あ 

あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう :
(ああいやだいやだいやだ、どうしたならひとのこえもきこえないもののおともしない):

樋口 一葉:−『にごりえ』−:

お力は一散に家を出て、行かれるものなら此まゝに唐天竺の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄りかゝつて暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声を其まゝ何処ともなく響いて来るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば為る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであろう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売柄を嫌ふかと1ト口に言はれて仕舞、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分からぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずか其様な事も思ふまい、思ふたとて何うなる物ぞ、此様な身で此様な業体で、此様な宿世で、何うしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並のことを考へて苦労する丈間違ひであろ、あゝ陰気らしい何だとて此様な処に立つて居るのか、何しに此様な処へ出て来たのか、馬鹿らしい気違じみた、我身ながらわからぬ、

                                                       (『ごりえ』 5)


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「愛嬌というのはね、――自分より強いものを斃す柔らかい武器だよ」 :
(あいきょうというのはね、――じぶんよりつよいものをたおすやわらかいぶきだよ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「君は愛嬌のない男だね」
 「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
 「なんのかのといって、一分でもよけい動かずにいようという算段だな。怪しからん男だ」
 「愛嬌というのはね、――自分より強いものを斃す柔らかい武器だよ」
 「それじゃ無愛想は自分より弱いものを、扱き使う鋭利な武器だろう」
 「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌がいるものか」
 「いやに詭弁を弄するね。そんなら僕はお先へご免こうむるぜ。いいか」
 「かってにするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。

                                                  (『虞美人草』 1)



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欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐に富むとき、二人の位置は、誠実をもって相対すると毫も異なるところなきに至る :
(あざむかるるもの、あざむくものといちようのきっさにとむとき、ににんのいちは、せいじつをもってあいたいするとごうもことなるところなきにいたる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「剣客の剣を舞はすに、力相若(し)くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌(ちゅう)の末に制する事能うはざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐に富むとき、二人の位置は、誠実をもって相対すると毫も異なるところなきに至る。このゆゑに偽と悪とは優劣を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽、不足悪に出会(しゅっかい)するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、―効果を収むること難しとす。第三の場合はもとより希なり。第二もまた多からず。兇漢は敗徳において匹敵するをもって常態とすればなり。人相賊(あいぞく)してつひに達する能わず。あるひは千辛万苦してはじめて達しうべきものも、ただ互いに善を行ひ徳を施して容易に到りうべきを思へば、悲しむべし」

                                                  (『虞美人草』 15)



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「あなたは人に対して済まない事をした覚えがある。その罪がたたっているから子供は決して育たない」と言い切った。お米はこの一言に心臓を射抜かれる思いがあった :
(あなたはひとにたいしてすまないことをしたおぼえがある。そのつみがたたっているからこどもはけっしてそだたないといいきった、およねはこのいちごんにしんぞうをいぬかれるおもいがあった):

夏目 漱石:−『門』−:

 彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊技的に外へ現われるだけで済んでいた。それが実生活のおごそかな部分を冒すようになったのは、全く珍しいと言わなければならなかった。お米はその時まじめな態度とまじめな心を持って、易者の前にすわって、自分は将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確かめた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭で占う人と、少しも違った様子もなく、算木をいろいろに並べてみたり、筮竹をもんだり数えたりしたあとで、仔細らしくあごの下の髯を握って何か考えてたが、終わりにお米の顔をつくづくとながめた末、
 「あなたは人に対して済まない事をした覚えがある。その罪がたたっているから子供は決して育たない」と言い切った。お米はこの一言に心臓を射抜かれる思いがあった。くしゃりと首を折ったなり家へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
 お米が宗助にも打ち明けないで、今まで過ごしたというのは、この易者の判斷であった。

                                                  (『門』 13)



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「アメリカの捕虜を生体解剖することなんだ。君」 :
(あめりかのほりょをせいたいかいぼうすることなんだ。きみ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 そう言って彼は口を噤んだ。そしてまた茶碗を掌の上で廻しはじめた。勝呂は頭に滲んだ脂汗を手で拭った。炭火の青白い火が燃え上がり、腐った魚の臭いを漂わした。
「実際、これは滅多にないことだからね。医学者として――つまり、ある意味じゃ、一番願ったりのきかいなんだから……」
 彼が茶碗を廻すごとに油の切れた椅子がキイ、キイと音をたてた。
「それに君たちも内々、知っているだろうが、おやじは例のオペ以来、権藤教授の第二外科に押され気味だからね。この際、彼等と手を握って西部軍の医官とつき合うのも悪くないし――その好意的な申出をいたずらに断って連中の機嫌を損じる必要もない……。もっとも君たちがイヤなら仕方がないが権藤教授のところも五人、参加するらしいし、こちらもおやじと俺と浅井君と君たち二人で五人になることだから」
「オペですか」と戸田がたずねた。「先生が我々に加われち言われるのは」
「強制してるんじゃない。ただ、承諾しなくても、これは絶対、秘密にしてもらわねば困るぜ」
「何です。それは」
「アメリカの捕虜を生体解剖することなんだ。君」

                                                  (『海と毒薬』 1章-X)



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文は人の目を奪う。巧は人の目を掠める。質は人の目を明らかにする :
(あやはひとのめをうばう。たくみはひとのめをかすめるたちはひとのめをあきらかにする):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「美しい花が咲いている」
 「どこに」
 糸子の目には正面の赤松と根方にあしらった熊笹が見えるのみである。
 「どこに」と暖かい顎を延ばして向こうを眺める。
 「あすこに。――そこからは見えない」
 糸子は少し腰を上げた。長い袖をふらつかせながら、二、三歩膝頭で縁に近く擦り寄ってくる。二人の距離が鼻の先に逼るとともに微かな花は見えた。
 「あら」と女は留まる。
 「きれいでしょう」
 「ええ」
 「知らなかったんですか」
 いいえ、ちっとも」
 「あんあまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分からない」
 「やっぱり桃や桜のほうがきれいでいいのね」
 甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで、
 「憐れな花だ」と言った。糸子は黙っている。
 「昨夜(ゆうべ)の女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
 「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い目を翻してじっと女の顔を見ていたが、やがて、
 「あなたは気楽でいい」と真面目に言う。
 「そうでしょうか」と真面目に答える。
 賞められたのか、腐されたのか分からない。気楽か気楽でないか知らない。喜楽がいいものか、わるいものか解しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目に言うから、真面目にそうでしょうかというよりほかに道はない。
 文は人の目を奪う。巧は人の目を掠める。質は人の目を明らかにする。そうでしょうかを聞いたとき、甲野さんはなんとなくありがたい心持ちがした。直下(じきげ)に人の魂を見るとき、哲学者は理解(りげ)の頭を下げて、無念ともなんとも思わぬ。
 「いいですよ。それでいい。それがなくっちゃだめだ。いつまでもそれでなくっちゃだめだ」
 糸子は美しい歯をあらわした。
 「どうせこうですわ。いつまでたったって、こうですわ」
 「そうはいかない」
 「だって、これが生まれつきなんだから、いつまでたったって、変わりようがないわ」
 「変わります。阿爺(おとっさん)と兄さんの傍を離れると変わります」
 「どうしてでしょうか」
 「離れると、もっと利口に変わります」
 「私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変われば変わるほうがいいんでしょう。どうかして藤尾さんのようになりたいと思うんですけれども、こんなばかだものだから……」
 「藤尾がそんなに羨ましいんですか」
 「ええ、ほんとうに羨ましいわ」
 「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
 「なに」と糸子は打ち解けている。
 「藤尾のような女は今の世に有りすぎて困るんですよ。気をつけないと危ない」
 女は依然として、肉余る瞼を二重に、愛嬌の露を大きな眸の上に滴らしているのみである。危ないという気色は影さえ見えぬ。
 「藤尾が一人出ると昨夕(ゆうべ)のような女を五人殺します」
 鮮やかな眸に滴るものはぱっと散った。表情は咄嗟に変わる。殺すという言葉はさほどに怖ろしい。――その他の意味はむろん分からぬ。
 「あなたはそれで結構だ。動くと変わります。動いてはいけない」
 「動くと?」
 「ええ、恋をすると変わります」
 「女は咽喉から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥(の)み下した。顔は真赤になる。
 「嫁に行くと変わります」
 女は俯向(うつむ)いた。
 「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
 かわいらしい二重瞼がつづけざまに二、三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜(あまりょう)の影が渡る。鷺草とも菫とも片づかぬ花は依然として春を乏(とも)しく咲いている。

                                                  (『虞美人草』 13)




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或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有りけり :
(あるしものあさすいせんのつくりばなをこうしもんのそとよりさしいれおきしもののありけり):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其のまゝに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有りけり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞く其明けの日は信如が何がしの学林に袖の色じかへぬべき当日なりとぞ。

                                                  (『たけくらべ』 16)



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ある人は十銭をもって一円の十分の一と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人によって高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である :
(あるひとは十せんをもって一えんの十ぶんの一とかいしゃくし、あるひとは十せんをもって一せんの十ばいとかいしゃくすと。おなじことばがひとによってたかくもひくくもなる。ことばをもちいるひとのけんしきしだいである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

拭き込んだ細かい柾目の板が、雲斎底(うんさいぞこ)の影を写すほどに、軽く足音を受けたときに、藤尾の背中に背負った黒い髪はさらりと動いた。とたんに縁に落ちた紺足袋が女の目にはいる。足袋の主は見なくても知れている。
 紺足袋は静かに歩いて来た。
 「藤尾」
 声は後ろでする。雨戸の溝をすっくと仕切った栂の柱を背に、欽吾は留まったらしい。藤尾は黙っている。
 「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗い髪を見下ろした。
 「なんです」と言うなり女は、顔を向け直した。赤楝蛇(やまかがし)の首を擡(もた)げた時のようである。黒い髪に陽炎を砕く。
 男は、目さえ動かさない。蒼い顔で見下ろしている。向き直った女の額をじっと見下ろしている。
 「昨夜(ゆうべ)はおもしろかったかい」
 「ええ」ときわめて冷淡な挨拶をする。
 「それはよかった」と落ちつき払って言う。
 女は急いてくる。勝ち気な女は受け太刀だなと気がつけば、すぐ急いてくる。相手が落ちついていればなお急いてくる。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んでおきながら悠々として柱に倚(よ)って人を見下ろしているのは、酒を飲みつつ胡座をかいて追い剥ぎををすると同様、ちと虫がよすぎる。
 「驚くうちは楽しみがあるんでしょう」
 女は逆さに寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下ろしている。意味が通じた気色さえ見えぬ。欽吾の日記にいう。――ある人は十銭をもって一円の十分の一と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人によって高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾のあいだにはこれだけの差がある。段が違うものが喧嘩をすると妙な現象が起こる。
 姿勢を変えるさえ嬾(ものう)く見えた男はただ、
 「そうさ」と言ったのみである。
 「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚けないから楽しみがないでしょう」
 「楽しみ?」と聞いた。楽しみの意味が分かってるのかと言わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて言う。
 「楽しみはそうはないさ。その代わり安心だ」
 「なぜ」
 「楽しみのないもは自殺する気遣いがない」
 藤尾には兄のいうことがまるでわからない。蒼い顔は依然として見下ろしている。なぜと聞くには不見識だから黙っている。
 「お前のように楽しみの多いものは危ないよ」
 藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分かったかとやはり見下ろしている。何事とも知らず「エジプトの御代しろし召す人の最期ぞ、かくありてこそ」という句を明らかに想い出す。
 「小野は相変わらず来るかい」
 「藤尾の目は火打ち石を金槌の先で敲いたような火花を射る。構わぬ兄は、
 「来ないかい」と言う。
 藤尾はぎりぎりと歯を噛んだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱に倚っている。
 「兄さん」
 「なんだい」とまた見下ろす。
 「あの金時計は、あなたには渡しません」
 「おれに渡さねば誰に渡す」
 「当分私が預かっておきます」
 「当分お前が預かる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
 「宗近さんに上げるときは私から上げます」
 「お前から」と兄は顔を低くして妹の方へ目を近寄せた。
 「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」寄せ木の机に凭(もた)せた肘を跳ねて、すっくり立ち上がる。紺と濃い黄と、木賊(とくさ)の海老茶の棒縞が、棒のごとく揃って立ち上がる。裾だけが四色(よいろ)の波のうねりを打って白足袋の鞐(こはぜ)を隠す。
 「そうか」
 と兄は雲斎底の踵(かかと)を見せて、向こうへ行ってしまった。

                                                  (『虞美人草』 12)





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居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出し、これにてお拭きなれと介抱をなしけるに :
(いあわせたるみどりみかねてわがくれないのきぬはんけちをとりいだし、これにておふjきなされとかいほうをなしけるに):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

龍華寺の真如、大黒屋の美登利、二人ながら学校は育英舎なり、去りし四月の末つかた、桜は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動会とて水の谷の原にせし事ありしが、つな引、鞠なげ、縄とびの遊びに興をそへて長き日の暮るゝを忘れし、其折の事とや、真如いかにしたるか平常の沈着に似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出し、これにてお拭きなれと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬や見つけて、

                                                  (『たけくらべ』 7)



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幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑に入る :
(いくたのかおの、いくたのひょうじょうのうちで、あるものはかならずひとのはいふにはいる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「まあ立ちん坊だね」と甲野さんは淋しげに笑った。勢い込んでしゃべってきた宗近君は急に真面目になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑に入る。面上の筋肉がわれがちに躍るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻を起こすためでもない。涙管の関が切れて滂沱(ぼうだ)の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、捕らえがたい情けの波が、心の底からかろうじて流れ出して、ちらりと浮き世の日に影を宿したのである。往来に転がっている表情とは違う。首を出して、浮き世だなと気がつけばすぐ奥の院に引き返す。引き返すまえに、捕(つら)まえた人が勝ちである。捕まえ損なえば生涯甲野さんを知ることはできぬ。
 甲野さんの笑いは薄く、柔らかに、むしろ冷ややかである。そのおとなしいうちに、その速やかなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明らかに描き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、はじめて甲野さんの性格を描き出すのはやぼな小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出てくるものではない。
 春の旅は長閑である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。そのあいだに宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。

                                                  (『虞美人草』 3)




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いじらしいのと見縊るのはある意味において一致する :
(いじらしいのとみくびるのはあるいみにおいていっちする):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 家は小野さんが弧堂先生のために周旋したに相違ない。しかしきわめて下卑ている。小野さんは心のうちに厭な住居(すまい)だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣に辛夷を添わせて、松苔を葉蘭の影にたたむ上に、切り立ての手拭いが春風に揺(ふ)らつくような所に住んでみたい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
 「おかげさまで、いい家が手に入りまして……」と誇ることを知らぬ小夜子は言う。ほんとうにいい家と心得ているなら情けない。ある人に奴鰻を奢ったら、おかげさまではじめてうまい鰻を食べましてと礼を言った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑したそうである。
 いじらしいのと見縊るのはある意味において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を言った小夜子を見縊った。しかしそのうちにつゆいじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が祟ったからである。祟りがあると目玉が三角になる。
 「もっといい家でないとお気に入るまいと思って、方々尋ねてみたんですが、あいにく恰好なのがなくって……」
 と言いかけると小夜子は、すぐ、
 「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇なことを言うと思った。小夜子は知らぬ。

                                                  (『虞美人草』 9)


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一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなるまじ、同じ不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、なあ関さうでは無いか :
(いちどえんがきれてはにどとかおみにゆくこともなるまじ、おなじふうんになくほどならばはらだのつまでおおなにきになけ、なあせきさうではないか):

樋口 一葉:−『十三夜』−:

父は嘆息して、無理は無い、居愁(ゐづ)らくもあらう、困つた中に成つたものよと暫時(しばらく)阿関の顔を眺めしが、大丸髷に金輪の根を巻きて黒縮緬の羽織何の惜しげもなく、我が娘ながらいつしか調(ととの)ふ奥様風、これをば結び髪に結ひかへさせて綿銘仙の半天に襷がけの水仕事さする事いかにして忍ばるべき、太郎といふ子もあるものなり、一端の怒りに百年の運を取はづして、人には笑はれものとなり、身はいにしへの斎藤主計(かずへ)が娘に戻らば、泣くとも笑ふとも再度(ふたたび)原田太郎が母とは呼ばるゝ事成るべきにもあらず、良人に未練は残さずとも我が子の愛の断ちがたくは離れていよいよ物をも思ふべく、今の苦労を恋しがる心も出づべし、斯く形よく生れたる身の不幸(ふしあわせ)、不相応の縁につながれて幾らの苦労をさする事と哀れさの増れども、いや阿関こう言ふと父が無慈悲で汲取つて呉れぬのと思ふが知らぬが決して御前を叱かるのではない、身分が釣り合はねば思ふ事も自然違ふて、此方(こっち)は真から尽す気でも取りやうに寄つては面白くなく見える事もあらう、勇さんだからとて彼(あ)の通り物の道理を心得た、利発の人ではあり随分学者でもある、無茶苦茶いぢめ立る訳ではあるまいが、得て世間に褒め物の敏腕家(はたらきて)などゝ言はるるは極めて恐ろしい我がまゝ物、外では知らぬ顔に切つて廻せど勤め向きの不平などまで家内(うち)へ帰つて当りちらされる、的になつては随分つらい事もあらう、なれども彼れほどの良人を持つ身のつとめ、区役所がよひの腰弁当が釜の下を焚きつけて呉るのとは格が違ふ、従がつてやかましくもあらう六づかしくもあろう夫(それ)を機嫌の好い様にとゝのへて行くが妻の役、表面(うはべ)には見えねど世間の奥様といふ人達の何れも面白くをかしき中ばかりは有るまじ、身一つと思へば恨みも出る、何の是れが世の勤めなり、殊には是れほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口広い事は言へど、亥之助が昨今の月給に有ついたも必竟は原田さんの口入れではなからうか、七光どころか十光(とひかり)もして間接(よそ)ながらの恩を着ぬとは言はれぬに愁(つ)らからうとも一つは親の為弟の為、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒抱がなるほどならば、是から後(ご)とて出来ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが宜(よ)いが、太郎は原田のもの、其方(そち)は斎藤が娘、一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなるまじ、同じ不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、なあ関さうでは無いか、合点がいつたら何事も胸に納めて知らぬ顔に今夜は帰つて、今まで通りつゝしんで世を送つて呉れ、御前が口に出さんとても親も察しる弟も察しる、涙は各自(てんで)に分て泣かうぞと因果を含めてこれも目を拭ふて、阿関はわつと泣いて夫れでは離縁をといふたもわがまでゝで御座りました、成程太郎に別れて顔も見られぬ様にならば此世に居たとて甲斐ないものを、唯目の前の苦をのがれたて何(ど)うなる物で御座んせう、ほんに私さへ死んだ気にならば三方四方波風たゝず、兎もあれ彼の子も両親の手で育てられまするに、つまらぬ事を思ひ寄りまして、貴君にまで嫌やな事を御聞かせ申しました。今宵限り関はなくなつて魂一つが彼の子の身を守るのと思ひますれば良人のつらく当る暗い百年も辛棒出来さうなs事、よく御言葉も合点が行きました、もう此様(こん)な事は御聞かせ申せませぬほどに心配して下さりますなとて拭ふあとから又涙、母親は声たゝ何といふ此娘(このこ)は不仕合と又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月も折から淋しくて、うしろの土手の自然生(じねんばへ)の弟の亥之が折つて来て、瓶にさしたる薄の穂の手振りも哀れなる夜なり

                                                  (『十三夜』 上)


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一六の目は明らかに出た。ルビコンは渡らねばならぬ :
(いちろくのめはあきらかにでた。ルビコンはわたらねばならぬ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

今日は藤尾と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかしぜひ行かねばならぬとなると、なんとなく気が咎める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかもしれぬ。賽の目はもとより自分で投げた。一六の目は明らかに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切ったシーザーは英雄である。通例の人はいざという間ぎわになってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ずよせばよかったと後悔する。乗りかけた船に片足を入れたとき、船頭が出ますよと棹を取り直すと、待ってくれと言いたくなる。誰かが陸(おか)から来て引っ張ってくれればいいと思う。乗りかけたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命という場合ではない。

                                                  (『虞美人草』 18)

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今、戸田のほしいものは呵責だった。胸の烈しい痛みだった。心を引き裂くような後悔の念だった。だが、この手術室に戻ってきても、そうした感情はやっぱり起きてはこなかった :
(いま、とだのほしいものはかしゃくだった。むねのはげしいいたみだった。だが、このしゅじゅつしつにもどってきても、そうしたかんじょうはやっぱりおきてはこなかかった):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 会議室の戸を閉めた時、鉛色に光った廊下が長く伸びていた。誰もいなかった。この廊下を真直ぐに戻ればふたたび、手術室に出る。そう考えると戸田はもう一度、あの室を覗きたいという抑え難い衝動に駆られた。
(もう一度だけ。あのあとが、どうなっているのか見たい)
 午後の最後の光が次第に窓硝子から消えようとしていた。静かだった。時々、うしろの会議室から話声がひくく洩れてくる。
 彼は会談を一、二歩おりかけて足をとめた。それからくるりと向きを変えると、廊下の壁に反響する自分の靴音を一つ、一つ聞きながら手術室に近づいていった。
 ドアはまだ、少し開いたままになっている。そのドアを押すと、鈍い音をたてて軋んだ。エーテルの臭いがかすかに彼の鼻についた。準備室のしろっぽい机上に、麻酔薬の瓶が一つ、わびしく転がっている。
 戸田はしばらく、その真中にたっていた。あの捕虜がここで「ああ、エーテル」と叫んだ声が甦ってくる。その子供のような叫び声はまだ耳に残っている。本能的な恐怖心が心を襲ってきたが、戸田はしばらく、我慢していた。すると小波でも引くようにその恐怖は消え、自分でもふしぎなほど落ち着いてくる。
 今、戸田のほしいものは呵責だった。胸の烈しい痛みだった。心を引き裂くような後悔の念だった。だが、この手術室に戻ってきても、そうした感情はやっぱり起きてはこなかった。普通の人とちがって、医学生である彼はむかしからひとりで手術後、手術室にはいることに狎れていた。そういう場合と今、どこがちがうのか、彼にはよく掴めなかった。
(俺たちはここで作業服の上衣をとらせたんや)彼は一つ一つの光景を自分に押しつけながら、心の苦しみをむなしく待っていた。(あの捕虜は栗色の毛のはえた胸を女みたいに恥ずかしそうに両手でかくしとったな。そして浅井助手に指さされて隣りの手術室に行ったんや)
 彼は手術室の戸をそっとあけた。スイッチを捻ると、無影燈の青白い光が天井や四方の壁にまぶしく反射した。罅のはいった手術台の上に小さなガーゼが一枚、落ちていた。赤黒い血の痕がついている。それを見ても戸田の心には今更、特別な心の疼きは起きてこない。
(俺には良心がないのだろうか。俺だけでなくほかの連中もみな、このように自分の犯した行為に無感動なのだろうか)
 墜ちる所まで墜ちたという気持ちだけが彼の胸をしめつけた。彼は電器を消してふたたび、廊下に戻った。
 夕闇が既にその廊下をつつんでいる。戸田は歩きかけて、むこうの階段にひびく固い跫音を聞いた。その跫音は階段をゆっくりと登ると、この手術室の方向に進んでくる。
 廊下の窓に体をよせて戸田は夕闇の中に診察着をきた一人の男が夕顔のように白く近よってくるのをぼんやりと眺めていた。おやじだった。
 戸田がそこにかくれているとは気づかず、おやじは手術室の前にたちどまり、診察着に両手を入れたまま、背を曲げて、じっと手術室の扉とむき合っていた。その顔ははっきり見えなかったが、落とした肩や曲げた背や夕闇に光る銀髪は、ひどく老いこみ、窶れているように思われた。
 ながい間、彼は扉をじっと凝視していたが、やがてふたたび靴音をコツ、コツといわせながら階段の方に去っていった。

                                     (『海と毒薬』−第三章 :「夜のあけるまで」U)



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今から囘顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時もう充分に萌してゐたのです :
(いまからかいこすると、わたしのKにたいするしっとは、もうじゅうぶんにきざしていたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

私の問題は重に二人の下宿してゐる家族に就いてでした。私は奥さんや御嬢さんを彼が何う見てゐたか知りたかつたのです。所が彼は海のものとも山のものとも見分けの付かないやうな返事ばかりするのです。しかも其返事は要領を得ない癖に。極めて簡單でした。(中  略)
 我々が首尾よく試験を濟ました時、二人とももう後一年だと云つて奥さんは喜んで呉れました。さう云ぐ奥さんの唯一の誇とも見られる御嬢さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐたのです。Kは私に向つて、女といふものは何も知らないで學校を出るのだと云ひました。Kは御嬢さんが學問以外に稽古してゐる縫針だの琴だの活花だのを、丸で眼中に置いてゐないやうでした。私は彼の迂闊うぃ笑つてやりました。さうして女の價値はそんな所にあるものでないといふ昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁もしませんでした。その代わり成程といふ様子も見せませんでした。私には其所が愉快でした。彼のふんと云つた調子が、依然として女を輕蔑してゐるやうに見えたからです。女の代表者として私の知つてゐる御嬢さんを、物の數とも思つてゐないらしかつたからです。今から囘顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時もう充分に萌してゐたのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書27」)

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いや、あの人は……御存じか知れませんが、例の事件でな :
(いや、あのひとは……ごぞんじょいかしれませんが、れいのじけんでな):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

「F医大を御卒業ですか」話の種がないので私は勝呂医院でみた小冊子のことを思い出しながら訊ねた。「それならば勝呂という人を御存知ありませんかね」
「勝呂……勝呂」相手は首をかしげた。一、二杯の酒でその顔は真赤だった。
「勝呂二郎ですと?」
「はあ──」
「勝呂をあなた、御存知ですと?」
 その人は早口のF市弁で叫んだ。
「体を診て頂いています。気胸ををやってるもんですから」
「ほう……」
 その人はしばらく私の顔を見つめていた。
「今、東京に彼、おりますとな。それでは」
「学生時代のお友だちですか。勝呂先生と」
「いや、あの人は……御存じか知れませんが、例の事件でな」
 その人は急に声をひそめて話しはじめた。

                                                  (『海と毒薬』 第1章)


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「厭だって……」と言いかけて糸子は急に俯向いた。しばらくは半襟の模様を見つめているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡んで一雫の涙がぽたりと膝の上に落ちた :
(いやだって……といいかけていとこはきゅうにうつむいた。しばらくははんえりのもようをみつめているようにみえた。やがてしばたたくまつげをからんでひとしずくのなみだがぽたりとひざのうえにおちた):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「糸公、お前は甲野の知己だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
 「知己でも知己でなくっても、ほんとうのところを言うんです。正しいことを言うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと言うんなら、叔母さんや藤尾さんのほうが間違ってるんです。私は嘘を吐(つ)くのは大嫌いです」
 「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家を出ても出なくても、財産をやってもやらなくっても、お前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
 「それは話がまるで違いますわ。今言ったのはただ正直なところを言っただけですもの。欽吾さんにお気の毒だから言ったんです」
 「よろしい。なかなか訳が分かっている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭かい」
 「厭だって……」と言いかけて糸子は急に俯向いた。しばらくは半襟の模様を見つめているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡んで一雫の涙がぽたりと膝の上に落ちた
 「厭だって……」と言いかけて糸子は急に俯向いた。しばらくは半襟の模様を見つめているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡んで一雫の涙がぽたりと膝の上に落ちた
 「糸公、どうしうたんだ。今日は天候劇変で兄さんに面食らわしてばかりいるね」
 答えのない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫落ちた。宗近君は親譲りの背広の隠袋(かくし)から、くちゃくちゃのハンケチをするりと出した。
 「さあ、お拭き」と言いながら糸子の胸の先へ押しつける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手にハンケチを差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗き込む。
 「糸公厭なのかい」
 糸子は無言のまま首を掉った。
 「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君はハンケチを妹の膝の上に落としたまま、身体だけを故へ戻す。
 「泣いちゃいけないよ」と言って糸子の顔を見守っている。しばらく双方とも言葉が途切れた。
 糸子はようやくハンケチを取り上げる。粗い銘仙の膝が少し染みになった。その上へ、ハンケチの皺をていねいに延(の)して四つ折りに敷いた。角をしっかり抑えている。それから目を上げた。目は海のようである。

                                                  (『虞美人草』 16)


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「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」 :
(いろをみるものはかたちをみず、かたちをみるものはしつをみず):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 甲野さんの日記の一節にいう。
 「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
 小野さんは色を見て世を暮らす男である。
 甲野さんの日記の一節にまたいう。
 「生死因縁無了期、色相世界現狂癡」(しょうしいんねんりょうきなし、しきそうせかいきょうちをげんず)
 小野さんは色相世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生まれた。ある人は私生児だとさえ言う。筒袖を着て学校へ通うときから友達に苛められていた。行く所で犬に吠えられた。父は死んだ。外で辛(ひど)い目に遭った小野さんは帰る家がなくなった。やむなく人の世話になる。
 水底の藻は、暗い所に漂うて、白帆行く岸辺に日のあたることを知らぬ。右に揺(うご)こうが、左に靡こうが嬲(なぶ)るは波である。ただその時々に逆らわなければ済む。馴れては波も気にならぬ。波は何者ぞと考える暇もない。なぜ波がつらく己にあたるかはむろん問題にのぼらぬ。のぼったところで改良はできぬ。ただ運命が暗い所に生えていろという。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けという。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
 京都では弧堂先生の世話になった。先生から絣の着物をこしらえてもらった。年に二十円の月謝も出してもらった。書物もときどき教わった。祗園の桜をぐるぐる周ることを知った。知恩院の勅額見上げて高いものだと悟った。ご飯も一人前は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
 東京は目の眩む所である。元禄の昔に百年の寿を保ったものは、明示の代に三日住んだものよりも短命である。よそでは人が蹠(かかと)であるいている。東京では爪先であるく。逆立ちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
 きりきりと回った後で、目を開けて見ると世界が変わっている。目を擦っても変わっている。変だと考えるのは悪く変わったときである。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だという。教授は有望だという。下宿では小野さん小野さんという。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜った。浮かびだした藻は水面で白い花をもつ。根のないことには気がつかぬ。

                                                  (『虞美人草』 4)

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嘘は河豚汁である。その場かぎりで祟りがなければこれほどうまいものはない。しかし中毒(あたっ)たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。そのうえ嘘は実を手繰り寄せる :
(うそはふくじるである。そのばかぎりでたたりがなければこれほどうまいものはない。しかしあたったがさいごくるしいちもはかねばならぬ。そのうえうそはじつをたぐりよせる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵(きず)とはいわせぬ。今宵かぎりの朧だものと、即興にそそのかされて、他生の縁の袖と袂を、今宵かぎり擦り合わせて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋めて、あかの他人と化けてしまう。それならばさしつかえない。進んでこうと話もする。残念なことには、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなくならべられた二つの石の引っつくような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月(としつき)を、向こうでは離れじと、日の間とも夜の間とも繰り出す糸の、誠は赤き縁の色に、細くともこれまで繋ぎ留められた仲である。
 ただの女と言い切れば済まぬこともない。その代わり、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。その場かぎりで祟りがなければこれほどうまいものはない。しかし中毒(あたっ)たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。そのうえ嘘は実を手繰り寄せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便りもあるに、隠そうとする身繕い、名繕い、さては素性繕いに疑いの眸の征矢(そや)はてっきり的と集まりやすい。繕いは綻(ほころ)びるを持ち前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見たことかと、現れた時こそ、身の錆は生涯洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害関係には暗からぬ利巧者である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思いの糸に括られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新しい血の通うこのごろの恋の脈が、調子を合わせて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸に暖かく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、小夜子のことは名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
 「昨夕(ゆうべ)博覧会にお出でに……」とまで思い切った小野さんは、おいでになりましたかにしようか、おいでになったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
 「ええ、行きました」
 迷っている男の鼻面を掠めて、黒い髪がさっと横切って過ぎた。男はあっと思うまに先(せん)を越されてしまう。仕方がないから、
 「きれいでしたろう」とつける。きれいでしたろうは詩人としてはあまりに平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
 「きれいでした」と女はきっぱりと受け留める。後から
 「人間もだいぶきれいでした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当がつきかねるので
 「そうでしたか」と言った。当たり障りのない答えはたいていの場合愚かな答えである。弱身のあるときは、いかなる詩人をも愚をもってみずから甘んずる。
 「きれいな人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭く繰り返した。なんとなく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにばい。男は仕方なしに口を緘(つぐ)んだ。女も留まったまま動かない。まだ白状しない気かという目つきをして、小野さんを見ている、宗盛という人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったという。利害を重んずる文明の民が、そう軽率に自分の損になることを陳述する訳がない。

                                                  (『虞美人草』 12)


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疑えば己にさえ欺かれる。まして己以外の人間の、利害の衢に、損失の塵除け被る、面の厚さは、容易には度られぬ :
(うたがえばおのれにさえあざむかれる。ましておのれいがいのにんげんの、りがいのちまたに、そんしつのちりよけをかぶる、つらのあつさは、よういにははかられぬ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「母がか」
 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
 疑えば己にさえ欺かれる。まして己以外の人間の、利害の衢(ちまた)に、損失の塵除け被る、面の厚さは、容易には度(はか)られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみいう了見か。己にさえ、己を欺く魔の、どこかに潜んでいるような気持ちは免れぬものを、無二の友達とはいえ、父方の縁続きとはいえ、迂闊には天機を洩らしがたい。宗近の言(こと)は継母に対するわが心の底を見んがための鎌か。見たうえでも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌をかけるほどの男ならば、思うとおりを引き出した後で、どうひっくり返らぬとも保証はできん。宗近の言は真率なる彼の、裏表の見界なく、母の口占(くちうら)をいちずにそれと信じた反響か。平生のかれこれから推してみるとたぶんそうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえおそろしき淵の底に、詮索(さぐり)の錘(おもり)を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損なった母の意を承けて、お互いにおもしろからぬ結果を、必然の期程以前に、家庭のなかにぶちまけることがないとも限らん。いずれにしてもいらぬ口は発(き)くまい。

                                                  (『虞美人草』 3)


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恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて :
(うらまれるはかくごのまえ、おにだともじゃだともおもふがようござりますとて):

樋口 一葉:−『にごりえ』−:

串談はぬきにして結城さん貴君に隠したとて仕方がないら申ますが町内では少しは巾もあった布団やの源七といふ人、久しい馴染でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな家にまいまいつぶろの様になつて居まする、女房もあり、子供もあり、私がやうな者に逢ひに来る歳ではなけれど縁があるか未だに折ふし何の彼のといつて、今も下座敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出すといふ訳ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障らず帰した方が好いのでござんす、恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかと嬲る、あゝ最う帰つたと見えますとて、茫然として居るに、

                                                  (『にごりえ』 3)


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「運命は~の考えるものだ。人間は人間らしく働ければそれで結構だ :
(うんめいはかみのかんがえるものだ。にんげんはにんげんらしくはたらければそれでけっこうだ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「元来、君はわがまますぎるよ。日本という考えが君の頭の中にあるかい」
 「今までは真面目の上に冗談の雲がかかっていた。冗談の雲はこのときようやく晴れて、下から真面目が浮き上がってくる。
 「「君は日本の運命を考えたことがあるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後ろへ開いた。
 「運命は~の考えるものだ。人間は人間らしく働ければそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
 「たまたま風邪が癒れば長命だと思っている」
 「日本が短命だというのかね」と宗近君が詰め寄せた。
 「日本とロシアの戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
 「むろんさ」
 「アメリカを見ろ、インドを見ろ、アフリカを見ろ」
 「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬという論法だよ」
 「論より証拠」でも死ぬじゃないか」
 「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
 「たいがいは知らぬまに殺されているんだ」
 すべてを爪弾きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋を敲いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
 
                                                  (『虞美人草』 5)

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ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭な事 :
(ええいややいやや、、おとなになるはいやなこと):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

