Yoshito Yahagi library

  • 作家としての一面を持つ矢作調教師の過去の執筆物をご紹介いたします。

  • これを読めば矢作調教師の競馬、愛馬への熱い思いがきっと皆さんに伝わると思います。

  • 是非ご一読ください!!

題  名

解 説 等

「世界一ファンに愛され信頼される厩舎」に

スポーツ報知「手記(2004.2.13)」

ファインをスーパースターに!田中、頼むぞ!

スポーツ報知コラム「双眼鏡」掲載

ドバイの重い馬場に泣いた日本勢

スポーツ報知コラム「双眼鏡」掲載

競馬人気回復へ古き慣習やこだわりは捨てる時

スポーツ報知コラム「双眼鏡」掲載

レーティング発表は予想行為じゃない

スポーツ報知コラム「双眼鏡」掲載

競走馬にとってファンファーレは単なる「雑音」

スポーツ報知コラム「双眼鏡」掲載

ファンファーレの時の手拍子はやめて

スポーツ報知コラム「双眼鏡」掲載

コラム

題  名

解 説 等

凱旋門賞への熱き思い
〜現役調教師が現地で抱いたこのレースへの情熱〜

優駿2004年11月号
[競作ノンフィクション・シリーズ]

ニシキ

2000優駿エッセイ賞次席受賞作品

エッセイ

凱旋門賞への熱き思い
〜現役調教師が現地で抱いたこのレースへの情熱〜

イッポドローム・ド・ロンシャン ― 古は修道院があったという聖地″に15年ぶりに足を踏み入れた。何も変わっていなかった。何も失われてはいなかった。あくまでも上品な華やかさ、賑わい。馬達の周囲にのみ漂う、近寄り難い緊張感。『伝統』という安易な言葉だけでは片付けられない、営々と積み上げられてきた重みが、15年前と同じくそこにあった。
 僕の方は変わった。15年前の聖地″には『夢』だけを持って足を踏み入れていた。だが今回は違う。心の中に抱いているのは、明確なる『目標』だ。競馬場内でのいかなるシチュエーションにおいても、まっ先に頭に浮かぶのは「自らの管理馬を連れてきた場合」のシミュレーションであり、調教師としてどう動き、どんな指示をスタッフに与えるのか、であった。これが実に楽しい!あくまでもシミュレーションだからだろうが、そんな気分での競馬観戦は初めての経験だった。僕は高揚する気持ちを抑えながら、『目標』のレースに登場する日本代表馬を待った。

何故、凱旋門賞?
 69年スピードシンボリ10着。72年メジロムサシ18着、その時の優勝馬はその後日本に輸入されたF・ヘッド騎乗のサンサン。そんな記録を、僕はもちろん活字の上でしか知らなかった。しかし、活字だからこそ広がる想像という物もある。どんなコースなんだろう?ペースはやはりスローなのか?日本馬はどの様な状態でレースに臨んだのだろうか?映像が無いが故に、想像はどんどんと果てしなく広がる。ホースマンとしての人生を少しずつ意識し始めていた中学・高校生時代、僕の凱旋門賞に対する『夢』はこの様にしてふくらんでいった。
 以前から「何故、凱旋門賞なの?」とよく開かれた。ドバイワールドCは歴史があまりにも浅いから分かるが、どうしてケンタッキーダービーやブリーダーズCでは駄目なのか?という話だ。伝統、雰囲気、世界最高峰と呼ばれるから、長年日本馬が挑戦しては跳ね返されているからetc.…あえて挙げればいくつも理由は見つかるだろうが、はっきり言って、これと決められる明確な理由は無い。ただ純粋に、僕は凱旋門賞が好きなのだ。凱旋門賞でなければダメなのだ。これはもう趣味の問題としか言いようが無い。野球よりサッカーが好きなように、痩せ過ぎより少しぽっちゃりした女性が好きなように…。
 唯一つ言える事は、この様な問いに答える毎に、益々凱旋門賞に強い憧れを抱く自分がいて、凱旋門賞こそ俺のオンリーワンだという気持ちが強くなってきた事である。

