『一人称』

その男はふと気づいたらしく、立ち去ろうとする銀髪の青年の背後から声をかけた。
「もしかして、あなたは……?」
何を言われたのか解った青年は、ふりかえって微笑み、すうっと掌を差し出した。
「ええ。私です」
握手に力を込めて、青年は応えた。
「お力になれましたか」
壮年の男はキースに一瞬見とれ、それからはっと我にかえって、
「もちろんです。有難うございました。しかしまさか、あなたにお会いできるとは」
青年は静かな笑みを崩さず、
「礼など。きっと次にご助力いただくのは私の方でしょうから」
「ええ。その時は必ず力添えを」
青年は微かにうなずき、再び背を向けた。長髪の東洋人と肩を並べて歩き出すその後ろで、低い呟きが発せられた。
「堕ちたりと云えども……か」
感嘆の響きに、微笑んだのはリチャードの方だった。もちろん振り向くことなく、そのまま二人はその場を離れた。

「どうだろう、今日のあの男は?」
「使えるでしょう。名乗りもしないのに貴方が誰であるかに気づいたのですから、脈は大いにあります。コンタクトを続けるべきでしょう」
「そうだな。うまく恩を売れたようだし」
基地――現在の根城――へ戻って、二人は先にウォンの部屋へ行った。今日の救出作戦をおさらいするためだ。命を狙われていた男を一人助けただけのことだが。
社会的に力のあるサイキッカーを味方につけること、それが彼らの策の一つだった。
どん底生活を送る者ばかりを助けるのは、穴が幾つもあいた堤防を手で塞ぐのと同じことだ。それだけでは何も解決しない。それよりも、今より丈夫な堤防をつくること、新たな堤防をつくって、一つが欠けても氾濫をくいとめることができるようにすることが先決なのだ。それは結果的に多くの者を救う。つまり、金銭的に余裕のある者、地盤や地位があって容易には追い落とされない者を助けてネットワークを強化し、なおかつスポンサーとして組み込んでいくこと――その仕事に、元ノア総帥とその右腕は余念がなかった。サイキッカーであることを公にはしていなくとも、仲間を助けて力になりたい、もしくは結束して力をつけたいと思う者は少なくない。それは、いつ差別や迫害を受けるかしれないと思う立場のものの知恵であり、それを二人は利用していた。昔から使っていた手で新味はないが、リチャード・ウォンの政治的手腕とキース・エヴァンズの卓越したカリスマ性の組み合わせは、そういった方法に向いていたのである。
キースは手持ちの電子パッドに表示される、めぼしいサイキッカーのリストに視線を落としながら、
「どうやら二人で行動してもあまり問題はないようだな。しかも、キース・エヴァンズの名は未だ影響力があることもハッキリしてきた。名乗りをせずとも人を魅きつけえるのなら、むしろ一カ所に落ち着いてそこの王となるより、多くの場所に姿を現してみせる方が先決か」
「しばらくは全国行脚ということですね」
「どう思う」
「賛成です。貴方が堕ちた総帥でないことを知らしめる、いい機会にもなります」
キースはフッと笑った。
「君がそう考えているだけだ。一敗地にまみれた男への同情だ、あれは」
「本当にそうお思いですか」
「それでも構いはしないからな。私の目的は君臨することではない。暗躍するのであれば、むしろ強大すぎると思われない方が得策だ。同情もむしろ武器になる」
違うか?と眼差しを上げたキースに、ウォンはこう応えた。
「久しぶりですね。貴方が“私”口調でしゃべるのは」
「うん?」
男と握手を交わしている時、見とれていたのはウォンも同様だった。
その如才なさは総帥生活の中、ウォンの傍らで洗練されてきたものだが、その自信たっぷりな挙作と話し方は、出会った時にすでに完成されていた。それを改めて感心して見ていたのだ。
島国生まれの者には普通のことらしいが、表と裏を使い分けて社会生活をつつがなく送るという能力は、人に混じって何かを成そうという者にはなくてはならないものである。キース・エヴァンズの場合、態度とともにそれは口調にはっきりと現れた。たとえ友人の前でも総帥としてしゃべる時は、“私”という一人称がふさわしい、ピシリとした口調に変わる。公の顔、その立場を大変重んじる青年なのだ。だから、先ほど総帥の顔に戻った時も、そして今、恋人の前にいる時も、ほとんど無意識のように“私”でしゃべっている。
思えば柔らかな“僕”口調を常に聞けるようになったのは、知り合ってから何年も過ぎてのことだ。それだけ近づけたということだが、凛々しい指導者としてのキースも捨てがたく、仕事の場で共にある喜びをウォンは再び感じていた。大見得をきって様になる人間の数はそう多くはない、ほとんどが無様なだけだ。必要に迫られて指導者になった彼の、私心のない物言い、その人徳が多くの人間を魅了するのは当たり前のことと言えよう。
「気がついていたのか」
キースはパッドを置き、指を組んで面白そうに、
「そろそろハッタリも錆びつきかかっているからな。君との生活に甘えていると、いろいろと忘れてしまう。もし、かつての総帥として動いていくなら、相応の重みも演出しないといけない。まあ、当分はっきり名乗るつもりはないが……時間が必要だろう、まだ?」
「そうですね」
ウォンも頬杖で答えた。
「しかし、疲れないのですか、“私”は?」
「まさか。“私”と自分を鎧っている方が楽に決まっているだろう」
いつも剥き出しの心では誰でもズタズタになってしまう、サイキッカーであればなおのことで、さらに立場が加われば鎧わずにはいられない、とキースは主張する。
「意外にわかっていないな、リチャード・ウォン」
ウォンは返事をしなかった。
わかってはいる。
使い分けた方が楽なのだと言うことは。
しかし、この人を再び二重生活へ押しだそうとしている自分はなんなのだ、とウォンは自問していた。その細い肩に再びかかる重みは? いくら私が傍らで支えるとはいえ。
「ウォン。“私”が好きでやることなんだ、気にするな」
「ええ、わかっています、それは」
「もちろん、“私”がいつまでも暗躍しなければならないのは間違っている。それはサイキッカーにとって正しくない未来だ。だが、当分は仕方あるまい」
“私”のいらない社会――つまり、戦わずとも、策を用いずとも、サイキッカーが安心して生きられる社会。それはもちろん誰にとっても喜ばしい事態だが、そんな時代がすぐ来ると思うほど、二人とも楽観的ではない。
そう、当分どころか、たぶん、ずっと貴方は。
黙ってしまった恋人を見て、ふいにキースは立ち上がった。
ウォンの傍らでごく自然に身を屈める。
小さな、口吻の音。
「心配しなくていい。君の側でなら、いつでもすぐ“僕”に戻れるから」
「キース様」
右腕としては有能でも、恋人としては実は手間のかかる、屈託の深い男へ、キースは優しい眼差しで応えた。
「もっと甘えると約束したろう? 我が儘でも欲しがってくれたら嬉しいと、君は言ったろう?」
大丈夫、君から離れたりしない、そう“私”である時も……呟いてもう一度口吻した後は、ウォンがキースを抱きかかえて寝台へ運ぶ。
もう二人の瞳には互いしか映っていない。

その晩、ベッドの中で、キースは一言も“私”と言わなかった。
いや、むしろ“僕”とも。

(2002.3脱稿)

《サイキックフォース》パロディのページへ戻る

Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/