何時までも何時までも人形と紙雛さまをあひ手に飯事ばかりして居たらば嘸かし嬉しき事ならんを、ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭な事、何故このやうに年をば取る、最う七月十月、一年も以前へ帰りたいにと

                                                  (『たけくらべ』 15)



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ゑゝ大金でもある事か、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら :
(ええたいきんでもあることか、かねなら二えん、しかもくちづからしょうちしておきながら):

樋口 一葉:−『大つごもり』−:

ゑゝ大金でもある事か、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら十日とたゝぬに耄ろくはなさるまじ、あれ彼の懸け硯の引出しにも、これは手つかずの分と一ト束、十か二十か悉皆(みな)とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顔、三之助に雑煮のはしも取えあさるゝと言はれしを思ふにも、何(ど)うでも欲しきは彼(あ)の金ぞ、恨めしきは御新造とお峯は口惜しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込める術もなくて、すごすごと勝手に立てば正午の号砲(どん)の音たかく、かゝる折ふし殊更胸にひゞくものなり。

                                                  (『大つごもり』 下)



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「埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、斯くありてこそ」の一句がある :
(エジプトのみよしろしめすひとのさいごぞかくてありてこそのいっくがある):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 外には白磁の香爐がある。線香の袋が蒼ざめた赤い色を机の角に出してゐる。灰の中に立てた五六本は、一點の紅から烟となつて消えて行く。香(にほひ)は佛に似て居る。色は流るゝ藍である。根本から濃く立ち騰るうちに右に搖(うご)き左へ搖く。搖く度に幅が廣くなる。幅が廣くなるうちに色が薄くなる。時に燃え盡した灰がぱたりと、棒の儘倒れる。
 違棚の高岡塗は沈んだ小豆色に古木の幹を青く盛り上げて、寒紅梅の數點を螺鈿擬(まがひ)に煉り出した。裏は黒地に鶯が一羽飛んでゐる。並ぶ盧雁の高蒔繪の中には昨日迄、深き光を暗き底に放つ石榴珠が収めてあつた。両蓋に隙間なく七子を盛る金時計が収めてあつた。高蒔繪の上には一卷の書物が載せてある。四隅を金に立ちきつた箔の小口丈が鮮かに見える。間から紫の栞の房が長く垂れて居る。栞を差し込んだ頁の上から七行目に「埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、斯くありてこそ」の一句がある。色鉛筆で細い筋を入れてある。
 凡てが美くしい。美しいものゝなかに横たはる人の顏も美くしい。驕る眼は長(とこしなへ)に閉ぢた。驕る眼を眠つた藤尾の眉は、額は、黒髪は、天女の如く美くしい。

                                                  (『虞美人草』 19)




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大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は、どこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分たちを認めた。けれども、いつ吹き倒されたかを知らなかった :
(おおかぜはとつぜんふよういのふたりをふきたおしたのである。ふたりがおきあがったときは、どこもかしこもすでにすなだらけであったのである。かれらはすなだらけになったじぶんたちを認めた。けれども、いつふきたおされたかをしらなかった):

夏目 漱石:−『門』−:

 宗助は当時を思い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分もお米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭をもたげる時分に始まって、散り尽くした桜の花が若葉に色をかえるころに終わった。すべてが生死(しょうし)の戦いであった。青竹をあぶって油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は、どこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分たちを認めた。けれども、いつ吹き倒されたかを知らなかった。
 世間は容赦なく彼らに道義上の罪をしょわした。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確かであるかを疑った。彼らは彼らの目に、不徳義な男女(なんにょ)として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言い訳らしい言い訳がなんにもなかった。だからそこに言うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気まぐれに罪もない二人の不意を打って、おもしろ半分穽(おとしあな)の中に突き落としたのを無念に思った。
 暴露の目がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。彼らは青白い額を素直に前に出して、そこに灸に似た烙印を受けた。そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見いだした。彼らは親を捨てた。親類を捨てた。友だちを捨てた。大きく言えば一般の社会を捨てた。もしくはそれらから捨てられた。学校からは無論捨てられた。ただ表向きだけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい跡をとどめた。
 これが宗助とお米の過去であった。

                                                  (『門』 14)

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拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする :
(おがみまするかみさまほとけさま、わたしはあくにんになりまする):

樋口 一葉:−『大つごもり』−:

行きちがへに三之助、此処とき聞きたる白金台町、相違なく尋ねあてゝ、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より怕々(こわごわ)のぞ、けば誰ぞ来しかと竈の前に泣き伏したるお峯が、涙をかくして見出せば此子、おゝ宜く来たとも言はれぬ仕儀を何とせん、姉さま這入つても叱かられはしませぬか、約束の物は貰つて行かれますか、旦那や御新造に宜(よ)くお礼を申して来いと父(とゝ)さんが言ひましたと、仔細を知らねば喜び顔つらや、まづまづ待つて下され、少し用もあればと馳せ行きて内外を見回せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子に余念なく、小僧どのはまだお使ひより帰らず、お針は二階にてしかも聾なれば仔細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢の真最中(まっただなか)、拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰(ばち)をお当てならば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免(ゆる)しなさりませ、勿体なけれど此金ぬすませて下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を見し人なしと思へるは愚かや。

                                                  (『大つごもり』 下)



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奥さんも御嬢さんも幸福らしく見えました私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒*い影が随いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました :
(おくさんもおじょうさんもこうふくらしくみえました。(中略)けれどもわたしのこうふくにはくろいかげがついてゐました。わたしはこのこうふくがさいごにわたしをかなしいうんめいにつれていくどうかせんではなからうかとおもひました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私が今居る家へ引越したのはそれから間もなくでした。奥さんも御嬢さんも前の所にゐるのを厭がりますし、私も其夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だつたので、相談の上移る事に極めたのです。
 移つて二ケ月程してから私は無事に大學を卒業しました。卒業して半年も經たないうちに、私はとうとう御嬢さんと結婚しました。外側から見れば、萬事が豫期通りに運んだのですから目出度と云はなければなりません。奥さんも御嬢さんも幸福らしく見えました私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒*い影が随いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました。 

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書51」)

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「小野さん、眞面目だよ。いゝかね。人間は年に一度位眞面目にならなくつちやならない場合がある。上皮許で生きてゐちや、相手にする張合がない。又相手にされても詰まるまい。僕は君を相手にする積で來んだよ :
(おのさん、まじめだよ。いゝかね。にんげんはねんにいちどくらいまじめにならなくつちやならないばあいがある。うわかばかりでいきてゐちや、あいてにするはりあいがない。またあいてにされてもつまるまい。ぼくはきみをあいてにするつもりできたんだよ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 小野さんの~經は一度にぴりゝと動いた。すこし、してから烟草の烟が陰氣にむうつと鼻から出る。
 「小野さん、敵が來たと思つちや不可ない」
 「いえ決して……」と云つた時に小野さんは又ぎくりとした。
 「僕は當つ擦り抔を云つて、人の弱點に乘ずる様な人間ぢゃない。此通り頭が出來た。そんな暇は藥にしたくつてもない。あつても僕のうちの家風に背く……」
 宗近君の意味は通じた。只頭が出來た由來が分からなかつた。然し問ひ返す程の勇氣がないから默つてゐる。
 「そんな卑しい人間と思はれちや、急がしい所をわざわざ來た甲斐がない。君だつて教育のある事理の分つた男だ。僕をさう云ふ男と見て取つたが最後、僕の云ふ事は君に對して全然無効になる譯だ」
 小野さんはまだ黙つてゐる。
 「僕はいくら閑人だつて、君に輕蔑され様と思つて車を飛ばして來やしない。―兎に角淺井の云ふ通なんだらうね」
 「淺井がどう云ひましたか」
 「小野さん、眞面目だよ。いゝかね。人間は年に一度位眞面目にならなくつちやならない場合がある。上皮許で生きてゐちや、相手にする張合がない。又相手にされても詰まるまい。僕は君を相手にする積で來んだよ。好いかね、分つたかい」
 「えゝ、分りました」と小野さんは大人しく答へた。

                                                  (『虞美人草』 18)

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「おばはんは柴田助教授の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や」(中略)「え、なぜ悪いねん」「オレには都合よう言えんけど…」 :
(おばはんはアスプロのじっけんだいやし、」たべふじんはおやじのしゅっせのしゅだんや):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 神戸のある医者の息子して生まれた戸田は学生の頃から、田舎者の勝呂にこうした医学部内の複雑な人事関係や学閥の秘密をよく教えては煙にまくのだった。「医者には甘っちょろいセンチなど禁物やぜ」勝呂が眼をしばたたいて悲しそうな顔をすればするほど、戸田は嬉しそうな顔をする。「医者かて聖人やないぜ。出世もしたい。教授にもなりたいんや。新しい方法を実験するのに猿や犬ばかり使っておられんよ。そういう世界をお前、もう少しハッキリ眺めてみいや」
「「それでお前、その手術の検査、命ぜられたんか」勝呂は椅子に腰をおろして眼をつむった。先ほど廊下で感じた疲れがまた出てきた。「どうもよう、わからん」
「なにが?」
「おばはんは柴田助教授の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や」
「あたり前やないか。それがなぜ悪いねん。第一、お前、なんでおばはんばかりに執着するねん」戸田は当惑した勝呂の顔を嬉しそうに眺めた。「え、なぜ悪いねん」
「オレには都合よう言えんけど…」
「患者を殺すなんて厳粛なことやないよ。医者の世界は昔からそんなものや。それで進歩したんやろ。それに今では、街でもごろごろ空襲で死んでいくから誰ももう人が死ぬくらい驚かんのや。おばはんなぞ、空襲でなくなるより、病院で殺された方が意味があるやないか」
「どんな意味があるとや」勝呂はうつろな声で呟いた。
「当然の話や。空襲で死んでも、おばはんはせいぜい那珂川に骨を投げ込まれるだけやろ。だが、オペで殺されるなら、ほんまに医学の生柱や。おばはんもやがては沢山の両肺空洞患者を救う路を拓くと思えばもって瞑すべしやないか」
「本当にお前は強いなあ」勝呂はふかい溜息をついた。「そんなことは俺にもわかっとる。わかっとっても俺あ、そうや、なれん」
「強くなければ、どう生きられる」
 突然、戸田は引攣(ひきつ)ったように嗤いはじめた。「阿呆臭さ。こんな時代にほかの生き方があるかい」
「そうやろか」

  (中  略)

この建物と建物との間を自分には理解できぬ歯車がまわっているような気がする。(考えんことだ。考えるだけ無駄じゃもんな)
 海は今日、ひどく黝ずんでいた。黄色い埃がまたF市の街からまいのぼり、古綿色の雲や太陽をうす汚くよごしている。戦争が勝とうが負けようが勝呂にはもう、どうでも良いような気がした。それを思うには躰も心もひどくけだるかったのである。

                                                  (『海と毒薬』 第1章U)

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手術をやればこの患者は百のうち五十は死ぬにきまっている。まして、まだこの医学部でも二例しかない両肺形成を行えば九十五パーセントは殺してしまうだろう :
(オペをやればこのかんじゃは100のうち50はしぬにきまっている。まして、まだこのいがくぶでも2れいしかないりょうはいけいせいをおこなえば95%はころしてしまうだろう):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

「それで──」浅井助手は突然、勝呂の方を、見ながらゆっくりと言った。「勝呂君に診さしておいた患者(クランケ)のことですが」
「だれかね」
「そこに寝ている施療の女性患者です」
 おばはんはその声をきくと大部屋の出口に近い、一段と粗末なベッドから破れた軍用毛布に体を包むようにして起き上がった。
「いいよ。寝ていなさい」浅井助手は先ほどと同じようにまた甘い女性的な声をかける。そして靴先で床の上に転がっているおばはんの縁の凹んだアルミ碗をそっとベッドの下に蹴った。
「実は本人も納得しているのですが、どうせ死ぬのでしたら手術(オペ)をやってみたいと思いますが」
「ああ」
 おやじは不明瞭な声でふりかえった。彼の顔のは別にこの事について関心も好奇心もないようだった。
「ちょうど良い機会です。左肺に二つカベルネが、右肺に浸潤部がありますから両肺のオペの実験にはもってこいです」
 毛布の端で胸を包むようにしておばはんは勝呂の強張った顔を怯えたように見あげた。電燈の光はそこまで届かなかったので、彼女はできるだけ暗い片隅にかくれるように小さく身をちぢめていた。眼の前にいる偉い先生たちが自分のことを話しているのだと知って息を詰め、申しわけなさそうに頭を幾度も下げた。
「柴田助教授が是非、やってみたいと言われるので」
「ああ」
「じゃ、予備検査を勝呂君にやらしておきます。その上で御決定ください」
 浅井助手はこちらをふりむいて、
「いいだろ」と促した。勝呂は救いを求めるように大場看護婦長と戸田の顔を探し求めたが、看護婦長は能面のようなような表情をつくっていたし、戸田は戸田で顔をそむけていた。
「勝呂君、やってくれるだろう」
「はい……」勝呂は眼をしばたきながら、か細い声で答えた。
 くたびれたよにおやじが廊下に出た時、大部屋の壁にもたれて彼はふかい溜息をついた。おばはんは毛布で体を包んだままベッドの隅から、まだ、彼を見あげている。その困ったような視線から彼はくるしそうに眼をそらした。手術(オペ)をやればこの患者は百のうち五十は死ぬにきまっている。まして、まだこの医学部でも二例しかない両肺形成を行えば九十五パーセントは殺してしまうだろう。だがオペをしなくても、彼女は半年以内に衰弱死するだろう。
(みんな死んでいく時代やぜ。病院で死なん奴は毎晩、空襲で死ぬんや)戸田が今日の午後、怒ったように呟いた言葉を勝呂は思いだす。回診が終わったあとの大部屋はひとしきり空咳がひびき、患者たちが蝙蝠のようにベッドから這いおりたり、這いのぼったりしていた。勝呂はこの暗い部屋の臭気は、もし人間の死に臭いがあるならばこれなのだろうなあ、とぼんやり考えた。

                                                  (『海と毒薬』−第一章T)

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お峯は三之助を抱きしめて、さても世間に無類の孝行 :
(おみねはさんのすけをだきしめて、さてもせけんにむるいのこうこう):

樋口 一葉:−『大つごもり』−:

お峯は三之助を抱きしめて、さても世間に無類の孝行、大がらとても八歳(やっつ)は八歳、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、堪忍して下され、今日よりは私も家に帰りて伯父様の介抱活計(くらし)の助けもしまする、知らぬ事とて今朝までも釣瓶の縄の氷を愁(つ)らがったは勿体ない。学校ざかりの年に蜆を担がせて姉が長い着物をきて居らりょうか。伯父様暇を取って下され、私は最早奉公はよしまするとて取り乱して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに衣破れて、此肩(これ)に担ぐか見る目も愁らし、

                                                  (『大つごもり』 上)

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お米には自分と子供とを連想して考えるほどつらい事はなかったのである :
(およねにはじぶんとこどもとをれんそうしてかんがえるほどつらいことはなかった):

夏目 漱石:−『門』−:

お米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのねと、あとでよく宗助に話した。すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。お米は実際そうかもしれないと思った。そうしてこう言われたあとでは、おりおりそっと六畳へ入って、自分の顔を鏡に映して見た。その時はなんだか自分の頬が見るたびにこけてゆくような気がした。お米には自分と子供とを連想して考えるほどつらい事はなかったのである。裏の家主の宅(うち)に、小さい子供がおおぜいて、それが崖の上の庭へ出て、ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞こえると、お米はいつでも、はかないような恨めしいような心持ちになった。今時分の前にすわっている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って、立派な学士になったればこそ、叔父が死んだ今日でも、何不足のない顔をして、あごなど二重(ふたえ)に見えるくらいに豊かなのである。おかあさんは肥っているからけんのんだ、気をつけないと卒中でやられるかもしれないと安之助が始終心配するそうだけれども、お米から言わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福を享(う)け合っているものとしか思われなかった。

                                                  (『門』 5)

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お米の夫に打ち明けると言ったのは、もとより二人の共有していた事実についてではなかった :
(およねのおっとにうちゃけるといったのは、もとよりふたりのきょうゆうしていたじじつについてではなかった):

夏目 漱石:−『門』−:

 これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦い経験をなめた彼らは、それ以後幼児についてあまり多くを語を好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋(さむ)しく染め付けられて、容易にはげそうには見えなかった。時としては、彼我の笑い声を通してさえ、お互いの胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういうわけだかだから、過去の歴史を今夫に向かって新たに繰りかえそうとは、お米も思い寄らなかったのである。宗助も、今さら妻からそれを効かせられる必要は、少しも認めていなかったのである。
 お米の夫に打ち明けると言ったのは、もとより二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からそのおりの模様を聞いて、、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下した覚えがないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗やみと明るみの途中に待ち受けて、これを絞殺したと同じ事であったからである。こう解釈した時、お米は恐ろしい罪を犯した悪人と己を見なさないわけにはゆかなかった。そうして思わざる徳義上の苛責を人知れず受けた。しかもその苛責を分かって、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。お米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。

                                                  (『門』 13)

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お米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命のおごそかな支配を認めて、そのおごそかな支配のもとに立つ、幾月日の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬのろいの声を耳のはたに聞いた :
(およねは(中略)そのおごそかなしはいのもとにたつ、いくつくひのじぶんを、ふしぎにもおなじふこうをくりかえすべくつくられたははであるとかんじたとき、ときならぬのろいのこえをみみのはたにきいた):

夏目 漱石:−『門』−:

 お米は宗助のするすべてを、寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団の上に仰向けになったまま、この二つの小さい位牌を、目に見えない因果の糸を長く引いて互いに結び付けた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。お米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命のおごそかな支配を認めて、そのおごそかな支配のもとに立つ、幾月日の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬのろいの声を耳のはたに聞いた。彼女が三週間の安静を、布団の上にむさぼらなければならないように。、生理的にしいられている間、彼女の鼓膜はこののろいの声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、お米にとって実に比類のない忍耐の三週間であった。

                                                  (『門』 13)

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「俺あ、とても駄目だ」と勝呂は呟いた。「俺あ、やっぱり断わるべきじゃった」 :
(おらあ、とてもだめだと、すぐろはつぶやいた、あらあ、やっぱりことわるべきじゃった):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

「俺あ駄目だ。浅井さん」勝呂は泣きそうな声で言った。「出して下さい。この部屋から」縁のない眼鏡の上から浅井助手は勝呂をじろっと見上げた。けれども彼はなにも言わなかった。
「ぼくがやります。浅井さん」戸田が勝呂に代わって十文字の針金を渡した。 (中 略)
 彼は勝呂を冷たい眼でチラッと見たまま、手術室を出ていった。看護婦長も準備室に戻って上田看護婦に手伝わせながら道具をそろえはじめた。無影燈の青白い光が周囲の壁に反射している。壁にもたれた勝呂のサンダルを透明な水がたえずぬらしていく。戸田一人だけが手術台に横たわった捕虜のそばにたっていた。
「こっちに来て」突然戸田はひくい声で促した。「こっちに来て手伝わんかいな」
「俺あ、とても駄目だ」と勝呂は呟いた。「俺あ、やっぱり断わるべきじゃった」
「阿呆、何を言うねん」戸田はこちらをふりむいて勝呂を睨みつけた。「断わるんやったら昨日も今朝も充分、時間があったやないか。今、ここまで来た以上、もうお前は半分は通り過ぎたんやで」
「半分?何の半分を俺が通りすぎたんや」
「俺たちと同じ運命をや」戸田は静かな声で言った。「もう、どうしようも、ない……わ」

                                                  (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」V 午後三時)



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お力といふは此家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて :
(おりきといふはこのいえのいちまいかんばん、としはずいいちわかけれども):

樋口 一葉:−『にごりえ』−:

お力といふは此家の一枚看板,年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉がらせを言ふやうにもなく我がまゝ至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面ざしが何処となく冴へて見へるは彼の子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘のお蔭で新開の光が添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜いとて軒並びの羨やみ種になりぬ。

                                                  (『にごりえ』 1)


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「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」 :
(おれにはもうかみがあっても、なくてもどうでもいいんや):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

お前も、阿保やなあ」
 と戸田が呟いた。
「ああ」
「断ろうと思えばまだ機会があるのやで」
「うん」
「断らんのか」
「うん」
「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押し流すものから――運命というんやろうが、どうしても脱(のが)れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや」
「さあ、俺にはわからん」火口の消えた煙草を机の上にのせて勝呂は答えた。
「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」
「そやけれど、おばはんも一種、お前の神みたいなものやったかもしれんなあ」
「ああ」
 彼はたち上がり救命袋を持って廊下に出た。戸田はもう呼びとめなかった。

                                                  (『海と毒薬』−第1章−X)



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(俺の顔かて同じやろ)と戸田はくるしく考えた。(変ったことはないんや。どや、俺の心はこんなに平気やし、ながい間、求めてきたあおの良心の痛みも罪の呵責も一向に起こってこやへん。一つの命を奪ったという恐怖さえ感じられん。なぜや。なぜ俺の心はこんなに無感動なんや) :
(おれのかおかておなじやろとだはくるしくかんがえた。かわったことはないんや。どや、おれのこころはこんなにへいきやし、ながいあいだもとめてきたあのりょうしんのいたみもつみのかしゃくもいっこうにおこってこやへん):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 戸田はそっと眼をあげて、縁なしの眼鏡をすこし鼻に落とした浅井助手の顔をぬすみ見た。何処にも変ったところはない。この顔はいつも回診の時、患者たちに口先だけ愛想のいい言葉を投げかける秀才の顔だ。研究室に口笛を吹きながらあらわれ、検査表を舌うちしながら調べている時の顔だ。一人の人間をたった今、殺してきた痕跡はどこにもなかった。
 (俺の顔かて同じやろ)と戸田はくるしく考えた。(変ったことはないんや。どや、俺の心はこんなに平気やし、ながい間、求めてきたあおの良心の痛みも罪の呵責も一向に起こってこやへん。一つの命を奪ったという恐怖さえ感じられん。なぜや。なぜ俺の心はこんなに無感動なんや)

                                     (『海と毒薬』−第三章:「夜のあけるまで



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「おれのほうでも、もうお前の世話はせんから」と言った :
(おれのほうでも、もうおまえのせわはせんから):

夏目 漱石:−『それから』−:

 「あなたのおっしゃるところは一々ごもっともだと思いますが、私には結婚を承諾するほどの勇気がありませんから、断るよりほかにしかたがなかろうと思います」ととうとう言ってしまった。その時、父はただ代助の顔を見ていた。ややあって、
 「勇気がいるのかい」と手に持っていた煙管を畳の上にほうり出した。代助は膝頭を見つめて黙っていた。
 「当人が気に入らないのかい」と父がまた聞いた。代助はなお返事をしなかった。彼は今まで父に対しておのれの四半分も打ち明けてはいなかった。そのおかげで父と平和の関係をようやく持続して来た。けれども三千代の事だけは始めから決して隠す気はなかった。自分の頭の上に当然落ちかかるべき結果を、策で避ける卑怯がおもしろくなかったからである。彼はただ自白の期に達していないと考えた。従って三千代の名はまるで口へは出さなかった。父は最後に、
 「じゃなんでもお前の勝手にするさ」と言って苦い顔をした。
 代助も不愉快であった。しかししかたがないから、礼をして父の前をさがろうとした。ときに父は呼び留めて、
 「おれのほうでも、もうお前の世話はせんから」と言った。座敷へ帰った時、梅子は待ちかまえたように、
 「どうなすって」と聞いた。代助は答えようもなかった。

                                                  (『それから』 15)



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『おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ』といふ感じが私の胸に渦巻いて起こりました :
(おれはさくりゃくでかってもにんげんとしてはまけたのだといふかんじがわたしのむねにうずまいておこりました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日餘るになります。其間Kは私に對して少しも以前と異なつた様子を見せなかつたので。私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然とした態度はたとひ外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中で竝べてみると、彼の方が遙に立派に見えました。『おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ』といふ感じが私の胸に渦巻いて起こりました。私は其時さぞKが軽蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧らめました。然し、今更Kの前に出て、恥を掻かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書48」)



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 か 

過去を顧みる涙は抑へ易い。卒然として未來に於けるわが運命を自覺した時の涙は發作的に來る :
(かこをかへりみるなみだはおさへやすい。そつぜんとしてみらいにおけるわがうんめいをじかくしたときのなみだはほっさてきにくる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 母はわつと泣き出した。過去を顧みる涙は抑へ易い。卒然として未來に於けるわが運命を自覺した時の涙は發作的に來る。
 「どうしたら好いか――夫を思ふと――一さん」
 切れ切れの言葉が、涙と洟の間から出た。
 「叔母さん、失禮ながら、ちつと平生の考え方が惡かつた」
 「私の不行届きから、藤尾はこんな事になる。欽吾には見放される……」
 「だからね。さう泣いたつて仕様がないから……」
 「……洵(まこと)に面目次第も御座いません」
 「だから是から少し考へ直すさ。ねぇ甲野さん、そうしたら好いだらう」
 「みんな私が惡いんでせうね」と母は始めて欽吾に向つた。腕組をしてゐた人は漸く口を開く。――
 「僞(うそ)の子だとか、本當の子だとか區別しなければ好いんです。平たく當り前にして下されば好いんです」
 甲野さんは句を切つた。母は下を向いて答へない。或は理解出來ないからかと思ふ。甲野さんは再び口を開いた。――
 「あなたは藤尾に家も財産も遣りたかつたのでせう。だから、遣らうと私が云ふのに、いつ迄も私を疑つて信用なさらないのが惡いんです。あなたは私が家に居るのを面白く思つて御出ゞなかつたでせう。だから、私が家を出ると云ふのに、面當の爲めだとか、何とか惡く考へるのが不可ないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかつたのでせう。私が不承知を云ふだらうと思つて、私を京都へ遊びに遣つて、その留守中に小野と藤尾の關係を一日一日と深くして仕舞つたのでせう。さう云ふ策略が不可ないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病氣を癒す爲に遣つたんだと、私にも人にも仰しやるでせう。さう云ふ嘘が惡いんです。――さう云ふ所さへ考へ直して下されば別に家を出る必要はないのです。何時迄も御世話をしても好いのです」
 甲野さんは是丈でやめる。母は俯向いた儘、しばらく考へてゐたが、遂に低い聲で答へた。――

                                                  (『虞美人草』 19)



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風碧落を吹いて浮雲尽き、月東山に上って玉一団とあった :
(かぜひきらくをふいてふうんつき、つきとうざんにのぼってぎょくいちだん):

夏目 漱石:−『門』−:

「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があるという事さえ、今日まで知らなかった。それでまた珍しくなって、いったん伏せたのをまたあけて見ると、ふと仮名の交じらない四角な字が二行ほど並んでいた。それには風碧落を吹いて浮雲尽き、月東山に上って玉一団とあった。宗助は詩とか歌というもには、元からあまり興味を持たない男であったが、どういうわけかこの二句を読んだ時にたいへん感心した。対句がうまくできたとかなんとかいう意味ではなくって、こんな景色と同じような心持ちになれたら、人間もさぞうれしかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句についている論文を読んでみた。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いたあとでも、しきりに彼の頭の中を徘徊した。彼の生活は実際この四五年来、こういう景色に出会った事がなかったのである。

                                                  (『門』 5)

[←先頭へ]

神を信じていないのだと答えた。その点確信があるのか、と彼が尋ねたので、私は、それをくよくよ考えるようなことはしない、そんなことはつまらぬ問題だと思う、といった :
(かみをしんじていないのだとこたえた):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

 しかし、突然司祭は頭をあげて、私を正面からながめ、「なぜ私の面会を拒否するのですか?」といった。神を信じていにのだと答えた。その点確信があるのか、と彼が尋ねたので、私は、それをくよくよ考えるようなことはしない、そんなことはつまらぬ問題だと思う、といった。すると彼はうしろに反りかえって、平手を腿(もも)に置き、壁に背をもたせかけた。ほとんど私に話しかけるという風でなしに、自分では確信があるような気がしていても、実際はそうでないことがあるものだ、とつぶやいた。私は何もいわずにいた。司祭は私をながめて、「どう思いますか?」と尋ねた。私はそうかも知れない、と答えた。とにかく、私は現実に何に興味があるかという点には、確信がないようだったが、何に興味がないかという点には、十分確信があったのだ。そしてまさに彼が話しかけて来た事がらには、興味がなかったのだ。

                                                  (『異邦人』−第2部5)




[←先頭へ]

からかわれていた妹の様子は突然と変わった。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷めてくる。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な目を陰に俯せて、畳の目を勘定しだした :
(からかわれていたいもうとのようすはとつぜんとかわった。あついいしをこおりのうえにおくとみるみるさめてくる。いとこはいちどにげんきをほうさんした。どうじにようきなめをかげにふせて、たたみのめをかんじょうしだした):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「よけいなお世話じゃありませんか。人の年齢(とし)なんぞ聞いて。――それを聞いてなんになさるの」
 「なに別の用でもないが、実は糸公をお嫁にやろうと思ってさ」
 冗談半分に相手になって、からかわれていた妹の様子は突然と変わった。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷めてくる。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な目を陰に俯せて、畳の目を勘定しだした。
 「どうだい。お嫁は。厭でもないだろう」
 「知らないわ」と低い声で言う。やっぱり下を向いたままである。
 「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、お前が行くんだ」
 「行くって言いもしないのに」
 「じゃ行かないのか」
 糸子は頭(かぶり)を竪に振った。
 「行かない? ほんとうに」
 答えはなかった。今度は首さえ動かさない。

                                                  (『虞美人草』 16)

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彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書で焼き付けられていた :
(かれのあたまのなかにはしょくぎょうの二じがおおきなかいしょでやきつけられていた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 中二日置いて三千代が来るまで、代助の頭はなんらの新しい道を開拓し得なかった。彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書で焼き付けられていた。それを押しのけると、物質的供給の杜絶がしきりにおどり狂った。それが影を隠すと、三千代の未来がすさまじく荒れた。彼の頭には不安の旋風(つむじ)が吹き込んだ。三つのものが巴のごとく瞬時の休みなく回転した。その結果として、彼の周囲がことごとく回転しだした。彼は船に乗った人と一般であった。回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いていた。

                                                  (『それから』 16)


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彼の頭をかすめんとした雨雲は、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければ済まないような、虫の知らせがどこかにあった :
(かれのあたまをかすめんとしたあまぐもは、かろうじて、あたまにふれずにすぎたらしかった):

夏目 漱石:−『門』−:

 彼の頭をかすめんとした雨雲は、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければ済まないような、虫の知らせがどこかにあった。それを繰りかえさせるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。

                                                  (『門』 22)

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彼の仲間だろうと、そうでなかろうと、私にはどうでもいいことだったが :
(かれのなかまだろうと、そうでなかろうと、わたしにはどうでもいいことだったが):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

私は手紙を書いた。多少いい加減なところもあったが、それでも、レモンに満足を与えるように努力した。というのは、彼に満足させないという理由は、別になかったからだ。それから、その手紙を私は声を上げて読んだ。彼は、煙草をくゆらせ、うなづきながら、聞き入っていたが、やがて、もう一度読んでくれと頼んだ。彼はすっかり満足していた。「お前には、世の中のことがよくわかってるよ」と彼はいった。最初、彼が「お前呼ばわり」したことに気がつかなったが、「こうして見ると、お前はほんとの仲間だ」といわれたとき、その言葉が、初めて私をびっくりさせた。彼は何べんとなくその言葉を繰り返した。私は「そうだな」といった。彼の仲間だろうと、そうでなかろうと、私にはどうでもいいことだったが、彼の方は本気で仲間になりたがっている風だった

                                                  (『異邦人』−第1部3)




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彼は今、それが初めてわかったような気がする。あれは戸田の言うようにみんなが死んでいく世の中で、俺がたった一つ死なすまいとしたものなのだ :
(かれはいま、それがはじめてわかったようなきがする。あれはとだのいうようにみんながしんでいくよのなかで、おれがたったひとつしなすまいとしたものなのだ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 まだ真暗な朝がた、看護婦に起こされた。おばはんが死んだのである。大部屋に走って行くと彼女のベッドの周りに蝋燭が1本、点され、その暗い炎の前にミツが一人、たっていた。ほかの患者たちは知らないのか、知っていても関心がないのか、布団に顔をうずめていた。
 勝呂が懐中電燈で照らすと、おばはんは顔を横にして息を引きとっていた。涎が開いた口から流れている。左手をしっかり握っているので指を無理にあけると、昨日の夜、配給された小石のような固パンがこぼれ落ちた。それを見ると勝呂はこの間、人気ない大部屋にかくれて葡萄糖の塊を前歯でかじっていたこの女のことを、その彼女を平手で打ったことを苦しく思いだした。
「あの旗も息子さんの手もとに届いとりますじゃろ」とミツがポツンと呟いた。
 園畑に必勝という文字を書いた時、予感は既にしていたのである。だがそれはオペによる死であり、こんな自然死ではなかった。空襲によるショックと一晩中の冷雨が彼女にいけなかったのだ。
 翌日も雨はふりつづいた。勝呂は風邪を引いたのか、ひどく頭痛がした。おばはんの死体はいつか土を掘っていたあの小使の手で木箱に収められた。雨にぬれながら人夫と小使とが箱を運んでいくのを、勝呂は研究室の窓に顔を押し当てて見送った。
「どこへ埋められるんやろ」
「知らんなあ。これでお前の迷いも消えたわけやな」と戸田がうしろから声をかけた。
「執着はすべて迷いやからな」
 自分はなぜあのおばはんに長い間、執着したのだろうと勝呂は考えた。彼は今、それが初めてわかったような気がする。あれは戸田の言うようにみんなが死んでいく世の中で、俺がたった一つ死なすまいとしたものなのだ。俺の初めての患者。雨にぬれて木の箱につめられて運ばれていく。勝呂はもう今日から戦争も日本も、自分も、凡てがなるようになるがいい、と思った。

                                                  (『海と毒薬』−第1章W)

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彼は彼の頭のうちに、彼自身に正当な道を歩んだという自信があった :
(かれはかれのあたまのうちに、かれじしんにせいとうなみちをあゆんだというじしんがあった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 兄の言葉は、代助の耳をかすめて外へこぼれた。彼はただ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻をこうむるほど動揺してはいなかった。すべてを都合よく弁解して、世間的の兄から、今さら同情を得ようという芝居気はもとより起こらなかった。彼は彼の頭のうちに、彼自身に正当な道を歩んだという自信があった。彼はそれで満足であった。その満足を理解してくれるものは三千代だけであった。三千代以外には、父も兄も社会も人間もことごとく敵であった。彼らは赫々(かくかく)たる炎火のうちに、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この炎の風に早くおのれを焼きつくすのを、この上もない本望とした。彼は兄にはなんの答えもしなかった。重い頭をささえて石のように動かなかった。

                                                  (『それから』 17)


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彼は現在の三千代には決して無頓着でいるわけにはゆかなかった :
(かれはげんざいんみちよにはけえしてむとんちゃくでいるわけにはゆかなかった):

夏目 漱石:−『それから』−:

三千代が平岡にとつぐ前、代助と三千代の間がらは、どのくらいの程度まで進んでいたかは、しばらくおくとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着でいるわけにはゆかなかった。彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代より気の毒に思った。かれは子供をなくした三千代をただの昔の三千代より気の毒に思った。彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代より気の毒に思った。彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代より気の毒に思った。ただし、代助はこの夫婦の間を、正面から永久に引き放そうと試みるほど大胆ではなかった。彼の愛はそう逆上してはいなかった。

                                                  (『それから』 13)


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彼は直裁に生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって迂闊に山の中へ迷い込んだ愚物であった :
(かれはちょくせつにせいかつのかっとうをきりはらうつもりで、かえってうかつにやまのなかへまよいこんだぐぶつであった):

夏目 漱石:−『門』−:

 「私のようなものには到底悟りは開かれそうもありません」と思い詰めたように宜道を捕まえて言った。それは帰る二三日前のことであった。
 「おえ、信念さえあればだれでも悟れます」と宜道は躊躇もなく答えた。「法華の凝り固まりが夢中に太鼓をたたくようにやってごらんなさい。頭のてっぺんから足の爪先までがことごとく公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます」
 宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きをあえてするに適しない事を深く悲しんだ。いわんや自分のこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。彼は直裁(ちょくせつ)に生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって迂闊に山の中へ迷い込んだ愚物であった。
 彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前で、それだけの事を言い切る力がなかった。彼は心からこの若い禅僧の勇気と、熱心と、まじめさと、親切とに敬意を表していたのである。
 「道は近きにあり、かえってこれを遠きに求むという言葉があるが実際です。つい鼻の先にあるのですけれも、どうしても気がつきません」と宜道はさも残念そうであった。宗助はまた自分の室(へや)に退いて線香を立てた。
 こういう状態は、不幸にして宗助の山を去らねばならない日まで、目に立つほどの新生面を開く機会なく続いた。いよいよ出立の朝になって宗助はいさぎよく未練をなげすてた。

                                                  (『門』 21)


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彼は門を通る人ではなかった :
(かれはもんをとおるひとではなかった):

夏目 漱石:−『門』−:

自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、
 「敲いても駄目だ。獨りで開けて入れ」と云う聲が聞えた丈であった。彼はどうしたらこの門の閂をあける事ができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中でこしらえた。けれどもそれを実地にあける力は、少しも養成する事ができなかった。従って自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力にとざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別をたよりに生きて来た。その分別が今は彼にたたったのを口惜しく思った。そうして始めから取捨も商量も容れない愚かなものの一徹一図をうらやんだ。もしくは信念にあつい善男善女の、知恵も忘れ、恩義も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外にたたずむべき運命をもって生まれて来たものらしかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまでたどり付くのが矛盾であった。彼は後ろを顧みた。そうして到底また元の道へ引き返す勇気を持たなかった。彼は前をながめた。前には堅固な扉がいつまでも展望をさえぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

                                                  (『門』 21)



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彼は論理において最も強い代わりに心臓の作用において、最も弱い男であった。彼が近来おこれなくなったのは、全く頭のおかげで、腹を立てるほど自分を馬鹿にすることを理知が許さなくなったからである :
(かれはろんりにおいてもっともつよいかわりに、しんぞうのさようにおいてもともよわいおとこであった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助はぼんやりと壁を見つめていた。門野をもう一ぺん呼んで、三千代がまたくる時間を、言い置いて行ったかどうか尋ねようと思ったが、あまり愚だからはばかった。それなかりではない。人の細君がたずねて来るのを、それほど待ち受ける趣意がないと考えた。またそれほど待ち受けるくらいなら、こっちからいつでも行って話をすべきであると考えた。この矛盾の両面を双対に見た時、代助は急に自己の没論理に恥じざるを得なかった。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横たわるいりいろの因数を自分でよく承知していた。そうして、今の自分にとっては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方ないと思った。かつ、この事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題をつなぎ合わしてできあがった、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思った。そう思って、また椅子へ腰をおろした。
 それから三千代の来るまで、代助はどんなふうに時を過ごしたか、ほとんど知らなかった。表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理において最も強い代わりに心臓の作用において、最も弱い男であった。彼が近来おこれなくなったのは、全く頭のおかげで、腹を立てるほど自分を馬鹿にすることを理知が許さなくなったからである。がその他の点においては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされてた。

                                                  (『それから』 10)


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彼らにとって絶対に必要なものはお互いだけ :
(かれらにとってぜったいにひつようなものはおたがいだけ):

夏目 漱石:−『門』−:

 宗助とお米とは仲のいい夫婦に違いなかった。いっしょになってから今日まで六年ほどの長い年月を、まだ半日も気まずく暮らした事はなかった。いさかいに顔を赤らめ合ったためしはなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必需品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らにとって絶対に必要なものはお互いだけで、そのお互いだけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心をいだいて、都会に住んでいた。

                                                  (『門』 14)




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彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐のもとに、おののきながらひざまずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互いの幸福に対して、愛の神に一弁の香をたく事を忘れなかった。彼らは鞭うたれつつ死におもむくものであった :
(かれらはしぜんがかれらのまえにもたらしたおそるべきふくしゅうのもとに、おののきながらひざまずいた):

夏目 漱石:−『門』−:

 彼らは人並み以上にむつましい月日をかわらずにきょうからあすへとつないで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分たちのむつまじがる心を、自分で確(しか)と認める事があった。その場合には必ず今までむつまじく過ごした長の年月(としつき)をさかのぼって、自分たちがいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかという当時を思い出さないわけにはいかなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐のもとに、おののきながらひざまずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互いの幸福に対して、愛の神に一弁の香をたく事を忘れなかった。彼らは鞭うたれつつ死におもむくものであった。ただその無知の先に、すべてを癒す甘い蜜の着いていることをさとったのである。

                                                  (『門』 14)

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彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になってゆく人のようにも見えた :
(かれらはそれほどのねんぱいでもないのに、もうそこをとおりぬけて、ひごとにじみになってゆくひとのようもみえた):

夏目 漱石:−『門』−:

夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払いを、この三十日(みそか)にはどうしたものだろうという、苦しい所帯話は、いまだかって一度も彼らの口には上らなかった。と言って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎のように飛び回る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になってゆく人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄いきわめて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。

                                                  (『門』 4)



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渝らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた :
(かわらざるあいを、いまのよにくちにするものをぎぜんかのだいいちいにおいた):

夏目 漱石:−『それから』−:

原因を言えば、都会は人間の展覧会に過ぎないからであった。かれはこの前提からこの結論に達するためにこういう経路をたどった。
 彼は肉体と精神において美の類別を認める男であった。そうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考えた。あらゆる美の種類に接触して、そのたびごとに甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。彼はこれを自家の経験に徴して争うべからざる真理と信じた。その真理から出立して都会生活を送るすべての男女は両性間の引力(アットラクション)において、ことごとく随縁臨機に測りがたき変化を受けつつあるとの結論に到達した。それを引き延ばすと、既婚の一対は、双方ともに、流俗にいわゆる不義(インフイデリチ)の念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終なめなければならない事になった。代助は、感受性の最も発達した、また接触点の最も自由な、都会人士の代表者として芸妓を選んだ。彼らのあるもは、生涯に情夫を何人取り替えるかわからないではないか。普通の都会人は、より少なき程度において、みな芸妓ではないか。代助は渝らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。
 ここまで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮かんだ。その時代助はこの論理中に、ある因数は数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑った。けれども、そのい因数はどうしても発見する事ができなかった。すると、自分が三千代に対する情合いも、この論理によって、ただ現在的なものに過ぎなくなった。彼の頭はまさにこれを承認した。しかし彼の心(ハート)は、たしかにそうだと感ずる勇気がなかった。

                                                  (『それから』 11)



[←先頭へ]

寒中親子三人ながら古裕衣で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物の工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈に破れ鍋かけて私に去る物を買ひに行けとといふ :
(かんちゅうおやこ三にんながらふるゆかたで、ちちはさむいもしらぬかはしらによってさいくもののくふうをこらすに、はははかけたひとつべっついにわれなべをかけてわたしにさるものをかひにゆけといふ):

樋口 一葉:−『にごりえ』−:

あゝ此様な浮気者には誰れがしたと思召、三代伝はつての出来そこね、親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、其親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふことあつて、生まれも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出来したる事なく、終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住嘆いたを子供の頃より聞知つて居りました、私の父といふは三つの歳に縁から落ちて片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職に飾の金物をこしらへましたれど、気位たかくて人愛のなければ贔屓にしてくれる人もなく、あゝ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物の工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈に破れ鍋かけて私に去る物を買ひに行けとといふ、味噌こし下げて端たのお銭を手に握つて米屋の門までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も亀かみたれば五六間隔てし溝板の上の氷にすべり、足溜りなく転ける機会に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらと翻れ入れば、下は行く水きたなき溝泥なり、幾度も覗いては見たれど是をば何して拾はれませう、其時私は七つであつたけれど家の中の様子、父母の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空の味噌こしさげて家には帰られず、立てしばらく泣いて居たれど何したと問ふて呉れる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私は定し身を投げて仕舞ひましたろ、話しは誠の百分一、私は其頃から気が狂つたのでござんす、皈りの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば時機に家へは戻つたけれど、母も物いはず父親もも無言に、誰れ一人私をば叱る物もなく、家の内森として折々溜息の声のもれるに私は身を切られるより情けなく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。

                                                  (『にごりえ』 6)



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君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みをかなえるのが、友だちの本分だと思った。それが悪かった :
(きみからはなしをきいたとき、ぼくのみらいをぎせいにしても、きみののぞみをかなえるのが、ともだちのほんぶんだとおもった。それがわるかった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 平岡は声をふるわした。代助の青い額に汗の玉がたまった。そうして訴えるごとくに言った、
 「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」
 平岡は茫然として、代助の苦痛の色をながめた。
 「その時の僕は、今の僕ではなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みをかなえるのが、友だちの本分だと思った。それが悪かった。今くらい頭が熟していれば、まだ考えようがあったのだが、惜しい事に若かったものだから、あまりに自然を軽蔑し過ぎた。僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分のためばかりじゃない。実際君のために後悔している。僕が君に対して真に済まないと思うのは、今度の事件よりむしろその時僕がなまじいにやり遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこのとおりに自然に復讐(かたき)を取られて、君の前に手を突いてあやまっている」
 代助は涙をひざの上にこぼした。平岡のめがねが曇った。

                                                  (『それから』 16)



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君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振る舞はうとするのだ :
(きみはにんげんらしいのだ。あるいはにんげんらしすぎるかもしれないのだ。けれどもくちのさきだけではにんげんらしくないやうにふるまはうとするのだ):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

Kは(中略)精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも軽薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御嬢さんの事が蟠つてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をたゞ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。
 其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點を凡隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振る舞はうとするのだ。
 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁しやうとしませんでした。私は張合が抜けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其處で切り上げました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書30・31」)


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きょう、ママンが死んだ :
(きょう、ママンがしんだ):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

 きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。
「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。
 養老院はアルジェから八十キロの、マランゴにある。二時のバスに乗れば、午後のうちに着くだろう。そうすれば、お通夜をして、明くる日の夕方帰って来られる。私は主人に二日間の休暇を願い出た。こんな事情があったのでは、休暇をことわるわけにはいかないが、彼は不満な様子だった。「私のせいではないんです」といってやったが、彼は返事をしなかった。そこで、こんなことは、口にすべきではなかった、と思った。とにかく、言いわけなどしないでもよかった。むしろ彼の方が私に向かってお悔やみをいわなければならなかったはずだ。が、彼が実際悔みをいうのはもちろん明後日、喪服姿の私に出会ったときになろう。差当りは、ママンが死んでいないみたいだ。埋葬が済んだら、反対にこれはれきとした事柄となり、すべてが、もっと公のかたちをとるだろう。

                                                  (『異邦人』−第一部 1)




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「きょう始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言った :
(きょうはじめてしぜんのむかしにかえるんだ):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助は、百合の花をながめながら、部屋をおおう強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼はこの嗅覚の刺激のうちに三千代の過去を分明に認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が煙のごとくはいまわつていた。彼はしばらくして、
 「きょう始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言った。こう言い得た時、彼は年ごろにない安慰を総身に覚えた。なぜもっと早く帰る事ができなかったかと思った。始めからなぜ自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見いだした。その生命の裏にも表にも、欲得はなかった。利害はなかった。自己を圧迫する道徳はなかった。雲のような自由と、水のごとき自然とがあった。そうしてすべてが幸(プリス)であった。だから、すべてが美しかった。

                                                  (『それから』 14)



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食うための職業は、誠実にゃできにくい :
(くうためのしょくぎょうは、せいじつにゃできにくい):

夏目 漱石:−『それから』−:

 「働くのもいいが、働くなら、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんなパンを離れている」
平岡は不思議に不愉快な目をして、代助の顔を伺った。そうして、
「なぜ」と聞いた。
「なぜって。生活のための労力は、労力のための労力でないもの」
「そんな論理学の命題みたようなものはわからないな。もう少し実際的の人間に通じるような言葉で言ってくれ」
「つまり食うための職業は、誠実にゃできにくいという意味さ」
「僕の考えとはまるで反対だね。食うためだから、猛烈に働く気になるんだろう」
「猛烈には働けるかもしれないが誠実には働きにくいよ。食うための働きというと、つまり食うのと、働くのとどっちが目的だと思う」
「無論食うほうさ」
「それ見たまえ、食うほうが目的で働くほうが方便なら、食いやすいように、働き方を合わせてゆくのが当然だろう。そうすりゃ、何を働いたって、またどう働いたって、かまわない、ただパンが得られればいいという事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向もないし順序もことごとく他から掣肘される以上は、その労力は堕落の労力だ」

                                                  (『それから』 6)


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結婚は道徳の形式において、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容において、なんらの影響を二人の上に及ぼしそうにない :
(けっこんはどうとくのけいしきにおいて、じぶんとみちよをしゃだんするが、どうとくのないようにおいて、なんらのえいきょうをぐたりのうえにおよぼしそうにない):

夏目 漱石:−『それから』−:

結婚は道徳の形式において、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容において、なんらの影響を二人の上に及ぼしそうにないという考えが、だんだん代助の脳裏に勢力を得て来た。すでに平岡にとついだ三千代に対して、こんな関係が起こりうるならば、この上自分に既婚者の資格を与えたからと言って、同様の関係が続かないわけにはいかない。それを続かないと見るのはただ表向きの沙汰で、心を束縛する事のできない形式は、いくら重ねても苦痛を増すばかりである。というのが代助の論法であった。代助は縁談を断るよりほかに道はなくなった。

                                                  (『それから』 14)


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けれども、代助は今相手の顔色いかんにかかわらず、手に持った賽を投げなければならなかった :
(けれども、だいすけはいまあいてのかおいろいかんにかかわらず、てにもったさいをなげなければならなかった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩まで押し詰められたような気持ちがなかったなら、代助は父に対して無論そういう処置をとったろう。けれども、代助は今相手の顔色いかんにかかわらず、手に持った賽を投げなければならなかった上になった目が、平岡に都合が悪かろうと、父の気にいらなかろうと、賽を投げる以上は、天の法則どおりになるよりほかにしかたはなかった、賽を手に持つ以上は、また賽が投げられべく作られた以上は、賽の目をきめるものは自分以外にあろうはずはなかった。代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。父も兄も嫂も平岡も、決断の地平線上には出て来なかった。
 彼はただ彼の運命にのみ卑怯であった。この四五日は手のひらに載せた賽をながめ暮らした。きょうもまだ握っていた。早く運命が戸外からて、その手を軽くはたいてくれればいいと思った。が、一方では、まだ握っていられるという意識がたいそううれしかった。

                                                  (『それから』 14)



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けれども彼の安心がもし御嬢さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです :
(けれどもかれのあんしんがもしおじうさんにたいしてであるとすれば、わたしはけっしてかれをゆるすことができなくなるのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 Kの神經衰弱はもう大分可くなつてゐたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです。私は自分より落ち着いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎*らしがりました。彼は何うしても私に取り合う氣色をみせなかつたからです。私にはそれが一種の自慢の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にしれ丈ならば、Kと私の利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却つて世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位なものです。けれども彼の安心がもし御嬢さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御嬢さんを愛してゐる素振りに全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの目に付くやうにわざとらしく振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さういふ點にかけると鈍い人なのです。私は最初からKなら大丈夫といふ安心があつたので、彼をわざわざ宅へ連れて來たのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書28」)



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戀は罪惡ですよ。解つてゐますか :
(こいはざいあくですよ。わかっていますか):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が戀を求めながら相手を得られないといふ不快の聲が交じつてゐませう」
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。戀の満足を味はつてゐる人はもつと暖かい聲を出すものです。然し・・・・・然し君、戀は罪惡ですよ。解つてゐますか」
 私は急に驚ろかされた。何とも返事をしなかった。
我々は群集の中にゐた。群集はいづれも嬉しさうな顔をしてゐた。其所を通り抜けて、花も人も見えない森の中へ來る迄は、同じ問題を口にする機會がなかつた。
「戀は罪惡ですか」と私が其時突然聞いた。
「罪惡です。たしかに」と答へた時の先生の語氣は前と同じやうに強かつた。
「何故ですか」
「何故だか今に解ります。今にぢやない、もう解つてゐる筈です。あなたの心はとつくの昔から、既に戀で動いてゐるぢやありませんか」
      (中  略)
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「然し氣を付けないと不可ない。戀は罪惡なんだから、私の所では滿足が得られない代りに危險もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持ちを知つゐますか」
 私は想像で知ってゐた。然し事實としては知らなかつた。いづれにしても先生のいふ罪惡といふ意味は朦朧としてよく解らなかつた。其上私は少し不愉快になつた。
「先生、罪惡といふ意味をもつと判然云つて聞かして下さい。それでなければ此問題を此所で切り上げて下さい。私自身に罪惡といふ意味が判然解る迄」
「惡い事をした。私はあなたに眞實を話してゐる氣でゐた。所が實際は、あなたを焦慮してゐたのだ。私は惡い事をした」
 先生と私とは博物館の裏から鶯溪方角に静かな歩調で歩いて行つた。垣の隙間から廣い庭の一部に残る熊笹が幽すいに見えた。
「君は何故毎月雑司ヶ谷の墓地に埋まつてゐる友人の墓へ参るのか知つてゐますか」
 先生の此問は全く突然であつた。しかも先生は私が此問に對して答へられないといふ事も能く承知してゐた。私はしばらく返事をしなかつた。すると先生は始めて氣が付いたやうに斯う云つた。
「又惡い事を云つた。焦慮せるのが惡いと思つて、説明しやうとすると、其説明が又あなたを焦慮せるやうな結果になる。何も仕方がない。此問題はこれで止めませう。とにかく戀は罪惡ですよ、よござんすか。さうして神聖なものですよ」
 私には先生の話が益々解らなくなつた。然し先生はそれぎり戀を口にしなかつた。

                                                  (『こゝろ』−「先生と私:12〜13」)



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個人の自由と情実を毫も斟酌してくれない器械のような社会があった。代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた。代助はすべてと戦う覚悟をした :
(こじんのじゆうとじょうじつをごうもしんしゃくしてくれないきかいのようなしゃかいがあった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 会見の翌日彼はながらく手に持っていた賽を思い切って投げた人の決心をもって起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、きのうから一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。しかもそれはみずから進んで求めた責任に違いなかった。従って、それを自分の背に負うて、苦しいとは思えなかった。その重みに押されるがため、かえって自然と足が前に出るような気がした。彼はみずから切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。父のあとには兄がいた。嫂がいた。これらと戦ったあとには平岡がいた。これらを切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌してくれない器械のような社会があった。代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた。代助はすべてと戦う覚悟をした。

                                                  (『それから』 15)



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答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金である :
(こたえをすればよわくなる。もっともつよいへんじょをしようとおもういときはだまっているにかぎる。むごんはおうごんである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「話したらなんと言うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
 「言えばおよしかい」と母は皮肉に言い切ったまま、下を向いて、雁首へ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金である。
 五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙とともに口を開いた。
 「話はいつでもできるよ。話すのがよければ私が話してあげる。なに相談するものはない。こういうふうにするつもりだからと言えば、それぎりのことだよ」
 「そりゃ私だって、自分の考えが極まった以上は、兄さんがいくらなんと言ったって承知しやしませんけれども……」
 「なんにも言える人じゃないよ。相談相手にできるくらいなら、初手からこうもしないでもほかにいくらでもやり口はあらね」
 「でも兄さんの心持ち一つで、こっちが困るようになるんだから」
 「そうさ。それさえなければ、話もなにもいりゃしないんだが。どうも表向き家の相続人だから、あの人がうんと言ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
 「おのくせ、なにか話すたんびに、財産はみんなお前にやるから、そのつもりでいるがいいって言うんですがね」
 「言うだけじゃ仕方がないじゃないか」
 「まさか催促するわけにもいかないでしょう」
 「なにくれるものなら、催促して貰ったって、構わないだが―ただ世間体がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出しにくいよ」
 「だから、話したらいいじゃありませんか」
 「なにを」
 「なにをって、あのことを」
 「小野さんのことをかい」
 「ええ」と藤尾は明瞭に答えた。

                                                  (『虞美人草 15)




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小供に學問をさせるにも、好し惡しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅へ歸つて來ない :
(こどもにがくもんをさせるのも、よしあしだね。せつかくしゅうぎょうをさせると、そのこはけつしてうちへかえつてこない):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 父は死後の事を考へてゐるらしかつた。少なくとも自分が居なくなつた後のわが家を想像して見るらしかつた。
「小供に學問をさせるにも、好し惡しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅へ歸つて來ない。是ぢや手もなく親子を隔離するために學問させるやうなものだ」
 學問をした結果兄は今遠國にゐた。教育を受けた因果で、私は又東京に住む覺悟を固くした。斯ういふ子を育てた父の愚癡はもとより不合理ではなかつた。永年住み古した田舎家の中に、たつた一人取り残されさうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違いなかつた。
 わが家は動かす事の出來ないものと父は信じ切つてゐた。其中に住む母も亦命のある間は、動かす事の出來ないものと信じてゐた。自分が死んだ後、この孤獨な母を、たつた一人伽藍堂のわが家に取り残すのも亦甚しい不安であつた。それだのに、東京で好い地位を求めると云つて、私を強*ひたがる父の頭には矛盾があつた。私に其矛盾を可笑しく思つたと同時に、其御蔭で又東京へ出られるのを喜んだ。

                                                  (『こゝろ』−「兩親と私7」)



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この世に生まれるのは、解けぬ謎を押しつけられて、白頭に(イ亶)(イ回)し、中夜に煩悶するために生まれるのである。(中略)すべての疑いは身を捨ててはじめて解決ができる。ただどう身を捨てるかが問題である :
(このよにうまれるのは、とけぬなぞをおしつけられて、はくとうにせんかいし、ちゅうやにはんもんするためにうまれるのである。(中略)すべてのうたがいはみをすててはじめてかいけつができる。ただどうみをすてるかかがもんだいである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。かってに解いて、かってに落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは、解けぬ謎を押しつけられて、白頭に(イ亶)(イ回)し、中夜に煩悶するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これができねば、親も妻も宇宙も疑いである。解けぬ謎である。苦痛である。親兄弟という解けぬ謎のあるやさきに、妻という新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮しているうえに、他人の金銭を預かると一般である。妻という新しき謎を貰うのみか、新しき謎に、また新しき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑いは身を捨ててはじめて解決ができる。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」

                                                  (『虞美人草』 3)




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この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった :
(このわたしにのこされたのぞみといっては、わたしのしょけいのひにおおぜいのけんぶつにんがあつまり、ぞうおのさけびごえをあげて、わたしをむかえることだけだった):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

このとき、世のはずれで、サイレンが鳴った。それは、今や私とは永遠に無関係になった一つの世界への出発を、告げていた。ほんとに久し振りで、私はママンのことを思った。一つの生涯のおわりに、なぜママンが「許嫁」をもったのか。また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つもの生命が消えてゆく、あの養老院でもまた、夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のうおうに観じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切がはたされ、私がより孤独でないことを観じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。

                                                  (『異邦人』−第2部5)
                      −『異邦人』 完−

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これが人間を殺している俺の姿や。この姿が一つ、一つのフィルム中にはっきりと撮られていく。これが殺人の姿なんかな。だが、後になってその映画を見せられたとき、別に大した感動が起きるやろか :
(これがにんげんをころしているおれのすがたや):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 電器メスを右手に握ると、おやじは捕虜の体にかがみこむように近づいた。戸田は背後でジイーッという八ミリ映写機の廻る鈍い音をきいた。第二外科の新島助手が解剖の過程を撮りはじめた音だった。すると急に咳ばらいや鼻をすする音があわただしく将校たちの間からひびいてきた。
(俺も今、写されているんやな)血圧計を眺めながら戸田はふしぎな気持ちに捉われていった。
(ほら、今、俺が血圧計をのぞいたんや。首を動かした。これが人間を殺している俺の姿や。この姿が一つ、一つのフィルム中にはっきりと撮られていく。これが殺人の姿なんかな。だが、後になってその映画を見せられたとき、別に大した感動が起きるやろか)
 言いようのない幻滅とけだるさとを戸田は感じた。昨日まで彼がこの瞬間に期待していたものは、もっと生々しい恐怖、心の痛み、烈しい自責だった。だが床を流れる水の音、パチ、パチと弾く電器メスの響き、それらは鈍く、単純で、妙に物憂い。それどころか、何時もの手術とは違って患者のショック死や急激な脈や呼吸の変化を怖れるあの張りつめた緊迫感が今のこの手術室のどこにもなかった。

                                     (『海と毒薬』−第三章:「夜のあけるまで」T)


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これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれる寧九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど :
(これでもおりふしはせけんさまなみのことをおもふてはづかしいことつらいことなさけないことともおもはれるもいっそ九しゃく二けんでもきまったおっとといふにそふてみをかためようとかんがえることもござんすけれど):

樋口 一葉:−『にごりえ』−:

何より先に私が身の自堕落を承知して居て下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察しても居て下さろうが、口奇麗な事はいひますとも此あたりの人に泥中の蓮とやら、悪業に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人ともて大抵はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれる寧九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、夫れが私は出来ませぬ、夫れかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初めましたのと出鱈目のお世辞をも言はねばならず、数の中には真にうけて此様な厄種を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、夫れが私は分かりませぬ、

                                                  (『にごりえ』 6)




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これは取とまらぬ夢の様なる恋なるを、思ひ切つて仕舞へ、思ひ切つて仕舞へ、あきらめて仕舞うと心を定めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたけれど、其際までも涙がこぼれて忘れかねた人 :
(これはとりとまらぬゆめのようなこいなるを、おもひきつてしまへ、おもいきつてしまへ、あきらめてしまはうとこころをさだめて、いまのはらだへよめいりのことにはまつたけれど、そのきはまでもなみだがこぼれてわすれかねたひと):

樋口 一葉:−『十三夜』−:

昔の友といふ中にもこれは忘られぬ由縁のある人、小川町の高坂とて小綺麗な煙草屋の一人息子、今は此様に色も黒く見られぬ男になつては居(お)れども、世にある頃の唐桟(とうざん)ぞろひに小気の利いた前だれかけ、お世辞も上手、愛敬もありて、年の行かぬやうにも無い、父(てて)親の居た時よりは却つて店が賑やかなと評判された利口らしい人の、さてもさてもの替り様、我身が嫁入りの噂聞え初(そめ)た頃から、やけ遊びの底ぬけ騒ぎ、高坂の息子は丸で人間が変つたやうな、魔でもさしたか、祟りでもあるか、よもや只事では無いと其頃聞きしが、今宵見れば如何にも浅ましい身の有様、木賃泊りに居なさんすやうに成らうとは思ひも寄らぬ、私は此人に思はれて、十二の年より十七まで明暮れ顔を合わせる毎(たび)に行々は彼(あ)の店の彼処(あすこ)に座つて、新聞見ながら商ひするのと思ふて居たれど、量(はか)らぬ人に縁の定まりて、親々の言ふ事なれば何の異存を入られやう、煙草屋の録さんにはと思へど夫れはほんの子供ごゝろ、先方(さき)からも口へ出して言ふた事なし、此方(こっち)は猶さら、これは取とまらぬ夢の様なる恋なるを、思ひ切つて仕舞へ、思ひ切つて仕舞へ、あきらめて仕舞うと心を定めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたけれど、其際までも涙がこぼれて忘れかねた人、私が思ふほどは此人も思ふて、夫れ故の身の破滅かも知れぬ物を、我が此様な丸髷などに、取済ましたる様な姿をいかばかり面にくゝ思はれるであらう、夢さらさうした楽しらしい身ではなけれどもと阿関は振りかえつて録之助を見やるに、何を思ふか茫然とせし顔つき、時たま逢ひし阿関に向つて左のみは嬉しき様子も見えざりき。

                                                  (『十三夜』 下)



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是は病人自身の爲でもありますし、又愛する妻のの爲でもありましたが、もつと大きな意味からいふと、ついに人間の爲でした :
(これはびょうにんじしんのためでもありますし、またあいするさいのためでもありましたが、もつとおおきないみからいふと、ついににんげんのためでした):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 其内妻の母が病氣になりました。醫者に見せると到底癒らないといふ診斷でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看病をしてやりました。是は病人自身の爲でもありますし、又愛する妻のの爲でもありましたが、もつと大きな意味からいふと、ついに人間の爲でした。私はそれ迄にも何かしたくつて堪らなかつたのだけれども、何もする事が出來ないので已むを得ず懐手をしてゐたに違いありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたといふ自覺を得たのは此時でした。私は罪滅しとでも名づけなければならない、一種の氣分に支配されてゐたのです。
 母は死にました。私と妻はたつた二人ぎりになりました。妻は私に向かつて、是から世の中で頼りにするものは一人しかなくなつたと云ひました。自分自身さへ頼りにする事の出來ない私は、妻の顏を見て思はず涙ぐみました。さうして妻を不幸な女だと思ひました。又不幸な女だと口へ出しても云ひました。妻は何故だと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事が出來ないのです。妻は泣きました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書54」)



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これをやった後、俺は心の呵責に悩まされるやろうか、自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人間を生きたまま殺す。こんな大それた行為をしたあと、俺は生涯くるしむやろか :
(これをやったあと、おれはこころのかせきになやまされるやろか、じぶんのおかしたさつじんにふるえおののくやろか。いきたにんげんをいきたままころす。こんなだいそれたこういをはたしたあと、おれはしょうがいくるしむやろか):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 その瞬間、ぼくは六甲小学校の頃のこと、西陽の当たっていた標本室、運動場にたたされていた山口の疲れた姿、湖のほとりを歩いた朝、従姉をだいたむし暑い夜、三等車に顔をおしあてたミツの眼、それらがすべて心の中に一時に甦ってくるのを感じた。なぜかわからない。ぼくはその時、いつかは自分が罰せられるだろう、いつかは自分がそれら半生の報いを受けねばならぬだろうと、はっきり感じたのだった。今日、人々が炎に追われ、煙に巻きこまれながら息たえていっている時、このぼくだけがかすり傷一つうけず何も犯さなかったように生き続けることはあるまいと思ったのだった。だが、この考えも別に苦痛感を伴ったものではなった。ただ一に一を加えれば二となるように、二と二を足したものが四であるように、こうした事実は当然のものとして頭にうかんできたのだ。
 それだけのことだ。そして一昨日も柴田助教授と浅井助手とがぼくたちにあの行為をうちあけた時、ぼくは火鉢の中に燃えている青白い火を眺めながら考えていたのである。
(これをやった後、俺は心の呵責に悩まされるやろか、自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人間を生きたまま殺す。そんな大それた行為をしたあと、俺は生涯くるしむやろか)
 ぼくは顔をあげた。柴田助教授と浅井助手も唇に微笑さえうかべていた。(この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ)
 ぼくはなにかふかいどうにもならぬ疲れをおぼえた。柴田助教授からもらった煙草をもみ消して椅子から腰をあげた。
「参加してくれるかね」と彼は言った。
「ええ」とぼくは答えた。答えたというよりは呟いた。

                                     (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」U 医学生)



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殺されるというその言葉が戸田の胸にうつろに響いてはねかえった。殺すという行為は、まだ実感としてこころにのぼってはいなかった :
(ころされるというそのことばがとだのむねにうつろにひびいてはねかえった。ころすというこういいは、まだじっかんとしてこころにのぼってはいなかった):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

「よか気持で寝とりますやなあ。奴さん」緊張した空気をほぐすためか、背後の将校の一人がおどけた声をあげた。「もう、あと半時間もすりゃ、こいつ殺されるとも知らん……」
 殺されるというその言葉が戸田の胸にうつろに響いてはねかえった。殺すという行為は、まだ実感としてこころにのぼってはいなかった。人間を裸にする。手術台の上にのせる。麻酔をかける。そうしたことは学生のころから今まで、幾度となく患者にやってきたことである。今日だって同じこと。やがておやじが「礼」とひくい声で呟き、解剖の開始をつげるだろう。鋏やピンセットがカチ、カチと響き、電器メスが乾いた弾けるような音をたててこの栗色の毛に覆われた乳首のあたりを楕円形に切りはじめるだろう。だが、いつもの手術や解剖とそれは何処かがちがうのだ。無影燈のまぶしい青白い光も、海草のようにゆっくり動いている白い手術着をきた人間たちの姿も自分には長年。見馴れてきたものである。天井をむいてじっと横たわっているこの捕虜の姿勢だって普通の患者たちと少しも変りはしない。殺すという戦慄は戸田の心にすこしも湧いてはこなかった。すべてが事務的に機械的に終ってしまうような気がしてならなかった。彼はのろのろとカテーテルの細い管を捕虜の鼻孔にさしこんだ。

                                     (『海と毒薬』−第三章:「夜のあけるまで」T)



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 さ 

妻は定めて私と一所になつた顛*末を述べてKに喜んで貰ふ積でしたらう。私は腹の中で、たゞ自分が惡かつたと繰り返す丈でした :
(さいはさだめてわたしちいっしょになつたてんまつをのべてKによろこんでもらふつもりでしたらう。わたしははらのなかで、たゞじぶんがわるかつたとくりかえすだけでした):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 結婚した時御嬢さんが、――もう御嬢さんではありませんから、妻と云ひます。――妻が、何を思ひ出したのか、二人でKの墓参をしやうと云ひ出しました。私は意味もなく唯ぎよつとしました。何うしてそんな事を急に思ひ立つたのかと聞きました。妻は二人揃つて御参りをしたら、Kが嘸喜ぶだらうと云ふのです。私は何事も知らない妻の顏をしけじけ眺めてゐましたが、妻から何故そんな顔をするのかと問はれて始めて氣が付きました。
 私は妻の希望通り二人連れ立つて雑司ヶ谷へ行きました。私は新しいKの墓へ、水をかけて洗つて遣りました。妻は其前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻は定めて私と一所になつた顛*末を述べてKに喜んで貰ふ積でしたらう。私は腹の中で、たゞ自分が惡かつたと繰り返す丈でした。
 其時妻はKの墓を撫でゝ見て立派だと評してゐました。其墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行つて見立たりした因縁があるので、妻はとくに左右云ひたかつたのでせう。私は其新らしい墓と、新らしい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新らしい白骨とを思ひ比べて、運命の冷罵を感ぜずにはゐられなかつたのです。私はそれ以後決して妻と一所にKの墓参りをしない事にしました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書51」)



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裁判長が奇妙な言葉つきで、あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ、といったからだ :
(さいばんちょうがきみょうなことばつきで、あなたはふらんすじんみんのなにおいてひろばでざしゅけいをうけるのだ、といったからだ):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

私はマリイの方は見なかった。私にはその暇がなかったのだ、というのは、さっそく、裁判長が奇妙な言葉つきで、あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ、といったからだ。そのとき、私は顔という顔にあらわれた感動が、わかるように思われた。それは、たしかに尊敬の色だったと思う。憲兵たちは私にやさしかった。弁護士は私の手首にその手を載せた。私はもう何も考えてはいなかった。しかし、裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。私は考えてみた。私は「ないです」といった。そのとき私は連れてゆかれた。

                                                  (『異邦人』−第2部4)

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しかしまたじき冬になるよ :
(しかしまたじきふゆになるよ):

夏目 漱石:−『門』−:

 宗助は家へ帰ってお米にこのうぐいすの問答を繰り返して聞かせた。お米は障子の映るうららかな日影を見て、
「ほんとうにありがたいわね。ようやくのこと春になって」と言って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を切りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。

