようなことが起きないよう対処もなされた。
警戒を完全にとく訳にはいかない。だが、ようやく日常らしい日常が戻ってきた、その夜のこと。
「お疲れ様でした」
ねぎらうつもりでベッドに入ろうとするキースを背後からそっと抱きしめたとたん、不機嫌に突き放された。
「眠りたいんだ」
さっさと毛布を引きかぶってしまう。
「そうですね。でも、せめてマッサージぐらい」
すこし触れただけでもキースの身体があちこち凝っているのがわかった。ほぐしてあげたいと思ったが、それも「嫌だ」の一言で拒絶された。寝不足で機嫌が悪いと言うこともあるだろう、寝かせてあげよう、とウォンはあっさり退散した。
だが翌日から急用が出来てしまい、数日キースに触れることもかなわなかった。
それで今夜、やっと戻れて、もうあの人の体力も回復しているだろう、と真っ先にその部屋へかけつけたのだが。
なんと熊ちゃんとすやすや安眠中とは。
「当分私にご用はないですかね」
寂しげに呟いて、白い上着を脱ぎ捨てる。
ふいに目元が熱くなる。
「涙腺がゆるいのは年寄りの証拠……」
昏い瞳にうっすらにじみ出すものをぬぐって、冷たいベッドへウォンは一人もぐりこむ。
ここ数日のキースの気持ちも知らずに。

★ ★ ★

その朝キースが目覚めると、リチャード・ウォンが枕元に立っていた。それ自体は珍しいことでないのだが。
「起こしてしまってすみません、キース様。少し出かけなければならなくなりましたので、ご挨拶に」
ウォンは白ずくめだった。いつもの服装とそうかけ離れている訳ではない、だがベストもズボンもすべて白、髪を結ぶリボンまですべて白いので、思わずキースは軽口を叩いた。
「誰の結婚式に行く」
「いえ、葬式です」
ウォンは手袋の裾をひっぱって、長い指を際だたせながら、
「中国では白が喪のいろ、ということをご説明したことがありませんでしたでしょうか」
「白ならそんなけったいな格好でいいのか」
「ええまあ。大物ですが遠い血筋ですし」
「君にまだ血族がいたとはな」
「おりますよ。すべて虐殺したら、それこそ大変なことになりますから」
真顔で眼鏡を光らせつつ、
「しかし今回は覇権を強めるには絶好のチャンスでもあるのでね、ちょっと行って参ります」
「期間は」
「さあ、四、五日か一週間か……。もし私の不在時に何かありましたらお呼びください。では」
そう言ってフシュンと姿を消した。
キースはくるりと寝返りを打つ。毛布を肩まで引き上げて、再び目を閉じる。
身体がギシギシと悲鳴を上げている。少しでも休んで体力を取り戻さねば。

単純に秘密基地だけが、反サイキッカーな組織や軍の攻撃ターゲットとなるのなら、いざとなったら捨てればすむ。
しかし街という規模のものをこしらえていくと、そう簡単にはいかない。理想郷は手入れも維持も難しい。そして破壊されたら再建しなければならない。人はいったん定着生活をはじめたら、簡単にその土地を捨て去れない。そんな単純な真理を思い知った一週間だった。キースの繊細な神経はズタズタになった。いざという時の避難勧告に住民が応じないなどとは想像しえなかったのだ。人工的にこしらえた街だ、一時の幻にも似て人間関係も希薄と思っていた。狭いコミュニティはいっそ濃密な関係を生むということを、彼は今回身を持って知ったのだった。
新しい経験のせいか、危険が去っても緊張はすぐに解けなかった。
身体が痛む。どこもかしこも痛む。心身ともに疲れ果てていてどうしようもない。一刻も早く眠りたいとベッドへ向かったその時、ウォンに背後から抱きしめられた。
「もういい」
嫌だ、とウォンを全身で拒絶した。
快楽を楽しめる状態でないのは見ればわかるだろう、と腹立たしかった。それがいたわりであろうと、ちょっと触れられただけで痛いのだ、近寄ってすら欲しくなかった。寂しげなウォンの表情が気になったものの、心配されることすらうっとおしくて突き放す。
そして疲れをとるために、ベッドへもぐり込んで目を閉じた。
すぐに泥のような眠りが訪れた。
だが、翌朝もまったく疲れがとれていなかった。ウォンも出かけるという、キースは再び眠った。そして半日以上眠ったが、やはり元気が出てこない。寝過ぎかもしれないと医務室へ重い足を運んだが、医者は病気ではない、やはり疲れだという。心を休めることの方が大切です、そして軽い運動で身体を緩ませた方がいいでしょう、とも。
しかたなしに翌日、キースは散歩へでかけた。

