『青い鳥』

「ミチルちゃん、そろそろ寝る時間だよ」
金いろの繊細な鳥籠に静かにカバーをかぶせながら、八雲総一は囁いた。
TERRA戦略作戦本部は不夜城だ。ムーリアンの攻撃に備える地球連合の最前線に、あかりの落ちる時はあってはならない。司令官執務室も防犯上の配慮から、あるじ不在の場合も照明がついている。
だが、それでは小鳥は眠れまい。総一は黒ビロードで手製のカバーをつくり、すっかり陽が落ちた頃にかけて、青い鳥が休めるようにしていた。餌箱が空になっていないのを確認し、水差しから水も足しておいた。
ミチルの本来の飼い主である、功刀仁総司令官の姿はない。
しかし、執務室の奧でシャワーらしい水音が小さくしているので、まだ家に帰ってはいないはずだ。総一はデスク前のソファに座り、報告書を読み返しはじめた。小柄な上、少年といっていいほど若々しい容貌で、実際二十歳を二つこえただけの青年だが、大抜擢されて副司令官の仕事をこなしている。功刀司令の《懐刀》というあだ名どおりの活躍ぶりは、年上の部下たちからも一目おかれ、親子ほども年の違う二人の親密さにあえて割り込もうとする者もいない。
「八雲少佐か?」
いかめしい声が降ってきた。
功刀仁は湯上がりというのに、モスグリーンの軍服をきっちり着込み、焦げ茶のネクタイまでぴしりと締め直している。撫でつけられた髪にも乱れがない。おそらく今日は帰るつもりがないのだろう。徹夜で仕事をするために一度汗を流したというところか。
総一はすらりと立ち上がった。
「お疲れさまです」
穏やかな笑顔を向けられて、功刀司令は削げた頬に微苦笑をうかべた。
「まだ仕事は終わっていない。D1出現率がはねあがっているからな。地球連合への報告には、今後更に工夫が必要になる」
「そうですね」
功刀は鋭く細めた瞳を副司令の手元に向け、
「もっているのは、定時報告書だけではなさそうだな」
「ええ。アルファ小隊から、神名綾人も戦闘訓練に参加させるべきだという意見書があがってきています」
「もっともな意見だ。しかし、彼がラーゼフォンを操る仕組みもまだ解明されていない。彼自身の意思でコントロールもできていない。そんな状態の彼に、いったい何の訓練をさせるつもりなのか。一般人にいきなり飛行訓練を施すのは、不可能だろう」
「綾人くん、意外に体力ないですからね。にらい坂を毎日走った方がよっぽどいいと思いますよ。あそこで息があがっちゃうようじゃ、ここじゃ暮らせませんからね」
功刀の薄い口唇が微笑に緩んだ。
「何よりそれが先決だな。いっそのこと、紫東恵に少佐から指示を出したらどうだ。彼女なら毎朝、彼を走らせることができるだろう」
「忙しい恵ちゃんに、そんなことまで頼むのは酷ですよ。それより功刀さんから六道博士に頼んで……」
「総一が頼めば、彼女はやってくれるだろう?」
「功刀さん?」
手を伸ばし、功刀司令は総一の手から報告書をまとめて取り上げた。
「意見書への返事は私が作成しておこう。彼らには本意でない連携作戦を頼んでいるのだから、あまり無碍にもできんしな」
総一はいつもの笑顔を取り戻した。
「じゃあ僕は、地球連合への報告書作成のお手伝いを」
「今日のシフトは早番だったはずだぞ、総一」
「その台詞、そのままお返しします」
功刀は首を振った。
「極秘事項もあるのだ。全部まかせる訳にはいかん」
「そのファイルを除いて渡していただければ」
「無茶をいうな」
総一の視線が、そこでふっと功刀をそれた。
「分析だけでも駄目ですか。あんまり……帰りたくないんです」
功刀も一瞬、言葉を失った。
誰かの顔を思い浮かべたらしいが、それは口にせず、
「亘理長官の土産がまだ残っている。全部消化してくれるのなら、構わんぞ」
一人暮らしの上、甘い物の苦手な彼にとって、名物である長官の土産は時にかなりの苦痛だ。しかし、好き嫌いのない(もしくは見せない)若い総一にとっては、それはまったく問題にならない。
いつもの笑顔で、総一はうなずいた。
「……喜んで」

