奇跡の軌跡
2005/05/04〜2005/6/5


 いま、全てを終えこの場所へ戻ってきた。
 ここに彼女の帰りを待つ者はいない。それは彼女自身が一番良く知っていることだった。それでも彼女はこの場所へ帰ってくる事を望んだ。
 今は誰もいなくなってしまった島――ここから、神々との決戦に至る旅が始まった。出発点。
 崩れかけたあばら屋がぽつんと佇んでいる、その光景は変わらない。
 あの時と変わっているのは、芽吹いた緑が鮮やかな色を放っていることぐらいだった。傾きかけた戸を開けてから。

「ただいま……おじいちゃん」

 彼女は呼び掛けた「おじいちゃん」――帝国屈指の科学者シド――が眠るのは部屋の中のベッドではない、庭の土の中だった。そんなことは分かっている。
 なぜ戻ってきたのだろう? セリス自身ですらそう思った。塔を降りてから仲間達に誘われた街へは行かず、たった一人でここへ戻ってきた。
 まるで忘れ物を取りに戻るとでも言うように。
 久しぶりに目にする部屋の中は、あの日と同じままだった。小さな机に簡素なベッド、生活に必要な最低限の物しか置かれていないせいか、そう広くはない部屋でもゆとりを感じる。崩れかけた屋根からは陽光が漏れ入っていた。
 時計の針が時を刻む事をやめてしまった島。歴史から取り残された孤島。それでも、ここが彼女にとって第二の故郷と呼ぶ場所にふさわしく、帰るべき場所だった。
 あの日、絶望に沈む彼女を救ってくれたのは、海岸で出会った一羽の鳥だった。
 僅かな希望を見出した彼女の背を押してくれたのは、彼の残した手紙だった。


 ――外の世界へ出ろ。
    仲間はきっと、お前のことを待っている。


 そして今、セリスは再びこの暖炉の前に立っている。

***

第 1日目:
 気が付くとあばら屋の一室に横たわっていた。
 どうやらここの主らしき男に助けられたようだ。
 ドアの向こうから波の音が聞こえる、海辺の家だ。

第 2日目:
 幸いなことに外傷もなくほぼ無傷である。
 部屋から外へ出てみた。
 ……信じられないが、見たこともない景色が広がっている。
 ここは何処だろうか。研究所…ベクタでないことは確かだ。

第 3日目:
 この家屋の主らしい男から長い説明を受けた。
 話によれば、どうやらあの日、世界は崩壊したらしい。
 分かるのはこの島に僅かばかりの人間が生き残っているということだけだ。
 他の土地がどうなったのかは分からない、と言う。
 海岸に倒れている私を助けてくれたのも、この男と数人の島民だった。
 そしてこの男は、この建物の本当の主ではないという。
 建物の所有者の行方は分からない。
 けれど雨露を凌げる家屋が残っていたのは有り難い、
 ここで生活することに双方異論はなかった。
 現時点では分からない事が多すぎる。
 頭の中を整理するためにも、記録をつけていこうと思い立つ。

第 4日目:
 まずは食料を探すことからはじめる。
 地上には収穫すれば食べられそうな作物がまだ残っている。
 幸い海にも食料となりそうな魚が泳いでいるから
 当面の食糧を心配する必要はなさそうだ。
 ただ、心配なのは飲料水の確保だ。急場しのぎで簡単な濾過装置を作った。
 しかしこれでは塩分を完全に除去することはできない。なんとかしなければ。

第 5日目:
 飲料水確保の方法を考える。
 島に井戸は無い。
 たとえ掘り当てる事ができたとしても
 地理的な面から考えれば飲料用には向かないと思われる。
 簡単な濾過装置を作ることで問題は解決できるだろうが、
 それ以前に井戸を掘る技術、掘削機械を作るには材料が乏しすぎる。

第 6日目:
 降雨なし。兆候すら見られない。
 海水は飲めない。
 海水を濾過するために作った簡単な装置を利用して最後の手段を提案した。
 ……あまり気は進まないが、背に腹は代えられない。
 もっとも、研究所にいた私はこんな程度では何とも思わない。
 理論的にも、この飲料水の確保の方法は今考えられる中では
 最も安全な方法だからだ。
 一滴の水もムダにはできない。住民達の説得を試みる。

***

 決して達筆とは言えないが、丁寧な字で埋め尽くされた本は実際以上の重みを感じさせた。
 そこに書かれていた記録は、セリスがこの部屋で目覚めるまでの間シドがこの島で見た全ての事が記されていた。時が経つのも忘れ、セリスは本を手に立ったままでページをめくり続けていた。
 まるで、眠っていた1年間の記憶を取り戻そうとするかのように。

***

第 10日目:
 島の海岸に何かが漂着したと騒いでいる。
 実際に出向いてみれば、ベクタで見たことがある……防具類、だろうか。
 とりあえず、こんな物が流れ着いても役には立たない。
 住民達は漂着したそれらを海岸に捨て置いている。
 しかし海岸で放置されたそれらを見て、つい昔が懐かしくなってしまった。
 研究所に出入りする兵士達が持っていた物を思い出させるからだろうか。
 私はそれを自宅へと持ち帰り、地下室の隅に置いておく事にした。

第 13日目:
 飲料水の問題に進展無し。
 私の提案した方法を試してくれてはいるが、飲料として拒否する者も
 中にはいた。
 背に腹は代えられないと受け入れる者もいれば、頑なに拒み続ける者もいる。
 こちらから無理強いはできない。できないが……。
 雨が降らない以上はこれしか方法がない。
 現状への絶望からか、島の北側にある崖から投身自殺を図った者が出た。
 住民達は精神的に疲労し始めている。

***

 『投身自殺』。この文字を見てページをめくる手が一瞬止まった。
 セリスが目覚めたときには既に、島に残っているのはシドだけだった。しかしシドは多くの島民の死を目の当たりにして来たのだと言うことを、セリスは今さらながら初めて知ったのだった。
 記録にはシドの感情が記される事はなく、ほとんどがその時の状況を書きつづっている物だった。長年の研究生活からか、根っからの研究者気質なのかまでは分からないけれど、そんなところがシドらしいと思った。
 そしてこの先セリスが目覚めるまでの間、島は数々の危機に直面することになった。

***

第 20日目:
 僅かに残る島民の精神的疲労が行動に現れている。
 同居している男の様子からも分かる。
 北端の崖から2人目の投身自殺者を確認。
 とにかく飲み水だ。これ以上は限界だろう。

第 31日目:
 ここまで一度もまとまった雨が降っていない。
 気候変動が起きていると考えるべきだ。
 とにかく、これ以上は危険だ。
 3人目の死体を確認。

第 33日目:
 島の崖から投身自殺を図ったと思われる者の遺体が海岸に漂着。4人目。

第 35日目:
 今朝、起床した時に男の姿が見えなかった。食糧を集めに出たのだろうか。
 飲料水問題に関して進展はない。

第 37日目:
 それにしてもこの海岸には様々な物が流れ着く。
 海流の影響だろうか?
 うち寄せられた刀や剣などが海岸の岩場に山と積まれている。
 私にそれらを扱うのは不可能だが、
 いつかと同じように家の地下室へ持ち帰ることにした。
 ベクタが懐かしく感じられる。
 島の外はどうなっているのだろうか?