ホースマン人生の始まり
 我が母校・開成は皆さん御存知の通りの超″受験校である為、クラブ活動は高校2年の秋で引退″となる。硬式テニス部のキャプテンとして、かなり熱心に活動していた僕は、この引退″により、一気に暇を持て余す状態になってしまった。自然、週末は府中・中山通いが増えた。そして、この頃にはもうかなり明確に「ホースマンへの道」を探り始めていた。競馬場通いは、その一環!?であった。
 ただ、大きな壁が立ちはだかっていた。
 父である。あれから25年の歳月を経た今年、調教師試験に合格して初めて一人前″と認めてくれた程厳しい人だから、その頃は取り付く島もなかった。とにかく反対!馬の仕事など絶対にやらせない!100%の拒否宣言を何度もされた。たまの話し合いには、自分なりに完壁な理論武装をして臨むのだが、その頃には既に自治体競馬の限界、現在の地方競馬の惨状を予告していたような父であったから、高校生の僕の理論など問題外、常に簡単に論破され、話は全く前に進まない。凱旋門賞に対する『夢』を語る事も侭ならなかった。悔しかった。そして、人は叶わぬ恋ほど熱く燃えるものである。ホースマンヘの道、ロンシャンへの道。想いは一段と募った。
 解決策は行動しかなかった。高校を卒業し、一応の浪人生活に入っても、受験勉強は全くしなかった。馬の尻ばかり追い掛け、ノートの内容は血統に関する勉強ばかりであった。
 さすがの父も呆れ果てたのだろう。あきらめという形で渋々GOサインが出た。19歳、ホースマン人生のスタートとなった。
 一度決まってしまえば、師匠となった父の動きは早い。「お前は馬に関してまだ何の能力も無いから、外国で何でも良いから身に付けて来い。これからの厩舎人は英語も必要だから」
 この一言で方針は決まった。朝の調教を終えてから御茶ノ水のアテネ・フランセに通う日々が半年間続いた(残念ながら英語だけ。フランス語も学べば良かった…)。
 初の研修先には、オーストラリアを選んだ。
 日本に似た、芝のスピード競馬である事。厩舎システムがイギリス式のラッド制である事。欧米に追い付き、追い越せという上昇志向等が決め手となった。いきなりヨーロッパに行くという手もあったが、憧れのニューマーケットやシャンティーで学ぶには、まだあまりにも未熟過ぎると自ら判断した。もつと経験を積んで、ある程度一人前になってから凱旋門賞を見たかった。ロンシャンへの道は、まだ遥か彼方であった。

 結果的にはそれが正解であったと思う。
 オーストラリアでの一年余りは本当に貧しく、苦しかったけれども、ホースマンとしての礎を築くには、今思えば最高の環境であった。現在ではクィーンズランド州に競馬学校も有り、厩舎で働く日本人も相当数存在するらしいが、僕が渡航したのは1981年、第1回ジャパンカップが行われた年である。競馬場には、本当に誰一人として日本人は居なかった。従って、何をしたくても、自分一人の力で切り拓くしか道は残されていなかった。
 一般的には、他人に道を付けてもらうのも、ある意味合理的で近道であろう。しかし、我々の職業は会話の通じない馬という動物を中心にして動く特殊な仕事である。プロフェッショナルであり、スペシャリストでなければならない。本来、馬の仕事に近道は許されないのだ。あの時オーストラリアで、何度も壁に当たりながら遠廻りをしながら一つ一つ問題を解決していった経験が、その後馬を仕上げる課程でトラブルに見舞われた時に、どれ程貴重であった事か…。
 またその経験が、調教師となった現在の仕事では更に活かされている事は語るまでもない。調教師は、オーナー、牧場、従業員、JRA、マスコミ、ファン等々いかなる相手に対しても個々に判断し、自ら責任を負って対処しなければならない立場にある。判断に困った時に、あの四面楚歌の23年前を思い出すと、不思議と自信が湧いてくるのだ。そして、この自信と自分の主張を通す強い意志は、いつか来たる日の海外遠征において、語学力を含めて更に大きなサポートとなってくれる事だろう。
 