「こっちは終わりましたけど、功刀さんの方は?」
「うむ。確認する。見せてくれ」
功刀は総一からファイルを受け取り、中味をチェックしはじめた。
「いかがでしょう?」
「待て」
デスク脇に回り込んでくる総一を牽制しつつ、功刀は情報端末のスイッチを切った。
「信用ないですね。のぞいたりしませんよ」
「信用していない訳ではない」
「なら、いいじゃないですか。昔みたいな悪さはしませんよ。それより」
ふいに総一はその場に膝を折った。
「功刀さん……久しぶりに」
司令の腿に頬を寄せて、呟くように、
「飲みたいな」
功刀は返事をしなかった。しかし総一を振り払うこともせず、ただファイル上の文書を目で追っている。
総一の指先は滑らかにズボンを這って、ジッパーのあたりを静かにさすり出した。
「汚さないように、しますから」
総一はさらに身を屈め、相手の腿を割ってデスクの下に入りかねない姿勢をとったので、功刀はやっと椅子を回した。
「無茶をするな」
「功刀さんが楽な姿勢をとってもらいたいんですけど」
「そういう気分ではない」
「そうでもなさそうですけど?」
すでに反応しかかっている功刀自身に視線を落としつつ、総一は含み笑いを洩らした。
「ソファの方がいいですよね」
「総一!」
「大丈夫ですよ。ここは鍵のかかる密室なんですから。誰にも見られないんですから」
総一は屈めていた腰を伸ばした。功刀の掌をとって、それこそソファへ導くように、
「もし汚しても、ボクが責任をもってキレイにしますからね」

二人がこんな関係になったのは、ここ一年ほどのことだ。
ある夜、執務室を訪れた総一は、青い鳥を前にすっかり沈みきっている司令官の姿を見ることになった。
「功刀さん?」
「悪いが、一人にしておいてくれ」
普段からいい顔色をしているとはいいかねるが、ほうっておけない、と思わせるには充分な様子で、総一はハッと気付いた。
明日は、美智瑠ちゃんの命日――。
この人は「目の前にある幸せ」を意味する青い鳥を飼って、娘と同じ名をつける人だった。
総一は何も気付かないふりをして、
「餌箱が空になりかかってますよ。ボクが籠の掃除をしても構いませんか」
「もう空か?」
「見た目は入ってますけど、これ、殻ばっかりです。籠、お借りしますね」
総一は手慣れた様子で、籠からミチルを誘い出して人差し指にのせ、軽く肩にとまらせた。水いれと餌箱を外し、籠の底もぬいてしまう。
功刀はそこらへん不器用で、動物にあれだけ好かれる割には世話が苦手だ。彼なりにミチルの世話はやっているようだが、餌箱をかえようとするだけでデスクの上を汚してしまう。見かねて手伝うようになっていた。ミチルがすっかり青年に慣れているのはそういう訳だが、総一の短い髪をついばむようにしている小鳥の仕草を見つめながら、功刀の眼差しはさらに昏くなる。
すべて清め乾かしてから、総一はミチルを籠へ戻した。
帰宅するには遅い時間になっていた。仮眠室に行って休む手もあるが、総一はそのまま執務室を出ることができなかった。
功刀もまた、総一に帰れとはもう言わない。椅子を回し、暗い窓の外を見つめたまま、ひたすら無言の姿勢を貫いている。
「終わりましたよ」
「ご苦労」
それだけやっと呟いたが、総一を見ようともしない。
一人にしておいてくれという命令を完全に無視して、総一は功刀の傍らに立った。
しばしそのまま、時が流れて。
ふいに功刀は立ち上がり、総一の頭をぐっと抱え込んだ。
突然抱きしめられて、若き副司令は硬直した。
功刀は総一のうなじに手を触れた。
ミチルの悪戯で乱れた襟足を直すようにしている。はかないものを扱うかのように、幻をなぞってでもいるように、とても優しく。
総一の胸に複雑な感情が去来した。
この人の悲しみに寄り添いたい。
実の子のように慈しんで欲しい。
死んだ娘の身代わりに、小鳥など側におかないで欲しい。
奥さんと二度と会わないで欲しい。
久遠と秘密を分け合うのもやめて欲しい。
貴方が、貴方のすべてが、欲しい。
功刀の力が緩んだ瞬間、総一は膝を折ってその腕を逃れた。
逃げ出したのではない。
次の瞬間、功刀の腰に顔をうずめて、低く呟いた。
「功刀さんのが、飲みたい」
とっさにでてきた言葉だった。しかし総一の心境をここまで端的に現した言葉はなかった。功刀仁という男を、肉体的に愛したかった。わずかでも慰めを与えたかった。
何を馬鹿なことを、と功刀は言わなかった。
総一のキスから逃れもせず、そのうち功刀は壁にもたれる姿勢をとった。反応は重く鈍かったが、丹念に舌と指を絡ませているうちにだんだんと力満ちてきて、この人はまだまだ現役なのだということが知れた。小さな呻きとともに達した功刀の濃い体液を、総一はあますことなく飲みくだしていた。
功刀の頬は濡れていなかった。
しかし、全身で泣いているのを、総一は感じていた。
後始末までして、もう一度椅子まで導くと、功刀は紫檀のデスクへつっぷしてしまった。
それでも何も言わないのは、総一の気持ちも理解しているからだろう。
恥ずかしくて、それ以上なにもできなかった。
失礼しました、の一言で執務室を逃れ、総一はひとり泣いた。
明日からどんな顔をして功刀さんに会えばいい。
心引き裂かれているあの人につけこんで、淫らな振る舞いに及んでしまうなんて。
軍では男同士の行為も珍しいことではないかもしれない。だが、部下が上司に対していきなりというのはやはり異常なことだろう。
副司令の地位を剥奪されてもおかしくない。
どうしよう。
自業自得だ。
ずっと側に、いたいのに。
僕を孤独の淵からすくい上げてくれたあの人の側に。
でもそうだ、優しい功刀さんなら、どうしても、と懇願する者を見捨てたりしない。僕を遠ざけたりしない。きっとまた……。