第 40日目:
 最悪だ。
 海岸に流れ着いたのはあの男だった。変わり果てた姿……。
 5人目の遺体を丁重に葬る。

第 42日目:
 また海岸に人が横たわっている、もううんざりだ。

第 48日目:
 これで何人目になるだろうか。海岸の遺体を回収……

 何と言うことだ!
 私はこの者をよく知っている
 ……懐かしい、こうして昔を知る者と巡り会えたことが
 奇跡のようにすら感じる。
 事実、奇跡なのだろう。
 引き上げてみれば、体の至る所に裂傷を負っている。
 どうやら彼女は流木に乗ってここまで漂着したようだ。
 信じられない。
 何より……まだ息がある。考えられない。
 これは魔導注入によって得られた生命力なのだろうか?
 魔導注入を受けた人間は、受けていない人間に比べて
 身体的に特殊な変異をもたらすのだろうか?
 幻獣が死ぬ時、その力が魔石となって残されることから考えれば、
 幻獣から魔導を引き出し注入するという行為は、
 即ち幻獣の生命力そのものを与えるという事なのだろうか?
 しかし、そうと結論づけるにはデータが足りなさすぎる。
 なにより魔導以外の変容は、魔導注入実験の被験者に現れた
 精神的な副作用しか認められなかったはずだ。

 いや今はそんなことよりも、彼女の治療に全力を注ごうと思う。

***

 この日の記録は、いままでのどのページと比べてもシドの筆跡が乱れていた事に気付いて、これまで順調に読み進めていたページをめくる手が止まった。
 日記の本文、というよりは行間に細かな文字で単語や数字が走り書きされている。恐らくはシドが書き取ったセリスの容態変化に関する記録なのだろうとは思ったが、実際それらが何を意味しているのかまでは分からなかった。
 ただ彼が必死だったことだけは、文字からでも痛いほど伝わってきた。
「……おじいちゃん」
 誰もいなくなった部屋で、思わず零れた彼女の声だけが空気を揺らす。


 ここから最後のページに至るまで、量に多少の差はあるものの全てのページの隅は容態変化の記録と思われる数値や単語類が並び、それらは小さな矢印で繋がれていた。時にはページ全体が真っ黒になるほど書き込みされた日もある。どれもこれも次々と書き直されており、数字や単語の一部には線が引かれていたり、中には何重にも丸で囲われているものもあった。たくさんの矢印が導く先に、セリスが目覚める日があるのだと――少なくともシドは――信じて書き記していったのだろう。
 海岸に打ち上げられたセリスの姿を見つけたシドが奇跡だと、再会を喜んだ思いを、今度はセリスが味わっている。本を読んでいると、まるで今もシドがそこに居るような錯覚さえした。
 セリスははやる気持ちを抑えつつ、ページを読み進めていった。

***

第 82日目:
 息はあるものの意識が戻らない状態が続く。
 その他の機能数値は一定値を保っている。
 残念ながら私自身に魔導の力はない。ケアルすら施せない。
 なんのための研究だったんだ、情けない。
 島の住民達は日に日に数を減らしている。

第 90日目:
 遂に島民が半分になった。
 意識は未だ回復せず。
 気ばかりが焦る。

第 91日目:
 変化無し。何もしてやれる事がない。

第 92日目:
 進展無し。

第 93日目:
 変わらず。

第 94日目:
 同上。

第 95日目:
 容態に変化無し。
 浜辺に上がった死体を片付ける時間の方が長くなった。

第 96日目:
 どうか目を開けてほしい。願うばかりで何もできず。

第 97日目:
 苛立ちが募る。
 確かに数値は彼女の生存を示しているはずなのに目覚めない。何故か?
 測定方法を間違えたのだろうか。
 それとも私は幻を見ているのだろうか。
 夢なのだろうか。
 夢だとしたらあまりにも酷い悪夢だ。
 こんな悪夢からは一刻も早く目覚めて欲しい。
 セリスが目覚める気配はない。

第 98日目:
 変わらず。

第 99日目:
 ー

***

 しばらくの間、ノートには白い部分が目立つようになった。「変わらず」「特になし」「前日に同じ」などで数週間が過ぎていく。そんな中で容態の記録は相変わらず書き続けられているものの、以前ほどの勢いはなく矢印も頼りなげだった。
 それ以外の文字があると思えば、それは悲嘆に暮れる声であり、読んでいる方さえ容易く飲み込まれてしまうような深い絶望の底を描写したスケッチだった。
 しかし、この先に待つ本当の絶望が記されたページの存在を、彼女はまだ知る由もなかった。

***

第132日目:
 このまま目覚めないのではないか。
 不安に襲われる。
 容態変わらず。

第142日目:
 目覚める気配は無いものの、
 依然として一定値を保ったセリスの容態は落ち着いている。
 食糧集めのために外へ出た。風はない。
 空にも不気味な色の薄雲が漂うだけで相変わらず降雨の気配は見られない。
 島民の数自体は少ないが、
 それでも地上に食物を求めるのは困難な状況になりつつある。

第152日目:
 草は枯れ、土は雨を失い明らかに衰えている。
 種を植えてもこんな土壌では育つ見込みがない。
 もともと島に自生する植物は、比較的乾燥に強い種類であったようだが、
 それでも限界がある。
 セリスの容態が好転する気配は見られないが、
 このままいけば悪化することは目に見えている。なんとかしなければ。