 84年秋、サガスがアークウイナーとなった1週間後から栗東で働き始めた。おぼろげながらロンシャンへの道が見え始めた気がしていたが、現実は厳しかった。初めて担当したディクタス産駒の牝馬は調教中に骨折し、僕の膝の上で息を引き取った。続いて受け持った期待のハンターコム産駒は、内臓破裂という競走馬には珍しい症状でこの世を去った。2頭のオーナーは各々吉田善哉氏と去ミ台レースホース。ショックは大きかった。代わって担当した馬達も、重賞はおろか1勝することも侭ならなかった。ルーティンワークに忙殺され、夢を見るのも忘れかけていた3年間だった。
 これではいけない。何かを変えなきゃ、変わらなきゃ、と糸口を模索している時に見たのが、86年ダンシングブレーヴの鮮烈なる勝利と88年トニービン優勝の映像だった。
 弛緩した身体に、一本筋が通った気がした。
 大袈裟でなく、仕事に疲れ埋没しかかっていた僕を、あの2頭が救出してくれたようなものだった。それも大好きなロンシャンの緑を背景にして。
 『夢』は復活した。僕はすぐにドバイ奨学生応募用の論文作りに取り掛かった。

特別なものなど存在しない
 翌89年8月から、ニューマーケットで研修に入った。この研修は多くの人々に支えられていた事を今でも忘れられない。勤続5年以上という応募資格を強引に手直しして後援してくれたJRAの佐藤雄三理事(当時)、3ヶ月もの間厩舎を空ける事を「お前の将来のためだから」と快諾してくれた菅谷調教師、そして当然この研修費用を負担してくれたモハメド殿下である。責任の重さを感じていたのは勿論だが、それよりも、皆さんの支援が僕に初めての凱旋門賞ライヴを見させてくれるんだ、という喜びばかりが胸の内を占めていたのを鮮明に思い出す。
 まずはじめにお世話になったのは、G・ラッグ厩舎だった。近年、森秀行厩舎が欧州遠征する際に馬を入厩させている厩舎として知られている所で、僕が行く以前の著名馬としてはスティールハート、最近ではペンタイアを出しているイギリスの一流厩舎である。ここの調教は、一言で言えばオーソドックス。それだけにニューマーケットの一般的な調教パターンを十分学ぶ事が出来た。また「将来調教師となった時の勉強になるから」という事で、イギリス国内だけではあったが、各地の様々な競馬場に、トラベリングヘッドラッド(遠征責任者)と共に遠征させてもらった。出来ればフランスやイタリア、ドイツ等への飛行機輸送も経験したかったが、まあそれは贅沢というものだろう。
 1ヶ月余をG・ラッグ厩舎で過ごした後、僕はC・E・ブリテン厩舎へ研修場所を移した。別にG・ラッグ厩舎に最後までお世話になる事も可能だったのだが、僕が「どうしても!」と望んだのである。C・E・ブリテン厩舎には、英ダービーを100対1(101倍)の大穴で2着したテリモンが居たからだ。テリモンの次走予定は凱旋門賞(結局は出走せず)、僕はどうしても伯楽C・E・ブリテン調教師の凱旋門賞へ向けた馬の仕上げを見てみたかった。
 ニューマーケットではいわゆるパブ″の2階に住んでいたから、仕事が終わると、階下に集まってくる数多くのホースマン達と知り合いになった。その中でも、いつも一緒に飲んで騒いでいたのが、M・A・ジャーヴィス厩舎のラッド達だった。彼等とはビールを賭けてダーツや玉突きの日英対決″をする事で、いつの間にか何でも言い合える仲になった。
 そのM・A・ジャーヴィス厩舎に居たのがキャロルハウスである。期せずして、2頭の凱旋門賞出馬を身近で観察できる幸せに恵まれた。今考えても、僕は本当にラッキーな男である。
 結論から言ってしまえば、2頭の凱旋門賞への調整過程には、取り立てて「コレ」と言えるような特別なものはなかった。もちろん厩舎関係者はかなり気合が入っているように見受けられたが、日々の調教はごく普通に、淡々と続けられた。ブリテン調教師やジャーヴィス厩舎の友人達に何度も確かめたが、「アーク・スペシャルなんてものは存在しないよ。あればこっちが教えて欲しいぐらいだ」と一笑にふされた。この言葉は今でも肝に銘じている。我々は管理馬(担当馬)がGI等の大レースに出走する事になると、ついつい特別なことを施したくなるものだ。だがそれは、人間の自己満足あるいは不安隠しにしか過ぎず、馬には迷惑なだけである。むしろ敏感にその雰囲気を感じ取った馬がイレ込んで、状態を悪くしてしまうケースも多い。
「調教にスペシャルは存在しない」
 いつの日か凱旋門賞初挑戦という時が訪れても、僕は決してこの言葉を忘れない。