翌々日。
ポーカーフェイスを取り戻した総一は、なにげなく功刀の前に立った。
功刀も何もなかったかのように、いつも通り接してきた。時に仏頂面、時に緩やかな笑みを浮かべる司令官の変化に気付くものはなく、八雲総一の配置替えも行われることはなかった。
それからまもなく総一は、キム・ホタルとつきあい始めた。
四つ年下の潔癖な少尉は、彼の手でたやすく女にされた。そうしたつきあいについては、しめしあわせて二人だけの秘密にしたが、キムはそういう隠し事に慣れていないので、近い者たちは薄々気付きだしている。もちろん司令官もだろう。
しかし功刀は、それについて何も言わない。
そして総一は、ときおり功刀にねだるようになった。
「飲みたい」と。
そう、今夜のように。

ソファに身を沈め、軽く目をつむっている功刀。
形のよい頬をふくらませ、総一は濡れた音をたてて愛撫を続けていた。
頭を抱き寄せてくれたらいいのにな、と思う。そうでなくても、功刀さんから動いてくれたら。
それでも相手の緊張を感じるだけで、総一も興奮する。功刀の息づかいが乱れてくると、自分で自分のものをさすりたくなる。そんな風に燃え上がる自分を知られたくなくて、総一は懸命に指と口唇を動かす。
静かに抱きしめられた、あの日のことを思い出す。
自分は娘の身代わりか、と思えば悲しかったけれど。
もし功刀さんの広い胸に、もう一度優しく抱きとってもらえたら。
いや、そんなことされたくない。
この矛盾した気持ちがあふれ出してしまう。
もっと凄いことをしたいんだ。もっともっと淫らなことを。
望んでくれるなら、この身体を開いてもいいけれど。
そんなこと、望んで欲しくない。
あなたを犯したい。
でも苦しんで欲しくない。喜んでも欲しくない。
キムとつきあっても何も言わないくせに、こんな淫らなことを許すのはどうしてです。
やめろ、とも、不潔な、ともいわないで。
いい気になっても、いいんですか?
それとも今のあなたはすっかり抜け殻だから、こんなこともなんともないことですか。
あなたの言葉がききたい。ききたくない。
なぜ何も言葉にしないんですか。したくないのか、それとも今更できないのか。
もうなんでもいい。どうでもいいよ。
総ちゃんはサッパリしたものが好きよねとか、いちいちうっとおしいんだよキム。好き嫌いなんて僕にはないんだよ。食欲がないんだってことが何でわからない。毎日あんな顔で待ってられたら、帰りたくもなくなる。いいかげん気付いたらどうなんだ。どうして君は。