外は美しい秋晴れ。
教会では祝福の鐘が鳴っている。
その前を通り過ぎようとした瞬間、キースは腕をつかまれた。
「一緒にお祝いしてください」
街の住人ではあるが、親しくもない年輩の女だった。気安く触られたのが不快で、キースはそれをやんわりとふりほどいた。
「二人に祝福あれ」
お義理でそう呟いて再び去ろうとすると、再び袖を引かれた。
「くじをひいてください」
「なんのだ」
「結婚式に参加してくれた人にプレゼントがあるんです。ひいてください」
どうにも離してもらえそうにないので、キースは女の差し出した籐かごから縒った紙切れを引いた。それを開いて、キースは顔をしかめた。テディ・ベアと書かれている。女は嬉しそうに、キースに子供ほどもある熊のぬいぐるみを手渡した。いらないと言っても無駄な顔だ。キースはしかたなく、熊を小脇に抱えて歩き出した。
平和なことだ。
平和でいいのだ、せっかく日常がとりもどされたのだ、平和でなければならないのだが、人々の気持ちの切り替えのなんと早いことだろう。
高い空を見上げているうち、なにもかも馬鹿馬鹿しくなってきた。
「……フ」
未来はこんな風に晴れ渡っていない。今でも薄曇りの状態なのだ、いつかにわかに一点かきくもって豪雨となり、多くの者を打ちのめすだろう。
基地へ戻る途中、お荷物を捨てようと何度も思ったが、人目があるし何より大きいものなので目立つ。何か仕掛けられているのでもなさそうだし、祝いの品を捨てるのはよろしくないだろうという神経も働いて、結局私室まで連れ帰ってしまった。
どこかのウィンドウを長く飾っていたのか、熊はほこりっぽかった。キースは清潔なタオルを濡らしてしぼり、ぬいぐるみを拭きはじめた。普通のテディより手応えが柔らかい。表情もイギリス風ではない。
というか、その小さな瞳が、眼鏡を外した時のウォンにどこか似ている気がする。
「あ」
ふと手が滑って、熊の股間にあたった。
その瞬間、キースは自分のものがズク、と熱くなるのを感じた。
指でさらに毛深い足の間をくすぐってみると、そのうずきは硬さを増した。
「こんな……」
それは、自分がされている時を思い出したからではなかった。
ウォンの可憐な乱れを思い出したせいだ。