 見事アークウイナーとなったキャロルハウスについての話をもう少し続けよう。彼の凱旋門賞へのステップはフェニックス・チャンピオンSだったが、短期の研修でアイルランドに居た僕は、偶然そのレースも観戦する事が出来た。ひどい道悪の中でのレースだったが、とても力強い勝ち方だった。だが僕がその勝ち方以上に驚いたのは、ニューマーケットに戻った直後にキャロルハウスの馬房を訪れた時の馬の様子だった。
 全く疲れていなかった。否、正確に言えば、全く疲れを見せていなかった。あのひどい道悪の中での激しい競馬を勝ち抜き、しかも隣国とはいえ飛行機による直前輸送をこなした後である。その頃の僕の常識では全く考えられない事であった。
 キャロルハウスのブルードメアサイヤーはシルバーシャークで、それ故道悪巧者として知られるが、同時にシルバーシャークのタフさも受け継いだように思う。
 タフな彼はアイルランドから帰った後も順調に調教を積み、グングン調子を上げて、遂に凱旋門賞までも制覇してしまった。この勝利に道悪馬場がかなり有利に働いた事は僕も否定しないが、再びフランス輸送を経て本番まで制してしまった快挙には、彼のタフネスぶりが大きな要因であった事はまた疑いようがないだろう。
 凱旋門賞に限らず、外国遠征馬にとっては今や当たり前だが、肉体的にも精神的にも力強い馬、そして馬場状態不問の馬でなければ栄光を手にする事が出来ない事を、キャロルハウスとM・A・ジャーヴィス厩舎の友人達は15年前の僕に教えてくれたのだった。

日本代表の風格
 そして2004年10月。レース前日の朝、タップダンスシチーの様子を見にシャンティーを訪れた。前日夜に入厩したばかりだというのに、しっかりと常歩で落ち着いて歩いている姿に少し驚いた。精神的に少しでも弱い部分がある馬はどうしても速歩が混じって小走りになるものだ。ましてタップダンスは癇性がきついと聞いていたから尚更であった。
「これならやってくれるかも!」
 堂々と歩く姿を見て、思わず呟いた。
 報道陣オフ・リミットの角馬場での姿も立派なものだった。J・E・ハモンド厩舎の馬達を引き連れて歩く姿は、日本代表の風格に満ち溢れていた。
 角馬場からの帰り道、鞍上に声を掛けた。
「テッちゃん、おはよう。さすがだな、たいしたもんだな」
「ああ、おはようございます。そうでしょ!?去年までのタップなら、こうはいかなかったと思いますよ。すごい成長してます」
 哲三は日本代表馬の首筋を愛撫しながら、にこやかに答えてくれた。不安だった馬の状態を自ら確認して、とても満足そうだった。
 その後佐々木調教師にお話を伺って、当初の予定から大幅にスケジュールが変更されたとはいえ、陣営がいかに万全の態勢で馬をケアしているかが判り、僕としてはとてもハイな気分でパリへの帰途についた。あまりに気分が良くて、その晩はシャンパンとワインを痛飲してしまった程だった。

 ところが、翌日ロンシャンの超満員のパドックで、僕の前に姿を現したタップダンスシチーは、昨日の馬とは別馬のような印象を受けた。瞳が、キョロキョロと何かを探し求めるように不必要に動き、落ち着きがない。集中力を欠いて周囲の雰囲気に戸惑っているようだ。僕は「だからといって、決して走れない訳ではない」と自分を奮い立たせたが、それは虚しい強がりだった。時間の経過と共にイレ込みは激しさを増し、明らかに状況は良くなかった……。

