「王の帰還」 -- 「それから」の「それから」 --
「無条件に愛されてる感じって、悪くないな」
あたたかいベッドの中で、安道正幸は呟く。
新しい着る毛布の、毛足が長くて暖かい。これをフリースのルームウェアに重ねただけで、湯船に浸かっている心地がする。肌着もいいものを着て、フワフワの長い靴下をはいて寝ると、寒い朝もベッドを出るのが辛くない。曇りガラスごしに日差しがさしてくる時間になれば、暖房も要らないほどだ。
「今朝、なんにしようかな」
魚は夜に焼くとして、朝をどうするか。
主食はつくりおきのおにぎりをレンチンでいいとして、昨夜のチキンスープの残りにトマトを足して、あとは卵でいいか。それなら十分ですむ。昼はカルボナーラもどき、夜は肉野菜炒めに焼き魚。それが余ったら明日の朝食だ。
起き出して布団を干す。袖をまくってエプロンをつける。キッチンはまだ薄ら寒いのでヒーターをつけ、昼食用のパスタを水につける。洗ったトマトの皮をむく。卵をスープに落とすか目玉焼きにするか、一瞬考える。すでにネギとマッシュルームと蒸し鶏の切れ端が入っているわけで。
「卵は新しいから、焼くかな」
大人になって海外旅行に行くようになったら、目玉焼きを塩コショウで食べられるようになった。それまでは醤油一辺倒で、それ以外の調味料など考えたこともなかった。チキンスープも親のレシピだし、毎日必ず魚を食べる習慣をつけさせたのも親だ。
「マリク、日本食が続いて、つらくないのかなあ」
彼が安道の部屋で夜を明かすと、そのまま朝食をすませていく時がある。前の晩からアラブ料理を持ち込んでくることもあるが、そうでない日は具が多めの味噌汁に塩むすびをだしてしまう。それでいいのかな、と思ったりもする。
「今、どこにいるんだろう」
十二月に入ると、あたたかな海辺の街も、へたをすると雪がふりかねない寒さになる。砂漠の国で育った人間には、通気性のいい安アパートは厳しいんじゃないかと心配していると、日曜にマリクがふらっとやってきて、
「アンドー。二週間ほど、エジプトに行ってくる」
「仕事?」
「そうだ。三回目の週末までに帰ってくる」
「エジプト行きの方が、帰る、じゃないの?」
「エジプトは私の祖国ではない。それに私は、生まれた国を捨てた人間だ」
「なるほどね」
「待っていてくれるか、アンドー」
安道は首をかしげた。
「それはつまり、マリクがいない間、別の男とか女とか、引っぱりこまないでくれってこと?」
「そういう予定があるのか」
「ないけど。心配なら見張りでも置いていく?」
「その心配はしていない。ただ、セキュリティレベルはあげておく。目障りにならないようにはするが」
安道は震えた。つまり今でも、王直属のセキュリティがこのアパートを見張っているということだ。考えてみれば、上の部屋に住んでいるマリクの兄の存在すら、向こうから声をかけられるまで気づかなかったのだ。
「何で行くの? ヘリじゃ無理か。自家用ジェット?」
「そこまで急ぐ旅でもない、普通の飛行機で行く。バシアも私も、旅客機の墜落時訓練は十二分に受けている。空中爆発でもしない限り、九割方、無事に帰れる。たとえ海に落ちても大丈夫だ。あれから水泳も練習しているから、旅の安全を祈ってもらわなくても、二度とアンドーを、死神にすることはない」
安道はため息をついた。
「早手回しで、そこまで言われちゃうとな……じゃあ、ま、王の帰還を、心よりお待ち申しあげております」
なるほど、マリクはとうなずいて、
「王の帰還か。そういえばトールキンは、ゲイだったときいたが」
「えっ、いきなりそっちの話? 僕、ファンタジー苦手だから、その真偽は知らないよ。タイトルだけは知ってるけど、翻訳でも『指輪物語』読んでないし、映画もちゃんと観てない。ただ、しょっちゅう流れてたから、あのCMは知ってるよ。庭師のサムがフロドに《指輪の重荷は背負えなくても、あなたは背負えます》って感動的なプロポーズをするやつ。それに、原作でも後日談で、うるさい係累が全部いなくなったら、黄泉の国まで、舟を漕ぎ出して追いかけていったとかなんとかきくし」
「それだけ知っていたら十分じゃないのか」
「それから昔、《ブッシュマン》っていう映画が、指輪物語のパロディで、争いの種になるコーラの壜を、地の果てに捨てに行くっていう話だったらしいけど」
「それは知らないが」
「僕も観てはないけど。現地の人の呼び方が間違ってるとかで、後で《コイサンマン》って別のタイトルにされたとかなんとか」
「アンドー。まぜっかえさないでくれ」
「なに? 話、終わってるよね?」
マリクは渋い顔をしたが、ふと眉をあげて、
「アンドーは、黄泉の国まで追ってきてもらいたいか」
「えー。そこまで追われるのは怖いよ。それに、死んだら魂はリセットされないとね。生まれ変わっても、もう一度逢いましょうとか、ちょっと気持ち悪い」
「いやなのか」
「一度きりだからこそ、相手に本気になれるんじゃないの。それに、次にうまれてくる時は、色恋沙汰でしんどい思いはしたくない」
「アンドーは、情の深い男だからな」
「そうでもないけど」
