『喪 失』

「こんな早くからお出かけになるのですか」
「遠いからな」
短く答えてベッドを降り、キースは着がえを始めた。ウォンも物憂く身体を起こした。キースは乱れ髪をかきあげる恋人の姿にチラリと視線をあてると、
「君は昨日遅かったろう。もうちょっと眠っておけ」
「でも、何か食べてから出られるでしょう」
「この時間では僕も食欲が湧かないから、向こうで食べる」
「せめてカフェオレぐらいは」
「いらない。君が飲みたいなら勝手に飲むといい」
「わかりました」
ウォンは髪を後ろに束ねようとして失敗する。まだ長さが足りないのだ。柔らかく揺れる黒髪を見ながら、キースはふっとため息をついて、
「以前より、寝ぐせがつきやすくなったか?」
「つくのは変わりませんよ。毛先が跳ねるか、途中にクセがつくかの差でしかありませんから」
「中途半端な長さで、うっとおしくないのか」
「まあ、短いままでいるという手もあるのですが、そうすると変装の意味がないですからね。もうしばらくは、かもじでごまかすことにします。まだ外は寒いですから、マフラーで隠す手もありますし」
いつも用意している短いしっぽを片手にとって、ゆわえつける。
「なにをしてるんだ、寝ていろといったろう」
「二度寝は蜜の味と言いますが、もうすっかり目がさめてしまいましたから、今のうちに仕事でも、と」
「そうまで言うなら止めないが、帰りは何時になるか判らないから、君は君のスケジュールに従って動いてくれ」
ウォンはニッコリうなずいて、
「どうぞゆっくりしてらして下さい。古い知人なのでしょう」
「いいのか、そんなことを言っても。浮気してくるかもしれないぞ」
「乳児を抱える年長の女性に、貴方が無体をする訳がありません」
「嫌な信頼の仕方をするな。とにかく行ってくる」
ざっと顔を洗い、コートを羽織ったキースは、大きな鞄をつかんで飛び出した。
相手は収容所時代の同胞、数少ない生き残りである。
結婚してイギリスの片田舎で幸せに暮らしており、子どもも産まれたばかりという情報が偶然入ってきて、懐かしさのあまりキースは祝いのメッセージを送った。向こうは向こうでキースが生きていたことを知って喜び、良かったら一度遊びにきてください、と返事を寄こしてきた。
そのためスケジュールをやりくりして、やっとあけた一日である。時差のせいで、向こうにつくのは昼過ぎだ。飛行機の中で何か食べて、それから少し寝よう。初めての街だが地図は入手してある。訪ねる前に少しだけ寄り道して……そんな段取りを考えつつ、キースは朝から足取りが軽かった。不思議なほどに。