第162日目:
 海岸に打ち上げられた死体を発見。一時期よりも数が減ったように思うが、
 裏を返せば生存者自体が減少しているだけだ。
 生きる者がいなければ、死ぬ者も居ない。
 これまでと同様、火葬後に埋葬。
 ここまで行ってきた処置はどうやら功を奏しているようだ。
 感染症等で死亡した者は確認していない。
 しかし今回は、状況から見て身投げのものではない。
 食糧不足がいよいよ深刻になってきた。

第172日目:
 残っている島民同士で食糧を持ち寄る事になった。
 確認できた人数は28名。この少人数にとってみれば島は広い。
 ここで初めて顔を合わせる者達も多くいた。
 彼らに出身地を尋ねてみると、皆ばらばらである。
 ほとんどの者が、私やセリスの様に他の土地からここへ流れ着いたことを知る。
 私を含めて集まった全員に言えることだが、疲労の色を隠しきれない。

第185日目:
 鳥の声で目を覚ます。外は相変わらず不気味な薄雲に覆われている。
 一滴の降雨もない。
 セリスの容態にも変化はない。
 悪化することもなければ、回復する兆しも見えない。
 ただ眠り続けるだけのセリスの姿を見て、毎日胸を撫で下ろす。
 …けっきょく私の研究は、一番大事なところでは役に立たないことを知る。

第196日目:
 容態は安定、目覚める気配はなし。
 降雨無し。
 上空を飛び回る鳥の数が、以前より増している様に感じられる。

第202日目:
 状況変わらず。
 食糧の方は魚を捕れば何とか飢えを凌げる。
 ここへ来て改めて思うのはセリスの生命力だ。
 これだけ長期間に渡る昏睡にも関わらず、筋肉の後退等が全く見られない。
 本当に眠っているだけのようだ…。

***

 いつしか日は傾き、部屋の中がオレンジ色に染まっている。隙間から吹き込む風の冷たさにセリスはようやく顔を上げ、ずいぶん時が経ったことを知った。
 いったん本を置いてから室外へ出ると、適当に枯れ枝を集めて再び部屋に戻り暖炉の火をおこして来るべき夜の寒さに備えた。
 昼間はそれほど気にならなかったが、やはり誰もいない島に一人だけ残されると押し寄せて来る不安と孤独感に飲み込まれてしまいそうになる。だけどそれでは戻って来た意味がない。それらを振り払うように一度大きく頭を振って、セリスは再び本のページを開いた。

 シドはそれ以上の孤独感と不安を抱えながら、セリスを看病していたのだから。

***

第210日目:
 この家の扉を私以外の人間が開くのは何日ぶりだろう。
 訪ねてきたのはまだ若い娘だった。彼女もこの孤島で生き残っている一人だ。
 しかしその表情は晴れやかではない。
 こんな生活を強いられているのだから無理もないことだが、
 …それだけではなさそうだ。
 彼女は私に告げた。
 「逃げた方がいい」と。
 この島を離れて逃げ延びる地があるのか? と聞くと、
 彼女は一枚の紙切れを寄越した。
 どうやら伝書鳩に託された手紙のようだ。
 内容から察するに、どうやらマランダの人間に宛てられた物のようだ。
 差出人の名前があるが――この島に該当する者は居ない。
 ……。
 世界崩壊後、残ったのはこの島だけではない。
 ……結論を出すにはもう少しデータを集める必要はあるが、
 その大きな手がかりを彼女は教えてくれたのだろうか。
 私は彼女に礼を述べると共に、ここに残る意志を伝えた。
 セリスの意識が戻るまで、この島を出るわけには行かないのだ。
 その言葉を受けて、彼女は深々と頭を下げて立ち去った。

 世界はまだ生きている。
 今は細い光明だが、確かな希望を見出した。

第215日目:
 あれから暫く考える。
 世界がこの島を残して全て崩壊してしまったと思い込んでいた。
 しかし、そうではない。
 伝書鳩に手紙を託した者がいる。
 差出人の名や書かれた内容からすると、
 (主に差出人自身や周囲の状況が記されている)
 この島から出された物ではない。
 となれば……。
 他の土地も(どれ程の状況かを知る手がかりはないものの)
 ここと同じようにして人々が暮らしているのではないか。
 そうなれば、ここよりもいい環境でセリスの看病にあたれるのではないか。
 だが、少なくともこの島から出るためには海を渡らなければならない。
 船以外の手段では島から出ることができない。
 眠ったままのセリスを乗せて、どれぐらいかかるか分からない航海に出るのは
 あまりにも危険すぎる。
 どうにかして外の世界の状況を知る方法はないものだろうか。

第219日目:
 セリスの容態に大きな変化は見られず。
 外の世界を知る手がかりも、今のところ見つからない。
 しかし考えているだけでは仕方ない、セリスの容態は一定値を保っている。
 このまま急転しない限り、いつ目覚めてもおかしくはない、
 彼女はもうそこまで来ている。
 これは確かに私の希望的観測かも知れない。
 だが、学者としての目で、彼女の数値を見ても同じ判断ができる。
 セリスが目覚め、ある程度の回復が見込めれば
 島の外へ出るという選択肢も考慮に入れておくべきだ。

第220日目:
 船を造る材料はない。残念ながら動力となる物がここにはないからだ。
 それでも、外へ出る手段がないという訳ではない。
 枯れた大地に倒れた巨木は、乾燥具合もちょうど良い。
 それらを使って筏を作ることを思い立つ。
 セリスが目覚めるまでに、私ができることが見つかった。
 容態に変化無し。

第229日目:
 あれから筏を作る作業を海岸で続けている。
 手頃な木を持ってきて、まずは等分に切り揃えている。
 ここで地下室に保管しておいた刀が役に立った。
 少し微熱があるように思われるが、それ程心配はいらないだろう。

第230日目:
 微熱が続く。顔色があまりよくない。
 汗をかかせるために水分を接種させる必要がある。
 私の分を与えることにした。
 今日は一日屋外での作業を控えよう。ここで私が倒れてしまっては
 意味がない。

第232日目:
 数日続いた微熱も下がった。
 看病の合間に筏作りも再開。順調に進んでいる。
 木と木を結びつける綱は他の廃屋から余っていそうな物を拝借して来たが、
 これでも充分いけそうだ。

第245日目:
 セリスの容態は依然として一定値から変動がない。
 筏を作るという目的ができたことで気分が紛れる。
 海岸で作業をしていると、鳥を見かける。
 そう言えば伝書鳩はもうこの島にはいないのだろうか。
 外の世界の手がかりを、なんとかして得たい。

