「北風と太陽と」改訂版あとがき


この後書きは元々、手間をかけてバージョンアップ版をダウンロードして下さった皆様へのサービスとして、Narihara Akiraが新たに書き下ろしたものです。
とはいえ、大したことが書いてあるわけではありません。
以下は読まなくてもいいものです。
それから(そんな方はいらっしゃらないとは思いますが)、プレイする前に読まないで下さいね。あくまで“あとがき”ですので。

●長編は作家を裸にする:

Nariharaはどちらかというと短編勝負の作家で、長編は、書くのもあまり好きではないし、書いてみてもやはり辛いしあまりうまくない、という人なのですが、題材によっては、どうしても短編(もしくは短編の積み重ね)でおさまりきれないものがあって、その時はあきらめて長編を書きます。
で、書いてみると、自分の力不足がよくわかる。自分に何が足りないかということがわかります。根性のなさや背骨の弱さは最初からわかっていることですが(笑)、自分はこんなちっぽけなことにさえちゃんと向き合えないのかとか、一人称でたったこれっぽっちのことしか書けないのかとか、自己嫌悪に陥ることも多い訳です。長く書けばそれだけボロも出やすくなる訳で、個人的経験の狭さなどもあらわれてしまう訳で。何よりもつらいのは、自分の思い出や経験の大事な部分を、きちんとフィクションにできなかった時。それから、以前の創作の時と、同じ失敗をしてしまった時。……そういう時、創作の中だけでなく、現実の生身の自分が、真っ裸で衆人環視の中にいきなり放りだされたような気がします。ガタガタ震えて、涙をこらえるのがやっと、というような、情けない有様……あまり、したくない経験です。
とはいえ、いつも同じ外套を着ていれば飽きられてしまう訳で、時には裸になったり衣装替えをしたりということも、書き手には必要なことなんだろうと思ったりする訳です。それがたとえ、失敗に終わるとしても。
「北風と太陽と」では、久しぶりに“裸になる”経験をさせてもらいました。
そのおかげで、私の中にあった悪夢の一つが消えました。読み手の皆さんにとっては、作者が悪い夢を見ようが見まいが何の関係ない訳ですが。ただ、一つ障害がなくなったことによって、別のものに向かうエネルギーが出てくることもあります。次の作品のために、こういう実験作を許していただけたら、嬉しいです。

●それぞれのキャラクターについての雑感:

約2名に関してはすでに解説ずみですが、ここでは主な登場人物について、作者の思うところをざっと書いておこうと思います。

▼日比谷朔美:
基本モデルはNariharaの友人ですが、元になった事件は別の知人が起こしたもので、その2人が微妙にブレンドされています。書くのがとても難しい人でした。その心理をしっかり描けたかどうか、不安でもあります。ただ、朔美という人物そのものの存在感に関しては、あまり不安をもっていません。キャラクターデザインをして下さった高橋さんのお仕事が完璧だったので……導入部分を読んでから、描きおろして下さったのですが、あれ以外の顔は想像できない。あの一枚がすべてを語っています。

▼末永容子:
これも基本モデルはNariharaの知人です。朔美のような、周囲に人が集まるカリスマには必要不可欠な“片腕”的存在。語らずともお互いの心をわかりあっている、“最後の砦”。
しかし朔美は、今回の事件を容子に秘します。その訳は、比較的いい家のお嬢さんなので迷惑をかけたくない、というのも大きいのですが、朔美の本当の怒りや孤独や弱点を誰よりも知っているのは容子だから、怖い、というのもある訳です。ぱっと見は大人しい訳ですが、朔美より容子の方がしたたかで柔軟なのですね。こういう微妙な関係はNariharaにとって興味深いもので、今後もいろんな形で書き続けていきたいと思っています。

▼久遠真夜子:
真夜子は外見などの諸要素から、Nariharaその人ではないかと思われているようです(笑)。ぜんぜん違うわよ(笑)。もちろん、どの人物もNariharaの分身であって、そういう意味では彼女も私の一部ではありますが。
口調がはすっぱなので騙されてしまう方もいるでしょうが、神経質で想像力過多、推理もやや迷走気味、という「るすばんこまち」時代からあまり変わらない真夜子が、ここにいます。実は彼女が、教員時代に生徒を死なせていて、その過去を隠しつつ、罪滅ぼしに監視員をやっている……というところを書こうか(におわせようか)と思っていたのですが、あまりに陰惨な上に他の先生の事例と似すぎるので、やめました。だいたい彼女のおしゃべりは、いくらなんでも長すぎる。あれ以上書きたくない。皆さんも読みたくないですよね(笑)。
真夜子は、学校の中にいながら学校の外の人、というニュアンスで登場させたのですが、そこらへんはあまり上手に表現できなかったようです。