直前輸送のメリット
 今から13年前、あのキャロルハウスの凱旋門賞から2年後。僕は雑誌のインタビューにこう答えている。
インタビュアー「直前輸送というのは、馬の精神状態のことを考えると、どうなんでしょうか?」
「僕はかえって良いと思います。直前に、例えば府中に入れば、馬はもうすぐレースなんだなって緊張を始めます。その期間があんまり長いよりは、いいんじゃないかと。海外に遠征するときよく言われますけど、何ヶ月か前から行って、馬を向うの環境に慣れさせた方がいい、それはそれで的を射ているわけです。2週間とかの中途半端なことよりずっといい。でも逆に直前に持っていって戦わせるのも良いと思います」
 この考えは、大筋において現在も変わってはいない。それだけに今回のタップダンスシチーの直前輸送はたいへん興味深かったし、むしろ予定変更が吉と出るのではないか?と期待もした。結果は残念だったが、当初からのスケジュール通りの直前輸送ではなかった訳だし、持論は揺らいでいない。
 人間も外国等全く環境の異なる場所に行った時に、着いて2、3日は興奮して元気だが、その後に一気に疲労感が増したり、時差ボケが出る事は多い。これは脳や神経系の支配する領域が大きく影響するからなのだそうである。したがって輸送前や輸送中の肉体的ケアをしっかりとしてやれば、異国の地に着いて(馬が外国を理解するかは疑問だが…)興奮した精神状態のままレースに臨む方法は、科学的にも根拠があるように思う。
 普段慣れ親しんだ環境で最終調整できる利も大きい。サッカーワールドカップアジア予選のインド戦やカタール戦においてジーコ監督は国内合宿を選択したが、それと同じ考え方。練習環境は重要であり、アウェーの洗礼は競馬もサッカーと変わらない。
 とにかく、外国に遠征するのに直前輸送なんて馬が可哀想…という前時代的常識を覆さなければ、何も前には進まない。ほんの10年前には、小倉や新潟に前日輸送でレースに使うなんて、現在では当たり前の事も、非常識だったのだ。常識は常に変化している。
 また調教師の考え方として ― 国内での前日輸送が当然となったように ― 外国遠征そのものを日常としなければならない。凱旋門賞に行く事が日常的な業務の一環でなく、非日常の特別な出来事という捉え方をしているうちは、絶対に欧米の猛者達には勝てない。
 という事は、同時にもっと柔軟な考え方で馬やレースに対さなければならない事が要求される。現在の日本のように、春の時点から凱旋門賞一本に目標を絞るのではなく(もちろん調教師として、レースに対するプライオリティは存在する)、馬の状態や相手関係、馬場状態等を十分に考慮して、目標のレースを変更したり、遠征を取り止めたりする勇気が必要である。常にアンテナを細やかに張りめぐらせ、フットワークを軽くしておくのだ。例を挙げれば、ロンシャンの馬場が悪すぎるから目標を京都大賞典に切り替えたり、毎日王冠のメンバーが強すぎるので英チャンピオンSに遠征を決めたり…というように。
 こういう事が当たり前に出来る手腕を身に付けてこそ、日本馬が凱旋門賞を当たり前に勝つ日が来る、と僕は考える。

