「バシア・バスイールは泳げない」



弟のマリクは日本人の恋人に誘われて、近所の秋祭りに出かけていった。「バシアさんも行きませんか」と声をかけられたが、「二人でどうぞ、ごゆっくり」と送り出した。
窓を開けると、にぎやかなお囃子の音が聞こえてくる。マリクはきっと異国情緒と、恋人と歩く楽しさに酔っていることだろう。
バシア・バスイールは祭りが嫌いだ。
サウジアラビアは年に一度、ジャナドリア祭という国民祭典を行う。バシアの父はパビリオンの建設現場で、不慮の事故で亡くなった。オイルダラーで潤う豊かな国が、自国の文化を盛大に伝える祭で、貧しい移民をこき使う理不尽――おかげでバシアは、父をよく覚えていない。幼い子を抱えて困り果てた母は、ベビーシッターの仕事を見つけ、住み込みで働き出した。
だが、断食あけの祭の夜、母は部屋へ戻らなかった。貧しい子どもは必ずしもラマダーンの対象にならないので、飢えて辛いことはなかったが、心配で眠れなかった。このまま母も帰らなかったら、自分は……。
明け方近くになり、祭の騒ぎが少し静まった頃、ようやく母は姿を現した。だが、急いで荷物をまとめると、バシアを連れて屋敷を出た。
「母さん、どうして」
「静かに、バシア。奥様のお叱りを受けてしまうから、もう、あそこには居られないの」
祭の喜捨を恵みとして、二人は涼しい時間を選んで歩き、別の街へ落ち着いた。母はすぐに、物売りの仕事を見つけて働き出したが、数ヶ月するとバシアの目にも、母の変化がわかるようになってきた。
「弟? それとも妹?」
「バシア。もし人に訊かれたら、お父様は亡くなっていると、ただそれだけを答えて。何時とか何処でとか名前はと聞かれても、わからないといって、それ以上はけっして教えないで」
バシアはうなずいた。母の表情は恐ろしく、決して漏らすまいと心に誓った。
ある日、見知らぬ女が二人の前に現れた。母を叱りつけるように、
「なぜ戻らない。誰にも頼れない街で、一人で産む気か」
母は首をふった。
「戻れません。とても無理です」
「だが、堕ろす気もないのだろう。とにかく、おまえが困らぬだけのものを届けよといわれている。しばらくは甘えておけ。産み月になったらどうする。年端もいかぬ息子に、身の回りの世話までさせる気か」
女はそう言い捨てると、現れた時と同じく、唐突に姿を消した。
母は震えていた。
「どこまで逃げればいいの……何度、逃げれば……」
「どうして逃げなければいけないの、母さん」
「私は深い水を見ると、身体を浸さずにはいられないの」
バシアは首を傾げた。
「それ、悪いこと?」
二人はかつて、海辺の街に済んでいた。だが、砂漠の国の人間にとって、海は泳ぐ場所ではない。そして、昼の気温の高さは、海水をたっぷり蒸発させる。蒸し暑い日に真水でさっぱりしたい気持ちは、ごく自然なものだ。
「これ以上は訊かないで。お願い、バシア」

弟はアーキルと名づけられ、謎の女が身の回りの世話をした。暮らしは目に見えてよくなったわけではないが、三人はしばらく、それなりの生活を送れた。アーキルが話せるようになり、一緒に簡単な物売りが出来るようになった頃、長身の男が彼らの前に現れた。母が働いていた屋敷の主人、カァディルだ。
「戻ってくれ、カマル。おまえを脅かす者はもういない。病で亡くなったのだ」
母は首をふった。
「それでも私は、あなたさまの妻になることなどできない身です。どうぞこのままお見捨ておきください」
「だが、アーキルは私の息子だ。責任をもって、バシアと共に育てる。頼む」
「頭を下げないでください、私はそんなつもりは」
「わかっている、悪いのは私だ。しかし、あの晩のおまえは、月の化身と見まごうほどに美しく、気持ちが抑えきれなかった。ゆるしてほしいとは言わない。だが、逃げるあてもないのだろう。せめてもの詫びに、子どもの未来を私に守らせてはくれないか」
バシアは、母の顔を見つめていた。
母はおそらく、元の主人を嫌がっているのではない。
屋敷の外れに、プールというほどではないが、深い水を湛えた場所があった。母は時々、そこに足を浸していた。幼い頃、家に似たような水浴び場があったと懐かしんでいた。おそらく母は、夜にこっそり涼みに行き、そして――。
子どものバシアが察しえたのは、それがよくある物語だからだ。母は前から主人に言い寄られていたのだろう。なのに祭りの夜、うっかり外で肌をさらした。それを己の非としている。
「母さん。戻ろう」
バシアの言葉に、母は目を丸くした。
「僕では母さんを守れないもの。アーキルが大きくなるまで、だったら」
男の掌がバシアの髪に触れた。
「賢い子だ。先が楽しみだな」
愛想笑いで応えたが、バシアは後に死ぬほど悔やんだ。あの時、いい子のふりなどしなければ、母さんは――。

