「隣の芝生」 -- 「バシア・バスイールの告白」余話 --



「アンドー」
「どうしたんです、バシアさん?」
「あなたに触れたい」
「え?」
そっと抱きしめられて、安道はため息をついた。
「だめですよ、バシアさん、そんな冗談」
バシアは安道の耳元で低く囁くように、
「嫌ですか、どうしても」
「いや、その、どうしても、では」
「それなら」
舌で舌を絡め取られて、言葉が出なくなった。服を乱され、滑り込んできた掌に翻弄されて、トロンとなって見上げていると、浴室に連れ込まれて何度も達かされて――。

*      *      *

「……あ、あれっ?」
安道は首をひねった。
今、なんの夢をみていた?
「夢だよな?」
現実ではない。身体にはまったく違和感がない。むしろ目覚めは爽やかで、ぐっすり眠ったという満足感の方が強い。
「というか、昨日の夕方のあれが、夢かな?」
昨日、安道が定時で帰ってくると、バシアがアパートの階段の前で、物思いにふけっていた。マリクに何かあったのかと思い、声をかけてみると、
「……どうやら私は、あなたにやましい気持ちを抱いているようです」
思いもよらない返事が返ってきた。
真意をはかりかねて、「マリクが僕に夢中だから、それで惑わされてるだけですよ、たぶん」と、その場をごまかして別れた。
が、内心、動揺していた。
「だって、バシアさんて、策士じゃないし」
つまりあれは、真面目な告白なんだろう。
「どうしよう……」
最初に会った日から、バシアには好感を抱いていた。頭の回転が速いし、話がストレートで筋が通っている。安道は直球を投げ込まれるのも、道理にも弱い。
「護とは、違うタイプ、なんだけどなあ」
護はわかりやすかった。面倒見のいい兄貴肌で、機嫌はぜんぶ顔に出る。モテるけれど、つきあう相手は選ぶから、「おまえが必要なんだ」と囁かれると、どんな淫らごとをされても、抵抗できなくて――。
「いやいやいやいや」
何を比べてるんだ。
いくら好きなタイプだからって、バシアさんと、どうこうなるとか、ならないとか、ないから。
「ないよ」
弟とつきあっていなければ、安道に興味すらもたなかったはずだ。マリクは今も安道に夢中で、そこに割って入ってくるようなタイプではない。弟を泣かせるぐらいなら、自分は諦めてしまうだろう。
でも、じゃあ、どうしてあんなこと?
「まかりまちがっちゃうと、マリクもバシアさんも僕も泣くことになっちゃうからな……バシアさんに、ちょっと落ち着いてもらわないと」
とはいえ、どうしていいかわからない。
何より安道は、自分の心が不思議だった。
「なんで、僕」
嫌じゃないんだろう。
普通だったら、あんなこと言われたら、いっぺんで嫌いになってしまうはずなのに、初々しい羞じらいぶりに、むしろ心を動かされてる。
ああ、こんな時、護だったらどうするだろう?
「バシアさんを迷わず食っちゃうな。でもって、それをマリクに言っちゃう。で、全部おしまいだ」
それは嫌だな、と安道は思う。マリクのことは好きだ。結婚話が出たら腹が立つぐらいには。だが、異父兄と複雑な関係になって泣かせるぐらいなら、今のうちにきっぱり別れても……いや、それも変な話だな?
「たぶん、マリクは何も知らないんだろうし」
知ったら飛んでくるはずだ。兄と恋人を共有することを了承でもしていない限り。
「そういうタイプじゃないよな、マリクも。わかんないけど」
まだ、倦怠期に入るほど長くつきあってもいない。複数の妻を娶るのが当たり前の国から来ているから、安道とは感覚が違う可能性もあるが、もしそうだとするなら、マリクの方が自分から、「実はバシアも」というだろう。
「それとも単に、バシアさん、僕の反応を見たかっただけなのかな」
弟の恋人がどれだけ淫乱で、誘惑に弱いか知りたかった、とか?
「どうだろう? そんなこと試して、何になる?」
マリクは可愛い。こちらから誘うと喜ぶ。誘われるより誘う方が好きなので、それが楽しくてつきあっている部分もある。だが、バシア・バスイールなら、用があれば向こうから来る、こちらから行く必要はない。だいたい、本気で落とす気があるなら、手口はもっているはずだ。あっという間に陥落させられることだろう。
安道はベッドから出て、シャワーを浴びた。
「で、僕はなんで落ち着いてるんだ?」
単に、好かれてるのが嬉しい? のかな?
もしかして、背徳感に酔ってるとか?
いや、それって何に対して後ろめたいんだ? マリクと結婚してるわけでも、まして一緒に住んでるわけでもないのに?
安道は身体を乾かし、台所で朝食の準備を始めた。ラジオの米軍放送が、昔の曲を流している。ハンク・シカロー作曲の「ノー・タイム」だ。安道もつられて歌い出す。
タイトル通り、君に割いてやる時間なんかないよ、という皮肉な歌だが、子役あがりのアイドルの発声は美しい。少しかすれた高い声が「The grass is always greener growin' on the other side.」と歌う。隣の芝生は青いだろうけど、僕のところへ逃げ込まれても困ると。
「……そうか、わかってるからか」
バシアにとっての安道は隣の芝生で、安道にとってのバシアも隣の芝生なのだ。だから少し、よく思える。バシアがマリクより巧いか、相性がいいかどうか、今の時点でわかるわけもなく、だから都合のいい夢を見られる。そこまでお互いわかっているから、一歩を踏み出さないでいられる。
「バシアさん、すこし心が弱ってるのかもしれないな」
自分に頼りきりだった弟が、冴えないヨレヨレの日本人に夢中になって、妙に張り切っている。納得できない現状に理由を求めて、弟の恋人を美化している可能性はある。だとしたら、彼の仕事を肯定してあげられれば――?
「不思議なものだよな」
バシアさん、好きなタイプだし、つきあうのもマリクより楽そうなのに。
「護以外は、誰でも同じだと思ってたのにな……」
そうじゃなかったな、と思い浮かべるのは、やはりマリクの笑顔の方で――。


(『バシア・バスイールの告白』用書き下ろし)

折り本版はこちらにあります。

written by narihara akira 2017.

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