「キースさま……?」
受け身をとらせる時は、されるままになるようウォンに言いふくめてある。
ウォンはその命令にも従順だ。
だが、ちょっぴり期待しているような瞳で見上げられると意地悪がしたくなってしまい、相手の敏感なところを焦らすように責めてしまう。頬がうっすら染まって、堪えきれず小さな喘ぎを洩らすウォンはたまらなく可愛い。恥ずかしさに身をすくめて、目元を淡く潤ませて、それでも「続けてください、続けて」と甘くせがむ。いったいどこに純情を隠しているのだろうと、身体のあちこちをまさぐって、そのありどころを尋ねる。僕しか知らない僕だけのウォン。その秘密の場所はとても狭くて、そして熱くて。
キースのものはすっかり立ち上がっていた。
自分のそこへ手を伸ばして、強くさすりはじめる。
「ォン……ン……ウォン!」
達した瞬間、キースは湿った熊を、空いた方の腕でぎゅっと抱きしめた。
しかしどこまでも柔らかいそれは、なんとも頼りない。
すがりつくと抱き返してくる、逞しい身体ではない。
ウォン。
君に全身隅々まで愛しつくされたい。
今すぐ帰ってきて、めちゃめちゃにして欲しい。
なんでだ。
なんでこんな、何日もたたないうちに恋しくなってしまう。
ウォンはただ出かけただけだ。
戻ってくるのだ。
いつものように涼しい顔で、ひょっこりと。
だのに何故。
「……」
それはウォンが、いつも突然目の前から姿を消すから。
仕事が入ったといって、自分を忘れてしまうから。
その奔走を止める気はない、いつも自分のことだけ考えていて欲しい訳ではない。
けれど。
自分の一番大切な人間が、自分を一番大事に思ってくれていない瞬間に気付いてしまうのは、さびしい。

後始末をしてから、キースは枕辺に熊を置きなおした。
子供の頃さえ、ぬいぐるみを抱いて寝たことはない。そういうことが好きでなかった。子守りされることより、たくさん本を積みあげられた方が安心できた。眠れない時は本を読むのが一番だと母親に教わって、朝はやく目覚めた時も小さな灯火をともして時を盗んだ。
それがこんな、いい年齢になってから。
こんな柔らかな優しいものを。
それでも何もないよりましか、と抱き寄せて目を閉じる。
ウォンが帰ってきたら、たっぷり甘えよう。
なにより君が欲しいと。
身体はまだ痛くてしかたないけど、触って欲しいんだ……。

★ ★ ★

「ん?」
キースが薄闇の中で目を醒ましたのは、あわい残り香のせいだった。
すぐに気付いた。
ウォンが帰ってきたんだ。僕が熟睡していたから起こさなかったんだ、でも戻ったんだ。
どこにいる。自分の部屋か。仕事をしているのか。もう寝てしまったか。
キースはすぐさま部屋を出た。ウォンの私室へ向かって。

「ん……?」
ウォンは我が目を疑った。
うすみずいろのすとんとしたネグリジェ姿。それはともかく裸足だ。足音を盗むためだろうか。寝乱れた銀いろの髪、すっかり潤んだアイスブルーの瞳。
怖い夢を見て起きてきた幼い子のような、その弱々しさ。
「貴方の方から、寝室に忍んできてくださるなんて」
それこそ夢かと思いながら、ウォンはベッドから身を起こした。
「おかえり、ウォン」
キースは小さく呟いた。ウォンはベッドを降りて恋人に近づく。
「熊ちゃんは置いてきましたか」
揶揄するような響きにキースは眉を寄せた。だが、
「ぬいぐるみに添い寝してもらう歳は過ぎた」
「では、私が添い寝させていただいても?」
「うん」
「身体がまだ痛いのではないですか」
「痛くてもいい」
ぎゅっと抱きついてきたキースの背中を撫でながら、ウォンの胸を突き上げるものがある。
たった数日前、触るな、と自分を押しのけた人なのだ。その人が、いやこのキース・エヴァンズという青年が、なにもかもかなぐり捨てたようにこの胸に飛び込んできた。
そんなに寂しがらせてしまったのか。
枕辺にぬいぐるみを抱き寄せていなければならないほど。
キース様。
「どうしましょう」
「なにが」
「理性が、とんでしまいそう」
「嘘つきめ」
「嘘だなんて」
そっと口唇を重ねてから。
「会えない時間が愛を育てるというのは、本当ですからね」
「ほんとにそう思っているなら、ウォン」
「はい。……早く、ですよね」

せっかちに服を脱ぎ全身を絡ませて、短い不在を塗りつぶすような熱い一夜――。

(2003.9脱稿)

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Written by Narihara Akira
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