優秀な預言者でありたい
 長々と直前輸送の必然性について述べてきたが、これには当然調教師としての経営判断も働いている。厩舎には外国に遠征するような馬ばかり入厩している訳ではない。僕が長期間留守をするような事になれば、他の馬主さんに申し訳が立たない。それに加え、長期遠征となれば莫大な費用負担をオーナーにお願いする事になるし、厩務員や調教助手の人員配置の問題も発生する。そのあたりも考慮した上での直前輸送なのである。
 しかし、前出のインタビューでも触れていたように、単純に馬の事だけを思えば、エルコンドルパサー方式で早目に渡欧し、ステップレースを使いながら、馬を現地の風土に適応させていくのがベストである事は論を待たない。
 自分なりに構想は持っている。
 無論、将来的な話だが、現在進行中の競馬界の規制緩和が更に進めば、矢作芳人厩舎が栗東だけに留まっている必要はなくなる。その能力と器量がある事が条件だが、各地に分厩舎を持つ時代が必ずやってくる。矢作厩舎ニューマーケット分厩、矢作厩舎サンタアニタ分厩といった具合だ。そしてニューマーケットにはヨーロッパ競馬に適応する馬を、サンタアニタにはアメリカのスピード競馬に適応する馬を入厩させ、また出走予定レースによって馬を頻繁に入れ替えていく。
 夢物語と笑うならば笑え。
 ほんの数年前、誰がコスモバルクの出現を予想したか?認定厩舎制度を利用した地方馬が、クラシック三冠すべてで主役を張るなんて事は、夢物語以前の問題だった。一度押し寄せてきた波は、もう誰にも止められない。そればかりか、波は更に大きくなって次々と押し寄せてくる。
 調教師という職業は、預言者でなければならない。
 預言者になる為に、半生を捧げて努力してきた。そして、生ある限り優秀な預言者でありたいと願う。
 イチローは「このドキドキ・ワクワクする緊張感がたまらない」と語った。
 僕はその緊張感をオーナーやスタッフ、そしてファンの皆さんと分かちあいたい。
 僕が凱旋門賞を獲る時に。

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ニシキ(2000優駿エッセイ賞次席受賞作品)

それまでにも、調教中や競走中の事故で僕の前からあっという間に去って行った馬は何頭かいた。だが、生死の境にある馬を看病するのは、十数年に亘るホースマン人生でも初めての経験だった。
忘れもしない4月6日、その年の桜花賞当日。菜種梅雨としては記憶に無いほど降り続く連日の雨で、坂路コースのウッドチップは重く、ぬかるんだ状態になっていた。5月3日のアンタレスSを目指すイワテニシキの調教メニューは坂路3本、しかし前半に乗ったもう1頭の担当馬カネトシシェーバーで馬場状態の悪さに閉口した僕は、即座にこれを2本に変更した。坂路1本目、大跳びのニシキはのめって実に走り辛そうだ。心なしか息遣いも悪く感じる。そして運命の2本目、設定は馬なり程度の速いところ(追い切り)。まず前半の2ハロンを15−15ペースで入る、そして手前を変えてペースアップしようとした瞬間、右トモ(後肢)が大きく滑った。だが素早く態勢を立て直すニシキ、僕はそれ以上の異常を察知できないまま馬なりで頂上へ。
ゴールを過ぎて徐々にペースを落とし、キャンターから速歩へ、―――歩様が微妙に乱れている。坂路上の広場ですぐに飛び降りて歩きを見る。右トモだ!頭から血の気が引いていくのを感じた。厩舎へ戻る間もニシキは気丈に歩いていたが、だんだんと右後肢の踏み込みが悪くなり、自分の馬房に到着したときはもうほとんど脚を着けない状態になっていた。
普段から辛抱強いニシキがこれだけ痛がるのだから、大きな故障は明らかだった。すぐに行われたX線検査の結果、右第三中足骨顆骨折により経過観察。管骨が縦に割れ、あと数センチで突き抜けるところだった。突き抜けていれば当然予後不良という重傷である。
この時からニシキの生≠ヨの闘いが始まった。