「……総一」
低い呻きをきいた瞬間、乱れていた総一の意識はふっとひとつに集中した。
功刀さん、そろそろですか。
ごめんなさい、ちょっと乱暴にしてました。
わかってます。こぼさないように、しますね。
総一の口唇は功刀の先端をしっかりとらえ、チュッと何度も音をたてて溢れ出すものを吸い上げた。
喉を鳴らしながら、それをあまさず飲みくだす。
功刀は深いため息をつき、緩んだ身体をもう一度ソファに沈める。口唇についたものまで指でぬぐって嘗めている総一に、疲れた声をかける。
「美味いものでは、あるまい」
「そうですね……」
功刀は物憂く自分で後始末をし、服の乱れを直して立ち上がった。水差しからコップに水をつぎ、総一に差し出す。
「口をすすいでおけ」
「まだ、後味を消したくないんです」
絨毯に膝をついたまま、総一は潤んだ瞳で功刀を見上げた。
「功刀さんの、涙の味がするんだ……」
そう呟いた瞬間。
功刀の表情の変化に、総一は驚いた。
「私を慰めたいためだけに、こんなことをしているというのか」
あまりに寂しげな、その顔。
そして功刀も膝をつき、総一の頬をたばさんだ。
あ、と思う間もなく口唇を奪われる。
上手だな、そういえばこの人も結婚していたんだものな、などとつまらないことを総一は考えた。
でも、キスで簡単になだめられるほど僕は子供じゃないんだよ、功刀さん。
「私は……」
口唇が離れると、功刀は一瞬言いよどみつつ、
「大人の仕事は子供をいつくしむことだと思っている。だが、八雲総一という青年を側に置いているのは、それが仕事だからではない」
「わかっていますよ」
「わかってなどいるものか。私の気持ちなど、少しも」
「功刀さん?」
「そうか、いささか自惚れすぎていたという訳だ。笑っても構わんぞ。それでも一つだけ知らせておこう。……試されるのは、こたえる」
「試すって何のことです。ボクはなんにも」
「焼き餅をやかせようとしても、それは無駄だ。……誰に対しても人当たりはいいが、実際誰も信じていない男が、若い娘を騙して表面上のつきあいをしてみせる。そんな茶番を見せつけられて、私が嫉妬するとでも思っていたのか」
総一はカッと赤くなった。
「別に、嫉妬させようなんて……それに功刀さんはキムとのことは何とも思ってないんでしょう」
「単なるあてつけなら酷すぎるだろう」
さらさらとした総一の髪に手を入れながら、功刀は囁く。
「総一は、私に何も要求しない。抱きしめた腕からは逃れるくせに、自分から顔を寄せてくる、淫らに舌を使って快楽へ導こうとする。だが、その先を望んでいるのかと思えば、毎回そこでやめてしまう。あげくの果てに、私の涙をぬぐいたかっただけなのだと言う。試されているのでないというなら、弄ばれている、と言いかえたら正しいのか?」
まさか。
功刀さんは。
僕に。
求めて欲しい、のか?
「この小さな頭は、いつも余計なことばかり考えている。その口唇は、本当に欲しいものを決して吐き出さない。いくらそうと知っていても、こうやみくもに振り回されては、私のように無骨な人間は……どうしたらいいのか、判らない」
「あ」
身体の中心がズクン、と疼いて、総一は思わず喘いでいた。
功刀さん。
僕は、ただ僕は……。
「功刀さんが、欲しい」
削げた頬がふっと緩んだ。
「肉体的な痛みには強い方だ。総一の好きにするといい」
「そんな」
絶句したまま、総一は功刀の胸に倒れ込んだ。
その背を優しく叩いて、功刀は囁いた。
「もうだいぶ遅いが、屋敷まで来ないか」
「朝になっちゃいますよ。それに、司令と副司令が両方とも本部不在なんて」
「よくあることだ。警報は島のどこでも聞こえる。車をとばせばすぐ戻ってこられる」
「でも……」
「今すぐ欲しいのか」
「我慢しろっていうなら、我慢してみますけど」
「では、少しだけ我慢しろ」
「ここでは駄目なんですか」
「ミチルがきいているからな。たとえ眠っているとしても、きかせたくない」
「功刀さん」
言われてみればそうだ。小鳥は時に人の声真似をするものだ。用心のためにはここを出た方がいい。功刀がどういう意味できかせたくないのかも、よくわかる。
「功刀さんは……肉体的な喜びにも、強い方ですか」
「それは総一の腕次第だ。自信はあるだろう。鳴かせてみたらどうだ」
他人事のように笑うので、かえって総一の方が恥ずかしくなって、
「いいんですね。知りませんよ、本当に泣いても」

その夜、功刀邸の奧深く、寛やかな胸に頬をうずめて総一は眠った。親鳥にかばわれる小鳥のように、功刀の腕に柔らかく抱きしめられて。
総一にとって、まぎれもない青い鳥の夜だった。
たとえそれが、ほんのつかのまの喜びであったとしても――。

(2004.5脱稿)

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Written by Narihara Akira
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