▼鳥手薫:
若い女の先生なのに、口数は少ないし、明るくないし、好きなのは怪談話だし、と、相当の変わり種。音楽の先生は数も多くないことですし、この人どうやって教員採用試験に受かったのかしら、と思ったり(笑)。
学校の先生というのは、子供が長時間接するという意味で、ロールモデル、模範的な人間でなければいけない、という暗黙の了解があります。若い女性であれば、明るく優しく元気でタフで、よく気がついて面倒見がよくて頭もよくて、しかも健康的に人を笑わせることができて、男性もそれとなくたてて……などなど、非常に高いハードルを要求されると思うのですが、よく考えると「それ全部? んな無茶な」と思う訳です。先生の自殺や鬱病が増えている、という報道がなされるたびに「うーん、そうだろうな」と思います。彼(彼女)らをそこまで悩ませているのは、“荒れる生徒”以外の問題が多すぎるからではないのか、と。

▼乾先生:
Nariharaは大学で、教育学科の学生にまじって司書資格をとったのですが、図書館学というのは、ちょっとかじっただけでもなかなか面白い学問でした。そんな訳で、今回も、学校司書をとりあげてみました。普通の司書資格+教員免許+1年(実習用年月)で、学校司書の資格がとれるようになります。資格そのものを持っている人は多いと思いますが、それが活かされているかは不明。私が学生だった頃より、状況が好転しているとよいのですが。
多くの学校で精力的に活動している学校司書さんの話をききます(読みます)。授業の前の10分間を“全校で読書”の時間にしたら、学校全体がいい雰囲気になってきた(生徒に集中力がついてきた)などという話をきくと、なんとなく嬉しくなってきます。本の虫で、学校の行き帰りや朝の寝床、時間を惜しむあまり、人に誉められないような場面でまで活字をむさぼっていた自分の子供時代を、思い出すからでしょうか。

▼本所さん:
こちらは街の図書館の司書さん。司書資格のある司書さん(一般の市町村図書館に勤めている人は、最低限の資格も持っていない人が多い)。
調べるターゲットがはっきりしている場合、司書さんは力強い味方です。その頼み方にはちょっとしたコツが必要ですが(図書館も忙しい職場なので、専門外のことを曖昧に問われても、“すみません、わかりません”としか答えられない場面もあるでしょう)、助かることも多いです。インターネットが浸透して、いろんな事が自分で簡単に調べられる時代になりましたが、本のことはやはり本の専門家にきくのがいい、と思うことしばしばです。

▼一条通くん:
「悪いことをすると、誰かが見てるぞ、恥ずかしいぞ、自分も因果応報でひどい目にあうぞ」という時代ではないのかなー、と思う時も時々あるんですが(笑)、子供って(大人よりは)恥を知ってる生き物だと思うよ、ということを書きたくて出してみました。安易なキャラメイク? でも、こういう子、いますよね? たぶん、いつの時代でも。

▼ハジさん:
《J》という店の客層は、宵子さん目当てのおじさん客と、Aが目当ての(若い)女性客と、ほぼまっぷたつに分かれている訳ですが、彼も前者の代表の一人。レギュラー三人組の皆さんは、今回は名前も出ませんでしたが、それ以外にも常連さんがいるんだよ、ということで。飲み屋で、「俺、実はスゴイ話を知ってるんだぞ」と切り出されるほとんどの話は、たわいもない自慢である訳ですが、さすが《J》に来るお客さんだけあって、本当に重要な情報をもたらしていったりする。そんな風に、どんな人でもあなどってはいけませんよ、という教訓を盛りこんでみました(嘘です)。