「いらっしゃい、キース」
「どうした、顔色がよくないぞ」
赤い髪を短く切った昔なじみは、弱々しい微笑みで彼を迎えた。
「ちょっと風邪をひいてしまったみたいで、おもてなしの準備もろくにできていないの。せっかく来てもらったのに、ごめんなさいね」
「そんなことは構わない。むしろ、台所を貸してくれ」
「どうするの?」
「少し待て」
勝手がわからないはずの他人のキッチンで、キースはテキパキ動いた。
「赤ん坊は寝ているのか? 起こさない方がいいなら、台所で話をしようか」
「さっきミルクを飲ませたばかりだから起きてるわ。うるさくてもよければ、居間へどうぞ」
「わかった」
キースは銀盆の上に、二人分のミルクティーと、チョコレートのかかったエクレアを載せて居間へ運んだ。小さなベッドの中では、赤ん坊がたいしてぐずりもせずに横になっている。
「あの“キース様”に、お茶をいれてもらえるなんてね」
昔なじみは、あわく微笑んで紅茶を口に含んだ。キースはニコリともせず、
「皮肉はやめてくれ。それにはショウガと蜂蜜が入っているから、身体があたたまるはずだ。エクレアにあわないかもしれないが」
「あら、皮肉じゃないわ。あの頃、まだ幼いぐらいだったあなたが、サイキッカーのために蜂起して組織をつくって、あんなに大きな流れをつくって……活躍は風の噂にきいていたけど、十年もたたないうちに、こんな素敵な紳士になっているなんてね」
「病人の家におしかけて、勝手に茶をいれる尊大な男が紳士とは、こそばゆい」
「かたくるしい口調は変わってないのね。でも、わざわざお茶うけまで買ってきてくれて」
「いや、疲れは糖分で癒やされるし、赤ん坊が小さいうちは、外で甘いものを食べて気晴らしをすることもできないだろう。ああそうだ、まだ出産祝いも渡していなかったな」
キースは鞄から、薄紙に包んだ服を取り出した。パステルカラーの幼児服だ。着脱のしやすい、柔らかな素材の色違いとサイズ違いが数着入っている。
「うちの子には、まだちょっと大きいようだけど」
「新生児用の服は、祝いに沢山もらうものだろう。だが、赤ん坊はすぐ大きくなる。半年から一歳になる頃に着るものは、あまりないんじゃないか?」
「ありがとう。そこまで気をつかってもらって」
キースはベビーベッドに視線をやりながら、
「まだ起きているようだが、寝かせなくていいのか?」
「ありがたいことに機嫌がいいし、まだげっぷが出てないから」
「どれ」
キースは赤ん坊を抱き上げ、優しく笑いかけると軽くその背を叩いた。
赤ん坊の口唇から、ミルクと一緒にのんだ余計な空気が何度も漏れる。アアー、と小さな声をあげて蠢く子どもをゆすってあやすと、母に手渡す。
「満腹して眠くなっている。下着も濡れていない。静かに寝かせてやろう」
「あらあら。まあまあ」
昔なじみは笑いだした。
「あなたがそんなに立派な保父さんとは知らなかったわ。いったいどこで教わってきたの? まさか自分の子どもがいる訳じゃ、ないでしょう?」
「保育士の勉強をした訳ではないが、子どもは重要な資産だからな。共同体で赤ん坊が産まれると、必ず見にいくことにしているから、扱いには慣れた。強いサイキッカーであればあるほど、幼いうちから能力のコントロールを学ばねばならないから、その確認もかねてな」
「そう。ノアをやめても、そういう仕事をしてるのね」
キースは重々しくうなずいた。
「私には他に生き方がない。多くの犠牲の上に生きているのだから」
「それは違うわ、キース」
昔なじみは、静かに首を振った。
「どのみち、収容所でおとなしくしていたら、順番に殺されていたのだもの。それにみんな、あなたが好きでついていったのよ。全員が死んだ訳でもない。だから後悔しないで。あなたがどんな生き方をしても、誰も恨んだりしないわ。あれからじゅうぶん、立派な仕事をしてきたんだし、あの時の責任はもうとっくに果たし終えていると思うの。何より、あなたが生きていてくれたことが、私は嬉しいわ」
キースは相手の顔をじっと見つめた。
目の前にある命は、新たな命をはぐくんでいる、新たな未来を築いている。過去に行われた過酷な拷問や人体実験を考えたら、結婚して子どもを産んだ彼女の存在こそが、ひとつの奇跡だ。今ある生を肯定できる彼女は、自分よりよほど立派だ。
心底そう思っているのに、キースの口をついて出たのは、それを裏切る台詞だった。
「生きてさえいれば、いいのか」
「え?」
「袂を分かった相手は、死んでいるのと変わらない。いや、もっと悪いかもしれない。会えば必ず争いになるとしたら」
あの台詞が蘇る。《サイキッカーの理想郷だなんて、まだそんな馬鹿なことを言っているのか?》――他の誰にそう罵られようと、キースの心は痛まない。だが、一番暗い夜も灯火となって自分を照らしてくれていたかつての親友に投げつけられた言葉だ、つらくなかったといったら嘘になる。離れていても時折バーンの情報は入ってくる。そのたび思いしる。二人の未来は重なり合うことがないのだと。
死んでしまったものなら、むしろ諦めもつくだろう。
だが、キースは彼の噂をきくたび、かつての友人をもう一度失うのだ。
「本当に、大変だったのね」
昔なじみは、深い吐息とともに呟いた。
何かを感じとったのか、赤ん坊が泣き出した。それをゆすってなだめながら、
「この町は、何もないけれど静かなところよ。良かったらゆっくりしていって。あなたには休息が必要よ。私より、ずっと」
「だが」
「いい、角のお店で一時間、お茶を楽しんでから帰ること。私も赤ちゃんも、少し休むから」
「わかった。具合の悪い時に押しかけて、悪かった」
「そんなことないわ、キース。よかったらいつでも遊びにきて。今度はうちの人がいる時にでも」

言われたカフェは、子供向けの本屋の奧にあった。絵本やぬいぐるみに囲まれたテーブルで、意外に本格的なアフタヌーンティーを供されて、キースは精神のゆらぎを感じていた。
なんだろう、この落ち着かなさは。
昔の知り合いに会えた安堵感ではない。諭されて意気消沈している訳でもない。
それ以前に、どうして自分は、こんなにいそいそ出てきたのだろう。
ひどく親しい相手だった訳でもない。出産祝いなど、カードでもつけて送ってしまえばすんだ。
それなのに。
メガネをかけたテディ・ベアが、つぶらな瞳をキースに向けている。
自室に飾ってあるものと、同様のサイズのものだ。
《ひとりに、なりたかったの?》
キースはドキリとした。
一瞬、クマの人形が語りかけてきたように思われたからだ。
声は続いた。
《そう、ひとりに、なりたかったんだ》
《ぼくは、ひとりのじかんがほしかったんだ》
キースの心が、悲鳴をあげていた。
喧噪に飽いて、静かな時間が欲しかった訳ではない。
短い髪のウォンを見るのが、耐えがたかったからだ。
髪を切った恋人の姿は、忘れていたいものを毎朝思い出させる。
すでに失ってしまった親友を。しかも自分が、いまだ彼を忘れられずにいることを。
だからこそウォンは動いて、バーンを救ってくれたのだが、その配慮が逆にキースを苦しめていたのだ。
だが、うとましい、と怒るのも筋違いで、だからこそキースはそれを心の底へ押し込めて忘れようとし、そのぶんさらに鬱屈した。
つまり、本能的に危機から逃れようとしたのだ。
ひとりに、なることで。
「大丈夫だ」
キースはテディ・ベアに微笑みかけた。
「わかってしまえば、もう」
クマがうなずいたような気がした。
そう、ウォンが必ず待っていると思うからこそ、うとましいと思ったりするのだ。
確かに今は一緒にいる。
だが、だからといって永遠に一緒にいられる保証など何一つない。
かつてウォンの不在が、どんなに自分を苦しめたか。
それを忘れたら、どんな目に遭うことか。
だが。
「……もうすこし、ひとりを楽しんでから帰るから」

そのまま紅茶のカップに顔を伏せ、キースがぼんやり思い返す面影は――。

(2006.3脱稿)

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Written by Narihara Akira
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