                                                  (『門』 23)
                         − 『門』  完 −


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然し私は誘き寄せられるが厭でした。他の手に乗るのは何よりも業腹でした。叔父に欺まされた私は、是から先何んな事があっても、人には欺まされまいと決心したのです :
(しかしわたしはおびきよせられるのがいやでした。たのてにのるのはなによりもごうばらでした):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私は自由な身體でした。たとひ學校を中途で已めやうが、又何處へ行つて何う暮らさうが、或は何處の何者と結婚しやうが、誰とも相談する必要のない地位に立つてゐました。私は思ひ切つて奥さんに御嬢さんを貰ひ受ける話をして見やうかといふ決心をした事がそれ迄に何度となくありました。けれども其度毎に私は躊躇して、口へはとうとう出さずに仕舞つたのです。斷られるのが恐ろしいからではありません。もし斷られたら、私の運命が何う變化するか分かりませんけれども、其代り今迄とは方角の違つた場所に立つて、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて來るのですから、其位の勇氣は出せば出せたのです。然し私は誘き寄せられるが厭でした。他の手に乗るのは何よりも業腹でした。叔父に欺まされた私は、是から先何んな事があっても、人には欺まされまいと決心したのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書16」)



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「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからも同じような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ」 :
(しかたがないからねえ。あのときだってどうにもしかたがなかったのだが、これからだってじしんがない。これからもおなじようなきょうぐうにおかれたらぼくはやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

「麻酔をかけて下さい」
 普通、私のように一年も針を入れられた者には麻酔をかけない。私は彼の冷たい指先の感触と診察着についた赤い血の染みに恐怖を観じて思わず叫んだのだが、叫んでからそれがあの生体解剖の日に米人捕虜がベッドで哀願した言葉と同じだったことに気ついた。
 夕暮れのためか、カーテンを閉めきったためか部屋はいつもとちがって段々暗くなっていくような気がする。空気を肺に送りこむ音が水層の中でゴボ、ゴボときこえてくる。私の顔には汗がにじんだ。
 針をぬかれた時、真実、たすかったという気がした。勝呂医師はこちらに背をむけてカルテに何かを書きこんでいたが、突然、眼をしばたいて低いくたびれたような声で呟いた。
「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからも同じような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ」

                                                  (『海と毒薬』−第1章)

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自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。従って自己全体の活動をあげて、これを方便の具に使用するものは、みずから自己存在の目的を破壊したも同然である :
(じこのかつどういがいにいっしゅのもくてきをたてて、かつどうするのはかつどうのだらく):

夏目 漱石:−『それから』−:

彼の考えによると、人間はある目的をもって、生まれたものではなかった。これと反対に、生まれた人間に始めてある目的ができて来るのであった。最初から客観的にある目的をこしらえて、それを人間に付着するのは、その人間の自由な活動を、すでに生まれる時に奪ったと同じ事になる。だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。けれども、いかな本人でも、これを随意に作る事はできない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、すでにこれを天下に向かって発表したと同様だからである。
 この根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としていた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考えたいから考える。すると考えるのが目的になる。それ以外の目的をもって、歩いたり、考えたりするのは、歩行と思考の堕落になるごとく、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。従って自己全体の活動をあげて、これを方便の具に使用するものは、みずから自己存在の目的を破壊したも同然である。
 だから、代助はきょうまで、自己の脳裏に願望、嗜欲が起こるたびごとに、これらの願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在していた。二個の相容れざる願望嗜欲が胸にたたかう場合も同じ事であった。ただ矛盾から出る一目的の消耗と解釈していた。これを煎じつめると、彼は普通にいわゆる無目的な行為を目的として活動していたのである。そうして、他を偽らざる点においてそれを最も道徳的なものと心得ていた。

                                                  (『それから』−11)



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自然の児になろうか、また意志の人になろうか :
(しぜんのじになろうか、またいしのひとになろうか):

夏目 漱石:−『それから』−:

自然の児になろうか、また意志の人になろうかと代助は迷った。彼は彼の主義として、弾力性のないこわばった方針のもとに、寒暑にさえすぐ反応を呈する自己を、器械のように束縛するの愚を忌んだ。同時に彼は、彼の生活が一大断案を受くべき危機に達している事をせつに自覚した。

                                                  (『それから』 14)



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「死は生よりも尊い」 :
(しはせいよりもたっとい):

夏目 漱石:−『硝子戸の中』−:

不愉快に満ちた人生をとぼとぼたどりつつある私は、自分のいつか一度到着しなければなえあない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものをせいよりはらくなものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達しうる最上至高の状態だと思うこともある。
「死は生よりも尊い」
 こういう言葉が近ごろでは絶えず私に胸を往来するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次にさかのぼって、百年、二百年、ないし千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱することができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。

                                                  (『硝子戸の中』 8)



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自分で自分が信用出来ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです :
(じぶんでじぶんがしんようできないから、ひともしんようできないやうになってゐる):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間全體を信用しないんです」
 其時生垣の向こふで金魚賣らしい聲がした。其外には何の聞こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路は存外靜かであつた。家の中は何時もの通りひつそりしてゐた。私は次の間に奥さんのゐる事を知つてゐた。黙つて針仕事か何かしてゐる奥さんの耳に私の話し聲が聞こえるといふ事も知つてゐた。然し、私はそれを忘れて仕舞つた。
「ぢや奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。さうして直接の答を避けた。
「私は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪ふより外に仕方がないのです」
「さう六づかしく考へれば、誰だつて確かなものはないでせう」
「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚いたんです。さうして非常に怖くなつたんです」
    (中  略)
「兎に角あまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、残酷な復讐をするやうになるものだから」
「そりや何ういふ意味ですか」
「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊厳を斥けたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己とに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」
私はかういふ覺悟を有つてゐる先生に對して云ふべき言葉を知らなかつた。

                                                  (『こゝろ』−「先生と私14」)

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自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいいといった :
(じぶんとけっこんしたいかとたずねた。わたしはそれはどちでもいいことだが、マリイのほうでそうのぞむなら、けっこんしてもいいといった):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

 夕方、私に会いにマリイが来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいて来た。前に一ぺんいったとおり、それは何の意味もないが、恐らくは君を愛していないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ、と説明した。それに、結婚を要求してきたのは彼女の方だから、私の方はよろこんでこれを承知したわけだ。すると、結婚というのは重大な問題だ、と彼女は詰め寄って来たから、私は、違う、と答えた。マリイはちょっと黙り私をじっと見つめたすえ、ようやく話し出した。同じような結びつき方をした、別の女が、同じような申し込みをして来たら、あなたは承諾するか、とだけきいてきた。「もちろんさ」と私は答えた。

                                                  (『異邦人』 第一部−5)


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自分の所作は、過去を照らすあざやかな名誉であった。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼ら二人の前に突き付けた :
(じぶんのしょさは、かこをてらすあざやかなめいよであった。けれども三ねんけいかするうちにしぜんはしぜんにとくゆうなっかを、かれら二りのまえにつきつけた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 こういう意味の孤独の底に陥って煩悶するには、代助の頭はあまりにもはっきりし過ぎていた。彼はこの境遇をもって、現代人の踏むべき必然の運命と考えたからである。従って、自分と平岡の隔離は、今の自分の眼に訴えてみて、尋常一般の経路を、ある点まで進行した結果に過ぎないと見なした。けれども、同時に、ふたりの間に横たわる一種の特別な事情のため、この隔離が世間並みよりも早く到着したという事を自覚せずにはいられなかった。それは三千代の結婚であった。三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であった。それを当時を悔ゆるような薄弱な頭脳ではなかった。今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らすあざやかな名誉であった。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼ら二人の前に突き付けた。彼らは自己の満足と光輝を捨ててその前に頭を下げなければならなかった。そうして平岡は、ちらりちらりとなぜ三千代をもらったかと思うようになった。代助はどこかしらで、なぜ三千代を周旋したかという声を聞いた。

                                                  (『それから』 8)



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自分の鍍金が辛かった。早く金になりたいとあせってみた :
(じぶんのめっきがつらかった。はやくきんになりたいとあせってみた):

夏目 漱石:−『それから』−:

その時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金が辛かった。早く金になりたいとあせってみた。ところが、ほかのものの地金へ、自分の眼光がじかにぶつかるようになって以後は、それが急にばかな尽力のように思われだした。
 代助は同時にこう考えた。自分が三四年の間に、これまで變化したんだから、同じ三四年の間に。平岡も、彼自身の経験の範囲内でだいぶ変化しているだろう。昔の自分なら、なるべく平岡によく思われたい心から、こんな場合には兄とけんかをしても、父と口論をしても、平岡のために図ったろう。またその図ったとおりを平岡の所へ来て事々しく吹聴したろうが、それを予期するのは、やっぱり昔の平岡で、今の彼はさほどに友だちを重くは見ていまい

                                                  (『それから』 6)

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自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした :
(じぶんはしんかんしました。ワザとしいぱいしたということを、ひともあろうにたけうちにみやぶられるとはまったくおもいもかけないことでした):

太宰 治:−『人間失格』−:

 もはや、時分の正体を完全に隠蔽し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上着を着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といってかと覚えています)その竹一は、れいによって見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅跳びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅を着きました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆のお笑いになり、自分も苦笑しながら起き上がってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
 「ワザ。ワザ。」
 自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

                                                  (『人間失格』 第二の手記)




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自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと代助は考えた :
(じぶんはみちよを、ひらおかにたいして、それだけつみのあるひとにしてしまったとだいすけはかんがえた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 その時三千代の説明には、話そうと思ったけれども、このごろ平岡はついぞ落ち付いて宅にいた事がないので、つい話しそびれてまだ知らずにいるという事であった。代助はもとより三千代の説明をうそとは思わなかった。けれども、五分の暇さえあれば夫に話される事を、きょうまでそれなりにしてあるのは、三千代の腹の中に、なんだか話しにくいあるわだかまりがあるからだと思わずにはいられなかった。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと代助は考えた。けれどもそれはさほどに代助の良心を螫すには至らなかった。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡もこの結果に対して明らかに責めを分かたねばならないと思ったからである。

                                                  (『それから』 13


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自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです :
(じぶんもあのおじとおなじにんげんだといしきしたとき、わたしはきゅうにふらふらしました。たにあいそうををつかしたわたしは、じぶにもあいそうをつかしてうごけなくなつたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

叔父に欺かれた當時の私は、他の頼みならない事をつくづくと感じたには相違ありませが、他を惡く取る丈あつて、自分はまだ確かな氣がしてゐました。。世間は何うあらうとも此己は立派な人間だといふ信念が何処かにあつたのです。それがKのために美事に破壊されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書52」)



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社会のほうで彼らを二人ぎりに切り詰めて、その二人に冷ややかな背を向けた結果にほかならなかた :
(しゃかいのほうでかれらをふたりぎりにきりつめて、そのふたりにひややかなそびらをむけたけっかにほかならなかった):

夏目 漱石:−『門』−:

彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日をうまず渡って来たのは、彼らが始めから一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会のほうで彼らを二人ぎりに切り詰めて、その二人に冷ややかな背を向けた結果にほかならなかた。外に向かって生長する余地を見いだし得なかった二人は、内に向かって深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失うと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代わりに、同じ六年の歳月をあげて、互いの胸を掘り出した。彼らの命は、いつのまにか互いの底にまで食い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互いから言えば、道義上切り離すことのできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最期の繊維に至るまで、互いに抱き合ってできあがっていた。彼らは大きな水盤の表にしたたった二点の油のようなものであた。水をはじいて二つがいっしょに集まったというよりも、水にはじかれた勢いで、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評するほうが適当であった。

                                                  (『門』 14)



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借金の話しも聞きましたが、今が今私しの宅から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭も覚えの無き事と :
(しゃっきんのはなしもききましたが、いまがいまわたしのうちからたてかへようとはうはなかつたはづ、それはおまえがなにぞのききちがへ、わたしはすこしもおぼえのなきことと):

樋口 一葉:−『大つごもり』−:

正午(ひる)も近づけばお峯は伯父への約束こゝろもと無く、御新造が御機嫌を見はからふに暇(いとま)も無ければ、僅かの手すきに頭(つむ)りの手拭ひを丸めて、此ほどより願ひましたる事、折からお忙しき時心なきやうなれど、今日の昼る過ぎにと先方(さき)へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はすれば伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着ますとて手をすりて頼みける、最初(はじめ)いひ出(いで)し時にやふやながら結局(つまり)は宜(よ)しと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ五月蠅いひては却りて如何と今日まで我慢しけれど、約束は今日と言ふ大晦日のひる前、忘れて何とも仰せの無き心もとなさ、我には身に迫りし大事と言ひにくきを我慢して斯くと申ける。御新造は驚きたるやうの惘(あき)れ顔して、夫れはまあ何の事やら、成るほどお前が伯父さんのの病気、つゞいて借金の話しも聞きましたが、今が今私しの宅(うち)から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭(すこし)も覚えの無き事と、これが此人の十八番とはてもさても情なし。

                                                  (『大つごもり』 下)



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順境にいて得意そうなふるまいをするものに会うと、今に見ろという気も起こった。それがしばらくすると、単なる憎悪の念に変化した :
(じゅんきょうにいてとくいそうなふるまいをするものにあうと、いまにみろというきもおこった。そえがしばらくすると、たんなるぞうのねんにへんかした):

夏目 漱石:−『門』−:

学校をやめた当座は、順境にいて得意そうなふるまいをするものに会うと、今に見ろという気も起こった。それがしばらくすると、単なる憎悪の念に変化した。ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着になって、自分は自分のように生まれついたもの、先は先のような運をもって世の中に出て来たもの、両方とも始めから別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、なんの利害も交渉もないのだと考えるようになってきた。たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えてもらう努力さえ出すのがめんどうだった。お米にもこれと同じ傾きがあった。けれどもその夜は珍しく、坂井の主人は四十格好の髯のない人であるという事やら、ピアノをひくのは総領の娘で十二三になるという事やら、またほかの家(うち)の子供が遊びにきても、ブランコへ乗せてやらないという事やらを話した。

                                                  (『門』 7)



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職業のためにけがされない内容の多い時間を有する、上等人種 :
(しょくぎょうのためにけがされないないようのおおいじかんをゆうするじょうとうじんしゅ):

夏目 漱石:−『それから』−:

代助に言わせると、親爺のの考えは、万事中途半端に、あるものをひとり勝手に断定して出立するんだから、毫も根本的の意義を有していない。しかのみならず、今利他本位でやってるかと思うと、いつのまにか利己本位に変わっている。言葉だけは滾々として、もったいらしく出るが、要するに端倪すべからざる空談である。それを基礎から打ちくずしてかかるのはたいへんな難事業だし、また必竟できない相談だから、始めよりなるべくさからわないようにしている。ところが親爺のほうでは代助をもって無論自己の太陽系に属するべきものと心得ているので、自己はあくまでも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。そこで代助もやむを得ず親爺という老太陽の周囲を、行儀よく回転するように見せている。
 「それは実業がいやならいやでいい。何も金もうけするだけが日本のためになるとも限るまいから。金は取らんでもかまわない。金のためにとやかく言うとなると、お前も心持ちがわるかろう。金は今までどおりおれが補助してやる。おれも、もういつ死ぬかわからないし、死にゃ金を持っていくわけにもいかないし、月々お前の生計ぐらいどうでもしてやる。だから奮発して何かするがいい。国民の義務としてするがいい。もう三十だろう」
「そうです」
「三十になって遊民として、のらくらしているのは、いかにも不体裁だな」
代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業のためにけがされない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。

                                                  (『それから』 3)


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処世上の経験ほど愚なものはない :
(しょせいじょうのけいけんほどぐなものはない):

夏目 漱石:−『それから』−:

 「僕はいわゆる処世上の経験ほど愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」
平岡は酔った目を心持ち大きくした。
「だいぶ考えが違って来たようだね。――けれどもその苦痛があとから薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」
「そりゃ不見識な青年が、流俗の諺に降参して、いいかげんな事を言っていた時分の持説だ。もう、とっくに撤回しちまった」
「だって、君だって、もうたいてい世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」
「世の中へは昔から出ているさ。ことに君と別れてから、たいへん世の中が広くなったような気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」
「そんな事を言って威張ってたって、今に降参するだけだよ」
「無論食うに困るようになれば、いつでも降参するさ。しかし今日に不自由のないもが、何を苦しんで劣等な経験をなめるものか。インド人が外套を着て、冬の来た時の用心をするのとおなじ事だもの」

                                                  (『それから』 2)




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「しようがない。覚悟をきめましょう」 :
(しようがない。かくごをきめましょう):

夏目 漱石:−『それから』−:

 三千代はやはりうつ向いていた。代助は思い切った判斷を、自分の質問の上に与えようとして、すでにその言葉が口まで出かかった時、三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛もほとんど消えていた。涙さえたいていはかわいた。頬の色はもとより青かったが、くちびるはしかとして、動くけしきはなかった。その間から、低く重い言葉が、つながらないように、一字ずつ出た。
 「しようがない。覚悟をきめましょう」
 代助は背中から水をかぶったようにふるえた。社会から追い放たるべき二人の魂は、ただ二人向かい合って、互いを穴のあくほどながめていた。そうして、すべてに逆らって、互いを一所に持ち来した力を互いとおそれおののいた。
 しばらくすると、三千代は急に物に襲われたように、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣くさまを見るに忍びなかった。ひじを突いて額を五指の裏に隠した。二人はこの態度をくずさずに、恋愛の彫刻のごとく、じっとしていた。
 二人はこうじっとしているうちに、五十年をまのあたりに縮めたほどの精神の緊張を感じた。そうしてその緊張と共に、二人が相並んで存在しておるという自覚を失わなかった。彼らは愛の刑と愛の賚(たまもの)とを同時に享(う)けて、同時に双方を切実に味わった。

                                                  (『それから』 14)



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人生観を増補すると宇宙観ができる。謎の女は毎日鉄瓶の音を聞いては、六畳敷きの人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑のある人に限る :
(じんせいかんをぞうほするとうちゅうかんができる(中略)じんせいかんをつくりうちゅうかんをつくるものはひまのあるひとにかぎる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の考えは、すべてこの一句から出立する。この一句を敷衍すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観ができる。謎の女は毎日鉄瓶の音を聞いては、六畳敷きの人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑のある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
 居ずまいは心を正す。端然(たんねん)と恋にこがれたもう雛(ひいな)は、虫が喰うて鼻がかけても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷きの人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
 老いて夫なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細いうえに忌まわしい。謎の女はみずから情けない不幸の人と信じている。
 他人でも合わぬとは限らぬ。醤油と味醂は昔から交じっている。しかし酒と煙草をいっしょに呑めば咳が出る。親の器の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を経(ふ)れば日を重ねて隔たりの関ができる、このごろは江戸の敵に長崎で巡り逢ったような心持ちがする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌に逆らって、師走正月の調子をはずすための修業ではあるまい。金をかけてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞が悪い。嗣子としては不都合と思う。こんなものに死に水を取ってもらう気もないし、また取るほどの働きがあるはずがない。
 さいわいと藤尾がいる。冬を凌ぐ女竹(めだけ)の、吹き寄せて夜を積もる粉雪をぴんと撥ねる力もある。十目(じゅうもく)を街頭に集むる春の姿に、蝶を縫い花を浮かした派手な衣装も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦らしてこそ、育て上げた母の面目は揚がる。海鼠(なまこ)の氷ったような他人にかかるよりは、羨(うらやま)しがられて華麗(はなやか)に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓にはいるのが順路である。
 蘭は幽谷に生じ、剣は烈士に帰す。美しき娘には、名ある婿を取らねばならぬ。申し込みはたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役にたたぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大きすぎても小さすぎても婿にはできぬ。したがって婿は今日までできずにいた。燦(さん)として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんはたいへん学問のできる人だという。恩賜の時計を頂いたという。もう少したつと博士になるという。のみならず愛嬌があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の婿として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持ちがよかろう。
 小野さんは申し分のない婿である。ただ財産のないのが欠点である。しかし婿の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利かぬ。無一物の某(それがし)を入れて、おとなしく嫁姑を大事にさせるのが藤尾の都合にもなる。自分のためでもある。一つ困ることはその財産である。夫が外国で死んだ四か月後の今日は当然欽吾の所有に帰してしまった。魂胆はここから始まる。
 欽吾は一文の財産もいらぬという。家も藤尾に遣るという。義理の着物を脱いで便利の赤裸(はだか)になれるものなら、降って湧いた温泉へ得たり賢しと飛び込む気にもなる。しかし、体裁に着る衣装はそう無造作に剥ぎ取れるものではない。降りそうだからと傘をやろうと投げ出したとき、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、みすみすくれる人が濡れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の思わくもある。そこに謎ができる。くれるというのは本気でいう嘘で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申し訳にすぎない。欽吾の財産を欽吾のほうからむりに藤尾に譲るのを、いやいやながら受け取った顔つきに、文明の手前を繕わねばならぬ。そこで謎が解ける。くれるといううのを、くれないという意味と解いて、貰う料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷きの人生観はすこぶる複雑である。

                                                  (『虞美人草』 12)




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其声信如に聞えしを恥かしく、胸はわくわくと上気して、何うでも明けられぬ門の際にさりとも見過ごしがたき難儀をさまざまの思案尽くして、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば :
(しんにょにきこえしをはずかしく、むねはわくわくとじょうきして、どうでもあけられぬもんのきわにさりともみすごしがたきなんぎをさまざまのしあんつくして、こうしのあいだよりてにもつきれをものいはずなげだせば):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

にわなる美登利はさしのぞいて、ゑゝ不器用な彼んな手つきして何うなる物ぞ、紙縒は婆婆縒、藁しべなんぞ前壺に抱かせたとて長もちのする事では無い、夫れ夫れ羽織の裾が地について泥に成るは御存じ無いか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好いにと一々鈍かしう歯がゆくは思へども、此処に裂れが御座んす、此裂でおすげなされと呼かくる事もせず、これも立尽して降雨袖に侘しきを。厭ひもあへず小隠れて覗ひしが、さりとも知らぬ母の親はるかに声を懸けて、火のしの火が熾りましたぞえ、此美登利さんは何を遊んで居る、雨の降るに表へ出ての悪戯は成りませぬ、又此間のやうに風引いかうぞと呼立てられるに、はい今行きますと大きく言ひて、其声信如に聞えしを恥かしく、胸はわくわくと上気して、何うでも明けられぬ門の際にさりとも見過ごしがたき難儀をさまざまの思案尽くして、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、ゑゝ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔、何を憎んで其のやうに無情そぶりは見せらるゝ、言ひたい事は此方にあるを、余りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ゑゝ何ぞいの未練くさい、思はく恥かしと身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かへれば紅入り友仙の雨にぬれて紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる、そゞろに床しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり。

                                                  (『たけくらべ』 13)



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勝呂はここにいる全員にとって自分が役にもたたぬ一医員としかうつらぬこと、手術の不参加を助教授に断れなかった無気力な男だったことに気がついた :
(すぐろはここにいるぜんいんにとってじぶんがやくにもたたぬ一いいいんとしかうつらぬこと、しゅじゅつのふさんかをじょきょうじゅにことわれなかったむきりょくなおとこだったことにきがついた):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 医学生の勝呂には、助教授の声だけで、おやじが捕虜の体のどこを切っているのか、これから何を行うのかはっきりと想像することができた。
 勝呂は眼をつむった。眼をつむって、自分が今、立ち会っているのは捕虜の生体を解剖している現実ではなく、本当の患者を手術するいつもの場面なのだ、そう思いこもうとした。
(患者は助かるばい。もうちとすりゃ、カンフルばうって新しか血液を補給してやるとやろ)彼は無理矢理に心の中で想像してみた。(ほら、大場看護婦長の跫音の聞こえるが。あれあ患者に酸素吸入器ばかけてやるとじゃ)
 だが、その時、骨の砕けるにぶい音と、その骨が手術皿に落ちる高い音とが手術室の壁に反響した。突然、捕虜がひくい暗い呻き声をあげた。
(助かるばい。助かるばい)
 勝呂の胸の鼓動も心の呟きも速度をました。(助かるばい。助かるばい)
 けれども、とじた勝呂の眼の裏に、あの田部夫人の手術の場面がふっと甦ってきた。石榴のように切り裂かれた夫人の死体(ライヘ)を真中にかこんで、だれもが、かたい表情で壁に靠れていたあの夕暮のことである。(中 略)
(助かりゃせん)
 無気力とも屈辱感ともつかぬものが急に息苦しいほどこみあげ勝呂の胸を締めつけてきた。できることなら手を上げて前に並んでいる将校たちの肩を突きとばしたかった。おやじの肋骨刀を奪いたかった。だが眼をあけた彼の前には将校たちのいかつい肩ががっしりと幅ひろく並んでいた。その腰にさげた軍刀も鉛色ににぶく光っていた。
 一人の若い将校が、ふいにこちらをむいて、手術着を着たまま自分たちの背後にたっている勝呂怪訝そうに眺めた。その眼は急に勝呂を詰問するような憤怒の色に変わった。
(怖ろしいのだな、貴様)とその眼は言っていた。(それで貴様、日本の青年といえるのか)
 その視線を額に痛いほどに受けながら、勝呂はここにいる全員にとって自分が役にもたたぬ一医員としかうつらぬこと、手術の不参加を助教授に断れなかった無気力な男だったことに気がついた。
(俺あ、なにもせん)彼は手術台の方をむきながら、その草色のズボンに呻くように呟いた。
(俺あ、あんたに何もせん)
 だが、その時、

                                     (『海と毒薬』−第三章:「夜のあけるまで」T)






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すると彼は卒然『覺悟?』と聞きました。さうして私がまだ何も答へない先に『覺悟、――覺悟ならない事もない』と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした :
(するとかれはそつぜん『かくご?』とききました。さうしてわたしがまだなんともかたへないさきに『かくご、、――かくごならないこともない』とつけくわえました。かれのちょうしはひとりごとのやうでした。またゆめのなかのことばのやうでした):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私はKと竝んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位に思つてゐたのです。然し私にも教育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語いて呉れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其所に敬意を拂ふ事を忘れて、却つて其所に付け込んだのです。其所を利用して彼を打倒さうとしたのです。
 (中 略)私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。
『もう其話は止めやう』と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私は一寸挨拶が出來なかつたのです。するとKは、『止めて呉れ』と今度は頼むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向かつて残酷な答を與へたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ喰らひ付くやうに。
『止めて呉れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もともと君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方あるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は平生の主張を何うする積なのか』
 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の様子を見て漸く安心しました。すると彼は卒然『覺悟?』と聞きました。さうして私がまだ何も答へない先に『覺悟、――覺悟ならない事もない』と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書42」)



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生か死か。是が悲劇である :
(せいかしか。これがひげきである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:
New!!

 問題は無數にある。粟か米か、是は喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、是も喜劇である。綴織(つづれおり)か繻(しゅ)ちん(*)か、是も喜劇である。英語か獨乙語か、これも喜劇である。凡てが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。是が悲劇である。

                                                  (『虞美人草』 19)




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青天白日のもとに、尋常の態度で、相手に広言しうる事でなければ自分の誠でない :
(せいてんはくじつのもとに、じんじょうのたいどで、あいてにこうげんしうることでなければじこのまじょとでない):

夏目 漱石:−『それから』−:

代助は酒の力を借りて、おのれを語らなければならないような自分を恥じた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものとかねて覚悟をしていた。けれども、改まって三千代に対してみると、始めて一滴の酒精が恋しくなった。ひそかに次の間へ立って、いつものウィスキーをコップで傾けようかと思ったが、ついにその決心に堪えなかった。彼は青天白日のもとに、尋常の態度で、相手に広言しうる事でなければ自分の誠でないと信じたからである。

                                                  (『それから』 14)



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石仏に愛なし、色はできぬものとはじめから覚悟を極めているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基づいて起こる。ただし愛せらるる資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する :
(せきぶつにあいなし、いろはできぬものとはじめからかくごをきめているからである。):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 心臓の扉を黄金(こがね)の鎚に敲いて、青春の盃に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背けるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いてみだりに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地(つち)には花吹雪、一年を重ねて二十に至って愛の~は今が盛りである。緑濃き黒髪を婆娑(ばさ)とさばいて春風に織るの羅(うすもの)を、蜘蛛の囲(い)と五彩の軒に懸けて、みずからと引きかかる男を待つ。引きかかった男は夜光の璧(たま)を迷宮に尋ねて、紫に輝く糸の十字万字に、魂を逆しまにして、後の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教の牧師は救われよという。臨済、黄檗(おうばく)は悟れという。この女は迷えとのみ黒い眸を動かす。迷わぬものはすべてこの女の敵(かたき)である。迷うて、苦しんで、狂うて、躍(おど)るとき、はじめて女の御意はめでたい。欄干に繊(ほそ)い手を出してわんといえという。わんといえばまたわんといえという。犬は続け様にわんという。女は片頬に笑みを含む。犬はわんといい、わんといいながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾を逆しまにして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
 石仏に愛なし、色はできぬものとはじめから覚悟を極めているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基づいて起こる。ただし愛せらるる資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜して憚らぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼る。相手を愛するの資格を具(そな)えざるがためである。(目分)(へん)たる美目(びもく)に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危ない。倩(せん)たる巧笑にわが命を託するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午である。藤尾は己のためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在しうるやと考えたこともない。詩趣はある。道義はない。

                                                   (『虞美人草』 12)




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世間の掟とと定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったという矛盾なのだからしかたがない :
(せけんのおきてとさだめてあるふうふかんけいと、しぜんのじじつとしてなりあがったふうふかんけいとがいっちしなかったというむじゅん):

夏目 漱石:−『それから』−:

今度は代助の方が答えなかった。
 「法律や社会の制裁は僕にはなんにもならない」と平岡はまた言った。
 「すると君は当事者だけのうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
 「そうさ」
 「三千代さんの心機を一転して、君を元よりも倍以上に愛させるようにして、その上僕を蛇蝎のように憎ませさえすればいくぶんか償いにはなる」
 「それが君の手ぎわでできるかい」
 「できない」と代助は言い切った。
 「すると君は悪いと思っている事を今日まで発展さしておいて、なお悪いと思う方針によって、極端まで押してゆこうとするのじゃないか」
 「矛盾かもしれない。しかしそれは世間の掟とと定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったという矛盾なのだからしかたがない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君に謝る。しかし僕の行為そのものに対しては矛盾も何も犯していないつもりだ」
 「じゃ」と平岡はやや声を高めた。「じゃ、僕ら二人は世間の掟にかなうような夫婦関係は結べないという意見だね」
 代助は同情のある気の毒そうな目をして平岡を見た。平岡の険しい眉が少し解けた。

                                                  (『それから』 16)


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そういう意味から云て、私達は最も幸福に生まれた人間の一對であるべき筈です :
(そういういみからゐって、わたしたちはもっともこうふくにうまれたにんげんのいっついであるべきはず):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 先生と奥さんの間に起つた波瀾が、大したものでない事は是でも解つた。それが又滅多に起る現象でなかつた事も、其後絶えず出入をして来た私には略推察が出来た。それ所かか先生はある時其んな感想すら私に洩らした。
「私は世の中で女といふものをたつた一人しか知らない。妻以外の女は殆ど女として私に訴へないのです。妻の方でも、私を天下にたゞ一人しかいない男と思つて呉れてゐます。そういう意味から云て、私達は最も幸福に生まれた人間の一對であるべき筈です」
 私は今前後の行き掛りを忘れて仕舞たから、先生が何の為に其んな自白を私に為て聞かせたのか、判然云ふ事が出来ない。けれども先生の態度の眞面目であつたのと、調子の沈んでゐたのとは、今だに記憶に残ってゐる。其時たゞ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生まれた人間の一對であるべき筈です」といふ最後の一句であった。先生は何故幸福な人間と云ひ切らないで、あるべき筈であると断わつたのか、私にはそれ丈が不審であつた。ことに其所へ一種の力を入れた先生の語氣が不審であつた。先生は事實果たして幸福なのだろうか、又幸福であるべき筈でありながら、それ程幸福でないのだらうか。私は心の中で疑ぐらざる得なかつた。けれども其疑ひは一時限り何處かへ葬むられて仕舞つた。

                                                  (『こゝろ』−「先生と私10」)


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宗助から見ると、お米が在来よりどれほど努めているかがよくわかった。宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新しい感謝の念をいだくと同時に、こう気を張りすぎる結果が、一度にからだにさわるような騒ぎでも引き起こしてくれなければいいがと心配した :
(そうすけからみると、およねがざいらいよりどれほどつとめているかがよくわかった。):

夏目 漱石:−『門』−:

この女には生まれ故郷の水が、性に合わないのだろうと、疑(うたぐ)れば疑られるくらい、お米は一時悩んだ事もあった。
 近ごろはそれがだんだん落ち付いて来て、宗助の気を揉む機会(ばあい)も、年に幾度と勘定ができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入りに、お米はまた夫の留守の立ち居に、等しく安心して時間を過ごす事ができたのである。だからこの年の秋が暮れて、薄い霜を渡る風が、つらく肌を吹く時分になって、また少し心持ちが悪くなりだしても、お米はそれほど苦にもならなかった。始めのうちは宗助にさえ知らせなかった。宗助が見つけて、医者にかかれと勧めても、容易にかからなかった。
 そこへ小六が引っ越して来た。宗助はそのころのお米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、夫だけによく知っていたから、なるべくは、人数(ひとかず)をふやして宅(うち)の中をごたつかせたくないと思ったが、事情やむを得ないので、なるがままにしておくよりほかに、手段の講じようもなかった。ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないという矛盾した助言は与えた。お米は微笑して、
 「大丈夫よ」と言った。この答を得た時、宗助はなおの事安心ができなくなった。ところが不思議にも、お米の気分は、小六が引っ越して来てから、ずっと引き立った。自分に責任の少しでも加わったため、心が緊張したものと見えて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、お米が在来よりどれほど努めているかがよくわかった。宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新しい感謝の念をいだくと同時に、こう気を張りすぎる結果が、一度にからだにさわるような騒ぎでも引き起こしてくれなければいいがと心配した。

                                                  (『門』 11)

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宗助の家は横丁を突き当たって、一番奥の左側 :
(そうすけのうちはよこちょうをつきあたって、いちばんおくのひだりがわで):

夏目 漱石:−『門』−:

 魚勝というさかな屋の前を通り越して、その五六軒先の路次とも横丁ともつかない所を曲がると、行き当たりが高い崖で、その左右に四五軒同じ構えの貸し家が並んでいる。ついこのあいだまではまばらな杉垣のの奥に、御家人でも住み古したと思われる、物さびた家も一つ地所のうちに混じっていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち萱葺をこわして、杉垣を引き抜いて、今のような新しい普請に建てかえてしまった。宗助の家は横丁を突き当たって、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、そのかわり通りからは最も隔たっているだけに、まあいくぶんか閑静だろうというのので、細君と相談の上、とくにそこを選んだのである。

                                                  (『門』 2)



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宗助はきわめて短いその時の談話を、一々思い浮かべるたびに、その一々が、殆ど無着色と意っていいほどに、平淡であった事を認めた :
(そうすけはきわめてみじかいそのときのだんわを、いちいちおもいうかべるたびに、そのいちいちが、ほとんどむちゃくしょくといっていいほどに、へいたんであったことをみとめた):

夏目 漱石:−『門』−:

 宗助はこの三四分間に取り換わした互いの言葉を、いまだに覚えていた。それはただの男がただの女に対して人間たる親しみを表すために、やり取りする簡略な言葉に過ぎなかった。形容すれば水のように浅く淡いものであった。彼は今日(こんにち)まで路傍道上においておいて、何かのおりに触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶をどのくらい繰り返して来たかわからなかった。
 宗助はきわめて短いその時の談話を、一々思い浮かべるたびに、その一々が、殆ど無着色と意っていいほどに、平淡であった事を認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああまっかに塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経て昔のあざやかさを失っていた。互いをやき焦がした炎は、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事の成り行きを逆にながめ返しては、この淡泊な挨拶が、いかに自分らの歴史を濃くいろどったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。

                                                  (『門』 14)


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そこで考え出したのは、道化でした :
(そこでかんがえだしたのは、どうけでした):

太宰 治:−『人間失格』−:

自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
 そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなぁったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
 自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼らがどんないに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子に。
 その頃の家族たちと一緒にうつした写真など見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。

                                                  (『人間失格』−第一の手記)




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そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた :
(そしてあおひちはちんもくしていたのではなかった):

遠藤 周作:−『沈黙』−:

夜、風が吹いた。耳をかたむけていると、かつて牢に閉じこめられていた時、雑木林をゆさぶった風の音が思い出される。それから彼はいつもの夜のように、あの人の顔を心に浮かべる。自分が踏んだあの人の顔を。
「パードレ。パードレ」
くぼんだ眼で記憶にある声の聞える戸を見つめると、
「パードレ、キチジローでございます」
「もうパードレではない」司祭は両膝を手でだきながら小声で答えた。「早う帰られるがよい。乙名殿に見つかると厄介なことになります」
「だがお前様にはまだ告侮をきく力のおありじゃ」
「どうかな」彼はうつむいて、「私は転んだパードレだから」
「長崎ではな、お前様を転びのポウロと申して居ります。この名を知らぬ者はなか」
 膝小僧をかかえたまま司祭は寂しく笑った。今更、教えられなくても、そんな渾名が自分につけられていることは前から聞いていた。フェレイラは「転びのペテロ」と呼ばれ、自分は「転びのポウロ」と言われている。子供たちが時々、家の門口に来て大声でその名をはやしたてることもあった。
「聞いて下され。たとえ転びのポウロでも告侮を聴聞する力を持たれようなら、罪の許しをば与えて下され」
(裁くのは人ではないのに・・・・・そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)と彼は黙って考えた。
「わしはパードレを売り申した。踏み絵にも足かけ申した」キチジローのあの泣くような声が続いて、「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・・・・」
 その踏絵にも足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が数百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時。牢舎でそれを考え出さぬことのなかった顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木の中で摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。
(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だが、その足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していらるのを恨んでいました」
「「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」 その時彼は踏絵に血と埃とで汚れた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに悦明することは出来なかった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は戸口にむかって口早に言った。
「この国にはもう、お前の告侮をきくパードレがいないから、この私が唱えよう。すべての告侮の終りに言う祈りを。・・・・・・・安心して行きなさい」
 怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かし去っていった。自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私は、この国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

                                                  (『沈黙』 \)

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その一節を口ずさむと勝呂はなぜか涙ぐみそうな気分に誘われてくる。特にこの頃、おばはんの手術予備検査を始めてから、彼は屋上にのぼり海を見つめてこの詩を噛みしめることが多くなった :
(その1せつをくちずさむとすぐろはなぜかなみだぐみそうなきぶんにさそわれる。とくにこのごろ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

この頃は何処が燃えようが誰も口に出す者はいない。人々が死のうが、死ぬまいが、気にかける者もなくなった。学生たちも大部分は街の方々にある救護所や工場に送られてしまった。研究員の勝呂ももうすぐ、短期現役でどこかに連れていかれる筈だった。
 医学部の西には海が見える。屋上にでるたびに彼はくるしいほど碧く光り、時には陰鬱に黝ずんだ海を眺める。すると勝呂は戦争のことも、あの大部屋のことも、毎日の空腹感も少しは忘れられるような気がする。海のさまざまな色はなぜか、彼に色々な空想を与えた。たとえば戦争が終わり、自分がおやじのようにあの海を渡って独逸に留学し、向こうの娘と恋愛をすることがある。あるいはそんな出来そうもない夢の代わりに、平凡でもいい、何処かの、小さな町でささやかな医院に住み、町の病人たちを往診することである。町の有力者の娘と結婚できれば、なお良い。そうしたら、自分は糸島郡にいる父親と母親の面倒をみることもできるだろう。平凡が一番、幸福なのだと勝呂は考える。
 学生時代から戸田とちがって勝呂は小説や、詩はさっぱり、わからなかった。たった一つ戸田に教えてもらって覚えている詩があった。海が碧く光っている日にはふしぎにその詩が心に浮かんでくるのである。

  羊の雲の過ぎるとき
  蒸気の雲が飛ぶ毎(ごと)に
  空よ おまえの散らすのは
  白い しいろい 綿の列
  (空よ お前の散らすのは 白い しいろい 綿の列)

 その一節を口ずさむと勝呂はなぜか涙ぐみそうな気分に誘われてくる。特にこの頃、おばはんの手術予備検査を始めてから、彼は屋上にのぼり海を見つめてこの詩を噛みしめることが多くなった。

                                                  (『海と毒薬』−第1章U)



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その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った :
(そのとき、ふむがいいとどうばんのあのひとはしさいにむかっっていった):

遠藤 周作:−『沈黙』−:

 司祭は足をあげた。足に鈍い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの。最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

                                                  (『沈黙』 [)




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その時、私の胸部に針がはいった。肋膜と胸郭との間に針がすべりこむのがハキリ感ぜられた。みごとな入れ方だった :
(そのとき、わたしのきょうぶにはりがはいった、ろくまくときょうかくとのあいだにはりがすべりこむのがハッキリかんぜられた。みごとないれかただった):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

「手をあげて」と彼は低い声で命じた。
 彼の指が私の脇腹の肋骨と肋骨との間を探っていった。針を突きさす場所を確かめているのだ。その感触には金属のようなヒヤリとした冷たさがあった。冷たさと言うよりは私を一人の患者ではなく、なにか実験の物体でも取扱っているような正確さ、非情さがあった。
(前の医者の指先とちがう)と私は患者の本能で突然怯えはじめた。(あれはもっと暖かかった)
 その時、私の胸部に針がはいった。肋膜と胸郭との間に針がすべりこむのがハキリ感ぜられた。みごとな入れ方だった。
「ウム」と私は力んだ。
 勝呂医師はその声が耳にはいらぬように窓の方を眺めていた。彼はわたしなどではなく別のことを考えているようだった。

                                                  (『海と毒薬』−第1章)




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其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。『濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御嬢さんにも濟まない事になりました』と詫まりました :
(そのときわたしはとつぜんおくさんのまえへてをついてあたまをさげました。『すみません。わたしがわるかつたのです。あなたにもおじょうさんにもすまないことになりました』とあやまりました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

奥さんは私の足音で眼を覺したのです。私は奥さんに眼が覺めてゐるなら、一寸私の室迄來て呉れと頼みました。奥さんは寝巻の上へ不斷着の羽織を引掛て、私の後に跟いて來ました。私は室に這入るや否や、今迄開いてゐた仕切の襖をすぐ立て切りました。さうして奥さんに飛んだ事が出來と小聲で告げました。奥さんは何だと聞きました。私はで顋で隣の室を指すやうにして、『驚いちや不可ません』と云ひました。奥さんは蒼い顏をしました。『奥さん。Kは自殺しました』と私がまた云ひました。奥さんは其所に居竦まつたやうに、私の顏を見て黙つてゐました。其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。『濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御嬢さんにも濟まない事になりました』と詫まりました。私は奥さんと向かひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸でなかつたのです。然し奥さんの顏を見た時不意に我とも知らず左右云つて仕舞つたのです。Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御嬢さんに詫びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸いでした。蒼い顔をしながら、『不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか』と慰さめるやうに云つて呉れました。然し其顏には驚きとおそれとが、彫り付けられたやうに、硬く筋肉を攫んでゐました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書49」)


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それなら何故Kに宅を出て貰はないかと貴方は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張つて來た主意が立たなくなる丈です。私にはそれが出來ないのです :
(それならなぜKにうちをでてもらわないかとあなたはきくでせう。しかしさうすればわたしがKをむりにひぱつてきたしゅいがたたなくなるだけです。わたしにはそれができないのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 そうち御嬢さんの態度がだんだん平氣になつて來ました。Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の縁側へ來て彼の名を呼びました。さうして其所へ入って、ゆっくりしてゐました。無論郵便を持つて來る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、其位の交通は同じ宅にゐる関係上、當然と見なければならないのでせうが、是非御嬢さんを占有したいといふ強烈な一念に動かされてゐる私には、何うしてもそれが當然以上に見えたのです。ある時は御嬢さんがわざわざ私の室に來るのを囘避して、Kの方ばかりへ行くたうに思はれる事さへあつた位です。それなら何故Kに宅を出て貰はないかと貴方は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張つて來た主意が立たなくなる丈です。私にはそれが出來ないのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書32」)




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それは太陽のせいだ、といった :
(それはたいようのせいだ、といった):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

 検事が腰をおろすと、かなり長い沈黙がつづいた。私は暑さと驚きとにぼんやりしていた。裁判長が少し咳をした。ごく低い声で、何かいい足すことはないか、と私に尋ねた。私は立ち上がった。私は話したいと思っていたので、多少出まかせに、あらかじめアラビア人を殺そうと意図したわけではないと、といった。裁判長は、それは一つの主張だ、と答え、これまで、被告側の防御方法がうまくつかめないでいるから、弁護士の陳述を聞く前に、あなたの加罪行為を呼びおこした動機をはっきりしてもらえれば幸いだ、といった。私は、すこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせうだ、といった。廷内に笑い声があがった。

                                                  (『異邦人』−第2部4)

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其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて :
(それはひがしへ、これはみなみへ、おおぢのやなぎつきのかげにたなびいて):

樋口 一葉:−『十三夜』−:

阿関は紙入れより紙幣いくらか取出して小菊の紙にしほらしく包みて、録さんこれは誠に失礼なれど鼻紙なりとも買つて下され、久し振でお目にかゝつて何か申たい事は沢山あるやうなれど口へは出ませぬは察して下され、では私は御別れに致します、随分からを厭(いと)ふて煩らはぬ様に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、何うぞ以前の録さんにお成りなされて、お立派にお店を」お開きに成ります処を見せて下され、左様ならばと挨拶すれば録之助は紙づゝみを頂いて、お辞儀申す筈なれど貴嬢(あなた)のお手より下されたのならば、あり難く頂戴して思ひ出にしまする、お別れ申すが惜しいと言つても是れが夢ならば仕方のない事、さ、お出でなされ、私も帰ります、更けて路が淋しう御座りますぞとて空車(からぐるま)引いてうしろ向く、其人(それ)は東へ、此人(これ)は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうな塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きは互ひの世におもふ事多し。

                                                  (『十三夜』 下:終段)

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それを盗み見しながら、ぼくの息はつまりそうだった。あいつが自分の代りに罰をうけている。なぜ、彼は教師に否定しなかったのだろう :
(それをぬすみみしながら、ぼくのいきはつまる¥りそうだった。あいおつがじぶんおかわりにばつをうけている):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 いつものように課外の授業が終わったあと、ぼくは友だちと黄門を出た。校門を出た時、教室に弁当箱を忘れたのを思いだした。これはウソではなかった。一人で教室に戻ると、西陽が白い埃を浮かせながら誰もいない机や椅子の上に流れ落ちている。廊下も静まりかえっている。ぼくの足は博物の標本室の方にむいていた。ドアを押すと鍵がかかっていない。おそろしいほdp、万事が都合よくいったのである。ナフタリンの臭いのする部屋の中にはさまざまの鉱石や植物の葉をわけた箱が硝子戸棚におさめられて、それに夕陽があたっている。
 その隅にぼくはあのおこぜの黒い風呂敷をみつけた。風呂敷を床に捨て、小さな標本箱だけを急いでズックの鞄の中にいれた。誰も見ていない筈だった。ぼくはドアをふたたび、そっと開けたが廊下は先ほどと同じようにガランとしていた。
 翌日、学校に行くと、組の仲間はひそひそと何かを話し合っていた。
「おこぜの奴、あの帳を盗まれよったんやぜ」
「ふーん。誰が盗んだんや」顔が思わず強張るのを感じて、ぼくは視線をそらした。
「犯人はもう、つかまったわ。C組の山口や。昨日の放課後、標本室から出たの、小使いに見られよってん」
 ぼくは山口という生徒の小猿のような顔を思いうかべた。そいつはこの中学では一番、学業のできぬ連中のいるC組の生徒だった。中学生の中には必ず卑屈な道化師となって組の人気をえようとする奴がいるものだが、この山口がそうだった。
「それで蝶は戻ったんか」
「それが、あいつ、何処かでなくしたらしいねん。阿保な奴や」
「ふん、阿保な奴やな」
 その日、一日中、教室の窓から、運動場にたたせれた山口の情けない姿がみえた。それを盗み見しながら、ぼくの息はつまりそうだった。あいつが自分の代りに罰をうけている。なぜ、彼は教師に否定しなかったのだろう。午後になると山口はもう疲れきったのか、肩をおとし、首をまげはじめた。
(いいさ、あいつかて、ともかく、標本室に、はいったのやからな、盗みにいったのやからな)心の苦しさを消すため、ぼくはそんな理屈をつくった。(あいつは莫迦やから見つかったんや。見つからなかったら、俺と、おまじやないか)
 その日のうち、学校から帰ると、ぼくはあの蝶を箱から出して、庭で火をつけた。メラメラと紙のように焼けていく羽から銀色の粉が飛び散った。それは風にとばされて消えてしまった。夜になると寝床の中でぼくは右の歯が烈しく痛むのを感じた。夢の中で山口のくたびれた姿が幾度もあらわれた。
 翌日、ぼくは脹れた頬を押さえながら学校に行った。校門の所で数人の仲間にかこまれて何かしゃべっている彼の姿を前に見つけた時、ぼくの足は急にゆっくりと遅れはじめた。
「ほんまに、えらいこと、しよったなあ」
 彼等の声はうしろにいるぼくの耳にも聞こえた。一日のうちで山口はC組の仲間たちから、すっかり小さな英雄のように扱われていた。そして彼までがいかにも得意そうに身ぶり、手ぶりで説明していたのだ。
「おこぜの奴、ほんまに半泣きになりよって、な。おもしろかったぜえ」
「それで、お前、あの蝶、どこにかくしてん?」
「蝶か。あんなもん。溝(どぶ)に捨ててしもうたわ」
 ふしぎなことだが、その言葉をぬすみ聞いた瞬間、昨日一日中くるしめていたあの心の呵責も息のつまりそうだった不安も驚くほどの速さで消えてしまった。歯の痛みまでが不気味なほど、軽くなってしまった。こんなことなら、あの銀色の蝶を焼くのではなかったとさえぼくは思った。一昨日やその前と同じように、教室で教師の授業を平気な気持ちでノートにとったり、体操の時間の運動パンツを忘れたことを心配しただけだった。

                                                  (『海と毒薬』−第2章:「裁かれる人々」U  医学生)





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尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました :
(そんけいされるというかんねんもまた、はなはだじぶんを、おびえさせました):

太宰 治:−『人間失格』−:

 しかし、ああ、学校!
 自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く一をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいたとき、その時の人間たちの怒り、復讐はいったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、、身の毛がよだつ心地がするのです。

                                                  (『人間失格』 第一の手記)


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 た 

大黒屋の美登利紙一枚のお世話にも預からぬ物を :
(だいこくやのみどりかみいちまいのおせわにもあずからぬものを):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

美登利の学校へ通ふ事ふつと跡たえしは、問ふまでも無く額の泥の洗ふても消えがたき恥辱を、身にしみて口惜しければぞかし、表町とて横町とて同じ教場におし並べば朋輩に変わり無き筈を、をかしき分け隔てに常日頃意地を持ち、我れは女の、とても敵ひがたき弱みをば付目にして、まつりの夜の処為はいかなる卑怯ぞや、長吉のわからずやは誰も知る乱暴の上なしなれど、信如の知りおし無くば彼れほどに思ひ切りて表町をば暴し得じ、人前をば物識らしく音順につくりて、陰に廻りて機関の糸を引きしは藤本の仕業に極まりぬ、よし、級は上にせよ、学は出来るにせよ、龍華寺様の若旦那にせよ、大黒屋の美登利紙一枚のお世話にも預からぬ物を、あのやうに乞食呼ばりして貰ふ恩は無し、龍華寺は何ほど立派な檀家ありと知らねど、わが姉さま三年の馴染みに銀行の川様、兜町の米様もあり、議員の短小さま根曳して奥様にと仰せられしを、心意気気に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、彼の方とても世には名高きお人と遣手衆の言はれし、嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大巻の居ずは彼の楼は闇とかや、さればお店の旦那とても父さん母さん我が身をも粗畧には遊ばさず、常々大切がりてお据へなされし瀬戸物の大黒様をば、我れいつぞや座敷の中にて羽根つくとて騒ぎし時、同じく並びし花瓶を仆し、散々に破損をさせしに、旦那次の間に御酒をめし上りながら、美登利お転婆がが過ぎるのと言はれしばかり小言は無かりき、他の人ならば一通りの怒りでは有るまじと、女子衆達にあとあとまで羨まれしも畢竟は姉さまの威光ぞかし、我れ寮住居に人の留守居はしたるとも姉は大黒屋の大巻、長吉風情に負けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、

                                                  (『たけくらべ』 7)


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大黒屋の美登利とて生国は紀州 :
(だいこくやのみどりとてしょうごくはきしゅう):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

解かば足にもとゞくべき毛髪を、根あがりに堅くつめて前髪大きく髷おもたげの、赭熊といふ名は恐ろしけれど、此髷を此頃の流行とて良家の令嬢も遊ばさるゝぞかし、色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、一つ一つに取りたてゝは美人の鑑に遠けれど、物いふ声の細く清しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したるは快き物なり、柿色に蝶鳥を染めたる大形の裕衣きて、黒繻子と染分絞りの昼夜帯胸だかに、足にはぬり木履こゝらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて、朝湯の帰りに首筋白じらと手拭さげたる立姿を、今三年後に見たしと廓がへりの若者は申き、大黒屋の美登利とて生国は紀州、言葉のいさゝか訛れるも可愛く、第一は切れ離れよき気象を喜ばぬ人なし、

                                                  (『たけくらべ』 3)



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代助は心のうちで痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼のために周旋した事を後悔した :
(だいすけはこころのうちでいたくじぶんがひらおかのいらいにおうじて、みちよをかれのためにしゅうせんしたことをこうかいした):

夏目 漱石:−『それから』−:

三千代は例によって多くを語る事を好まなかった。しかし平岡の妻に対する仕打ちが結婚当時と変わっているのは明らかであった。代助は夫婦が東京へ帰った当時すでにそれを見抜いていた。それから以後改まって両人の腹の中を聞いた事はないが、それが日ごとによくないほうに、速度を加えて進行しつつあるのはほとんど争うべからざる事実と見えた。夫婦の間に、代助という第三者が点ぜられたがために、この疎隔が起こったとすれば、代助はこの方向に向かって、もっと注意深く働いたかもしれなかった。けれども代助は自己の悟性に訴えて、そうは信じる事ができなかった。彼はこの結末の一部分を三千代の病気に帰した。そうして、肉体上の関係が、夫の精神に反響を与えたものと断定した。またその一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に帰した。また他の一部分を、会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒から生じた経済事情に帰した。すべてを概括した上で、平岡はもらうべからざる人をもらい、三千代はとつぐべからざる人にとついだのだと解決した。代助は心のうちで痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼のために周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動かすために、平岡が妻から離れたとは、どうしても思い得なかった。

                                                  (『それから』 13)

[←先頭へ]

代助は自分の告白がおそすぎたという事をせつに自覚した :
(だいすけはじぶんのこくはくがおそすぎたということをせつにじかくした):

夏目 漱石:−『それから』−:

 「あんまりだわ」と言う声がハンケチの中で聞こえた。それが代助の聴覚を電流のごとくに冒した。代助は自分の告白がおそすぎたという事をせつに自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡にとつぐ前に打ち明けなければならないはずであった。彼は涙と涙の間をぽつぽつつづる三千代のこの一言を聞くに堪えなかった。

                                                  (『それから』 14)



[←先頭へ]

代助はすべての道徳の出立点は社会的事実よりほかにないと信じていた :
(だいすけはすべてのどうとくのしゅったつてんはしゃかいてきじじつよりほかにないとしんじていた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助はすべての道徳の出立点は社会的事実よりほかにないと信じていた。始めから頭の中にこわばった道徳をすえ付けて、その道徳から逆に社会的事実を発展させようとするほど、本来を誤った話はないと信じていた。従って日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義なものだと考えた。

                                                  (『それから』 9)



[←先頭へ]

代助は腹の中で今までの我れを冷笑した。これはどうしても、きょうの告白をもって、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかった :
(だいすけははらのななかでいままでのわれをれいしょうした):

夏目 漱石:−『それから』−:

 歩きながら、自分はきょう、みずから進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちにつぶやいた。今までは父や嫂を相手に、いい加減な間隔を取って、柔らかに自我を通して来た。今度はいよいよ本性をあらわさなければ、それを遠し切れなくなった。同時に、この方面に向かって、在来の満足を求めうる希望は少なくなった。けれども、まだ逆戻りする余地はあった。ただ、それにはまた父をごまかす必要が出て来るに違いなかった。代助は腹の中で今までの我れを冷笑した。これはどうしても、きょうの告白をもって、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかった。そうして、それから受ける打撃の反動として、思い切って三千代の上に、おっかぶさるようにはげしく働きかけたかった。

                                                  (『それから』 14)




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代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、ただ貧苦が愛人の満足に価しないという事だけを知っていた。だから富が三千代に対する責任の一つと考えたのみで、それよりほかに明かな観念はまるで持っていなかった :
(だいすけはへいせいからぶっしつてきじょうきょうにおもきをおくのけっか、ただひんくがあいじんのまんぞくにあたいしないということだけをしっていた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助はようやくにして思い切った。
 「その後あなたと平岡との関係は別に変わりはありませんか」
 三千代はこの問を受けた時でも、依然として幸福であった。
 「あったって、かまわないわ」
 「あなたはそれほど僕を信用しているんですか」
 代助はまぶしそうに、熱い鏡のような遠い空をながめた。
 「僕にはそれほど信用される資格がなさそうだ」と苦笑しながら答えたが、頭の中は焙炉(ほいろ)のごとくほてっていた。しかし三千代は気にもかからなかったと見えて、なぜとも聞き返さなかった。ただ簡単に、
 「まあ」とわざとらしく驚いて見せた。代助はまじめになった。
 「僕は白状するが、実を言うと、平岡君よりたよりにならない男なんですよ。買いかぶっていられると困るから、みんな話してしまうが」と前置きをして、それから自分と父との今日までの関係を詳しく述べた上、
 「僕の身分はこれから先どうなるかわからない。少なくとも当分は一人前じゃない。半人前にもなれない。だから」と言いよどんだ。
 「だから、どうなさるんです」
 「だから、僕の思うとおり、あなたに対して責任が尽くせないだろうと心配しているんです」
 「責任って、どんな責任なの。もっとはっきりおっしゃらなくっちゃわからないわ」
 代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、ただ貧苦が愛人の満足に価しないという事だけを知っていた。だから富が三千代に対する責任の一つと考えたのみで、それよりほかに明かな観念はまるで持っていなかった。
 「徳義上の責任じゃない。物質上の責任です」
 「そんなものはほしくないわ」
 「ほしくないと言ったって、ぜひ必要になるんです。これから先僕があsなたとどんな新しい関係に移ってゆくにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
 「解決者でもなんでも、今さらそんな事を気にしたってしかたがないわ」
 「口ではそうも言えるが、いざという場合になると困るのは目に見えています」
 三千代は少し色を変えた。
 「今あなたのいとう様のお話を伺ってみると、こうなるのは始めからわかっているじゃありませんか。あなただって、そのくらいな事はとうから気がついていらっしゃるはずだと思いますわ」
 代助は返事ができなかった。頭をおさえて、
 「少し脳がどうかしているんだ」とひとり言のように言った。三千代は少し涙ぐんだ。
 「もし、それが気になるなら、私(わたくし)のほうはどうでもようござんすから、おとう様と仲直りをなすって、今までどおりおつきあいになったらいいじゃありませんか」
 代助は急に三千代の手首を握ってそれを振るように力を入れて言った。――
 「そんな事をする気なら始めから心配をしやしない。ただ気の毒だからあなたにあやまるんです」
 「あやまるなんて」と三千代は声をふるわしながらさえぎった。「私が原因(もと)でそうなったのに、あなたにあやまらしちゃ済まないじゃありませんか」
 三千代は声を立てて泣いた。代助はなだめるように、
 「じゃ我慢しますか」と聞いた。
 「我慢はしません。あたりまえですもの」
 「これから先まだ変化がありますよ」
 「ある事は承知しています。どんな変化があったってかまやしません。私はこのあいだから、――このあいだから私は、もしもの事があれば、死ぬつもりで覚悟をきめているんですもの」
 代助は慄然としておののいた。
 「あなたにこれから先どうしたらいいという希望はありませんか」と聞いた。
 「希望なんか無いわ、なんでもあならの言うとおりになるわ」
 「漂泊――」
 「漂泊でもいいわ。死ねとおっしゃれば死ぬわ」
 代助はまたぞっとした。
 「このままでは」
 「このままでもかまわないわ」
 「平岡君は全く気がついていないようですか」
 「気がついているかもしれません。けれども私もう度胸をすえているから大丈夫なの。だっていつ殺されたっていいんですもの」
 「そう死ぬの殺されるのと安っぽく言うものじゃない」
 「だって、ほうっておいたって、長く生きられるからだじゃないじゃありませんか」
 代助はかたくなって、すくむがごとく三千代を見つめた。三千代はヒステリの発作に襲われたように思い切って泣いた。
 ひとしきりたつと、発作は次第に収まった。あとはいつものとおり静かな、しとやかな、奥行きのある、美しい女になった。眉のあたりがことに晴れ晴れしく見えた。

                                                  (『それから』 16)






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だが彼にはそれができなかった。口の中は乾いていた :
(だがかれにはそれができなかった。くちのなかはかわいていた):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 勝呂は煙草の火を消して、こちらをふりむいた。彼はコンクリートの床に腰をおろし、両手で膝をだいたまま、うつむいた。
「どうなるやろうな」と彼はひくい声で言った。「俺たちはどうなるやろ」
「どうもなりはせん。同じこっちゃ。なにも変わらん」
「でも今日のこと、お前、苦しゅうはないのか」
「苦しい? なんで苦しいんや」戸田は皮肉な調子で「なにも苦しむようなことはないやないか」
 勝呂は黙り込んだ。やがて彼は自分に言いきかせでもするように、弱々しい声で、
「お前強いなあ。俺あ……今日、手術室で眼をつむっておった。どう考えてよいんか、俺にはさっぱり今でも、わからん」
「なにが、苦しいんや」戸田は苦いものが咽喉もとにこみあげてくるのを感じながら言った。
「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したんやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変るもんやわ」
 戸田は眼をあげて真黒な空を眺めた。あの六甲小学校の夏休み、中学の校庭にたたされていた山口の姿、むし暑かった湖の夜、薬院の下宿で小さな血の塊をミツの子宮からとり出した思い出が彼の心をゆっくりと横切っていった。本当になにも変わらず、なにも同じだった。
「でも俺たち、いつか罰をうけるやろ」勝呂は急に体を近づけて囁いた。「え、そやないか。罰をうけても当たり前やけんど」
「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変わらんぜ」戸田はまた大きな欠伸をみせながら「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもや」
 だが、言いようのない疲労感をおぼえて戸田は口を噤(つぐ)んだ。勝呂などに説明してもどうにもなるものではないという苦い諦めが胸に覆いかぶさってくる。「俺はもう下におりるぜ」


「そやろか。俺たちはいつまでも同じことやろか」
 勝呂は一人、屋上に残って闇の中に白く光っている海を見つめた。何かをそこから探そうとした。
(羊の雲の過ぎるとき)(羊の雲の過ぎるとき)
 彼は無理矢理にその詩を呟こうとした。
(蒸気の雲が飛ぶ毎に)(蒸気の雲が飛ぶ毎に)
 だが彼にはそれができなかった。口の中は乾いていた。
(空よ。お前の散らすのは、白い、しいろい、綿の列)
 勝呂にはできなかった。できなかった……

                                     (『海と毒薬』−第三章 :「夜のあけるまで」U)
                       −『海と毒薬』 完


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だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐもぐさせる働きさへ、私にはなくなつて仕舞つたのです :
(だからおどろいたのです。かれのおもおもしいくちから、かれのおじょうさんにたいする」せつないこいをうちあけられたときのわたしを):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

其時彼は突然黙りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生から何か云はうとすると、云ふ前に能く口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易く開かない所に、彼の言葉の重みも籠つてゐたのでせう。一旦聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の強い力がありました。
 彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て來るなとすぐ疳付いたのですが、それが果たして何の準備なのか、私の豫覺は丸でなかつたのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐもぐさせる働きさへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。
 其時の私は恐ろしさの塊りと云ひませうか、何しろ一つの塊りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失はれた位に堅くなつたのです。幸ひな事に其状態は長く續きませんでした。私は一瞬間の後に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策つたと思ひました。先を越されたなと思ひました。
 然し其先を何うしやうといふ分別は丸で起りません。恐らく起る丈の餘裕がなかつたのでせう。私は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣に滲み透るのを凝と我慢して動かずにゐました。Kは其間何時もの通り重い口を切つては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顏の上に判然りした字で貼り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其所に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いてゐました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分何うしやう何うしやうといふ念に絶えず掻き亂されてゐましたから、細かい點になると殆ど耳へ入らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より強いのだといふ恐怖の念が萌し始めたのです。
 Kの話が一通り濟んだ時、私は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて黙つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書36」)



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多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥ずかしさもなく今日まで通してきたのだろうか :
(たしょうのあくならばしゃかいからばつせられないいじょうはそれほどのうしろめたさ、はずかしさもなくこんにちまでとおしてきたのだろうか):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

断っておくが、ぼくはこれらの経験を決して今だって苛責を感じて書いているのではないのだ。あの作文の時間も、蝶を盗んだことも、その罰を山口になすりつけたことも、従姉と姦通したことも、そしてミツとの出来ごとも醜悪だとは思っている。だが醜悪だと思うことと苦しむこととは別の問題だ。
 それならば、なぜこんな手記を今日、ぼくは書いたのだろう。不気味だからだ。他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感ぜす、それが除かれれば恐れも消える自分が不気味になってきたからだ。
 不気味といえば誇張がある。ふしぎのほうがまだピッタリとする。ぼくはあなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥ずかしさもなく今日まで通してきたのだろうか。そしてある日、そんな自分が不思議だと感じたことがあるだろうか。

                                     (『海と毒薬』−第2章:「裁かれる人々」U  医学生)



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ただ、一切は過ぎて行きます :
(ただ、いっさいはすぎてゆきます):

太宰 治:−『人間失格』−:

 いまは自分には、幸福も不幸もありません。
 ただ、一切は過ぎて行きます。
 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来たいわゆる「人間」の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
 ただ、一切は過ぎて行きます。
 自分は今年、二十七になります。白髪がっめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます

                                                  (『人間失格』−第三の手記)


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「ただ死ということだけが真だよ」 :
(ただしということだけがまことだよ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「そういう恩知らずは、えて哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々人間とご無沙汰になって……」
 「まことにすみません――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背(うしろ)にして――まるで動かんぜ」
 「退屈な帆だな。判然としないところが君に似ていらあ。しかしきれいだ。おやこっちにもいるぜ」
 「あの、ずっと向こうの紫色の岸の方にもある」
 「うん、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
 「「まるで夢のようだ」
 「何が」
 「何がって、眼前の景色がさ」
 「うんそうか。僕はなた君が何か思いだしたのかと思った。ものは君、さっさと片づけるに限るね。夢のごとしだって懐手をしていちゃ、だめだよ」
 「何を言ってるんだい」
 「おれのいうこともやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門が気炎をどこいらだろう」
 「なんでも向こう側だ。京都を瞰下ろしたんだから。こっちじゃない。あいつもばかだなあ」
 「将門か。うん、気炎を吐くより、反吐でも吐くほうが哲学者らしいね」
 「哲学者がそんなものを吐くものか」
 「ほんとうの哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨だね」
 「あの煙(けぶ)るような島はなんだろう」
 「あの島か、いやに縹渺としているね。おおかた竹生島だろう」
 「ほんとうかい」
 「なあに、いかげんさ。どうだって質(もの)さえたしかなら構わない主義だ」
 「そんなたしかなものが世の中にあるもか、だから雅号が必要なんだ」
 「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
 「ただ死ということだけが真だよ」
 「いやだぜ」
 「死に突き当たらなくっちゃ、人間の浮気はなかなかやまないものだ」
 「やまなくっていいから、突き当たるのはまっぴらご免だ」
 「ご免だって今に来る。来たときにああそうかと思い当たるんだね」
 「誰が」
 「小刀細工の好きな人間がさ」
 山を下りて近江の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄りつけぬ遠くに眺めているのが甲野さんの世界である。

                                                  (『虞美人草』 1)



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たゞ判斷に迷ふばかりでなく、何でそんな妙な事をするか其意味が私には呑み込めなかつたのです。理由を考へ出さうとしても、考へ出せない私は、罪を女といふ一字に塗り付けて我慢した事もありました。必竟女だからあゝなのだ、女といふものは何うせ愚なものだ :
(ただはんだんにまよふばかりでなく、なんでそんなみょうなことをするのかそのいみがわたしにはのみこめなかつたのです):

:−−:

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他人の死、母の愛――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命――そんなもに何の意味があろう :
(たにんのし、ははのあい――そんあものがなんだろう。いわゆるかみ、ひとびとのえらびとるせいかつ、ひとびとのえらびぶしゅくめい――そんなものになんのいみがあろう):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。。そのわけを私は知っている。君もまたそのわけを知っている。これでまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が、私の方へ立ち上がってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命――そんなもに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、わたしとともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか?誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう?