第250日目:
 容態安定。
 海岸での作業が続く。土台の完成目処が立ちそうだ。
 ここ10日間ほどで土台部分は完成するだろう。

第255日目:
 セリスの容態に特筆すべき変化が見られた。対光反射だ。
 数値は一定でも、外部からの刺激に対して彼女が反応を見せることは
 これまでに一度もなかった。
 これで一歩、彼女が目覚めるまでに近づいたことを確信した。

***

 妙な気分だった。
 ここに記されているのは他でもない自分の姿である。傷付き、昏々と眠り続けていた自分を看病したシドが書いた物である。それなのに、この嬉しさは何だろう? 身の内にわき起こった不可解な感情に戸惑いながらも、そんな自分の姿がなんだか可笑しかった。
 書かれていたのは耳慣れない言葉だった。ただ、その言葉が持つ意味をなんとなく理解した。それ以上に、この記録を残したシドの喜びの方が、文字を通して伝わって来る。自分の回復する姿を見て喜ぶシドの姿を思うと、セリスの表情も自然と柔らかくなった。
 未だかつて味わったことのない感覚に戸惑いながらも、セリスは続きを読もうと本に触れる。
 しかし次のページを開いた途端、セリスは体中が強張るのを感じた。
「……!」
 この先に続く文字と、ボロボロに破れたページ、そして所々に残る血痕が語るのは、孤島で起きた悲劇の記録である。

***

第259日目:
 朝、海岸に出てみると信じられない光景が広がっていた。
 完成間近の筏(土台部分)が壊されているのだ。
 それだけではない。
 崩された筏の山の中に人が倒れている影が見える。
 驚いて駆け寄れば、いつかの娘の姿があった。
 首だけを出して、全身が材木に埋まってしまっている。
 私はその木をどかし彼女を救助しようと試みた。
 慎重に除けたつもりだが、途中で音を立てて崩れてしまった。
 彼女の首が、足下に転がった。
 身体はすでに無くなっている。
 木で隠されていた部分が露わになって初めて気づいた。
 海岸には夥しい量の血が飛び散っている。
 モンスターの仕業だろうかとも考えたが、それにしては不自然な点がある。
 1点目はこの状況だ。
 モンスターが人間を襲う理由はただ1つ、補食するためだ。
 この場合、残るのは消化することのできない骨のみである。
 頭部だけがそのまま残っていることはない。
 2点目はえぐれた切断面だ。
 人間を襲うモンスターの場合、ほとんどは鋭い牙か爪を持ち、
 それらで骨や肉を砕き、あるいは切り裂く。
 この傷跡から察するに、おそらく切れ味の悪い何かで、何度も何度も
 切断を試みたのだと考えられる。
 壊された筏。
 バラバラになった木を組み直して、飛び散った血を隠したのは意図的だろう。
 その上に彼女の首だけを乗せていた。
 ……この事から考えられるのは、それは「見せしめ」のために行われた
 一種の処刑なのではないかということだ。
 とても嫌な予感がする。
 急いでセリスの元へ戻った。

第260日目:
 セリスの回復は明らかだった。
 たとえ僅かな反応だったとしても次に繋がる。その手応えを私は確かに感じた。
 間違いなく、セリスは目覚めようとしている。
 だから、彼女が目覚めるまで傍にいようと私は決めた。
 地下室に放り込んであった漂着物をあさり、手頃な武器や防具を護身用に
 持ち歩く事にした。
 もしかしたら、この鉾先を向けるのは同じ人間である事を思うと
 居たたまれない気持ちになる。

第262日目:
 「食糧不足が招いた悲劇だ」
 男はそう言った。
 この家の扉を開いた4人目の人間は……残念ながら狂気に満ちていた。
 どうやらこの島に残る最後の人間は、我々だけになってしまった様だ。
 今になってようやく、いつかここを訪れた娘が口にした言葉の意味が分かった。
 …逃げるべきだったのだ。



 海岸に漂着した武器類のうち、男がたまたま扱える短剣を手にした事が全ての発端だったという。
 島の内陸部に生活の拠点を置いていたこの男は、慢性的な食糧不足に悩まされていたのだろう。後になって冷静に考えれば、海へ出れば魚だっているというのに、男はその道を選ばなかった。北端の崖から身を投げる人々――彼にとっていつしか、その人々が貴重な食糧源となっていたのだ。
 しかしこれで、ある日を堺にして海岸に漂着する遺体の数が減少した事や、鳥の数が増した現象にも納得がいく。
 極限にまで追い込まれたとき、人は人であることをあっさりと手放してしまう。力とは――人間から“心”を奪うものなのだと知った。

 こうしてシドは、はじめて自分の行っていた研究の顛末を見たのだった。

 確かに最初は、同じ人間に刃を向けるのをためらっていた。しかし、そんな事は言っていられない。抵抗しなければ、こちらの命を奪われるだけなのだ。
 いいや。
 自分の命などどうでもいい。しかし、背後で眠り続ける少女の――生きようと、目覚めようとしている――生命だけは、なんとしても守り通さねばならなかった。
 持ち慣れない剣を手に、シドは男と向き合った。
 生まれてこの方、研究一筋で剣になんて触れたこともない。そんなシドがこの歳で初めて剣を人に向けている。剣を握る手は汗ばみ、足は震えて立っているのもやっとだった。震えにあわせて身につけた盾や鎧がカタカタと音を立てた。まるで情けないシドの姿をあざ笑うかのように。
「せ、セリスには……指一本ふれさせんぞ」
 震える声をようやく絞り出して吐いた言葉も、男の前で呆気なく立ち消えた。殺気と呼ぶよりも狂気に近いその気迫に、シドは思わず後ずさった。しかし崩れかけた薄い壁一枚を隔てた部屋の奥に、セリスが眠っている。ここを退けば、セリスの命が危ない。
 シドは意を決して剣を振り上げた。
 ――何もない。何も感じない。あるのはただ、セリスを守る一心のみだった。