三人を連れ帰ったカァディルは、周囲にこう宣言した。
「この子らの父は、もともと高貴な者であったが、不幸にも祖国を追われ、苦難の末にこの国にやってきた。新たな土地で生きるべく、彼はこの国を讃える仕事についたが、そのために命を落とした。ゆえに私は、彼が残した二人の息子を、己の子と同様に育てる。この国の誇りをかけて、彼らは守られなければならない。指をさす者は、私が絶対に許さない」
彼はそうとしか言いようがなかった。たとえ王族であっても、イスラム教が法律として機能するサウジアラビアでは、婚前交渉はあってはならない話だ。つまり妻がいない状態であっても、息子の母として彼女を迎えることはできないのだ。つまり彼女は以前と同様、子どもの世話をする者として屋敷に住むことになった。
長じるにつけ、アーキルは父に似てきたが、それについては誰も何もいわなかった。だが、カァディルは親族から、新たな妻を娶らされた。前の妻の親戚も屋敷に出入りする。息子達には確かに英才教育がほどこされたが、母は針のむしろに座らされていた。特にアーキルは、母さんと呼ぶことさえ許されず、カマルと名を呼んでいた。
思春期にさしかかったバシアは、未だに母が言い寄られていることを知っていた。おまえが私の最後の恋だというのが彼の口癖らしく、最後を意味するアーキルの名は、そこからついたものらしい。しかも屋敷に来る前から、母のことを見知っていた、と……二人が水場でしんみりと話し込んでいるのを聞いたバシアは、嫌悪に震えた。男女の仲とはこういうものか。父の死は本当に事故死か、と疑うようにさえなった。母が幸せならば二人を祝福したいが、弟が生まれる前のおびえを目の当たりにしていた彼は、そんな心境になれなかった。
そしてまた、ラマダーンが巡ってきた。
この時期、断食がつらい金持ちは、海外に逃げだすことがある。カァディルもこの年、海外で仕事があると、アーキルを連れて街を出ていた。主人のいない屋敷の空気は、例年よりすさんでいた。
そして、断食明けの祭の夜。
「どこ、母さん?」
母が戻ってこない。
嫌な予感に襲われて、屋敷の外れの水場へ向かった。
「母さん……?」
水面に広がる、長い髪。
それ以上、バシアはそこへ近づけなかった。
今ならまだ、見ないですむ。
そう、母さんは水浴びが好きなんだ、ただそれだけのことだ――。

カァディルとアーキルが戻ってきた時、カマルの葬式は済んでいた。バシアすら、母の遺体を見せてもらえなかった。事故だといわれたが、つまり、死の真相はわからないのだ。本人が足を滑らせたのか、彼女の存在を疎んじていた者が溺れさせたのか、あらかじめ殺しておいて投げ込んだかも。事故ならば、あの夜、すぐに母を水から引き上げていたら、もしかしたら助けられたのかもしれない。
それからバシアは自分の生い立ちについて、誰にも正直な話をしたことがない。なんにせよ、母の苦難から目をそらしてきた自分が殺したも同然だ。せめてその願いだけでも叶えたい。弟が成長するまで、そばで見守ることしかできないけれど……。

アーキルが幼名を捨てて国を出た時、バシアは迷わず彼に行動を共にした。王族の末裔として育てられたマリクは、時に無理難題も言うが、バシアはそれをできる限り解決した。祖国の目が届かないだろう国でも、敬語で接した。相続がらみで新たな事件が起こる可能性は少なくとも、仕事と思う方が楽だからだ。マリクに仕事のつきあいが発生すれば、日本文化も勉強した。あらゆるものに没頭した。そうすれば忘れていられる。あの、祭の夜のことも――。

「バシアさん、戻りました」
弟の恋人の声がする。
ドアを開けると、二人は並んで立っていた。
「お土産です。よかったら」
地元の有名な肉屋のパッケージを渡された。スパイスのいい香りがする。
「なぜフライドチキン?」
「出店が出てたんで。日本のお祭りっていったら、お好み焼きとか焼きそばとかフランクフルトがポピュラーかもしれないですけど、衛生的なことを考えると、これかなって。美味しいですよ。あ、ターキーの方がよかったですか」
「そんな出店があるんですか」
「魚も牛も豚も何でも」
そこでマリクが口を挟んだ。
「バシア。アンドーがゲームをやって、ホテルの宿泊券をもらったんだ」
「はあ」
「一年中、室内プールが使えるらしい。それで、アンドーは行く気になってるんだが、券が三人分あって」
バシアは苦笑した。
「デートはお二人でどうぞ。一度出かけてみて、いいところだったら、二回行けばいい。それに私は泳げません。水辺に近寄るのすら怖いんですから」
アンドーはマリクをこづいた。
「ほら、やっぱり。マリクだって、水が得意じゃないくせに」
ということは、誘おうとしたのはマリクか。
そうか、本当に何も知らないのだ、この弟は。

私は母の死に顔を見ていない。
つまり、水辺にこれ以上近づかなければ、彼女はまだ、生きているかも、しれない、のだ――。


(2017.06 テキレボアンソロ「祭」用書き下ろし。https://text-revolutions.com/event/archives/6571)☆『バシア・バスイールの告白』に改訂版収録

written by narihara akira 2017.

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