名は体を表すという。検疫厩舎で初めてニシキと対面した時、真っ先にこの言葉が浮かんだ。厩舎のみんなは馬が入ってくる前、
「酒の名前か?」
「お米にそんな銘柄なかったか?」
なんてからかってくれたが、僕の印象は相撲取りの岩手錦≠セった。それも良く言えば素朴、言い方を変えれば田舎育ちで初めて都会に出てきた力士。岩手県公営で5戦3勝、馬体重500キロ弱、父ローマンプリンス、母アカデミースター、母の父カツトップエースというマイナーな血統。それだけの資料から僕が想像した馬がそのままそこにいた。白い部分がほとんど無い漆黒の馬体。首、管、球節、飛節、何もかも作りが大きく、特に顔はとてつもなくデカい。僕等がカイバ食いのポイントとして見るあごっぱり≠燉ァ派だ。そしてとにかくおとなしい。3歳馬としてはキャリアを積んでいるから、と言うより何か皆の前で照れ、モジモジしているように僕には思えた。翌朝、跨って馬場に出てみてもその印象は変わらなかった。大跳びで不器用。もっさりとした動き。サスペンションはあくまでも硬く、しかしパワーには溢れている。カネトシシェーバーが小型スポーツカーなら、ニシキはダンプカーに例えられた。翌年1月のシンザン記念を目標に、しばらくは順調な調教が続いた。だが、3歳の大晦日に一度目の挫折を迎える。左前球節の剥離骨折で全治3ヶ月の診断。この時の骨折は軽かったが、この故障が後の右後肢骨折の引き金となり、引退するまで悩まされた左前球節炎の前兆となってしまう。結局中央緒戦は5月の京都4歳特別となった。密かにダービーの最終切符を狙ったが、結果は12着。その後も順調に出走したが、常に後方から届かずという消化不良のレースが続いた。彼らしいと言われればその通りだが、能力はあるのにそれを生かしきれないニシキの不器用さに、僕はもどかしさばかりを覚えた。
転機を迎えたのは中央デビューから1年近くが経過した5歳5月の京都戦。ダッシュが悪いニシキには災いとなる2番枠だったが、ジョッキーがこれを福に変えた。パドックで主戦の菅谷正巳を乗せると、
「行くだけ行ってみる」
の一言。好枠を利して強引に先手を奪い、終わってみれば4馬身差の圧勝。これがきっかけとなった。夏の函館長万部特別で中央2勝目を挙げた後は太秦S、花園Sと3連勝。特に、大本命バトルラインを破った花園Sは僕にとって想い出のレースとなった。強力メンバーで、ニシキ自身にやや疲れが見えたウインターSはさすがに惨敗したが、将来に大きな夢を抱いて一度休養に入り、次なる目標を大得意な京都1800ダートのアンタレスSに定めたのだった。