***

 血の色に染まったページを破らないように慎重にめくり、消えかかった文字を補いながら読み進めていく。文字だけではなくページ全体が、ここで繰り広げられた悲惨な光景を目撃した――記録ではなく、まるで証言者だった。
 かつて帝国将軍にまで上り詰めたセリスにとって、戦場で行われるその光景はいわば日常である。人が人に刃先を向け、その命を奪う。
 恐ろしいことだが、人の感覚は麻痺してしまう。戦場という極限の状況に置かれた人間は、その身を守るために武器を取り、心を守るために感情を殺す。
 将軍として皇帝ガストラに仕えていた頃、まだ幼いながらも魔導の力を得つつあったセリスはふと疑問に思う事があった。
 ――剣で殺されるのと、魔導で殺されるのは、どちらが苦しいのだろう? と。
 魔法を放つときは相当の精神集中を要する。それでも、剣で相手を傷つけるよりは負担が少なかった。
 間近で苦しむ顔を、あるいは声を聞かずに済んだからだ。
 セリスは力を与えてくれたシドに感謝していた。
「…………」

 けれど、それはただ単に汚い物をヴェールで覆い隠しただけに過ぎない。

 シドのしたことは、形を変えた殺戮だ。
 多くの帝国兵を、私や……ケフカという破壊をもたらす力そのものを産み落とした……科学者だ。
 三闘神が魔法と幻獣の生みの親であり、文字通りの神と崇められるならば。
 幻獣達から無理やり魔導力を引き出し、移植したシドの行為は神の意に背く大罪なのだろうか。
 そうだとしても、私はシドに感謝している。

***

第263日目:
 私の体中が血に染まっている。
 痛みはない。
 もはやこの血が誰の物かは分からない。
 散らばる残骸を片付けよう。
 足が動かしづらい。

第264日目:
 私はセリスを救うことができるだろうか?
 帝国の研究所にいた私はこれまで、数え切れない人々に魔導の力を与えてきた。
 しかし、果たしてその力で救えた者はいたのだろうか。
 いったい何人の者が救われたのだろうか。
 魔導の力を得た者の多くは、戦地でそれを発揮した。
 ここ数十年という短い間の帝国の繁栄が、すべてを物語っている。
 …犠牲者が出た。
 魔導の力を得るために、多くの幻獣の生命を奪った。
 ここ数十年という短い間の帝国の繁栄の裏に、その暗い歴史がある。
 …犠牲者が出た。
 人間も、幻獣も。
 私は誰も救うことができなかった。
 だからせめて、こうして再会したセリスだけは救いたい。
 数値は安定。

第272日目:
 前庭反射を確認。
 セリスの身体は着実に回復を見せている。
 私はセリスを救おうとしているのだろうか。
 回復を見せるセリスに救われている、そんな気がしてならない。
 こんな私にも、救える者がいるかもしれない…。
 私はセリスに感謝している。

第278日目:
 壊された筏の修復を始める。
 このままいけばセリスは確実に目覚めるだろう。
 そのとき、島の外に出るという選択肢を残しておくためだ。
 傷のため足が動かしづらくなった。必然的に作業効率が落ちる。
 あのとき負った傷はそれほど深くはないので心配はいらないが、
 作業がしづらくなったのは難点か。

第285日目:
 幸い壊れていたのは木と木を結びつけていた綱が切られていたぐらいだ。
 以前と同じようにして土台を組み直す作業を続けていけば、
 わりと早い時期に完成できるだろう。
 動力はやはり風の力を頼るしかない。
 帆の代わりとなる材料を探さなければならない。

第290日目:
 廃屋にはまだ使えそうな材料が眠っている。
 何枚かあるシーツを重ねて帆の代わりになるだろうか。
 とにかく形にしてみよう。
 セリスの容態は安定。
 反応を示すようになったものの、まだ小さいものばかりだ。
 油断はできない。

第300日目:
 セリスに咽頭反射を確認。ここ数日間、彼女は目に見える早さで
 回復を遂げている。
 私も体の不調などとは言っていられない。
 一応、化膿して熱を持った部分は切除しておいた。
 彼女が目覚めるまでに、終わらせておかなければならない事はまだ残っている。

第315日目:
 筏の土台部分はほぼ完成した。
 帆の代用とするために、廃屋に置き去りにされていたシーツを縫い合わせる。
 何軒かまわって、ようやく数がそろった。
 私の方は多少微熱がある。やはり疲れがたまっているのは否めないようだ。

第320日目:
 セリスの皮膚反射も戻った。。
 筏の方は土台と支柱になる部分は完成した。あとは帆のみだ。
 最近ひどい目眩に襲われる事がある。

第330日目:
 帆の部分を縫い合わせるための作業が続く。
 しかし体調の悪化を考えて、
 今のうちに地下室に筏を運んでおいた方が良さそうだ。
 セリスが目覚め、一人であの場所から海岸まで筏を持っていくのは重労働だ。

第335日目:
 セリスの表情が変わっているような気がする。
 外からの刺激にも多くの反応を示すようになった、
 以前にもまして代謝が活発になっている。
 いよいよ、目を覚ますのも時間の問題だ。
 よくがんばった。

第339日目:
 筏の搬入作業を終える。
 この家の地下室は、そのまま海に出られる構造になっている。
 漁師の使っている建物だったのだろうか。
 それとも帝国からの攻撃に備えた構造なのだろうか。
 いずれにせよ好都合だ。

第340日目:
 寝返りを打とうとしたのだろうか、セリスがベッドから落ちた。
 突然のことで驚いたが、
 彼女自身の意志で身体を動かすことができるようになった証拠だ。
 何度か同じような事を繰り返す。

第342日目:
 ベッドの上で必死に寝返りをうとうとしているセリスに手を貸す。
 少し無理な体勢だったのだろうか、苦しそうに息をしている。
 その合間に、わずかだが確かに聞き取った。
 セリスののどから発せられた、声にならない音。
 感覚が戻っている。

第350日目:
 目眩が頻繁になる。
 頭痛や吐き気のため、ろくに外へも出られない。
 しかし、セリスが目覚めるまでは元気でいなければ。

***

 ページをめくるたびに近づいてくる時間。真っ白だったセリスの脳裏に書き込まれていく記憶。
 それは同時に、シドとの永遠の別れの時が近づいていることも意味している。
 書き続けられていたシドの文字が途絶える日まで、残されたページは少ない。この記録を見つけ、読み始めた当初の「早く先を読みたい、読み終えてしまいたい」という気持ちは、やがて不安へとすり替わっていた。

 ――シドは、命を削ってセリスを守り抜いたのだ。

***

第360日目:
 セリスは依然安定を保っている。
 目覚めてから1年が過ぎた。
 これまでの記録を眺めながら、長い孤島での生活を思い出す。
 筆を執るのもつらくなってきた。足だけではなく腕の神経までやられているのか。