                                                  (『異邦人』−第2部5)

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他を軽蔑する前に、まづ自分を軽蔑してゐたものと見える :
(たをけいべつするまえに、まずじぶんをけいべつしてゐた):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠けようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近付く程の価値のんないものだから止せといふ警告を与へたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まづ自分を軽蔑してゐたものと見える。

                                                  (『こゝろ』−「先生と私4」)



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父は死病に罹つてゐる事をとうから自覺してゐた。それでゐて、眼前にせまりつつある死そのものには氣がつかなかつた :
(ちちはしびょうにかかつてゐることをとうからじかくしてゐた。それでゐて、がんぜんにせまりつつあるしそのもにはきがつかなかつた):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 父は死病に罹つてゐる事をとうから自覺してゐた。それでゐて、眼前にせまりつつある死そのものには氣がつかなかつた。
「今に癒つたらもう一辺東京へ遊びに行つて見よう。人間は何時死ぬか分らないからな。何でも遣りたい事は、生きているうちに遣つて置くに限る」
 母は仕方なしに「其時は私も一所に伴れて行つて頂きませう」などゝ調子を合わせてゐた。
 時とすると又非常に淋しがつた。
「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣つてくれ」
 私は此「おれが死んだら」といふ言葉に一種の記憶を有つてゐた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かつて何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であつた。私は笑を帶た先生の顏と縁*喜でもないと耳塞いだ奥さんの様子とを憶ひ出した。あの時の「おれが死んだら」は單純な假定であつた。今私が聞くのは何時起るか分らない事實であつた。私は先生に對する奥さんの態度を學ぶ事が出來なかつた。然し口の先では何とか父を紛らさねばならなかつた。

                                                  (『こゝろ』−「兩親と私10」)



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「血でもってふざけた了見を洗ったときに、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」 :
(ちでもってふざけたりょうけんをあらったときに、だい一ぎがやくぜんとあらわれる。にんげんはそれほどけいはくなものなんだよ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「人間の分子も、第一義が活動するといいが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭になっちまう」
 「お互いは第何義ぐらいだろう」
 「お互いになると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
 「これでかい」
 「いうことはたわいがなくっても、そこにおもしろみがある」
 「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
 「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
 「それこそ危険だ」
 「血でもってふざけた了見を洗ったときに、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」

                                                  (『虞美人草』 5)



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智に働けば角が立つ :
(ちにはたらけばかどがたつ):

夏目 漱石:−『草枕』−:

 山路をを登りながら、かう考へた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、畫が出来る。
 人の世を作ったものは~でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒兩隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す國はあるまい。あれば人でなしの國に行く許りである。人でなしの國は人の世よりも猶住みにくからう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。こゝに詩人といふ天職が出來て、畫家といふ使命が降る。あらゆる藝術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊いとい。

                                                  (『草枕』 1)




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造り付けの惡人が世の中にゐるものではないと云つた事を。多くの善人がいざとといふ場合に突然惡人になるのだから油斷しては不可ないと云つた事を :
(つくりつけのあくにんがよのなかにゐるものではないといつたことを。おおくのぜんにんがいざといふばあいにとつぜんあくにんになる):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 あなたは未だ覺えてゐるでせう。私がいつか貴方に、造り付けの惡人が世の中にゐるものではないと云つた事を。多くの善人がいざとといふ場合に突然惡人になるのだから油斷しては不可ないと云つた事を。あの時あなたは私に昂奮してゐると注意して呉れました。さうして何んな場合に、善人が惡人に變化するのかと尋ねました。私がたゞ一口金と答へた時、あなたは不滿な顏をしました。私はあなたの不滿な顏をよく記憶してゐます。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時此叔父の事を考へてゐたのです。普通のものが金を見て急に惡人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎*惡と共に私は此叔父を考へてゐたのです。私の答は、思想界の奥へ突き進んで行かうとするあなたに取つて物足りなかつたかも知れません、陳腐だつたかも知れません。けれども私にはあれが生きた答でした。現に私は昂奮してゐたではありませんか。私は冷かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きてゐると信じてゐます。血の力で體が動くからです。言葉が空氣に波動を傳へる許でなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける事が出來るからです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書8」)



[←先頭へ]

常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生ったようにはきりした妻の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠のいた時のごとくに、胸をなでおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕えに来るかわからないというぼんやりした懸念が、おりおり彼の頭のなかに霧となってかかった :
(つねよりもかんたんにとしをこすかくごをしたそうすけは、」よみがえったようにはきりしたさいのすがたをみて、おそろしいひげきが1歩とおのいたときのごとくに、むねをなでおろした):

夏目 漱石:−『門』−:

 お米の発作はようやく落ち付いた。今では外へ出ても、家の事がそれほど気にならないぐらいになった。よそに比べると閑静な春のしたくも、お米から言えば、年に一度の忙しさには違いなかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生ったようにはきりした妻の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠のいた時のごとくに、胸をなでおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕えに来るかわからないというぼんやりした懸念が、おりおり彼の頭のなかに霧となってかかった。

                                                  (『門』 13)


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つまり私は極めて高尚な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです :
(つまりわたしはきわめてこうしょうなあいのりろんかだつたのです。どうじにもっともうえんなあいのじっさいかだつたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御嬢さんではありません。奥さんの事です。奥さんに御嬢さんを呉れろと明白な談判を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日一日と私は斷行の延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます。又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑え付けて、一歩も動けないやうにしてゐました。Kの來た後は、もしかすると御嬢さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絶えず私を制するやうになつたのです。果して御嬢さんが私よりもKに心を傾けてゐるならば、この戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。耻を掻くかせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ます。此方でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯うか落ち付くものだ位の哲理では、承知する事が出来ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書34」)



[←先頭へ]

天意にはかなうが、人のおきてにそむく恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められる :
(てんいにはかなうが、ひとのおきてにそむくこいは、そのこいのぬしのしによって、はじめてしゃかいからみとめられる):

夏目 漱石:−『それから』−:

彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずるとおり発展させるか、または全然その反対にいでて、何も知らぬ昔に返るか。どっちかにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた。その他のあらゆる中途半端の方法は、偽りに始まって、偽りに終わるよりほかに道はない。ことごとく社会的に安全であって、ことごとく自己に対して無能無力である。と考えた。
 彼は三千代と自分の関係を、天意によって、――彼はそれを天意としか考え得られなかった。――発酵させる事の社会的危険を承知していた。天意にはかなうが、人のおきてにそむく恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然とした。
 彼はまた反対に、三千代との永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従う代わりに、自己の意志に殉ずる人にならなければ済まなかった。

                                                  (『それから』 13)




[←先頭へ]

「天気のせいより、生きているせいだよ」 :
(てんきのせいより、いきているせいだよ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 甲野さんは故(もと)の椅子に、故のとおりに腰を掛けて、故のごとくに幾何模様を図案している。丸い三つ鱗はとくにでき上がった。
 おいと呼ばれたとき、首を上げる。驚いたといわんよりは、激したといわんよりは、臆したといわんよりは、様子ぶったといわんよりはむしろはるかに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
 「君か」と言う。
 宗近君はつかつかとテーブルの角まで進んできたが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ少し開けよう」と上下の栓釘(ボールト)を抜き放って、真ん中の円鈕(ノッブ)を握るやいなや、正面のフランス窓を床を掃(はら)うごとく、一文字に開いた。室(へや)の中には、庭前に芽ぐむ芝生の緑とともに、広い春が吹き込んでくる。
 「こうするとたいへん陽気になる。ああいい心持ちだ庭の芝がだいぶ色づいてきた」
 宗近君はふたたびテーブルまで戻って、はじめて腰をおろした。今先方謎の女が坐っていた椅子の上である。
 「なにをしているね」
 「うん?」と言って鉛筆の進行を留めた甲野さんは、
 「どうだ。なかなかうまいだろう」と模様でいっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、テーブルの上を滑らせる。
 「なんだこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
 「もう一時間以上書いている」
 「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
 甲野さんはなんとも言わなかった。
 「これが哲学となにか関係でもあるのかい」
 「あってもいい」
 「万有世界の哲学的象徴とでもいうんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋の上絵師と哲学者という論文でも書く気じゃまいか」
 甲野さんは今度もなんとも言わなかった。
 「なんだか、どうも相変わらずぐずぐずしているね。いつ見ても煮えきらない」
 「今日は特別煮えきらない」
 「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
 「天気のせいより、生きているせいだよ」
 「そうさね、煮えきってぴんぴんしているものはたんとないようだ。お互いにも、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
 「いつまでも浮世の鍋の中で、煮えきれずにいるのさ」
 甲野さんはここにいたってはじめて笑った。

                                                  (『虞美人草』 17)



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道義の觀念が極度に衰へて、生を欲する萬人の社會を滿足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る :
(どうぎのかんねんがきょくどにおとろへて、せいをほっするばんにんのしゃかいをまんぞくにいじしがたきとき、ひげきはとつぜんとしておこる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:
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 死を忘るゝものは贅澤になる。一浮も生中である。一沈も生中である。一擧手も一投足も悉く生中にあるが故に、如何に踴(をど)るも、如何に狂ふも、如何に巫山戯るも、大丈夫生中を出づる氣遣なしと思ふ。贅澤は高じて大膽となる。大膽は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
 萬人は悉く生死の大問題より出立する。此問題を解決して死を捨てると云ふ。生を好むと云ふ。是(こゝ)に於て萬人は生に向つて進んだ。只死を捨てると云ふに於て、萬人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の條件たる道義を、相互に守るべく默契した。去れども、萬人は日に日に生に向つて進むが故に、日に日に死に背いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞なしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
 道義に重(おもき)を置かざる萬人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。巫山戯る、騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――悉く萬人が喜劇より受くる快樂である。此快樂は生に向つて進むに從つて分化發展するが故に――此快樂は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に――喜劇の進歩は底止する所を知らずして、道義の觀念は日を追ふて下る。
 道義の觀念が極度に衰へて、生を欲する萬人の社會を滿足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。是に於いて萬人の眼は悉く自己の出立點に向ふ。始めて生の隣りに死が住む事を知る。妄りに踴り狂ふとき、人をして生の境を踏み外して、死の圏内に入らしむる事を知る。人もわれも尤も忌み嫌へる死は、遂に忘る可からざる永劫の陥穽なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかゝる道義の縄は妄りに飛び超ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。而して始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
 二ヶ月後甲野さんは此一節を抄録して倫敦の宗近君に送った。宗近君の返事にはかうあつた。――――
 「此所では喜劇ばかり流行る」

                                                  (『虞美人草』 19)− 『虞美人草』 完


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どうでもいい。俺が解剖を引きうけたのはあの青白い炭火のためかもしれない。戸田の煙草のためかもしれない。あれでもそれでも、どうでもいいことだ。替えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ :
(どうでもいい。おれがかいぼうをひきうけたのはあのあおじろいすみびのためかもしれない。とだのたばこのためかもしれあい。あれでもそれでも、どうでもいいことだ、考えぬこと。ねむること。かんがえてもしかあのないこと。おれひとりではどうにもならないよのなかなのだ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 闇の中で眼をあけていると、海鳴りの音が遠く聞えてくる。その海は黒くうねりながら浜に押し寄せ、また黒くうねりながら退いていくようだ。
 俺は何故、この解剖にたちあうことを言いふくめられたのだろうと勝呂は目がさめた時、考える。言いふくめられたというのは間違いだ。たしかにあの午後、柴田助教授(アスプロ)の部屋で断ろうと思えば俺は断れたのだ。それを黙って承諾してしまったのは戸田に引きずられたためだろうか。それともあの日の頭痛と吐気のためだろうか。炭火が青白く燃え、戸田の吸う煙草の臭いのために頭はぼんやりとしていた。「どうする。勝呂君」浅井助手が縁なしの眼鏡を光らせながら顔を近づけてきた。「君の自由なんだよ。本当に」(中 略)
 どうでもいい。俺が解剖を引きうけたのはあの青白い炭火のためかもしれない。戸田の煙草のためかもしれない。あれでもそれでも、どうでもいいことだ。替えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ。
 眠っては目があき、目があくとまたうとうとと勝呂は眠った。夢の中で彼は黒い海に破片のように押し戻される自分の姿を見た。

                                                  (『海と毒薬』−第1章X)


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所が『覺悟』といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだんだん色を失つて、仕舞にはぐらぐら揺き始めるやうになりました。私は此場合も或は彼にとつて例外でないかも知れないと思ひだしたのです。凡ての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を彼の胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新しい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚きました :
(ところが『かくご』といふかれのことばを、あたまのなかでまんべんもそしゃくしてゐるうちに、わたしのとくいはだんだんいろをうしなつて、しまいにはぐらぐらうごきはじめるやうになりました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 Kの果斷にに富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしつかり攫まへた積で得意だつたのです。所が『覺悟』といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだんだん色を失つて、仕舞にはぐらぐら揺き始めるやうになりました。私は此場合も或は彼にとつて例外でないかも知れないと思ひだしたのです。凡ての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を彼の胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新しい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚きました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一辺彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼でした。私はたゞKが御嬢さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが即*ち彼の覺悟だらうと一圖に思ふ込んでしまつたのです。
 私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は黙つて機會を覘つてゐました。しかし二日經つても三日經つても、私はそれを捕まへる事が出来ません。私はKのゐんさい時、又御嬢さんの留守な所を待つて、奥さんに談判を開かうと考へたのです。然し片方がゐなければ、片方が邪魔をするといつた風の日ばかりが續いて、何うしても『今だ』と思ふ好都合が出て來て呉れないのです。私はいらいらしました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書44」)



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鳥という字が鴃の字になった。その下に舌の字がついた :
(とりというじがげきのじになった。そのしたにしたのじがついた):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 甲野さんの手はこの時はじめて額を離れた。テーブルの上には一枚の罫紙に鉛筆が添えて載せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三、四行の英語が書いてある。読みかけて気がついた。昨日読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そままに捨てておいた紙片(かみきれ)である。甲野さんは罫紙をテーブルの上に伏せた、
 母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆をとって紙の上へ烏という字を書いた。
 「どうだろうね」
 烏という字が鳥になった、
 「そうしてくれるといいがね」
 鳥という字が鴃の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。

                                                  (『虞美人草』 15)


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 な 

泣いて人を動かそうとするほど、低級趣味のものではない :
(ないてひとをうごかそうとするほど、ていきゅうしゅんみのものはない):

夏目 漱石:−『それから』−:

けれども、代助はは泣いて人を動かそうとするほど、低級趣味のものではないと自信している。およそ、何が気障だって、思わせぶりの、涙や、煩悶や、まじめや、熱意ほど気障なものはないと自覚している。

                                                  (『それから』 6)

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「なぜ、注射しようとしました」戸口でヒルダさんは男のように腕を組み、わたしに難詰しました。「死なそうとしたのですね。わかっていますよ」 :
(なぜ、ちゅうしゃしようとしました」とぐちでひるださんはおとこのいようにうでをくみ、わたしになんきつしました):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 大部屋へ行くと五、六人の患者にかこまれた中で、前橋という女は眼を引きつらせ、胸をかきむしって苦しんでいました。看護婦のわたしが見ても自然気胸をおこしたことはハッキリしていました。胸膜腔に空気が流れこんで放っておくと危ないのです。
 研究室に走っていきましたが助手の浅井さんも戸田さんも勝呂さんもみな手術(オペ)にたち会っています。手のあいているのは助教授(アスプロ)の柴田先生だけですが、その柴田先生もどこにも見当たらなく、早く空気を抜かなければ病人は窒息してしまいますからわたしは手術室に電話をかけたのです。
「浅井先生はいる?」
 受話器に出た河野看護婦にわたしは早口にたずねました。「病人が一人、自然気胸をおこしたんよ」
 受話器の奥ではなぜか知らないがサンダルの駆けまわる音がきこえました。わたしはふしぎな気がしましたが、それは普通の時は手術室は気味のわるいほど静かだからです。
「何なの、君」突然、起こったような浅井さんの声が耳もとに響いてきました。ひどく動揺しているような声です。
「大部屋の前橋トキが自然気胸を起こしたんですけど」
「そんなの、知らんよ。忙しいんだぜ、こちらは。ほっときなさいよ」
「どうせ助からん患者だろ。麻酔薬をうって……」
 あとが聴きとれぬうちに、浅井さんが受話器をガチャッと切ってしまいました。(麻酔薬をうって……)とわたしは考えました。(麻酔薬をうって……)
 どうせ死ぬ患者だろう、という彼の声が心に浮かびます。黄昏の陽が研究室の窓からはいって机の上に白い埃が溜まっていました。わたしは麻酔用のプロカイン液のはいった瓶と注射針とを持って大部屋に戻ったのですがその時病人のベッドの金具をズボンをはいたヒルダさんが握りしめているのを見ました。
「気胸台(グラース)を早く。看護婦さん」と彼女は叫びました。むかし独逸で病院に勤めていたという彼女は前橋トキが自然気胸を起こしたことを一目で見てとったのでしょう。突然彼女はプロカインの瓶と注射針に視線をやり、顔色を変えました。突きとばすようにわたしを押しのけると、ヒルダさんは大部屋を走り出て気胸台を探しに行きました。
 床に粉々に落ちた瓶の破片を集めてわたしは患者たちの視線を背に感じながら看護婦室に戻りました。窓のむこうを夕陽が落ちかかっています。それはあの大連の満鉄病院でわたしが病室からよく眺めたものとそっくりに大きく赤く燃えていました。
「なぜ、注射しようとしました」戸口でヒルダさんは男のように腕を組み、わたしに難詰しました。「死なそうとしたのですね。わかっていますよ」
「でも……」床に視線を落としたまま、わたしはくたびれた声で答えました。「どうせ近い内に死ぬ患者だったんです。安楽死させてやった方がどれだけ、人助けか、わかりゃしない」
「死ぬことがきまっても、殺す権利はだれにもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまを信じないのですか」
 ヒルダさんは右の手ではげしく机を叩きました。彼女のブラウスから石鹸の香りがにおいます。日本人のわたしたちが今の世の中では持っていない石鹸。ヒルダさんが大部屋の患者たちの腰巻きや下着を洗ってやる石鹸。わたしはなんだかおかしくなってきました。机をたたいているヒルダさんの右手はその石鹸のためか荒れて、砂のようにガサガサとした感じです。白人の皮膚がこんなに汚いとは思いませんでした。うすい金色の生毛さえその上に生えているのです。最初はおかしかったがそれを聞いているうちに面倒臭くなり始めました。暗い太鼓のような夜の海鳴りの音がわたしの心に拡がってきました。

                                     (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」T 看護婦)



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なぜ働かないって、そりゃ僕が僕が悪いんじゃない :
(なぜはたらかないって、そりゃぼくがわるいんじゃない):

夏目 漱石:−『それから』−:

 「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと大げさに言うと、日本対西洋の関係がだめだから働かないのだ。第一、日本ほど借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、いつになったら返せると思うか。そりゃ外債ぐらいは返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ちゆかない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方向に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまた。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争する蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんなわれわれ個人の上に反射しているからみたまえ。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の回るほどこき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話をしてみたまえたいていはばかだから。自分の事と、自分の今日の、只今の事よりほかに、何も考えてやしない。考えられないほど疲労しているんだからしかたがない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退もいっしょに来ている。日本国じゅうどこを見渡したって、輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。ことごとく暗黒だ。その間に立って僕一人が、なんと言ったって、何をしたって、しようがないさ。

                                                  (『それから』 6)

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(なるほど、お前はなにもしなかったとさ。おばはんが死ぬ時も、今度もなにもしなかった。だがお前はいつも、そこにいたのじゃ。そこにいてなにもしなかったのじゃ) :
(なるほど、おまえはなにもしなかったとさ。おばはんがしゅぬときも、こんどもなにもしなかった。だがおまえはいつもそこにいたのじゃ。そこにいてなにもしなかったのじゃ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 どこへ行ってよいのかわからない。何をしてよいのかもわからない。手術室の中にはまだおやじも助教授(アスプロ)も浅井助手も、戸田も残っているけれども勝呂はそこへ戻ることはできなかった。
 殺した、殺した、殺した、殺した……耳もとでだれかの声がリズムをとりながら繰りかえしている。(俺あ、なにもしない)勝呂はその声を懸命に消そうとする。(俺あ、なにもしない)だがこの説得も心の中で撥ねかえり、小さな渦をまき、消えていった。(なるほど、お前はなにもしなかったとさ。おばはんが死ぬ時も、今度もなにもしなかった。だがお前はいつも、そこにいたのじゃ。そこにいてなにもしなかったのじゃ)階段をおりる自分の靴音を聞きながら彼は二時間前、あの米兵がなにも知らず、ここをのぼってきたのだなと思った。と、勝呂の眼にあの途方に暮れたような表情をした米国人捕虜の姿がはっきり浮かんだ。それから突然、手術室で四肢を切断した血まみれの肉塊の上に白布をすばやく覆った大場看護婦長のことが甦ってきた。
 烈しい嘔気が彼の咽喉もとにこみあげてきた。窓に靠れて彼は自分が医学部の学生の頃から血にまみれた肉や四肢を見なれてきた筈だと言いきかせようとした。にもかかわらず、あの血の色、あの肉の色は手術の時や死体解剖の時に眺め続けてきたものとはちがっていた。おそらく、この嘔気は肉塊や血の色ではなく、それをかくそうとした大場看護婦長のみにくい動きを思いだして起こったのだろうか。

                                     (『海と毒薬』−第三章:「夜のあけるまで」T)

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肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壊されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます :
(にくたいなりせいしんなりすべてわれわれののうりょくは、がいぶのしげきで、はったつもするし、はかいもされるのでせうが):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 Kは私より強い決心を有してゐる男でした。勉強も私の倍位はしたでせう。其上持つて生まれた頭の質が私よりずつと可かつたのです。後では専門が違いましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも、高等學校でも、Kの方が常に上席を占めてゐました。私には平生から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が強いてKを私の宅へ引張つて來た時には、私の方が能く事理を辨へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壊されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の説明を聞くと、人間の胃袋程横着なものはないさうです。粥ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化す力が何時の間にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうかと思ひます。もし反對に胃の力の方がぢりぢり弱つて行つたなら結果は何うなるだらうと想像して見ればしぐ解る事です。Kは偉大な男でしたけれども、全く此所に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極めてゐたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すといふだけの功徳で、其艱苦が氣にかゝらなくなる時機に邂逅へるものと信じ切つてゐたらしいのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書24」)

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二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出すぎるとはたかれる :
(にじっせいきのかいわはこうみょうなるいっしゅのげいじゅつである。でねばようりょうをえぬ。ですぎるとはたかれる):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 人に示すときは指を用いる。四つを掌に折って、余る第二指のありたけにあれぞとさすとき、さす手はただ一筋の紛れもなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当たるとも、当たると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五本の指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとはいえぬ。しかし変だ。物足らぬとはさす指の短きにすぐる場合をいう。足り余るとはさす指の長きに失するときであろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るともいえぬ。足り余るとも評されぬ。
 人にさす指の、細そりと爪先に肉を落とすとき、明らかなる感じはしだいに爪先に集まって焼点を構成(かたちづ)る。藤尾の指は爪先の紅を抜け出でて縫針の尖(とが)れるに終わる。見るもの目は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得すぎたものは欄干を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
 藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
 「しばらくお目にかかりませんね。よくいらしったこと」と藤尾は主人役に言う。
 「父一人で忙しいものですから、ついご無沙汰をして……」
 「博覧会へでもいらっしゃらないの」
 「いいえ、まだ」
 「向島は」
 「まだどこへも行かないの」
 宅にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の目尻には答えるたびに笑いの影が翳(さ)す。
 「そんなにご用がおありなの」
 「なにたいした用じゃないんですけれども……」
 糸子の答えはたいがいが半分で切れてしまう。
 「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
 「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
 「一年に一度ですけども、死ねば今年限りじゃありませんか」
 「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
 二人の会話は互いに、死という字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は淺草へ行く路である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向こう側へ連れて行こうとした。相手は墓に向こう側のあることさえ知らなかった。
 「今に兄がお嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が言う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生まれたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この目は、この袖は、この詩とこの歌は、鍋、炭取りの類ではない。美しい世に動く、美しい影である。実用の二字を冠(かむ)らされたとき、女は――美しい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
 「一さんは、いつ奥さんをお貰いなさるおつもりなんでしょう」と話だけは上滑りして前へ進む。糸子は返事をするまえに顔をあげて藤尾を見た。戦争はだんだん始まってくる。
 「いつでも、来てくださるかたがあれば貰うだろうと思いますの」
 今度は藤尾のほうで、返事をするまえに糸子をじっと見る。針はまさかの用意に、なかなか瞳のうちには出てこない。
 「ホホホホどんなりっぱな奥さんでも、すぐにできますわ」
 「ほんとうにそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ絡まってくる。藤尾はちょっと逃げておく必要がある。
 「どなたか心当たりはないんですか。一さんが貰うと極まれば本気に捜しますよ」
 黐竿(もちざお)は届いたか、届かないか、分からぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んでみる必要がある。
 「ええ、どうぞ捜してちょうだい、私の姉さんのつもりで」
 糸子は際どいところを少し出すぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出すぎるとはたかれる。
 「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向こうで入れる捜索(さぐり)の綱を、ぷつりと切って、逆さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
 「なぜ?」と首を傾ける。
 放つ矢の中らぬはこちらの不手ぎわである。中ったのに手答えもなく装わるる不器量である。女は不手ぎわよりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を噛んだ。ここまで推して停まるは、ただ勝つことを知る藤尾にはできない。
 「あなたは私の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で言う。
 「あらっ」と糸子の頬に吾を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心のうちに冷笑(あざわら)って引き上げる。
 甲野さんと宗近君の相談のうえ取り極めた格言にいう。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人(ふたり)の妹は肝胆の外廓(そとぐるわ)で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と言った。

                                                  (『虞美人草』 6)




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日本が勝とうが、負けようが、わたしにはどうでもいいことでした。医学が進歩しようがしまいが、どうでもいいことでした(中略)あの夕暮、看護婦室で神さまがこわくないかと叫んだヒルダさんの言葉を思いだして、わたしは微笑しました。自分の夫がやがてなにをするかヒルダさんは知らない。けれども、わたしは知っています :
(にっぽんがかとうが、まけようが、わたしにはどうでもいいことでした。いがくがしんぽしようがしまいが、どうでもいいことでした):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 米国の捕虜を手術するときいたのはその夜です。第一外科では部長も柴田先生も研究生の戸田さん、勝呂さんたちもたち会うのだが、手伝う看護婦がいないと言うのです。
「だから、わたしの所に来たというのね」わたしは引きつった声で笑いました。
「そうじゃないさ。国のためだからな。どうせ死刑にきまっていた連中だもの。医学の進歩にも役だつわけだよ」浅井さんは自分でも信じていない理由をあげて、照れ臭そうに、「手伝ってくれるだろう」
「わたしはなにも国のために承知するんじゃなくってよ。先生たちの研究のためでもなくってよ」
 日本が勝とうが、負けようが、わたしにはどうでもいいことでした。医学が進歩しようがしまいが、どうでもいいことでした。
「部長先生はそのこと、ヒルダさんに打明けたかしら」
「冗談じゃないよ。君も誰にもしゃべっちゃ、いけないよ」
 あの夕暮、看護婦室で神さまがこわくないかと叫んだヒルダさんの言葉を思いだして、わたしは微笑しました。自分の夫がやがてなにをするかヒルダさんは知らない。けれども、わたしは知っています。

                                     (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」T 看護婦)

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人間は熱誠をもって当たってしかるべきほどに高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常駐住に有するものではない :
(にんげんはねっせいをもってあたってしかるべきほどに、こうしょうな、しんしな、じゅんすいな、どうきやこういをじょうじゅうにゆうするものではない):

夏目 漱石:−『それから』−:

彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと言われていた。彼の解剖によると、事実はこうであった。――人間は熱誠をもって当たってしかるべきほどに高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常駐住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、しからざれば、熱誠をてらって、おのれを高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは言えまいが、よりよく人間を解剖した結果にほかならなかった。

                                                  (『それから』 13)


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人間を愛し得る人、愛せずにはゐられない人、それでゐて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――是が先生であつた :
(にんげんをししうるひと、あいせずにはゐられないひと、それでゐてじぶんのふところにはいろうとするものを、てをひろげてだきしめることのできないひと):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

先生は何時も静であつた。ある時は静過ぎて淋しい位であつた。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるやうに思つてゐた。それでゐて、何うしても近づかなければ居られないといふ感じが、何處かに強く働らいた。然し斯ういふ感じを先生に對して有つてゐたものは、多くの人のうちで或は私だけかも知れない。然し其私丈には此直感が後になつて事實の上に證據立てられたのだから、私は若々しいと云はれても、馬鹿氣てゐると笑はれても、それを見越した自分の直覺をとにかく頼もしく又嬉しく思つてゐる。人間を愛し得る人、愛せずにはゐられない人、それでゐて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――是が先生であつた。

                                                  (『こゝろ』−「先生と私6」)




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 は 

恥の多い生涯を送って来ました :
(はじのおおいしょうがいをおくってきました):

太宰 治:−『人間失格』−:

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生まれましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために作られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊技場みたいに、複雑に楽しく、ハイからにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊技で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗(すこぶ)る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興がが覚めました

                                                  (『人間失格』−第一の手記)


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はっきり言えば、ぼくは他人の苦痛やその死にたいしても平気なのだ :
(はっきりいえば、ぼくはたにんのくつうやそのしにたいしてもへいきなのだ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 姦通だけではない。罪悪感の乏しさだけではない。ぼくはもっと別な別なことにも無感覚なようだ。今となっては、これを打明ける必要もあるだろう。はっきり言えば、ぼくは他人の苦痛やその死にたいしても平気なのだ。医学生としての数年間、ぼくは多くの病人が苦しんでいる生活の中で暮してきた。彼等が死ぬのも数多く見てきた。時には手術で患者を殺してしまう場面にも立ちあってきた。それらの一つ、一つにこちらまで頭をかかえるわけにはいかないのだ。
「先生。お願いです。麻酔をうってやってつかあさい」
 肺手術後の患者が呻きつづけ、それを聞くに耐えられなくなった家族が泣くように頼んででも、ぼくは冷たく首をふることができる。「麻酔はこれ以上うつと、かえって危険ですよ」だが、ぼくは内心ではそうした患者や家族の我儘をうるさい、としか思っていないのだ。
 病室で誰かが死ぬ。親や姉妹が泣いている。ぼくは彼等の前で気の毒そうな表情をする。けれども一歩、廊下に出た時、その光景はもう心にはない。
 こうした、病院での生活、医学生としての日常はいつかぼくに他人にたいする憐憫や同情の感覚を磨り減らせていったとうである。

                                                  (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」U 医学生)



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花は虞美人草である。落款は抱一である :
(はなはぐびじんそうである。らっかんはほういつである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 逆に立てたのは二枚折の銀屏である。一面には冴へて返る月の色の方六尺のなかに、會
釋もなく閂青を使つて、柔婉(なおやか)なる茎を亂るる許りに描いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉を描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞を、絞りに畳み込んだ様に描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。凡てが銀(しろがね)の中に咲く。落つる銀の中と思はせる程に描いた。―花は 虞美人草である。落款は抱一である。

                                                  (『虞美人草』 19)






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春に誇るものは悉く亡ぶ :
(はるにほこるものはことごとくほろぶ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 凝る雲の底を抜いて、小一日空を傾けた雨は、大地の髄に浸み込む迄降つて歇んだ。春は茲に盡きる。梅に、櫻に、桃に、李に、且つ散り、且つ散つて、残る紅も亦夢のやうに散つて仕舞つた。春に誇るものは悉く亡ぶ。我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。花に相手を失つた風は、徒に亡き人の部屋に薫り初める。
 藤尾は北を枕に寐る。薄く掛けた友禅の小夜着には片輪車を、浮世らしからぬ恰好に、染め抜いた。上には半分程色づいた蔦が一面に這ひかゝる。淋しき模様である。動く氣色もない。敷布團は厚い郡内を二枚重ねたらしい。塵さへ立てぬ敷布(シート)を滑かに敷き詰めた下から、粗い格子の黄と焦茶が一本宛(づつ)見える。

                                                  (『虞美人草』 19)




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引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、この時だった :
(ひきがねはしなやかだった。わたしはじゅうびのすべっこいはらにさわった。かわいた、それでいて、みみをろうするごうおんとともに、すべてがはじまったのは、このときだった):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。そのときのように、特に額に痛みを感じ、ありとある血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、分かっていた。(中 略)海は重苦しく、激しい息吹を運んできた。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、この時だった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。

                                                  (『異邦人』−第一部5)



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悲劇は喜劇よりも偉大である :
(ひげきはきげきよりもいだいである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 悲劇は喜劇よりも偉大である。之を説明して死は萬障を封ずるが故に偉大だと云ふものがある。取り返しが付かぬ運命の底に陥て、出て來ぬから偉大だと云ふのは、流るゝ水が逝(ゆ)ひて歸らぬ故に偉大だと云ふと一般である。運命は單に最集結を告ぐるが爲にのみ偉大にはならぬ。忽然として生を變じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に點出するから偉大なのである。巫山戯たるものが、急に襟を正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更の如く感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を腦裏に樹立するが故に偉大なのである。道義の運行は悲劇に際會して始めて澁滞せざるが故に偉大なのである。道義の實践はこれを人に望む事切なるにも拘はらず、われの尤も難(かた)しとする所である。悲劇は個人をして此實践を敢てせしむるが爲に偉大である。道義の實践は他人に尤も便宜にして、自己に尤も不利益である。人々(にんにん)力を茲に致すとき、一般の幸福を促がして、社會を眞正の文明に導くが故に、悲劇は大である。

                                                  (『虞美人草』19)




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非合法。自分にはそれが幽かに楽しかったのです :
(ひごうほう。じぶんにはそれがひそかにたのしかったのです):

太宰 治:−『人間失格』−:

 好きだったからなのです。じぶんには、その人たちが、気にいていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスによって結ばれた親愛感ではなかったのです。 非合法。自分にはそれが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓のない、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に至るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。


                                                  (『人間失格』−第二の手記)



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必竟は、三千代が平岡にとつぐ前、すでに自分にとついでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた :
(ひっきょうは、みちよがひらおかにつつぐまえ、すでにじぶんにとついでいたのもおなじことだとかんがえつめたとき):

夏目 漱石:−『それから』−:

いところで切り上げたという意識があるべきはずであるのに、彼の心にはそういう満足がちっともなかった。もっと三千代と対座していて。自然の命ずるがままに、話し尽くして帰ればよかったという後悔もなかった。彼は、あすこで切り上げても。五分十分ののちに切り上げても、必竟は同じ事であったと思い出した。自分と三千代との現在の関係は、この前会った時、すでに発展していたのだと思い出した。否、その前会った時すでに、と思い出した。代助は二人の過去を順次にさかのぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を身いださない事はなかった。必竟は、三千代が平岡にとつぐ前、すでに自分にとついでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。

                                                  (『それから』 13)



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一つの心配はこの恐ろしいあらしの中から、いかにして三千代を救いうべきかの問題であった :
(ひとつのしんぱいはこのおそろしいあらしのなかから、いかにしてみちよをすくいうべきかのもなだうであった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 彼は家に帰った。父に対してはただ薄暗い不愉快の影が頭に残った。けれどもこの影は近き未来において必ずその暗さを増してくるべき性質のものであった。その他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分がこれから流れてゆくべき方向を示していた。一つは平岡と自分をぜひともいっしょに巻き込むべきすさまじいものであった。代助はこのあいだ三千代に会ったなりで、片々のほうは捨ててある。よしこれから三千代の顔を見るにしたところで、――また長い間見ずにいる気はなかったが――二人の向後取るべき方針について言えば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかった。この点に関して、代助はわれながら明確な計画をこしらえていなかった。平岡と自分を運び去るべき将来についても、彼はただいつ、何事にでも用意ありというだけであった。無論彼は機を見て、積極的に働きかける心組みはあった。けれども具体的な案は一つも準備しなかった。あらゆる場合において、彼の決して仕損じまいと誓ったのは、すべてを平岡に打ち明けるという事であった。従って平岡と自分とで構成すべき運命の流れは黒く恐ろしいものであった。一つの心配はこの恐ろしいあらしの中から、いかにして三千代を救いうべきかの問題であった。
 最後に彼の周囲を人間のあらん限り包む社会に対しては、彼はなんの考えもまとめなかった。事実として、社会は制裁の権を有していた。けれども動機行為の権は全く自己の天分からわいて出るよりほかに道はないと信じた。かれはこの点において、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であった。

                                                  (『それから』 15)



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人とけんかをするのは、人間の堕落の一範疇になっていた :
(ひととけんかをするのは、にんげんのだらくの一はんちゅうになっていた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助は父をおこらせる気は少しもなかったのである。彼の近ごろの主義として、人とけんかをするのは、人間の堕落の一範疇になっていた。けんかの一部分としとして、人を怒らせるのは、おこらせる事自身よりは、おこった人の顔色が、いかに不愉快にわが目に映ずるかという点において、大切なわが生命を傷つける打撃にほかならぬと心得ていた。彼は罪悪にについても、彼自身に特有な考えを持っていた。けれども、それがために、自然のままにふるまいさえすれば、罰を免れうるとは信じていなかった。人を切ったものの受くる罰は、切られた人の肉から出る血潮であると固く信じていた。ほとばしる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起こさないものはあるまいと感ずるからである。代助はそれほど神経の鋭い男であった。だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になった。けれどもこの罪を二重に償うために。父の言うとおりにしようという気はちっとも起こらなかった。彼は一方において、自己の脳力に、非常な尊敬を払う男であったからである。

                                                  (『それから』 9)



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広い世の中で、自分たちのすわっている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助はお米だけを、お米はまた宗助だけを意識して、ランプの力の届かない暗い社会は忘れていた :
(ひろいよのなかで、じぶんたちのすわっているところだけがあかるくおもわれた。そうしてこのあかるいひかげに、そうすけはおよねだけを、およねはそうすけだけをいしきしして、ランプのちからのとどかないくらいしゃかいはわすれていた):

夏目 漱石:−『門』−:

 やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口からしんとしていた。夫婦は例のとおりランプのもとに寄った。広い世の中で、自分たちのすわっている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助はお米だけを、お米はまた宗助だけを意識して、ランプの力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らしてゆくうちに、自分たちの生命を見いだしていたのである。