▼山地教頭:
昔の学園ドラマに出ていたような、典型的な“教頭先生”なるものを書いてみようと思っていました。人当たりはいいけど食えないタイプ、堂々としている割には小心者、というような。
実際の学校での教頭先生のポジションというのは、割と不思議なものという感じがします。管理職というのは、校長、教頭、教務主任、という3トップで、校長が、対外的な顔担当(学校内で事件が起きた時に校長先生が談話をするのはそのためです)、教頭が校内の雑務一般と教員の指導担当、教務が学校全体の計画立案および指導、という分担になっているのがほとんどだと思うんですが、雑務一般ぐらい、曖昧なものってないんじゃないでしょうか。教壇に立つ訳でも、子供と部活をする訳でもなく、一般の教員からも一歩おかれている訳で、そういうさびしい立場にたったら、誰でもドラマの教頭先生みたいになってしまうのかも、などと思ったりもします。
今回、学校内にいる、教諭ではない身分の人たち(事務員さん、用務員さん、産休補助の先生、保健の先生など)にもスポットをあててみたかったのですが、あてきれませんで、せめて孤独な(←そこは描いてない/笑)管理職を一人書いてみたかった、というのがありました。鳥手先生との会話の裏には、それこそいろんな思いがよどんでいたことでしょう……。

▼天野祐(アマノタスク):
“『神の名を呼べ』がせっかくキレイに終わったのに、また引っぱり出して不幸にしようというのか”とか、“せっかく登場したのに、あんな形で?”等の声がよせられるほど、熱狂的なファン層をもっている祐。彼もやはり、ただ者ではないようです(笑)。身内では(なぜか名古屋弁ですが)“いらんことしい(余計なことをする)”との異名で呼ばれている祐ですが、今回、あんまり煮え切らないAのかわりに、思い切ったことをするキャラとして再登場させてみました。相変わらずの疫病神ぶりですが(笑)。彼、ちゃんと“良き夫、良き父”として暮らしていたんですねえ。似合わないことおびただしい。これはもう、年齢とかそういう問題ではないのですね。いやあ、我が子ながら手に余ります、毎回(笑)。
高橋さんが尽力してくださったため、今回の祐は、パソコンの画面で見るならこれ以外の絵は考えられないものになっています。祐の真の姿をご理解いただけますと嬉しいです。

▼A(エイ):
今回の“Aちゃん”は、あえて苦手なことに挑戦して苦闘する人、として描いてみました。とっかかりがなくてどう手をつけていいかわからない《学校》に対して、外部の人間としての立場で、どう関わっていくか……現実にそういう場面に立たされた場合、できる事は物凄く少ないと思うのです。これはフィクションですから、現実に即する必要はない訳ですが、あくまで彼のやることは、あくまで普通の人ができることの範囲内、という基本コンセプトを、崩したくなかったので……。
クライマックスで何もせず何もできないAは、推理小説の探偵役のお約束でなく、つまり狙って書いたものです(言わずもがな、かとは思いますが)。爽快感を味わいたかった読者の皆様には申し訳ないですが、これをあえてプレイされる方は、ほとんどがNariharaの作風を承知の上であろう、という甘えもありました。これはあくまで『彼の名はA』の番外編な訳で……。

●あらためて、学校を描く、ということ:

どんなに資料を集めてみたり、取材したりしてみたところで、何かの真実の姿を描くのはとても難しいことです(フィクションでもノンフィクションでも)。
特に《学校》は、誰もが知っていて誰もその正体をしらない不思議なもので(高校生活を舞台にした漫画を読めば、その作者がいったいどんな高校生活を送ったか、だいたい想像できる気がします。その千差万別さを見るにつけ、学校って本当に不思議なものに思われてきます)、テーマとしての難易度が高い気がします。
いろいろ読んだ中で、ベテラン教師が出している学校の本は、やはり重みがあってそれぞれ面白いし、ベテラン作家が学校が舞台にして書いた小説には、やはり深みがある訳です。そこへ、Nariharaがつけ加えていくことって何なんだろう、ということを何度も考えました。今まで書いてきた学校物は安易ではなかったか、私の書きたかったことはちゃんと表現されていたか、と自問した時に、満足な解答が出ませんでした。
今回の「北風と太陽と」は、発案から約3年でこのような形になりましたが、HTMLでの分岐型ノベルなどという形で出すしかなかったのは、題材の取捨選択がしきれなかった、消化しきれなかったことの一つの現れであって、そういう意味では深く反省すべきだと思っています。紙にのせる一つの長編として出すには、今の作者のスケールでは足りなかったようです。
今後も精進いたしますので、どうかお見捨てなきよう。

●最後に御礼:

今回、紙の上に置く文章と、パソコンで見る文章は、やはり性質の違うものだ、という事を改めて思い知りました。この長さのものを、パソコン上で何度もご覧になって下さった皆様、本当に有難うございます。作者冥利につきます。

以上、誠に勝手なあとがきを終わります。

20001112(2000.12.27改稿)
Narihara Akira拝
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/

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