第362日目:
 起きていることさえも困難になってきた。
 セリスが目覚めるまでは……。

第363日目:
 このまま、私は誰も救えずに死ぬのだろうか。
 すまない。

第365日目:
 夢ではない。
 セリスが目覚めた。ようやく、やっと。
 私はどれほどこのときを待ちわびた事だろう。

***

 セリス自身、目覚めた当時のことはそれほどよく覚えていなかった。しかしこの記録を読みながら、ゆっくりと、そして確実に記憶がよみがえる。
 セリスが聞いたシドの言葉。シドが語った言葉の真実が、この記録に残されている。

***

『おお、セリスよ……やっと目覚めたか』
『私……どれぐらい眠っていたの?』

 目覚めたセリスが最初に尋ねてきたのは、
 どれほどの期間、自分が昏睡状態にあったか、という事である。
 彼女らしい、そう思った。

『ちょうど1年じゃよ。もう助からんと思っておった』
『1年間も……シドが私を介抱してくれたのね?』

 これでようやく……私は役目を果たせた。
 そう思うと全身の力が抜けた。
 回復しきらなかった傷は、認めたくはないが確実にこの身を蝕んでいた。

『ああ。でもわしはもう疲れた……。
 ここは小さな無人島じゃよ。世界が引き裂かれた後、気づいたらこの島に倒れておった』
『引き裂かれた……夢じゃなかったのね。みんなは? ……ロックは?』

 セリスが流木に乗ってこの島に流れ着いたのは、
 空中分解したブラックジャック号から振り落とされた事をはじめて知る。
 彼女が命を落とすことなく、この島に流れ着いたのが
 改めて奇跡だと思った。

『わからん。島以外の事は何も……。
 世界はこの島を残して全て沈没してしまったかもしれん。あの日から世界は一歩一歩破滅に近づいている……。草木や動物はどんどん死に追いやられ、生き残った島の人も次々と希望を失い北の岬の崖から身投げしよった』
『みんなはもう……生きていないのかも……』

 なるべく手短に…事実を伝えた。
 あの事件の事には触れなかった。セリスが知る必要はない。
 知れば彼女は傷つくだろうと、そう思ったからだ。
 それに…
 もうこれ以上、セリスが絶望を味わう必要はないのだ。

『セリスよ、気を落とすな。
 お前はわしにとって世界で一人の家族じゃ。ここでいっしょに静かにくらそう』
『ええ……そうね…シド……
 いえ、おじいちゃん。そう呼んでいい?』

 セリスが無理をしているのは一目で分かった。
 私の言葉も慰めでしかない、そうと知りながら、悟られまいと笑顔を見せる。
 すまない、セリスよ…。

『おじい!?
 へへ てれるのォ突然孫娘ができたみたいで……』

 どうやら私の容態は思っている以上に悪化しているようだ。
 セリスが「おじいちゃん」と呼ぶ理由は、何となく察しがつく。
 しかし、呼び慣れない名で呼ばれるのは、嬉しくもあり恥ずかしくもある。
 ……おじいちゃん、か。

第369日目:
 目覚めたセリスは献身的に介抱してくれている。
 あれから、私のために魚を取りに行ってくれる。
 その姿からは、1年間の昏睡状態から目覚めたばかりとは思えない
 力強さを感じられる。
 やはり筋力等の後退は見られなかった。

第370日目:
 容態の悪化が手に取るように分かる。
 もう時間がない。
 私にやれることは、終わらせておかなければ…。

***

 ここで1ページ分が破られていた。
 どうやらセリスに残した手紙を書いていたらしい。筏の在処を記し、島の外へ出る様に書き残したシドの身体は、もはや限界だったのだ。

 そして、この日を最後に記録は途絶えている。この先どのページをめくっても、ただひたすらに真っ白なページが続いているだけだった。

「……シド……!」
 
 誰よりもセリス自身、シドの死を目の当たりにしていた。文字が書かれることのない白紙が延々と続くだけで、それでもページをめくる作業を続けた。
 続きなんてないと分かっているのに、記された文字を必死で探した。シド、ごめんねシド。そう何度もつぶやきながら。
 分厚い本のうち、シドが書き記すことのできたのはおよそ半分のページだった。誰もいなくなった孤島にかろうじて残ったあばらやの一室で、紙をめくる音と、その合間に薪がはぜる音だけがする。
 一晩中、その音がやむことはなかった。



 ――いつの間に眠ってしまったのだろう。
 暖炉の火も消えて、すっかり闇に包まれた部屋の中でセリスは目を覚ました。机の上には閉じられた本だけが置かれていた。埃をかぶったベッドの上に、崩れかけた屋根の隙間から星の光が細い筋となって注いでいた。
 再び暖炉の火をおこして、部屋はようやく温もりと光を取り戻す。それでもこの島に、人々の笑顔と流れる時間が戻ることはない。
 長い夜だ、そう思った。
 どうして目覚めてしまったのだろう? もう読むべきページは残っていないのに。そんな風に後悔した。
 割れた窓からわずかな風が吹き込んで来る。何気なくその方向を見れば、傾きかけた木柱が見えた。それはシドの眠る場所を示す墓標にと旅立つ前にセリスが立てた物だった。
 まるで誘われるようにセリスは立ち上がると、本を片手に外へ出た。
 月明かりを背にして墓標の前に立てば、2本の細長い影が海岸に向けて延びている。いつの間にか風はやんでいた。
「……シド、……」
 本を置き、跪いたセリスは手を合わせて目を閉じた。祈り方なんて分からない、だからいつも通りに話しだす。
「……おじいちゃん、終わったよ。全部終わった……私たち、みんなで三闘神を倒したわ」
 長かった旅路の果てに、ようやく勝ち得た平和。シドに見せたかった世界。セリスの声は明るく弾んだ。
「フィガロや……ツェン、マランダも、他の町も、復興に忙しいみたい!」
 人々の表情に笑顔が戻り、私たちを迎えてくれた。通り過ぎた各地で「ありがとう」と何度も言われた。嬉しかった。
 けれど嬉しさの波が通り過ぎた後に残ったのは、どうしようもない孤独感だった。

「だけど……私……、これから何をしたらいいのかが分からなくなっちゃった」

 ――戦うことしか知らないの。この先、私にできることなんて何もない。
 世界から取り残されてしまった、そう思った。
 戦いが終わって、みんなはそれぞれ自分の帰るべき場所へ戻っていった。自国の復興に邁進する者たち、故郷に待つ者との再会を果たし日常を取り戻す者たち――その中で、私には帰る場所がない事を知った。