                                                  (『門』 5)



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貧乏のならひかゝる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ :
(びんぼうのならひかかることもするものとひとのいひはせぬか):

樋口 一葉:−『大つごもり』−:

お峯は此出来事も何として耳に入るべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻(さっき)の仕業はと今更夢路を辿りて、おもへば此事あらはれずして済むべきや、万が中(なか)なる一枚とても数ふれば目の前なるを、願ひの高に相応の員数(ゐんず)手近の処になく成しとあらば、我れにしても疑ひは何処に向くべき、調べられなば何とせん、何といはん、言ひ抜けんは罪深し、白状せば伯父が上にもかゝる、我が罪は覚悟の上なれど物がたき伯父様にまで濡れ衣を着せて、干されぬは、貧乏のならひかゝる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ、伯父様に疵のつかぬやう、我身が頓死する法は無きかと目は御新造が起居(たちゐ)にしたがひて、心はかけ硯のもとにさまよひぬ。

                                                  (『大つごもり』 下)




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不意に三千代という名が心に浮かんだ。つづいて、だからさっき言った金を貸して下さい、という文句がおのずから頭の中にできあがった :
(ふいにみちよというながこころにうかんだ):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助は今まで嫁の候補としては、ただの一人も好いた女を頭の中に指名していた覚えがなかった。が、今こう言われた時、どういうわけか、不意に三千代という名が心に浮かんだ。つづいて、だからさっき言った金を貸して下さい、という文句がおのずから頭の中にできあがった。――けれども代助はたさ苦笑して嫂の前にすわっていた。

                                                  (『それから』 7)



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夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに耐えかねて、抱き合って暖ををとるような具合に、お互いどうしをたよりとして暮らしていた :
(ふうふはよのなかのひのめをみないものが、さむさにたえかねて、だきあってだんをとるようなぐあいに、おたがいどうしをたよりとしてくらしていた):

夏目 漱石:−『門』−:

 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに耐えかねて、抱き合って暖ををとるような具合に、お互いどうしをたよりとして暮らしていた。苦しい時には、お米がいつでも宗助に、
 「でもしかたがないわ」と言った。宗助はお米に、
 「まあ我慢するさ」と言った。
 二人の間にはあきらめとか、忍耐とかいうものが、絶えず動いていたが、未来とか希望というものの影は、ほとんどささないように見えた。彼らはあまり多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえ会った。お米が時として、
 「そのうちにはまたきっといい事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」
と夫を慰めるように言う事があった。すると、宗助にはそれが真心ある妻の口をかりて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそういう場合には、なんにも答えずにただ苦笑するだけであった。お米がそれでも気がつかずに、なにか言い続けると、
 「われわれは、そんないい事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつのまにか、自分たちは自分たちのこしらえた、過去という暗い大きな窖(あな)の中に落ちている。
 彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹(とまつ)した。だから歩いている先のほうには、花やかな色彩を認める事ができないものとあきらめて、ただ二人手を携えてゆく気になった。

                                                  (『門』 4)

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夫婦は和合同棲という点において、人並み以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった :
(ふうふはわごうどうせいというてんにおいて、ひとなみいじょうにせいこうしたとどうじに、こどもにかけては、いっぱんのりんじんよりもふこうであった):

夏目 漱石:−『門』−:

するとお米は急に、
 「私は実にあなたにお気の毒で」とせつなそうに言い訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。ランプはいつものように床の間の上にすえてあった。お米は灯にそむいていたから、宗助には顔の表情がはっきりわからなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まで仰向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向きなおった。そうして、薄暗い影になったお米の顔をじっとながめた。お米も暗い中からじっと宗助を見ていた。そうして、
 「とうからあなたに打ち明けてあやまろうと思っていたのですが、つい言いにくかったもんだから、それなりにしておいたのです」ととぎれとぎれに言った。宗助にはなんの意味かまるでわからなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらくぼんやりしていた。するとお米が思い詰めた調子で、 「私にはとても子供のできる見込みはないのよ」と言い切って泣き出した。
 宗助はこの可憐な自白をどう慰めていいか、分別に余って当惑していたうちにも、お米に対してはなはだ気の毒だという思いが非常に高まった。
 「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生まれてごらん。はたから見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
 「だって一人もできないときまっちまったら、あなただってよかないでしょう」
 「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生まれるかもしれないやね」
 お米はなお泣き出した。宗助も途方に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、ゆっくりお米の説明を聞いた。
 夫婦は和合同棲という点において、人並み以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それも始めから宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落としたのだから、さらに不幸の感が深かった。

                                                  (『門』 13)



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藤尾の表情は忽然として憎惡となつた。憎惡は次第に嫉妬となつた。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した :
(ふじおのひょうじょうはこつぜんとしてぞうおとなつた。ぞうおはしだいにしととなつた。しつとのもっともふかくきざみこまれとき、ぴたりとかせきした):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 宗近君は二三歩大股に歩いて來た。
 「僕が紹介してやらう」と一足小野さんを横へ押し退けると、後から小さい小夜子が出た。
 「藤尾さん、是が小野さんの妻君だ」
 藤尾の表情は忽然として憎惡となつた。憎惡は次第に嫉妬となつた。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
 「まだ細君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
 小夜子は泣き腫らした眼を俯せた儘、細い首を下げる。藤尾は白い拳を握つた儘、動かない。
 「嘘です。嘘です」と二遍云つた。「小野さんは私の夫です。私の未來の夫です。あなたは何を云ふんです。失禮な」と云つた。
 「僕は只好意上事實を報知する迄さ。序に小夜子さんを紹介し様と思つて」
 「私を侮辱する氣ですね」
 化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒りを滿面に注ぐ。
 「好意だよ。好意だよ。誤解しちや困る」宗近君は寧ろ平然としてゐる。― 小野さんは漸く口を開いた。―
 「宗近君の云ふ所は一々本當です。是は私の未來の妻に違いありません。―藤尾さん、今日までの私は全く輕薄な人間です。あなたにも濟みません。小夜子にも濟みません。宗近君にも濟みません。今日から改めます。眞面目な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたの爲にも、私の爲にも惡いです。だから行かなかつたのです。許して下さい」
 藤尾の表情は三たび變つた。破裂した血管の血は眞白に吸収されて、侮蔑の色のみが深刻に残つた。假面(めん)の形は急に崩れる。
 「ホヽヽヽ」
 歇私的里(ヒステリ)性の笑は 窓外の雨を衝いて高く迸った。同時に握る拳を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。真紅の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺(うご)く。
 「ぢや、是はあなたには不用なんですね。よう御座んす。―宗近さん、あなたに上げませう。さあ」
 白い手は腕をあらはに、すらりと延びた。時計は赭黒い宗近君の掌に確と落ちた。宗近君は一歩を煖爐に近く大股に開いた。やつと云ふ掛聲と共に赭黒い拳が空に躍る。時計は大理石の角で碎けた。
 「藤尾さん、僕は時計が欲しい爲に、こんな醉興な邪魔をしたんぢやない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな惡戯をしたんぢやない。かう懐して仕舞へば僕の精~は君等に分るだらう。是も第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
 「さうだ」
 呆然として立つた藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなつた。手が硬くなつた。足が硬くなつた。中心を失つた石像の様に椅子を蹴返して、床の上に倒れた。

                                                  (『虞美人草』 18)



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「藤尾はだめだよ」と言う。落ちついた調子のうちに、なんとなく温い暖かみがあった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂びたるなかを人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である :
(ふじおはだめだよという。おちついたちょうしのうちに、なんとなくぬるいあたたかみがあった。すべてのえだをみどりにかえすよういのために、さびたるなかをひとしれずかようはるのみゃくは、こうのさんのどうじょうである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 芝生は南に走ること十間余にして高樫の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁き植え込みに遮られた奥は、五坪ほどの池を隔てて、張り出しの新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人は緩き歩調に、芝生を突き当たった。帰りには二、三間迂回(うねっ)て、植え込みの陰を書斎の方(かた)へ戻って来た。双方とも無言である。足並みは偶然にも揃っている。植え込みが真ん中で開いて、二、三の敷き石に、池の方へ人を誘う曲がり角まで来たとき、突然新座敷で、雉子の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合わせたごとくぴたりと留まる。目は一時に同じ方角へ走る。
 四尺の空地(くうち)を池の縁まで細長く余して、まっすぐに水に落つる池の向こう側に、横から伸(の)す浅葱桜の長い枝を軒のあたりに翳(かざ)して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら縁鼻(えんばな)に立っている。
 不規則なる春の雑樹(ぞうき)を左右に、桜の枝を上に、温む水に根を抽(ぬき)んでて這い上がる蓮の浮き葉を下に、― 二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠が自然の景物の粋をあつめて成るがために、―枠の形が趣を損なわぬほどに正しくて、また目を乱さぬほどに不規則なるがために―飛び石に、水に、縁に、間隔の適度なるがために―高きに失わず、低きにすぎざる恰好の地位にあるために―最後に、一息の短きに、吐く幻影(まぼろし)と、忽然と現われたるために―二人の視線は水の向こうの二人にあつまった。とともに、水の向こうの二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合わす四人は、互いに互いを釘付けにして立つ。きわどい瞬間である。はっと思う刹那をいちばんはやく飛び超えたものが勝ちになる。
 女はちらりと白足袋の片方を後ろへ引いた。代赭(たいしゃ)に染めた古代模様の鮮やかに春を寂びたる帯の間から、するすると蜿蜿(うね)るものを、引きちぎれとばかり鋭く抜き出した。繊(ほそ)き蛇(だ)の膨れたる頭(かしら)を掌に握って、黄金(こがね)の色を細長く空に振れば、深紅の光ははっしと尾より迸(ほとばし)る。―次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛(さんらん)たる金鎖が動かぬ稲妻のごとく懸かっていた。
 「ホホホホいちばんあなたによく似合うこと」
 藤尾の癇声(かんごえ)は鈍い水を敲いて、鋭く二人の耳に跳ね返ってきた。
 「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の目から活人画が消える。追いかぶさるように、後ろから乗し懸かってきた甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
 「黙って……」と小声で言いながら、煙(けむ)に巻かれた人を植え込みの影へ引いて行く。
 肩に手を掛けて押すように石段を上がって、書斎に引き返した甲野さんは、、無言のまま、扉に似たるフランス窓を左右からどたりと立てきった。上下(うえした)の栓釘(ボールト)を式(かた)のごとく鎖(さ)す。次に入り口の戸に向かう。かねて差し込んである鍵をかちゃりと回すと、錠は苦もなくおりた。
 「なにをするんだ」
 「部屋を立てきった。人が入って来ないように」
 「なぜ」
 「なぜでもいい」
 「ぜんたいどうしたんだ。たいへん顔色が悪い」
 「なにだいじょうぶ。まあ掛けたまえ」とさいぜんの椅子を机に近く引きずってくる。宗近君は子供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後、静かに、用い慣れた安楽椅子に腰をおろす。体は机に向かったままである。
 「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
 「藤尾はだめだよ」と言う。落ちついた調子のうちに、なんとなく温い暖かみがあった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂びたるなかを人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
 「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
 「糸公もそう言った」と沈んでつけた。
 「君より、君の妹のほうが目がある。藤尾はだめだ。飛び上がりものだ」
 かちゃりと入り口の円鈕(ノップ)を捩(ねじ)ったものがある。戸は開かない。今度はとんとんと外から敲く。宗近君は振り向いた。甲野さんは目さえ動かさない。
 「打っちゃっておけ」と冷ややかに言う。
 入り口の扉に口の扉に口をつけたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ駆けながら遠退いて行く。二人は顔を見合わした。
 「藤尾だ」と甲野さんが言う。
 「そうか」と宗近君がまた答えた。
 あとは静かになる。机の上の置き時計がきちきちと鳴る。
 「金時計もよせ」
 「うん。よそう」
 甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱(こまね)いたまま、―時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。

                                                  (『虞美人草』 17)





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ぼくがあの時、感じたのは心の呵責ではなく、自分の秘密を握られたという屈辱感だったのだ :
(ぼくがあのとき、かんじたのはこころのかしゃくではなく、じぶのひみつをにぎられたというくつじょくかんだったのだ):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 ぼくは黒板に教師が大書した良心的という三文字を眺めた。どこかの教室でかすれたオルガンの音がきこえる。女の子たちが唱歌を歌っている。別にウソをついたとも仲間や教師をダマしたとも思わなかった。今日まで学校でも家庭でもそうだったのだし、そうすることによってぼくは優等生であり善い子だったのである。
 ななめ横をそっと降りむくと、あの髪の毛を伸ばした新入生が鼻に眼鏡を少しずり落して黒板をじっと見詰めていた。ぼくの視線に気づいたのか、彼は首にまいた白い繃帯をねじるよにしてこちらに顔をむけた。二人はそのまましばらくの間、たがいの顔を探るように窺いあっていた。と、彼の頬がかすかに赤らみ、うすい笑いが唇にうかんだ。(みんなは騙されてもネ、僕は知っているよ)その微笑はまるでそう言っているようだった。(ネギ畠を歩いたことも、標本箱が惜しくなったことも皆、ウソだろ。うまくやってきたね。だが大人を騙せても東京の子供は騙されないよ)
 ぼくは視線をそらし、耳もとまで赤い血がのぼるのを感じた。オルガンの音がやみ、女の子たちの声も聞えなくなった。黒板の字が震え動いているような気がした。
 それからぼくの自信は少しずつ崩れはじめた。教室でも校庭でもこの若林という子がそばにいる限り、何かうしろめた屈辱感に似たものを感じるのである。勿論、そのために成績が落ちるということはなかったが、教師から皆の前でホメられた時、図画や書き方が壁にはられた時、組の自治会で仲間から委員にまつり上げられ時、ぼくは彼の眼をひそかに盗み見てしまう。
 この子の眼と書いたが、今、考えてみるとそれは決してぼくをとがめる裁判官の眼でもなく罪を責める良心の眼でもなかった。同じ秘密、同じ悪の種をもった二人の少年がたがいに相手の中に自分の姿をさぐりあっただけにすぎぬ。 ぼくがあの時、感じたのは心の呵責ではなく、自分の秘密を握られたという屈辱感だったのだ。

                                                  (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」U 医学生)

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「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ :
(ぼくのそんざいにはあなたがひつようだ。どうしてもひつようだ):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助は黙って三千代の様子をうかがった。三千代は始めから、目を伏せていた。代助にはその長いまつ毛のふるえるさまがよく見えた。
 「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事をあなたに話したいためにわざわざあなたを呼んだのです」
 代助の言葉には、普通の愛人の用いるような甘い文彩(あや)を含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。むしろ厳粛の域に迫っていた。ただ、それだけの事を語るために、急用として、わざわざ三千代を呼んだところが、おもちゃの詩歌に類していた。けれども、三千代はもとより、こういう意味での俗を離れた急用を理解しうる女であった。その上世間の小説に出てくる青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉が、三千代の官能にはなやかな荷物をも与えなかったのは、事実であった。三千代がそれにかわいていなかったのも事実であった。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代はふるえるまつ毛の間から、涙を頬の上に流した。

                                                  (『それから』 14)



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「僕の母は偽物だよ。君らがみんな欺かれているいるんだ。母じゃない謎だ。澆季の文明の特産物だ」 :
(ぼくのはははにせものだよ。きみらがみんなあざむかれているんだ。ははじゃないなぞだ。ぎょうきのぶんめいのとくさんぶつだ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独り言のように答えた。
 「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙を押し開いて、元気づいた顔を近寄せた。
 「本来の無一物から出直すんだこれからさ」
 指の股に敷島を挟んだまま、持て行く口のあることさえ忘れて、呆気にとられた宗近君は、
 「本来の無一物から出直すとは」とみずからみずからの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ち着き払った答えをする。―
 「僕はこの家も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
 「やってしまった? いつ」
 「もう少しさっき。その紋尽くしを描いているときだ」
 「そりゃ……」
 「ちょうどその丸に三つ鱗を描いているときだ。―その模様がいちばよくんできている」
 「やってしまうってそうたやすく……」
 「なにいるものか。あればあるほど累(わずら)いだ」
 「御叔母さは承知したかい」
 「承知しない」
 「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
 「やらないほうが困るんだ」
 「だって御叔母さんは始終君がむやみなことをしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
 「僕の母は偽物だよ。君らがみんな欺かれているいるんだ。母じゃない謎だ。澆季の文明の特産物だ」
 「そりゃ、あんまり……」
 「君はほんとうの母でないから僕が僻(ひが)んでいると思っているだろう。それならそれでいいさ」
 「しかし……」
 「君は僕を信用しないか」
 「むろん信用するさ」
 「僕のほうが母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分かっているよ。そうして僕のほうが母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。―
 「母の家を出てくれるなというのは、出てくれという意味なんだ。財産を取れというのは寄こせという意味なんだ。世話をしてもらいたいというのは、世話になるのが厭だという意味なんだ。―だから僕は表向き母の意志に忤(さから)って、内実は母の希望どおりにしてやるのさ。―見たまえ、僕が家を出たあとは、母が僕がわるくって出たように言うから、世間でもそう信じるから―僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然椅子を立って、机の角まで来ると片肘を上に突いて、甲野さんの顔を掩(お) いかぶするように覗き込みながら、
 「貴様、気g違ったたか」と言った。
 「気違いは頭から承知の上だ。―今まででも蔭じゃ、ばかの気違いのと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い目から涙がぽたぽたと机の上のレオパルディに落ちた。
 「なぜ黙っていたんだ。向こうを出してしまえばいいのに……」
 「向こうを出したって、向こうの性格は堕落するばかりだ」
 「向こうを出さないまでも、こっちが出るには当たるまい」
 「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
 「なぜ財産をみんなやったのか」
 「いらないもの」
 「ちょっと僕に相談してくれればよかったのに」
 「いらないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうんと言った。
 「僕にいらない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
 「じゃいよいよ家を出る気だね」
 「出る。おれば両方が堕落する」
 「出てどこへ行く」
 「どこだか分からない」
 宗近君は机の上にあるレオパルディを無意味に取って、背革を竪(たて)に、勾配のついた欅(けやき)の角でとんとんと軽く敲きながら、少し沈吟の体であったが、やがて、
 「僕のうちへ来ないか」と言う。
 「君のうちへ行ったって仕方がない」
 「厭かい」
 「厭じゃないが、仕方がない」
 宗近君はじっと甲野さんを見た。
 「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父(おやじ)のためはともかく、糸公のために来てやってくれ」
 「糸公のために?」
 「「糸公は君の知己だよ。御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、日本じゅうがことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値(ねうち)を解している。君の胸のなかを知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣いのない女だ。―甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家を出ていい。山の中へはいってもいい。どこへどう流浪しても構わない。なんでもいいから糸公を連れて行ってやってくいれ。―僕は責任をもって糸公に受け合ってきたんだ。君がいうことを聞いてくれないと妹に会わす顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊い女だ。誠のある女だ。正直だよ。君のためならなんでもするよ。殺すのはもったいない」
 宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。

                                                  (『虞美人草』 17)




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馬鈴薯がダイヤモンドより大切になったら、人間はもうだめである :
(ポテトーがダイヤモンドよりたいせつになったら、にんげんはもうだめである):

夏目 漱石:−『それから』−:

 彼は隔離の極端として、父子断絶の状態を想像してみた。そうしてそこに一種の苦痛を認めた。けれども、その苦痛は堪えられない程度のものではなかった。むしろそれから生ずる財源の杜絶のの方が恐ろしかった。
 もし馬鈴薯(ポテトー)がダイヤモンドより大切になったら、人間はもうだめであると、代助は平生から考えていた。向後父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼はいやでもダイヤモンドをほうり出して、馬鈴薯にかじりつかねばならない。そうしてその償いには自然の愛が残るだけである。その愛の対象は他人の細君であった。

                                                  (『それから』 13)

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本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです :
(ほんとうのあいはしゅうきょうしんとさうちがったものでないといふことをかたくしんじてゐるのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 それ程女を見縊つてゐた私が、また何うしても御嬢さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書14」)



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本能的にぼくは大人たちがぼくに期待しているものが、純真であることと賢いこととの二つだと見抜いていた :
(ほんのうてきにぼくはおとなたちがぼくにきたいしているものが、じゅんしんであることとかしこいこととのふたつだとみぬいていた):

遠藤 周作:−『海と毒薬』−:

 東京の学校とちがって生徒たちはマサルだのツトムだの、名前を呼びすてにされていた。ただ、ぼくだけが教室の中で「戸田君」と教師から声をかけられる。他の子供たちもそうした差別をとりたてて、ふしぎがりはしない。それはただ、ぼくが百姓の子ではない。というためだった。ぼくの父は学校のすぐ近くに改行している内科の医者だから、師範を出たきりの詰襟の教師たちには医者だの、医学博士だのという看板にはやはり敬意をはらったのかもしれぬ。のみならず一年からずっと通信簿で全甲をとっているぼくは体こそあまり強くはなかったが、この小学校では将来、上の学校に進学する、ただ一人の子供だった。
 毎学年、学芸会では必ず主役をやらされ、展覧会でが絵にも書き方にもきまって優等の金紙をはられるようになると、ぼくは大人たちを無意識のうちにダマしにかかった。大人たちというのは詰襟を着た師範出の教師たちのことであり、また父親や母親のことでもあった。どうすれば彼等がよろこぶか、どうすればホメられるかを素早くその顔や表情から読みとり、時には無邪気ぶったり、時には利口な子のふりを演じてみせるにはそれごどの苦労もいらなかった。本能的にぼくは大人たちがぼくに期待しているものが、純真であることと賢いこととの二つだと見抜いていた。あまり純真すぎてもいけない。けれどもあまり賢すぎてもいけない。その二つをうまく小出しにさえすれば彼等は必ずぼくをホメてくれたのである。
 こう書いたからと言って現在のぼくはあの頃の自分を特に狡(ずる)い小利口な少年だったとは思ってはいない。あなた達も自分の子供のことを思いだしてほしい。多少、智慧のある子供はすべてこの位のズルさは持っているのだし、それに彼等はそうすることによって自分が善い子だと何時か錯覚していくのである。

                                                  (『海と毒薬』−第二章:「裁かれる人々」U 医学生)



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 ま 

眞面目と云ふのはね、僕に云はせると、つまり實行の二字に歸着するのだ。口丈で眞面目になるのは、口丈が眞面目になるので、人間が眞面目になつたんぢやない。君と云ふ一個の人間が眞面目になつたと主張するなら、主張する丈の證據を實地に見せなけりや何にもならない :
(まじめといふのはね、ぼくにいはせると、つまりじつこうの二じにきちゃくするのだ。くちだけでまじめになるのは、くちだけがまじめになるので、にんげんがまじめになつたんぢやない。きみといふ一このにんげんがまじめになつたとしゅちょうするなら、しゅちょうするだけのしょうこをじつちにみせなけりやなんにもならない):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「君が面目ないと云ふのかね。かう云ふ羽目になつて、面目ないの、極りが惡いのと云つて愚圖々々してゐる様ぢや矢つ張り上皮の活動だ。君は今眞面目になると云つた許ぢやないか。眞面目と云ふのはね、僕に云はせると、つまり實行の二字に歸着するのだ。口丈で眞面目になるのは、口丈が眞面目になるので、人間が眞面目になつたんぢやない。君と云ふ一個の人間が眞面目になつたと主張するなら、主張する丈の證據を實地に見せなけりや何にもならない。……」

                                                  (『虞美人草』 18)




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まがひもなき大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、総つきの花かんざしひらめかし :
(まがひもなきだいこくやのみどりなれどもまことにまことにとんまのいひつるごとく、ういういしきおおしまだゆひわたのやうにしぼりばなしふさふさとかけて、べっこうのさしこみ、そうつきのはなかんざしひらめかし):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

揉まれて出し廓の角、向こふより番頭新造ののお妻と連れ立ちて話しながら来るを見れば、まがひもなき大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、総つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のたゞ京人形を見るやうに思はれて、(中 略)  美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭でしようが無い、とさし俯向きて往来を恥ぢぬ。

                                                  (『たけくらべ』 14)



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誠は天の道なりのあとへ、人の道にあらずと付け加えたい心持ち :
(まことはてんのみちなりのあとへ、ひとのみちにあらずと):

夏目 漱石:−『それから』−:

親爺の頭の上に、誠者天之道也という額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いてもらったとか言って、親爺は最も珍重している。代助はこの額がはなはだきらいである。第一字がいやだ。その上文句が気にくわない。誠は天の道なりのあとへ、人の道にあらずと付け加えたいような心持ちがする。

                                                  (『それから』 3)



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眞面目とはね、君、眞劍勝負の意味だよ。遣つ付ける意味だよ。遣つ付けなくつちや居られない意味だよ。人間全體が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたつて眞面目ぢゃない。頭の中を遺憾なく世の中に敲きつけて始めて眞面目になつた氣持になる。安心する :
(まじめとはね、きみ、しんけんしょうぶのいみだよ。やつつけるいみだよ。やつつけなくつちやゐられないいみだよ。にんげんぜんたいがかつどうするいみだよ):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「かう云ふ危うい時に、生まれ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞ふよ。いくら勉強しても、いくら學者になつても取り返しは付かない。此処だよ、小野さん、眞面目になるのは。世の中に眞面目とは、どんなものか一生知らずに濟んで仕舞ふ人間が幾何もある。皮丈で生きて居る人間は、土丈で出來てゐる人形とさう違はない。眞面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿體ない。眞面目になつた後は心持ちがいゝものだよ。君にさう云ふ經驗があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
 「なければ、一つなつて見給へ、今だ。こんな事は生涯に二度とは來ない。此機をはづすと、もう駄目だ。生涯眞面目の味を知らずに死んで仕舞ふ。死ぬ迄むく犬の様にうろうろして不安許だ。人間は眞面目になる機會が重なる程出來上つてくる。人間らしい氣持がしてくる。―法螺ぢゃない。自分で經驗して見ないうちは分からない。」
僕が君より平氣なのは、學問の爲でも何でもない。僕は此通り學問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろして居る。それでも君より平氣だ。うちの妹なんぞは~經が鈍いからだと思つてゐる。成程~經も鈍いだらう。―然しさう無~經なら今日でも、かう遣つて車で駆け付けやしない。さうぢやないか、小野さん」
 宗近君はにこりと笑つた。小野さんは笑はなかつた。
 「僕が君より平氣なのは、學問の爲でも、何でもない。時々眞面目になるからさ。なるからと云ふより、なれるからと云つた方が適當だらう。眞面目になれる程、自信力の出る事はない。眞面目になれる程、腰の据る事はない。眞面目になれる程、精~の存在を自覺する事はない。天地の前に自分が儼存して居ると云ふ觀念は、眞面目になつて始めて得られる自覺だ。眞面目とはね、君、眞劍勝負の意味だよ。遣つ付ける意味だよ。遣つ付けなくつちや居られない意味だよ。人間全體が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたつて眞面目ぢゃない。頭の中を遺憾なく世の中に敲きつけて始めて眞面目になつた氣持になる。安心する。實を云ふと僕の妹も昨日眞面目になつた。甲野も昨日眞面目になつた。僕は昨日も、今日も眞面目だ。君も此際一度眞面目になれ。人一人眞面目になると當人が助かる許ぢやない。世の中が助かる。

                                                  (『虞美人草』 18)



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ママンはもう埋められてしまった。私はまた勤めにかえるだろう。結局、何も変わったことはなったのだ :
(ままんはもううずめられてしまった。またわたしはつとめにかえるだろう。けっきょく、なにもかわったことはなかったのだ):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

町はいつの間にか空虚になり、初めての猫が再び人気の絶えた通りをゆっくりと渡ってゆく。そこで、私は夕食をとらねばならぬと考えた。椅子の背に長いこと載せていたために、少々首が痛んだ。私はパンと捏粉(ねりこ)を買いに降りてゆき、自分で料理をし、立ったままで食べた。また窓のところで煙草をくゆらしたいと思ったが、空気が冷えていて、私はすこし寒かった。窓ガラスをしめて、戻って来ると、帆の端が鏡のなかに映っているのを見た。その上にはアルコール・ランプがパン切れと並んでいた。相も変わらぬ日曜日もやっと終わった。ママンはもう埋められてしまった。私はまた勤めにかえるだろう。結局、何も変わったことはなったのだ、と私は考えた。

                                                  (『異邦人』−第1部2)



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晦日までに金二両、言ひにくゝ共この才覚たのみ度よしきを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、よろしう御座んす慥かに受合ひました、むづかしくばお給金の前借にしてなり願ひましょ :
(みそかまでにきん二りょう、いひにくゝともこのさいかくたのみたきよしをいひだしけるに、おみねしばらくしあんして、よろしうどざんすたしかにうけあいました、むづかしくばいきゅうきんのまえがりしてなどながひましょ):

樋口 一葉:−『大つごもり−:

斯くいはゞ欲に似たれど、大道餅買ふてなり三ヶ日の雑煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二両、言ひにくゝ共この才覚たのみ度よしきを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、よろしう御座んす慥(たし)かに受合ひました、むづかしくばお給金の前借にしてなり願ひましょ、見る目と家内(うち)とは違ひて何処(いずこ)にも金銭の埒は明きにくくけれど、多くでは無し夫れで此処の始末がつくなれば、理由(わけ)を聞いて厭やは仰せらるまじ、夫れにつけても首尾そこなうては成らば、今日は私は帰ります、又の宿下がりは春永、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて此金(これ)を受合ける。

                                                  (『大つごもり』 上)


 

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入道無言客。出家有髪僧 :
(みちにいるむごんのきゃく。いえをいづゆうはつのそう):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 葡萄の葉を青銅に鋳た灰皿が洋卓の上にある。灰皿の上に燐寸がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取つた。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机に歸る。レオパルヂの隣にあつた黄表子の日記を持つて煖爐の前まで戻つ
て來た。親指を抑へにして小口を雨の様に飛ばして見ると、黒い印氣と鼠の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙迄來て留まつた。何を書いたものやら一向に要領を得ない。昨夕(ゆうべ)寐る前に書き込んだ、
   入道無言客。出家有髪僧。
の一聯が、最後の頁の最後の句である事丈を記憶してゐる。

                                                  (『虞美人草』 18)




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三千代の運命を、全然平岡にゆだねておけないほどの不安があるならば、それは論理を許さぬ矛盾を、厚顔に犯していたと言わなければならない :
(みちよのうんめいを、ぜんぜんひらおかにゆだねておけないほどのふあん):

夏目 漱石:−『それから』−:

 代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を採って、平岡に接していた事をふがいなく思った。もしこういう態度で平岡に当たりながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡にゆだねておけないほどの不安があるならば、それは論理を許さぬ矛盾を、厚顔に犯していたと言わなければならない。

                                                  (『それから』 13)



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三千代は精神的に言って、すでに平岡の所有ではなかった。代助は死に至るまで彼女に対して責任を負うつもりあった :
(みちよはせいしんてきにいって、すでにひらおかのしょゆうではなかった):

夏目 漱石:−『それから』−:

 すべての職業を見渡したのち、彼の目は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食(こつじき)の群に見いだした。生活の堕落は精神の自由を殺す点において彼の最も苦痛とするところであった。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢(しゅうえ)を塗りつけたあと、自分の心の状態がいかに落魄(らくはく)するだろうと考えて、ぞっと身ぶるいをした。
 この落魄のうちに、彼は三千代を引っぱり回さねばならなかった。三千代は精神的に言って、すでに平岡の所有ではなかった。代助は死に至るまで彼女(かのおんな)に対して責任を負うつもりあった。けれども相当の地位を持っている人の不実と、零落の極に達した人の親切とは、結果においてたいした差違はないと今さらながら思われた。死ぬまで三千代に対して責任を負うというのは、負う目的があるというまでで、負った事実には決してなれなかった。代助は惘然(もうぜん)として黒内障(そこひ)にかかった人のごとく自失した。
 彼はまた三千代をたずねた。三千代は前日のごとく静かに落ち着いていた。微笑と光輝(かがやき)とに満ちていた。春風はゆたかに彼女(かのおんな)の眉を吹いた。代助は三千代がおのれをあげて自分に信頼している事を知った。その証拠をまた眼のあたりに見た時、彼は愛憐(あいれん)の情と気の毒の念に堪えなかった。そうして、自己を悪漢のごとく呵責した。思うことは全く言いそびれてしまた。帰るとき、
 「また都合して宅(うち)へ来ませんか」と言った。三千代はええとうなずいて微笑した。代助は身を切られるほどつらかった。

                                                  (『それから』 16)



[←先頭へ]

三千代はもとより手紙を見た時から、何事かを予期して来た :
(みちよはもとよりてがみをみたときから、なにごとかをよきしてきた):

夏目 漱石:−『それから』−:

 三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝いにはいって来た。銘仙の紺絣に、唐草模様の一重帯を締めて、この前とはまるで違った服装(なり)をしているので、一目見た代助には、新しい感じがした。色はふだんのとおりよくなかったが、座敷の入口で、代助と顔を合わせた時、目も眉もぴたりと活動を中止したように固くなった。敷居に立っている間は、足も動けなくなったとしか受け取れなかった。三千代はもとより手紙を見た時から、何事かを予期して来た。その予期のうちには恐れと、喜びと、心配とがあった。車から降りて、座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予期の色をもってみなぎっていた。三千代の表情はそこで、はたと留まった。代助の様子は三千代にそれだけのショックを与えるほどに強烈であった。

                                                  (『それから』 14)



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美登利は障子の中ながら硝子越しに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切った人がある、母さん切れを遣っても宜うござんすかと尋ねて :
(みどりはしょうじのなかながらがらすごしとおくながめて、あれだれかはなおをきったひとがある):

樋口 一葉:−『たけくらべ』−:

お歯ぐろ溝の角より曲がりて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風大黒傘の上を抓みて、宙へ引き上げるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずるずると抜けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。
信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に厭ふて鼻緒をつくろふに常々仕馴れぬお坊様の、これは如何な事、心ばかりは急れども、何としても甘くはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして置いた大半紙を抓み出し、ずんずんと裂きて紙縒をよるに、意地わるの嵐またもや落ち来て、立かけし傘のころころと転り出るを、いまいましい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乗せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。
見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子越しに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切った人がある、母さん切れを遣っても宜うござんすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍かしきやうに、馳せ出でゝ椽先の洋傘さすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。
それと見るより美登利の顔は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後の見られて、恐る恐る門の傍へ寄れば、信如もふつと振返りて、これも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足に成りて逃げ出したき思ひなり。
平常の美登利ならば、(中 略) さこそは当り難うあるべきを、物いはず、格子のかげに小隠れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とゞかすは平常の美登利のさまにては無かりき。

                                                  (『たけくらべ』 12)



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向こうへ行って一歩深く陥り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気がねをして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡んで意志に乏しいからである :
(むこうへいっていっぽふかくはまり、こっちへきていっぽふかくはまる。そうほうへきがねをして、かたあしずつとられてしまう。つまりはにんじょうにからんでいしにとぼしいからである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 浅井のように気の毒けの少ないものなら、すぐに片づけることもできる。宗近のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野なら超然として板挟みになってるかもしれぬ。しかし自分にはできない。 向こうへ行って一歩深く陥り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気がねをして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡んで意志に乏しいからである。利害?利害の念は人情の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったらまったくなくなっても、自分はやはり同様の結果に陥るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。

                                                  (『虞美人草』 14)



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むしろ情の旋風(つむじ)に巻き込まれた冒険の働きであった。そこに平生の代助と異なる点があらわれていた。けれども、代助自身はそれに気がついていなかった :
(むしろじょうのつむじにまきこまれたぼうけんのはたらきであった。そこにへいせいのだいすけとことなるてんがあらわれていた):

夏目 漱石:−『それから』−:

代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与えたいためにほかならなかった。けれども、それがために、かえって平岡の感情を害することがあるかもしれないと思った。代助はその悪結果の極端として、平岡と自分の間に起こりうる破裂をさえ予想した。しかし、その時はどんな具合にして、三千代を救おうかという成案はなかった。代助は三千代と相対ずくで、自分ら二人の間をあれ以上にどうかする勇気を持たなかったと同時に、三千代のために、何かしなくてはいられなくなったのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策というよりも、むしろ情の旋風(つむじ)に巻き込まれた冒険の働きであった。そこに平生の代助と異なる点があらわれていた。けれども、代助自身はそれに気がついていなかった。

                                                  (『それから』 13)



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鍍金を金に通用させようとするせつない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である :
(めっきをきんにつうようさようとするせつないくめんより、しんちゅうをしんちゅうでとおして、しんちゅうとうとうのぶべつをがまんするほうがらく):

夏目 漱石:−『それから』−:

 言う事は落ち着いているが、代助が聞くとかえってあせって探しているようにしかとれない。代助は、きのう兄と自分の間に起こった問答の結果を平岡に知らせようと思っていたのだが、この一言を聞いて、しばらく見合わせる事にした。なんだか、構えている向こうの体面を、わざとこっちから毀損するような気もしたからである。その上金の事については平岡からはまだ一言の相談も受けた事もない。だから表向き挨拶をする必要もないのである。ただ、こうして黙っていれば、平岡からは、内心で、冷淡なやつだと悪く思われるにきまっている。けれども今の代助はそういう非難に対して、ほとんど無感覚である。また実際自分はそう熱烈な人間じゃないと考えている。三四年前の自分になって、今の自分を批判してみれば、自分は、堕落しているかもしれない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧してみると、たしかに、自己の道念を誇張して、得意に使い回していた。鍍金を金に通用させようとするせつない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である、と今は考えている。

                                                  (『それから』 6)


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もし愛といふ不可思議なものに兩端があつて、其高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が働いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體でした。けれども御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考へる私の心は、全く肉の臭を帯びてゐませんでした :
(もしあいといふふかしぎなものにりょうはじがあつて、そのたかいはじにはしんせいなかんじがはたらいて、ひくいはじにはせいよくがはたらいてゐるとすれば):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

私は御嬢さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御嬢さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乗り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端があつて、其高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が働いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體でした。けれども御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考へる私の心は、全く肉の臭を帯びてゐませんでした

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書14」)


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もし其男が私の生活の行路を横切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き残す必要も起こらなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です :
(もしそのおとこがわたしのせいかつのこうろをよこぎらなかつたならば、おそらくかういふながいものをなたにかきのこすひつようもおこらなかつたでせう):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 奥さんと御嬢さんと私の關係が斯うなつてゐる所へ、もう一人の男が入り込まねばならない事になりました。其男が此家族の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし其男が私の生活の行路を横切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き残す必要も起こらなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です。自白すると、私は自分で其男を宅へ引張つて來たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隱さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。所が奥さんは止せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分にあるのに、止せといふ奥さんの方には、筋の立つた理屈は丸でなかつたのです。だから私は私の善いと思ふ所を強ひて斷行してしまひました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書18」)

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もしやお前さんはと我知らず声をかけるに :
(もしやおまえさんはとわれしらずこえをかけるに):

樋口 一葉:−『十三夜』−:

いかにしたるか車夫はぴたつたりと轅(かぢ)を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます。代は入りませぬからお下りなすつてと突然(だしぬけ)にいはれて、思ひもかけぬ事なれば、阿関は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つてお呉れ、こんな淋しい処では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚図らずに行つてお呉れと少しふるへて頼むやうに言へば、増しが欲しいと言ふのでは有りませぬ私からお願ひです何(ど)うぞお下りなすつて、最(も)う引くのが厭やに成つたので御座りますと言ふに夫ではお前加減でも悪いか、まあ何うしたと言ふ訳、此処まで挽くいて来て厭やに成つたでは済むまいがねと声に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もう何うでも厭やに成つたのですからとて提燈を持しまゝ不図(ふと)脇へのがれて、お前は我がまゝの車夫さんだね、夫ならば約定(きめ)の処までとは言ひませぬ、代りのある処まで行つて呉れゝば夫でよし、代はやるほどに何処か(干干)処(そこ)らまで、切(せ)めて広小路までは行つてお呉れと優しい声にすかす様にいへば、成るほど若いお方ではあり此淋しい処へおろされては定めしお困りなさりませう、これは私が悪う御座りました、ではお乗せ申しませう、お供を居たしませう、嘸(さぞ)お驚きなさりましたらうとて悪者(わる)らしくもなく提燈を持かゆるに、お関もはじめて胸をなで、心丈夫に車夫の顔を見れば二十五六の色黒く小男の痩せぎす、あ、月に背(そむ)けたあの顔が誰れやらで有つた、誰れやらに似て居ると人の名も咽元まで転がりながら、もしやお前さんはと我知らず声をかけるに、ゑ、と驚いて振あふぐ男、あれお前さんは彼(あ)のお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘(すべ)るやうに下りてつくづくと打まもれば、貴嬢(あなた)は斎藤の阿関さん、面目も無い此様(こん)な姿(なり)で、背後(うしろ)に目が無ければ何の気もつかずに居ました、夫れでも音声(ものごゑ)にも心づくべき筈なるに、私は余程(よっぽど)鈍に成りましたと下を向いて身を恥れば、阿関は頭(つむり)の先より爪先まで眺めていゑいゑ私だとて往来で往逢ふた位ではよもや貴君(あなた)とは気は付きますまい、唯(たつ)た今までも知らぬ他人の車夫(くるまや)さんとのみ思ふて居ましたに御存じないは当然(あたりまへ)、勿体ない事であつたけれど知らぬ事なればゆるして下され、

                                                  (『十三夜』 下)



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「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければだめだ」とたちまち言われた :
(もっとぎろりとしたところをもってこなければだめだととたちまちわれた):

夏目 漱石:−『門』−:

 宗助はこのあいだの公案に対して、時分だけの解答はは準備していた。けれども、それははなはだおぼつかない薄手のものに過ぎなかった。室中(しつちゅう)に入(い)る以上は、何か見解(けんげ)を呈しないわけにはいかないので、むを得ず納まらないところを、わざと納まったように取り繕った、その場限りの挨拶であった。彼はこの心細い解答で、僥倖(ぎょうこう)にも難関を通過してみたいなどとは、夢にも思い設けなかった。老師をごまかす気は無論なかった。その時の宗助はもう少しまじめであったのである。単に頭から割り出した、あたかも絵にかいた餅のような代物を持って、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚な事を恥じたのである。
 宗助は人のするごとくに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は人並みにこの鐘を撞木でたたくべき権能がないのを知っていた。それを人並みに鳴らして見る猿のごときおのれを深く嫌忌した。
     (中  略)
 この静かなはっきりしない燈火(ともしび)の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。彼の顔は例よって鋳物のように動かなかった。色は銅(あかがね)出会った。彼は全身に渋に似た柿に似た茶に似た色の法衣医(ころも)をまとっていた。手も足も見えなかった。ただ首から上が見えた。その首から上が、厳粛と緊張の極度に安んじて、いつまでたっても変わる恐れを有せざるに人を魅した。そうして頭には一本の毛もなかった。
 この面前に気力なくすわった宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
 「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければだめだ」とたちまち言われた。「そのくらいの事は少し学問をしたものならだれでも言える」
 宗助は喪家(そうか)の犬のごとく室中を退いた。後に鈴(れい)を振る音が激しく響いた。

                                                  (『門』 19)

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戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人のもとに戻らうか :
(もどらうか、もどらうか、あのおにのやうなわがつまのもとにもどらうか):

樋口 一葉:−『十三夜』−:

あゝ何も御存じなしに彼のやうに喜んでお出遊ばす物を、何(ど)の顔さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か、叱かられるは必定、太郎と言ふ子もある身にて置いて駆け出して来るまでには種々(いろいろ)思案もし尽しての後なれど、今更にお老人(としより)を驚かして是れまでの喜びを水の泡にさせまする事のつらや、寧(いつ)そ話さずに戻らうか、戻れば太郎の母と言はれて何時何時までも原田の奥様、御両親に奏人(そうにん)の婿がある身と自慢させ、私さへ身を節倹(つめ)れば時たまはお口に合ふ物お小遣ひも差し上げられるに思ふまゝを通して離縁とならば太郎には継母の憂き目を見せ御両親には今までの自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟の行末あゝ、此身一つの心から出世の真(しん)も止めずばならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人(つま)のもとに戻らうか、彼(あ)の鬼の、鬼の良人のもとゑゝ厭や厭やと身をふるはす途端よろよろとして、思はず格子にがたりと音さすれば、誰だと大きく父親の声、道ゆく悪太郎の悪戯(いたづら)とまがへてなかるべし。

                                                  (『十三夜』 上)

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 や 

約束は履行すべきものと極まってゐる。然し履行すべき條件を奪つたものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降つて來て、守る事が出來なかつたのとは心持が違ふ :
(やくそくはりこうすべきものときまつてゐる。しかしいこうすべきじょうけんをうばつたものはじぶんではない。じぶんからすすんでいやくしたのと、じゃまがふつてきて、まもることができなかつたのとはこころもちがちがう):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 心を二六時に委ねて、隻手を動かす事を敢てせざるものは、自から約束を践まねばならぬ運命を有つ。安からぬ胸を秒毎に重ねて、じりじりと怖い所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく餘儀なくせられたる人を、半途に遮つた。遮ぎられた人は邪魔に逢ふと同時に、一刻の安きを故の位地に貪る事が出來る。
約束は履行すべきものと極まってゐる。然し履行すべき條件を奪つたものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降つて來て、守る事が出來なかつたのとは心持が違ふ。約束が劍呑になつて來た時、自分に責任がない様に、人が履行を妨げて呉れるのは嬉しい。何故行かないと良心に責められたなら、行く積の義務心はあつたが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答へる。

                                                  (『虞美人草』 18)



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山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を眺めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六畳の間の中では、天下を睥睨するやうな事を云つてゐたのです :
(やまでいけどられたどうぶつが、おりのなかでだきあひながら、そとをながめるやうなものでしたらう。(中略)それでゐて六じょうのまのなかでは、てんかをへいげいするやうなことをおつてゐたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 Kの養子先も可なりな財産家でした。Kは其所から學資を貰つて東京へ出て來たのです。出て來たのはのは私と一所ではなかつたけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を竝べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を眺めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六畳の間の中では、天下を睥睨するやうな事を云つてゐたのです。
 然し我々は眞面目でした。我々は實際偉くなる積でゐたのです。ことにKは強かつたのです。寺に生まれた彼は、常に精進といふ言葉を使ひました。さうして彼の行爲動作は悉くこの精進の一語で形容されるやうに、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬してゐました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書19」)



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要するに私は正直な路を歩く積でつい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした、さうして其所に氣のついてゐるものは、今の所たゞ天と私の心だけだつたのです :
(ようするにわたしはしょうじきなみちをあるくつもりで、ついあしをすべらしたばかものでした。もしくはこうかつなおとこでした):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

私はたゞでさへ何とかしなければ、彼に濟まないと思つたのです。 (中 略) 私は此家族との間に成り立つた新しい關系を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。然し、倫理的に弱點をもつてゐると、自分で自分を認めてゐる私には、それがまた至難の事のやうに感ぜられたのです。
 私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてさう云つて貰はうかと考へました。無論私のゐない時にです。然しありの儘をを告げられては、直接と間接の區別がある丈で、面目のないのに變りはありません。と云つて、拵え事を話して貰はうとすれば、奥さんから其理由を詰問されるに極つてゐます。もし奥さんに總ての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱點を自分の愛人と其母親の前に曝け出さなければなりません。眞面目な私には、それが私の未來の信用に關するとしか思はれなかつたのです。結婚する前から戀人の信用を失ふのは、たひ一分一厘でも、私には堪え切れない不幸のやうに見えました。
 要するに私は正直な路を歩く積でつい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした、さうして其所に氣のついてゐるものは、今の所たゞ天と私の心だけだつたのです。然し立ち直つてmもう一歩前へ踏み出さうとするには、今滑つた事を是非共周圍の人に知られなければならない窮境に陥いつたのです。私は飽くまで滑つた事を隠したがりました。同時に、何うしても前へ出ずには居られなかつたのです。私は此間に挟まつてまた立ち竦みました

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書47」)

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ようやくの思いで吐いた嘘は嘘でも立てねばならぬ。嘘を実と偽る料簡はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある :
(ようやくのおもいでついたうそはうそでもたてねばならぬ。うそをまことといつわるりょうけんはなくとも、はくからにはうそにたいしてぎむがある):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 藤尾には小夜子と自分の関係を言い切ってしまった。あるとは言い切らない。世話になった昔の人に、心細く付き添う小さき影を、逢わぬ五年を霞と隔てて、ふたたび逢うたばかりの朦朧(ぼんやり)した間柄と言い切ってしまった。恩を着るは情の肌、師に渥(あつ)きは弟子(ていし)の分、そのほかには鳥と魚の関係だにないと言い切ってしまった。できるならばと辛防(しんぼう)してきた嘘はとうとう吐(つ)いてしまった。ようやくの思いで吐いた嘘は嘘でも立てねばならぬ。嘘を実と偽る料簡はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある。責任が出る。あからさまにいえば嘘に対して一生の利害が伴ってくる。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は~も嫌いだと聞く。今日からはぜひとも嘘を実と通用させねばならぬ。

                                                  (『虞美人草』 14)



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預想した悲劇を、爲すが儘の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所爲に對して、隻手の無能なるを知るが故である :
(よそうしたひげきを、なすがままのはってんにまかせて、せきしゅをくださぬは、ごうぶかきひとのしょゐにたいして、せきしゅのむのうなるをしるがゆえである):

夏目 漱石:−『虞美人草』−:

 「悲劇は遂に來た。來たるべき悲劇はとうから預想して居た。預想した悲劇を、爲すが儘の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所爲に對して、隻手の無能なるを知るが故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味はゝしめて、三世に跨がる業を根底から洗はんが爲である。不親切な爲ではない。隻手を擧ぐれば隻手を失ひ、一目を搖かせば一目を眇(びょう)す。手と目とを害(そこな)うて、しかもしかも第二者の業は依然として變らぬ。のみか時々(じじ)に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉ずるは恐るゝものではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に甘受して、石火(せきか)の一拶に本來の面目に逢着せしむるの微意に外ならぬ。

                                                  (『虞美人草』19)




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世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです :
(よのなかでじぶんがもっともしんあいしてゐるたつたひとりのにんげんすら、じぶんをりかいしてゐないのかとおもふと、かなしかつたのです。りかいさせるしゅだんがあるのに、るかいさせるゆうきがだせないのだとおもふとmすますかなしかつたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私は時々妻に詫まりました。それは多く作に醉つて遲く歸つた翌日の朝でした。妻は笑ひました。或は黙つてゐました。たまにぽろぽろ涙を落す事もありました。私は何方にしても自分が不愉快で堪らなかつたのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのと詰り同じ事になるのです。 (中 略) 私は妻から何の爲に勉強するのかといふ質問を度々受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです。私は寂寞でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人で住んでゐるやうな氣がした事も能くありました。
 同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲でもありませうが、私の観察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正しく失戀のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向かつ見ると、さう容易くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決したのではなからうかと疑がひ出しました。さうして又慄としたのです。私もKの歩いた路をKと同じやうに辿つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を横過り始めたからです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書53」)


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 わ 

惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鋳型に入れたような惡人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るから恐ろしいのです :
(わるいにんげんといふいっしゅのにんげんがよのなかにあるときみはおもつてゐるんですか。そんないがたにいれたやうなあくにんはよのなsかにあるはずがありませんよ。へいせいはみんなぜんにんなんです。それがいざといふまぎわに、きゅうにあくにんにかわるからおそろしいのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 「別に惡い人間といふほどのものもゐないやうです。大抵田舎者ですから」
 「田舎者は何故惡くないんですか」
 私は此追窮に苦しんだ。然し先生は私に考へさせる餘裕さへ與へなかつた。
 「田舎者は都會のものより、却つて惡い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、是といつて、惡い人間はゐないやうだと云ひましたね。然し惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鋳型に入れたやうな惡人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るから恐ろしいのです。だから油断が出來ないんです。」

                                                  (『こゝろ』−「先生と私28」)

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私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする :
(わたくしだとてにんげんでござんすほどにすこしはこころにしみることもありまする):

樋口 一葉:−『にごりえ』−:

私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は真実の手と足ばかり、此様な者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれど未だ良人をば持ませぬ、何うでも下品に育ちました身なれば此様な事して終るのでどざんしょと投出したやうな詞に無量の感があふれてあだなる姿の浮気らしさに似ず一節さむろう様子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、殊にお前のやうな別品さむではあり、一足とびに玉の輿にも乗れさうもの、夫れとも其のやうな奥様あつかひ虫が好かで矢張伝法肌の三尺帯が気に入るかなと問へば、どうで其処らが落でどざりましょ、此方で思ふやうなは先様が嫌なり、来いとといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気のやうに思召ましょうが其日送りでござんすといふ、

                                                  (『にごりえ』 1)


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私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番楽な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです :
(わたしがこのろうやのなかにじっとしてゐることができなくなつたとき、またそのろうやをどうしてもつきやぶることができなくなつたとき、ひっきょうわたしにとつていちばんらくなどりょくですいこうできるものはじさつよりほかにないとわたしはkさんずるやうになつたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯うした苦しい戰争があつたものと思つて下さい。妻が齒痒がる前に、私自身が何層*倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番楽な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです貴方は何故と云つて眼を(目爭)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を歩いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書55」)



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私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえのまなければ、いいえ、飲んでも、・・・・・神様みたいないい子でした :
(わたしたちのしっているようちゃんは(中略かみさまみたいないいこでした):

太宰 治:−『人間失格』−:

 「泣きましたか?」
 「いいえ、泣くというより、・・・・だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね。」
 「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない。」
 「あの人のお父さんが悪いのですよ。」
 何気なさそうに、そう言った。
 「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえのまなければ、いいえ、飲んでも、・・・・・神様みたいないい子でした。」

                                                  (『「人間失格』−あとがき)

                         −『人間失格』 完−


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私に死刑を与えたのは、人間の裁きだ、と私がいうと、それはそれだけのものであって私の罪を洗い清めることはない、と彼は答えた。罪というものは何だか私にはわからない、と私はいった。ただ私が罪人だということをひとから教えられただけだ。私は罪人であり、私は償いをしている。誰も私にこれ以上要求することはできないのだ :
(わたしにしけいをあたえたのは、にんげんのさばきだ、とわたしがいうと、それはそれだけのももであってわたしのつみをあらいきよめることはない、とかれはこたえた):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

 司祭は、あなたの上訴は受理されるだろうが、しかし、あなたはおろさねばならぬ罪の重荷を負うている、という彼の信念を、語った。人間の裁きには何でもない、神の裁きがいっさいだ、と彼はいった。私に死刑を与えたのは、人間の裁きだ、と私がいうと、それはそれだけのものであって私の罪を洗い清めることはない、と彼は答えた。罪というものは何だか私にはわからない、と私はいった。ただ私が罪人だということをひとから教えられただけだ。私は罪人であり、私は償いをしている。誰も私にこれ以上要求することはできないのだ。

                                                  (『異邦人』−第2部5)

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私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自ら一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します :
(わたしにそれができなかつたのは、がくもんのこうさいがきちょうをこうせいしてゐるふたりのしたしみに、みずからいっしゅのだせいがあつたため、おもひきつてそれをつきやぶるだけのゆうきがわたしにかけてゐたのだといふことをこゝにじはくします):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

然し私は路々其晩の事をひょいひょいと思ひ出しました。私には此上もない好い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もっと直截で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御嬢さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜して拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自ら一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚*榮心が祟つた云つても同じでせうが、私の云ふ氣取るとか虚*榮ちかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書31」)

    [註]:「*」: 第3水準 以上の爲、第二水準までの文字に振り替えた

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私は、その男の写真を三葉、見たことがある :
(わたしは、そのおとこのしゃしんを、三よう、みたことがある):

太宰 治:−『人間失格』−:

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何ともないような顔をして、
 「可愛い坊ちゃんですね。」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空お世辞に聞こえないくらいの、いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな蔭もその子の供笑顔にないわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜についての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
 「なんて、いやな子供だ。」
 と、頗る不快そうに呟き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔ではない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものではないのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺を寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。

                                                  (『人間失格』−はしがき)



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私は今でも決して其時の私の嫉妬心を打ち消す氣はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面に此感情の働きを明らかに意識してゐたのですから。しかも傍のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事に、此感情が屹度首を持ち上げたがるのでしたから。是は餘事ですが、かういふ嫉妬は愛の半面ではないせうか :
(わたしはいまでもけっしてそのときのわたしのしっとしんをうちけすきはありません):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

私はそれ以上に立ち入つた質問を控えなければなりませんでした。然し、食事の時、又御嬢さんに向かつて、同じ問を掛けたくなりました。すると御嬢さんは私の嫌な例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中てて見ろと仕舞ひに云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不真面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其所に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御嬢さんの態度になると、知つててわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其所の區別が一寸判然しない點がありました。若い女として御嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに對する私の嫉妬に歸して可いものか、又は私に對する御嬢さんの技巧と見傚*して然るべきものか、一寸分別に迷ひました。私は今でも決して其時の私の嫉妬心を打ち消す氣はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面に此感情の働きを明らかに意識してゐたのですから。しかも傍のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事に、此感情が屹度首を持ち上げたがるのでしたから。是は餘事ですが、かういふ嫉妬は愛の半面ではないせうか。私は結婚してから、此感情がだんだん薄らいで行くのを自覺しました。其代り愛情の方も決して元のやうに猛烈ではないのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書34」)

      [註] 「*」:第3水準以降のため、「第二水準文字」で充てた



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私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ :
(わたしはかってただしかったし、いまもなおただしい):

A・カミュ(窪田啓作):−『異邦人』−:

 そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも価しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽののようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。

                                                  (『異邦人』−第2部5)


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私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつた :
(わたしはかねにたいしてはじんるいをうたぐつたけれども、あいにたいしては、まだじんるいをうたがはなつた):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其所の御嬢さんを何して好く餘裕を有つてゐるか。其御嬢さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜んで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上げるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言付け足して置きませう。私は金に對して人類をぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから、他から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸の中では平氣で兩立してゐたのです。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書12」)


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私は彼に向かって急に嚴粛な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先ず『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』と云ひ放ちました :
(わたしはかれにむかつてきゅうにげんしゅくなあらたまったたいどをしめしました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私は丁度他流試合でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體、すべて私といふ名の付くものを五分の隙間もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ開け放しと評するのが適當な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。
 Kが理想と現實の間に彷徨してふらふらしてゐるのを發見した私は、たゞ一打で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虚*に付け込んだのです。私は彼に向かって急に嚴粛な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先ず『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』と云ひ放ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を有つてゐたといふ事を自白します。私は其一言でKの前に横たはる戀の行手を塞がうとしたのです。
 (中 略)
私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。其頃から御嬢さんを思つてゐた私は、勢ひ何うしても彼に反對しなければならなかつたのです。私が反對すると、かれは何時でも氣の毒さうな顏をしました。其所には同情よりも侮蔑の方が餘計に現はれてゐました。
 斯ういふ過去を二人の間に通り抜けて來てゐたのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だといふ言葉は、Kに取つて痛いに違いなかつたのです。然し前にも云つた通り、私は此一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らした積ではありません。却つてそれを今迄通り積み重ねて行かせやうとしたのです。それが道に達しやうが、天に届かうが、構ひません。私はたゞKが急に生活の方向を轉換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は單なる利己心の發現でした。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書41」)



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私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては不可せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫みなさい :
(わたしはくらいじんせいのかげをえんりょなくあなたのあたまのうえになげかけてあげます。しかしおそれてはいけません):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私丈の經驗だから、私丈の所有と云つても差支ないでせう。それを人に與へないで死ぬのは、惜いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります。たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命と共に葬つた方が好いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです。あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから。
 私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては不可せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫みなさい。私の暗いといふのは、固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生まれた男です。又倫理的に育てられた男です。其倫理上の考は、今の若い人と大分違つた所があるかも知れません。然し何う間違つても、私自身のものです。間に合わせに借りた損料着ではありません。だから是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふのです。
  (中  略)
其極あなたは私の過去を繪卷物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臓を立ち割つて、温*かく流れる血潮を啜らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今時分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出來るなら滿足です。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書2」)



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私は今宵限り原田へ帰らぬ決心で出て参つたので御座ります :
(わたしはこよひかぎりはらだへかえらぬけっしんででてまいったのでござります):

樋口 一葉:−『十三夜』−:

父は穏かならぬ色を動かして、改まつて何かのと膝を進めれば、私は今宵限り原田へ帰らぬ決心で出て参つたので御座ります、勇が許しで参つたのではなく、彼(あ)の子を寐(ね)かして、太郎を寐かしつけて、最早(もう)あの顔を見ぬ決心で出て参りました、まだ私の手より外誰れの守りでも、承知せぬほどの彼の子を、欺(だま)して寐かして夢の中に、私は鬼に成つて出て参りました、御父様(おとつさん)、御母様(おつかさん)、察して下さりませ私は今日まで遂ひに原田の身に就いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中を人に言ふた事は御座りませぬけれど、先度(ちたび)も百度(ももたび)も考へ直して、二年も三年も泣尽して今日といふ今日どうでも離縁を貰ふて頂かうと決心の臍(ほぞ)をかためました、何(ど)うぞ御願ひで御座ります離縁の状を取つて下され、私はこれから内職なり何なりして亥之助が片腕にもなられるやう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませとわつと声たてるを噛しめる襦袢の袖、墨絵の竹も紫竹の色にや出(いづ)ると哀れなり。

                                                  (『十三夜』 上)

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私は死ぬ前にたつた一人で好いから、他を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人になれますか。なつて呉れますか。あなたは腹の底から眞面目ですか :
(わたしはしぬまえにたつたひとりでよいから、ひとをしんようしてしにたいとおもつてゐる。あなたはそのたつたひとりになれますか。なつてくれますか):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

先生の談話は時として不得要領に終つた。其日二人の間に起つた郊外の談話も、此不得要領の一例として私の胸の裏に残つた。
 無遠慮な私は、ある時遂にそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑つてゐた。私は斯う云つた。
 「頭が鈍くて要領を得ないのは構ひませんが、ちやんと解つてる癖に、はつきり云つて呉れないのは困ります」
 「私は何も隱してやしません」
 「隱して異らつしやいます」
 「あなたは私の思想とか意見とかいふものと、私の過去とを、ごちやごちやに考へてゐるんぢやありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考を無闇に人に隱しやしません。隱す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
 「別問題とは思はれません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆ど價値のないものになります。私は魂の吹き込まれてゐない人形を與へられた丈で、滿足出來ないのです」
 先生はあきとれた云つた風に、私の顏を見た。巻烟草を持つてゐた其手が少し顫へた。
 「あなたは大膽だ」
 「たゞ眞面目なんです。眞面目に人生から教訓を受けたいのです」
 「私の過去を訐いてもですか」
 訐くといふ言葉が、突然恐ろしい響を以て、私の耳を打つた。私は今私の前に坐つてゐるのが、一人の罪人であつて、不斷から尊敬してゐる先生でないやうな氣がした。先生の顏は蒼かつた。
 「あなたは本當に眞面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけてゐる。だから實はあなたも疑つてゐる。然し何もあなた丈は疑りたくない。あなたは疑るには餘りにも單純すぎる様だ。私は死ぬ前にたつた一人で好いから、他を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人になれますか。なつて呉れますか。あなたは腹の底から眞面目ですか」
 「もし私の命が眞面目なものなら、私の今いつた事も眞面目です」
 私の聲は顫へた。
 「よろしい」と先生が云つた。「話しませう。私の過去を残らず、あなたに話して上げませう。其代り・・・・・。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、其積でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」
 私は下宿へ歸つてからも一種の壓迫を感じた。

                                                  (『こゝろ』−「先生と私31」)

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私はたゞ妻の記憶に暗黒*な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振りかけるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい :
(わたしはたださいのきおくにあんこくないってんをいんするにしのびなかつたからうちあけなかつたのです。じゅんぱくなものにひとしずくのインキでもようしゃなくふりかけるのは、わたしにとつてたいへんなくつうだつたのだとかいしゃくしてください):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私は一層思ひ切つて、有の儘を妻に打ち明けやうとした事が何度もあります。然しいざといふ間際になると自分以外のある力が不意に來て私を抑え付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、説明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻に對して己を飾る氣は、丸でなかつたのです。もし私が亡友に対對すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を竝べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黒*な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振りかけるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい

                                                  (「こころ」−「先生と遺書52」)
     [註] 「*」:第三水準以降の文字のため、同意文字を充てた。



[←先頭へ]

私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ毎月行かせます。其感じが私に妻の母の看病をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭たれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起こります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました :
(わたしはただにんげんのつみといふものをふかくかんじたのです。 (中略) わたしはしかたがないから、しんだきでいきていかうとけっしんしました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚きました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃きに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、時分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした。
 私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ毎月行かせます。其感じが私に妻の母の看病をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭たれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起こります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書54」)

[←先頭へ]

私は旅先でも宅にゐた時と同じやうに卑怯でした。私は始終機會を捕える氣でKを観察してゐながら、變に高踏的な彼の態度を何うする事も出来なかつたのです :
(わたしはたびさきでもうちにいたときといなじやうにひきょうでした。わたしはしじゅうきかいをとらえるきでKをかんさつしてゐながら、へんにこうとうてきなかれのたいどをどうすることもできなかつたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

私は御嬢さんの事をKに打ち明けようと思ひ立つてから、何遍齒掻ゆい不快に惱まされたか知れません。私はKの頭の何處か一ケ所を突き破つて、其所から柔らかい空氣を吹き込んでやりたい氣がしました。
 貴方がたから見て笑止千萬な事も其時の私には實際大困難だつたのです。私は旅先でも宅にゐた時と同じやうに卑怯でした。私は始終機會を捕える氣でKを観察してゐながら、變に高踏的な彼の態度を何うする事も出来なかつたのです。私に云はせると、彼の心臓の周囲は黒*い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎ懸けやうとする血潮は、一滴も其心臓の中へは入らないで、悉く彈き返されてしまふのです。
 或時はあまりにKの様子が強くて高いので、私は却って安心した事もあります。さうして自分の疑を腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のやうに見えて、急に厭な心持になるのです。然し少時すると、以前の疑が又逆戻りをして、強く打ち返して來ます。凡てが疑ひから割り出されるのですから、凡てが私には不利益でした。容貌もKの方が女に好かれるやうに見えました。性質も私のやうにこせこせしてゐない所が、異性には氣に入るだらうと思はれました。何處か間が抜けてゐて、それで何處かに確かりした男らしい所のある點も、私より優勢に見えました。學力になれば専門こそ違ひますが、私は無論Kの敵ではないと自覺してゐました。――凡て向ふの好い所丈が斯う一度に目先へ散らつき出すと、一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
 Kは落ち付かない私の様子を見て、厭なら一先東京へ歸つても可いと云つたのですが、さう云はれると、私は急に歸りたくなくなりました。實はKを東京へ歸したくなかつたのかも知れません。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書29」)



[←先頭へ]

私は突然『奥さん、御嬢さんを私に下さい』と云ひました :
(わたしはとつぜん『おくさん、おじょうさんをわたしにください』といひました):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに傳へる氣のなかつた私は、「いゝえ」といつてしまつた後で、すぐ自分の嘘を快からず感じました。仕方がないから、Kに關する用件ではないのだと云ひ直しました。奥さんは『左右ですか』といつて、後を待つてゐます。私は何うしても切り出さなければならなくなりました。私は突然『奥さん、御嬢さんを私に下さい』と云ひました。奥さんは私の豫期してかゝつた程驚ろいた様子も見せませんでしたが、それでも少時返事が出來なかつたものと見えて、黙るて私の顏を眺めてゐました。一度云ひ出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着などしてゐられません。『下さい。是非下さい』と云ひました。『私の妻として是非下さい』と云ひました。奥さんは年を取つてゐる丈に、私よりずつと落付いてゐました。『上げてもいゝが、あんまり急ぢやありませんか』と聞くのです。私が『急に貰ひたいのだ』とすぐ答へたら笑ひ出しました。さうして『よく考へたのですか』と念を押すのです。私は云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然ではないといふ譯を強い言葉で説明しました。
 それから未だ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞ひました。男のやうに判然した所のある奥さんは、普通の女と違つて斯んな場合には大變心持よく話の出來る人でした。『宜ござんす。差し上げませう』と云ひました。『差し上げるなんて威張つた口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰つて下さい。御存じの通り父親のない憐れな子です』と後では向ふから頼みました。
 話は簡單でかつ明瞭に片付いてしまひました。最初から仕舞迄恐らく十五分とは掛からなかつたでせう。奥さんは何の條件も持ち出さなかつたのです。親類に相談する必要もない。後から斷ればそれで澤山だと云ひました。本人の意嚮さへたしかめるに及ばないと明言しました。そんな點になると、學問をした私の方が。却つて形式に拘泥する位に思はれたのです。親類は兎に角、當人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは『大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子を遣る筈がありませんから』と云ひました。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書45」)


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私は他に欺むかれたのです。しかも血のつゞいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であつたらしい彼等は、私の父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に變つたのです :
(わたしはひとにあざむかれたのです。しかもちょのつづゞいたしんせきのものからあざむかれたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 「私は他に欺むかれたのです。しかも血のつゞいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であつたらしい彼等は、私の父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に變つたのです。私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日迄背負はされてゐる。恐らく死ぬ迄背負はされ通しでせう。私はそれを忘れる事が出来ないんだから。然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個人に對する復讐以上の事を現に遣つてゐるんだ。私は彼等を憎む許ぢゃない、彼等が代表してゐる人間といふものを、一般に憎む事を覺えたのだ。私はそれで澤山だと思ふ」

                                                  (『こゝろ』−「先生と私30」)



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私は私の過去を善惡ともに他の参考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何も知らせたくないのです。妻が己の過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから :
(わたしはわたしのかこをぜんあくともにたのさんこうにするつもりです。しかしさいだけはたつたひとりのれいがいだとしょうちしてください):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

 それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違がから仕方がありません。或は個人の有つて生まれた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です。
 (中 略)
私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊崋山は邯鄲といふ畫を描くために、死期を一週間繰り延べたといふ話をつい先達て聞きました。他から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中にあるのだから已むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
 (中 略)
 私は私の過去を善惡ともに他の参考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何も知らせたくないのです。妻が己の過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを胸の中に仕舞つて置いて下さい。

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書56」)
                       −『こゝろ』 完−

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私は其刹那に、彼の前に手を突いて詫まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人曠野の眞中にでも立つてゐたならば、私は屹度良心の命令に從つて、其場で彼に謝罪したらうと思ひます。然し奥には人だゐます。私の自然はすぐ其所で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです :
(わたはそのせつなに、かれのまえにてをついてあやまりたくなつたのです。(中略)わたしのしぜんはすぐそこでくひとめられてしまつたのです。さうしてかなしいことにえいきゅうにふっかつしなかつたのです):

夏目 漱石:−『こゝろ』−:

Kに對する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、即*ち例のごとく彼の室を抜けやうとした瞬間でした。彼は何時もの通り机に向かつて書見をしてゐました。彼は何時もの通り書物から根を放して、私を見ました。然し、彼は何時もの通り今歸つたのかとは云ひませんでした。彼は『病氣はもう癒いのか、醫者へでも行つたか』と聞きました。私は其刹那に、彼の前に手を突いて詫まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人曠野の眞中にでも立つてゐたならば、私は屹度良心の命令に從つて、其場で彼に謝罪したらうと思ひます。然し奥には人がゐます。私の自然はすぐ其所で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです

                                                  (『こゝろ』−「先生と遺書46」)

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Wordsworth - Version2.6.0 (C)1999-2002 濱地 弘樹(HAMACHI Hiroki)