護との間には、常に緊張があった。友人という安心感でつながっていなかった。思い返せば二十余年、家族以上のつきあいだったというのに、お互いに最後の札まで見せなかった。だからこそ、純粋な恋愛でありつづけていた気もする。恋人相手だからすべてをさらけ出してもいいかというと、親しき仲にも礼儀ありという言葉があるように、互いを慈しんでいる間にも、こえてはならない一線があった。家族として共に生きるつもりなら、話は違ったのかもしれないが、安道も彼もそういう形を目指していなかった。ただ、他とは比べようもない濃密で極端な感情が、安道のすべてを支配していた。
「マリクはどうなの。追ってきて欲しい?」
「誰にだ」
「誰でも。過去の人でも、未来の人でも、僕でも」
マリクはふっと天を仰いで、
「アンドーがそこまで私のことを愛してくれたら嬉しいが、考えてみると、あの世でも永遠に共にあるというのは、あまり楽しそうではないな。実体がなければ、こんなこともできないだろうし」
マリクは安道の肩を抱き寄せ、そっと頬に口づけた。
「僕、すぐにおじいちゃんになっちゃうと思うけど」
「何十年も先だ。それに、未来の人とはなんだ。会ったこともない人間に追いかけられたいわけがないだろう。それに今の私は、アンドーのことしか考えていない」
「それはどうも」
マリクは目を伏せて、
「しかし、私がどこかへ行ってしまうとしても、アンドーは追ってきてはくれない、か」
「そんなことは言ってない」
「え」
「ただ、これでおしまいっていう意味で、マリクがここからいなくなるなら、僕は追わないよ」
マリクは安道の掌を握りしめた。
「どこへ行っても、必ず戻ってくる」
「そう。わかった」
……というわけで、マリクが不在の週末が二回過ぎた。気楽な休日を過ごしながら、彼の愛情やいたわりに改めて気づいた。互いに母国語でない言葉でやりとりをすることで、適度な距離感が保たれていることも心地よかった。こういう関係も悪くない。日本に不慣れなので、友人として面倒をみていると紹介できるし、マリクが親しすぎる仕草を見せたとしても、外国人の習慣だと言い抜けできる。
「無条件に愛されてる感じって、悪くないよ、マリク」
僕の笑顔が見たいってマリクはいうけど、僕もマリクが嬉しそうだと、可愛いって思えるようになってきたよ。それを伝えて喜ぶかどうかわからないけど。あと、寝る時に、マリクが使ってるハーブをハンカチにしみこませて枕元においておくと、落ち着いてよく眠れるんだ。
そんな独り言を呟きながら朝食をすませ、後片付けをしていると、インターフォンが鳴った。
「アンドー。帰った」
ドアを開けると、ツイードのコートの襟元に白いストールをたらしたマリクが立っていた。
「会いたかった。すごく」
部屋に滑り込んで、安道を抱きしめる。
「ああ、このフカフカした服はいいな。アンドーがぬいぐるみのようだ。ずっと甘えていたくなる」
「だらしない格好でごめんよ。来る前に知らせてくれたらよかったのに。バシアさんも帰ってきたの?」
「ああ。だいたい片がついたからな」
「ふうん」
「何をしにいったか、訊いてくれないのか」
「訊いていいことなの?」
「日本の淡水化プラントの技術は世界一だ。大手企業三社をあわせると、モジュールのシェアは世界の半分を越えている。つまり、エジプトに食い込んでいる企業の責任者になれば、日本に居続けることが、特に不自然でなくなる」
「ここから通える会社を、買収しちゃったってこと?」
「それに近いことをした。今後、最低三年は日本に居る」
「そんなに日本が気に入っちゃったんだ」
「おかしいか? 水は豊かだし、比較的安全な国だ。たとえ日本の政治家がどんなに好戦的な傾向にあろうと、故国の政情の不安定さに比べれば、ずっとましだ」
「なるほどね。でもごめん、僕、来週末は実家に帰るんだ。正月だし。甥っ子にお年玉せびられると思うけど」
「ああ。日本は新年が帰郷のシーズンか。家族や身内と過ごすしきたりがあるんだったな。そうか……私もアンドーのご家族に、ご挨拶に行きたいが」
「ごめん、それは勘弁。マリクが誰なのか家族に説明できないから。なにしろ、エジプトに旅行にいったことも家族に話してないんだからさ。なのに突然、新年にマリクを連れていって、《この人、隣の部屋に住んでるアラブの王族で社長です。おせち食べたいっていうから、連れてきた》とか紹介するの、無理だから」
「そうだな。では、それはまた別の機会に」
「っていうか、挨拶とか要らないから。たとえば僕が、マリクのお父さんに《どうも、僕が息子さんとおつきあいしてる安道です》って挨拶するところ、想像してごらんよ」
「……悪くない光景だが、しない方がよさそうだな」
「だよね?」
安道は、ポンポンとマリクの背を叩いて、
「まあ、無事で何よりだよ。あがってく?」
マリクはようやく腕をほどいて、
「ああ。二週間もアンドーに会えなくて寂しかった。アンドーはどう思っていたか知らないが」
「僕? マリクが必ず帰ってくるっていってたから、寂しいとは思ってなかった」
「私を信じてくれるのか」
「んー」
安道は首をかしげて、
「マリクの方が背が高いから、背負うのは無理かもしれないけど、待ってるぐらいのことは、できるし、するよ」
「アンドー」
安道はにっこり笑って、
「お帰り、マリク」
2016年12月30日 冬コミ発行「王の帰還」 書き下ろし
written by narihara akira 2016,2017.
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