「そうだよね。今までさんざん、人の国や故郷を滅ぼしておいて……今さら、帰る場所、なんてね……ムシが良すぎるよね」

 自嘲気味に笑いながら、顔を上げた。目の前の木柱は返事をするはずもなく、ただ闇の中で佇んでいた。
「…………」
 世界から取り残された孤島、セリスにとって戻るべき場所はここだけだった。
 ここで、静かに暮らそう。私にはそれしかできないのだから。だからこそ、たったひとりで戻って来たのだ。
「……この続き、私が書いてもいいかな?」
 置いた本を取り上げ、胸に抱いてぽつりと呟いた。
 木柱は何も語らない。明けることのない夜の闇と、永遠に続く沈黙だけがセリスを優しく包み込んでくれた。愁いと安堵の狭間に沈んだ彼女の心に、光は届かなかった。
 部屋に戻ろうとセリスが立ち上がって振り返ると、あばら屋の軒先に一羽の鳩の姿を見つけた。足に何かがついている――伝書鳩だ。
 懐かしい。
 不意に浮かんだのはそんな感情だった。ここへ来て何を懐かしむというのだろう? それでも、セリスは手を差し出した。
 どうやら人に慣れているらしく、セリスが手紙を受け取るのは苦労しなかった。小さく折り畳まれた手紙を広げると、簡潔にこう書かれてあった。

 ――おたくのセリス、元気がないからさらいに行くぜ。
さすらいのトレジャーハンター


 演出と呼ぶにはあまりにも稚拙で、だからこそ思わず顔がほころんだ。彼ららしい、そんな風に思いながら。
 ――それにしても、これはどういう意味だろう?
 手紙を前に、セリスは思案に暮れた。差出人はすぐに思い当たった。以前にも同じ様な"手紙"を読んだことがあったからだ。そしてそのときは――。
 記憶をたどるよりも先に、異変に気づき顔を上げた。
 途端に耳をつんざく音が響き渡る。闇と静寂に沈んだ孤島に起きたあまりに急激な変化に、セリスは身構える。
「な……何!?」
 今はない帯剣に手を伸ばそうとするのは、長年の軍属生活で身に染みついたクセなのだろう。苦笑を浮かべながら手を広げ、音のする方角――海岸と、その先に広がる漆黒の海――を見つめた。
 やがて耳に懐かしい轟音と、月明かりに浮かぶ目映いほどの輝きと曲線が闇色の海に浮かぶ。その姿を見いだして、セリスは叫んだ。
「ファルコン!」
 世界最速にして唯一の飛空艇。その所有者は三闘神討伐の旅路を共にした男であったはず。それがなぜこんな場所に?
 考えている暇もなくファルコンは海岸に着地し、扉を開けて中から出て来たのは飛空艇の所有者その人だった。
「よお。久しぶりじゃねぇか」
「……どうしてセッツァーがこんな所に?」
 言いながら、ほとんど無意識のうちにセリスは脇に抱えていた本を背に隠した。そんな動作に気づきながらも、何食わぬ顔でセッツァーは答える。
「手紙、届いてないか?」
「え? え、ええ。手紙……ってもしかして……」
 おずおずと差し出したそれは、ちょうど今さっき見つけたもので。
「ああ、これこれ。それで俺がここにいるってワケ。2度目なんだから説明は要らないだろ? 分かったらさっさと乗れ」
「ち、ちょっと……!」
 差し出された右腕を強引に引っ張り上げて、セッツァーはセリスを艇へと押し込んだ。彼女の意思などお構いなしだ。
 飛空艇に入ったセッツァーは入り口の扉を閉めると、セリスの腕を放してそのまま操縦桿へ向かった。強引に乗せておいて、何の説明もないのとセリスはその後をついて甲板へ出た。
「ちょっとセッツァー! どこへ行く気?!」
 そんな抗議の声には答えず、セッツァーは操縦桿を握っている。飛空艇が浮上してから振り返ると、短くこう告げた。
「少しは静かにしてられねぇかな? 俺、操縦で忙しいんだよ」
「勝手に乗せておいて何よ! こっちの質問に答えなさいよね!」
「一応、事前に断りを入れてあるだろう? そんなにヒステリックになるなって」
 確かに『さらう』と予告している。差出人と実行犯は違うような気もしたが……と、危うくセリスは納得しそうになってしまう自分を振り払い、抗議を続けた。
「予告すれば何してもいいって訳じゃないわよ!!」
 はいはい。と聞き流してセッツァーは再び操縦桿に向かう。そんな男の肩に手をおいて、セリスは強引に引き寄せて叫んだ。
「降ろして! 今すぐ!!」
「あの島に戻ってどうする気だ?」
 対するセッツァーの声に熱はない、面倒くさそうにセリスを横目に見ながら問うのだった。
「そんなの私の勝手じゃない!!」
「お前の言うとおり、確かに勝手だけどな……やること無いならちょっと顔貸すぐらい良いだろう?」
 肩に置かれた手を払い、セッツァーは吐き捨てるように言った。
「相変わらずね」
「そりゃどうも」
 そう言ってわざと大げさに手を広げて見せる。この男のこういう態度が好きになれない。そういえば初めてこの男と会った――オペラ座からブラックジャック号へと招かれた――時も、こんな態度だった事を思い出してよけいに腹が立った。
 しかし喉元まで出かかった言葉は、あえなくセッツァーに遮られてしまう。
「おっとセリスさんよ、ご立腹のところ悪いがな、お前の質問に答えてやるよ。……見てみな」
 背を向けたままで片手をあげる。その方向に渋々セリスが目をやるが、ただ海が広がっているばかりで何も見えない。
「何よ?」
「まぁ黙って見てなって」


 白み始めた空の色が、夜明けの近いことを告げている。長かった夜が終わりを告げ、世界に朝がやってくる。
 星々の光を飲み込み、やがて空は鮮やかなオレンジ色に塗り替えられていく。金色に輝く雲海をすり抜け、眼下に広がる海原を見渡し、全身に風を浴びているうちに心までが洗われていくようだ。
「……きれいね」
 素直に口から出た感想は、思わぬところからあっけなく否定される。
「見てくれに惑わされるなって事だ。お前に見せたいのはこんな退屈な風景じゃないぜ」
 え? と振り返ったセリスをよそ目にセッツァーは飛空艇を旋回させる。
「どういう……」
 やがて海原に浮かぶ大陸が姿を現す。海岸線から内陸部へ入り、森を越えたところで町が見えてきた。地上を見つめながら操縦を続けるセッツァーが、静かに告げる。

「見ろ。アンタの滅ぼした国だ」

 マランダ。
 彼の声は恐ろしいほど鋭く、セリスの心を抉った。
 確かにまだ彼らと出会う前、帝国の将軍として彼女はここを訪れた事があった。忘れかけていた記憶が脳裏によみがえり、言葉を失った。手すりを強く握りしめ、うつむいた。朝日を浴びて美しく金色に輝く髪が風になびいて、表情を覆い隠してくれる。そんな些細なことにさえ、セリスは安堵した。
 そんな彼女に構わず、セッツァーはさらに言葉を浴びせる。
「悪いがなセリス、今さらアンタを責めるほど奴らは暇じゃないんだ」
 高度を下げ、マランダ上空を何度か旋回した。甲板から町を見下ろせば、まだ夜が明けて間もないというのに、建物の修復や野良仕事に勤しんでいる人々の姿が見えた。
 ――「たとえ町が100回壊されたって、101回直してやるんだ!」――どこかの町で出会った少年の言葉が、セリスに聞こえた気がした。
「お前が帝国の将軍だった。そして滅ぼした国がある。殺した人間がいる。そりゃ変えられない事実なんだろう。だがな……いつまでも過去にしがみついて生きてるなんて、格好つかないぜ?」
 そう語ったセッツァーの表情が、セリスには憎らしく見えた。もちろん、彼が自分を責めるために言っているのではない事ぐらい分かってる。そして、こう言ったところでどうにもならない、それも頭では分かっているはずなのに。
「言ったところであなたには分からないでしょうね。戦場で武器を取って戦わざるを得なかった人間の気持ち……なんて」
 相手を責めるように吐き出した言葉。しかし、本当は分かってほしい、無意識のうちにそんな願いが込められていたのかも知れない。顔を上げセッツァーと目を合わせられなかったその姿が、何よりも雄弁に物語っている。
 セリスの言葉を受けてセッツァーの顔から笑みが消える。操縦桿を片手で操りながら、半身をセリスに向けて断言した。
「そんなモン、教えてやると言われてもこっちから願い下げだ。それにな……どう言い訳したところで、それはお前が選んだ道だったんだ」
 一瞬の沈黙。うつむいたセリスを見てもその表情は分からなかった。セッツァーは迷った。これ以上言うべきかどうか――ただいたずらにセリスを追いつめるだけなのではないか――と。
 しかし、そんなものは杞憂でしかない。

「帝国に殺された人間が、殺した人間の気持ちを理解するなんて千年かけたって不可能だぜ?」

 あまりにもあっさりした口上に、セリスは驚いて顔を上げた――正義や悪、そんな概念にとらわれずに生きてきたのがこの男だ――そう、セッツァーの言う通りなのだと、改めてセリスはその姿を見つめていた。
 言葉が出なかった。不安と戸惑いの色を濃くしたセリスの表情を見て、セッツァーが笑う。
「……理解するって以前に、死んだ人間にどうやってお前の気持ちを伝えるんだ? 違うだろ。伝わらない物を伝えようとしたってしょうがない。そこには……そう書いてなかったか?」
「えっ!?」
 それを聞いて思わず手元に抱えた本に目を落とす。手にうっすらと汗がにじむ。セリスは顔を上げて問いただそうとした。その言葉の意味を、セッツァーが語るものの根拠を。
 ――どうして?
 しかし、セリスにのしかかる緊張が身体の自由を奪っているのが分かった。最初に言葉を発したのはセッツァーの方だった。
「見な」
 言われるままに、視線をセッツァーの指が示す方角へ向けた。
 眼下には、人々の暮らす町が見える。
 崩れかけた建物には足場が組まれ、修復の作業に従事する人々。
 枯れた大地には新しく耕された跡が見える。
 空の上から、セリスはかつて滅ぼした国の復興を見つめていた。
 その国に朝日が降り注ぎ、まぶしく輝く。人々の姿も、町も、蕾を付けた枝葉の緑も、何もかもが光を放っているように。

「『夢を取り戻せる』。……いつか俺にそう言ったのはアンタだ。だから今度は、俺が案内してやるよ」
 ――そんな顔してるってことは、『どこへ行く気?』なんてまだ聞くつもりだろ?
    名前なんてどうでも良いだろう? それでも聞きたいってんなら教えてやるよ。
「未来、って場所にな」



 うつむいていたセリスに優しくかけられた声に顔を上げれば、操縦桿を握るセッツァーの背中が見えた。
 ――シドのくれた奇跡。仲間たちと共に取り戻した平和。私は……。
「お前をさらいに来るとか言ったヤツもな、いろいろと忙しいらしい。だから俺が代わって迎えに来てやった。こうして強引にでも連れ出さなけりゃ、お前ずっとあそこでうじうじ泣いてたんだろ?」
「なっ……! 泣いてな……」
 言い終えないうちに足下が大きく傾いた。とっさのことに驚きながらも、手すりに捕まりなんとか横転を免れる。操縦を続けるセッツァーは平然と言い放つ。
「降下するぞ」
「する前に言ってよ!」
「……、……だ」
 甲板の上を、風が吹き抜ける。その風と、飛空艇の轟音にセッツァーの声はかき消された。
「なによ?」
 そう問うセリスに、セッツァーはただほほえみ返すだけだった。


 ほどなくして、土煙を上げて飛空艇は町の外に着陸した。その姿を地上で見守っていた男と、セリスは再会を果たす。
 シドの残した白いページが、やがてセリスの手で綴られた文字で埋まる。
 そこには彼らが歩む、もう一つの軌跡が記されることになった。


<終>


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# 孤島で目覚めたセリスからスタートするFF6後半。
# ゲーム中は描かれなかった「1年間」という空白の時間。
# そこに至る1年間の話の辻褄を合わせるために書いてみた。
# @セリスが全装備・アイテムを所持した状態で孤島にいること。
# A空白の1年間でセリスはどう回復したのか(シドの看病日誌)
# B「かつて孤島に暮らす人々が存在した」と語るシドの話。
# C「わしは疲れた……」とつぶやいたシドの真意。
# D筏の存在。(シドが筏を作ろうとした動機)
# E浜辺で拾える魔石の存在(消化不良)

# 尚、オチとしては財前教授(@白い巨塔)ネタがあったりする。


 
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