獣医団と協議の結果、手術は行わずギブスで固定して自然治癒という道を我々は選択した。手術をした場合、全身麻酔が醒めた後起き上がる際の反動で骨折部分が致命的に広がってしまう可能性があったからである。苦渋の選択であった。寝てしまえば終わり。それは死を意味する。おとなしく3週間立ったままの状態でいる事だけが助かるすべ≠ナあった。
一応の処置が終わり、家に帰ってスポーツ紙を広げる。華やかな桜花賞の記事を眺めていると、自然と涙が止まらなくなった。
―――どうしてトモが滑った時、すぐに馬を止めなかったんだ―――
―――どうしてあんな馬場で速いところをやったんだ―――
後悔の念ばかりが沸いてきた。
「どうしたの?何かあった?」
怪訝そうな表情で尋ねる妻。僕が重い口を開いた。
「ニシキが骨折した。もう助からないかも知れん・・・」
二人の間に長い沈黙の時が流れた。先に口を開いたのは妻の方だった。
「ニシキは家族も同然でしょ?こっちの家族は放っといていいからニシキのそばに居てあげて。私も子供もできる限り協力するから」
普段おとなしい妻としては意外な程強い口調だった。
「でも・・・そばに居ても何もしてやれない」
「あんたがしっかりしないでどうするの!悔いを残さないで!」
すぐに布団と毛布、懐中電灯と読みかけの本を厩舎に運んだ。その晩から馬房前の廊下が僕の寝室兼書斎となった。ニシキの方は、骨折が判明したその時から馬房内で張り馬(寝ないように繋いでおく事)にされていた。大好物である燕麦をはじめとする穀物類は一切シャットアウトされ、切り草と水と少々の人参だけが日々の潤いとなった。彼の警戒心を持続させ、横にならないようにする為に、痛み止めの薬は3日で打ち切られた。ほとんど動く事のできないニシキは辛そうだった。その頃僕の心の中では、辛くても何とか我慢してくれという「正の理論」と、早く楽にしてやりたいという「負の理論」が激しくぶつかり合っていた。
骨折して5日目の晩だっただろうか、浅い眠りから覚めて馬房の中を覗くと、ニシキはやはり痛むのか、しきりに前がきをしている。
馬房内に入って、小さく切った人参を与え、必死になだめる。僕にはそれ以上何をしてやる事もできない。とてつもなく辛かった、そして悲しかった。前がきを続ける彼に向かって思わず言葉が出た。
「そんなに痛いなら、もう我慢するのやめるか・・・」
投げ出したかった。
だが、一瞬僕を睨みつけたニシキの瞳は病馬のそれではなかった。生気に満ち溢れていた。僕はその時「負の理論」を捨てた。
有難い事に、骨折を聞きつけたファンの方からいくつかのお見舞いが届けられた。僕は病室と化した馬房を少しでも華やかにしたくて、送られてきたお守りを、横断幕を、千羽鶴を彼の周囲に飾り付けた。そして出来得る限りの時間をニシキと共有した。ただそばに居るだけの能力しか僕には無かったが、帰る訳にはいかなかった。独りには出来なかった。
彼はそれだけの幸せと喜びを僕に与えてくれていた。
日に日にやせ細っていくニシキ。だが彼はファンの皆さんの激励に応えるかのように、生≠ヨの意欲を顕著に示してくれた。
とにかく無駄な動きを一切しない。他の脚への負担を軽減する為に、患肢に適度な負重をかける(これにより、蹄葉炎の危機が回避された)。どうしたら生きられるか、という術を彼はすべて知っているかのようだった。
そして3週間、ニシキは我々が要求する無理難題をすべてクリアーし、立ったままの状態で頑張り通した。並の馬ならとても辛抱できなかったであろう極限の忍耐であった。そこには人知を超えた本能≠ニいう名の奇跡があった。
骨折した時530キロほどあった体重は、450キロを切るまでに落ちていた。筋肉は削げ落ち、ギプスは痛々しい。検疫厩舎で初めて対面した時とはまったく別の馬がそこにいた。それでもニシキは悠然と迎えの馬運車に向かって歩を進めた。それはあたかも、戦いに勝利した者の凱旋のようであった。

その後イワテニシキは再び左後肢を骨折し、一度は競走能力喪失を宣告されたが、不死鳥のように蘇り、8歳夏の札幌まで僕の手元で現役を続けた。
毎朝装鞍を終えると、引き手なしでも僕の後ろに付いて歩き、乗馬台の所でくるりと向きを変え、乗るのを待っていてくれたニシキ。
第二の故郷を思い出したかのように、生涯唯一いれ込んだ水沢マーキュリーCのパドック。
大きな顔におかっぱ頭が妙にマッチしていたニシキ。
彼に関する想い出は尽きない。現在の担当馬に情熱を注いでいる以上、過去は振り返らないのが僕の鉄則だが、ニシキと過ごした日々はホースマンとしての糧であり、財産である。
「いつかあいつ以上の馬を・・・」
そんな思いを胸に、僕は今日も馬に跨る。

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「世界一ファンに愛され信頼される厩舎」に

自分なりに手応えはあった。しかし、怖くて合格発表は見に行けなかった。
妻と2人、無言が続く我が家の居間。9時59分、携帯が鳴った。友人の藤岡健一調教師だった。
「おめでとう!」
他の言葉は必要なかった。涙が止まらなかった。
自分ではもう忘れていたが、広報によると14回目の挑戦だったという。長かった。正直長かった。自らの不徳で、大きく遠回りをした。でも合格した今となっては、それが決して無駄ではなかったと思う。自らの未熟さを知った。周囲の人の温かさを知った。競馬の厳しさを知った。そして、ファンの皆さんのありがたさを知った。そんな経験を今後に生かしていかなければならないし、生かしていく自信がある。
ずっと以前から考えていた事だが、矢作芳人厩舎のモットーは「世界一ファンに愛される厩舎、信頼される厩舎」である。言うは易し、行うが難し。容易でない事は承知している。しかし、必ずそれだけは実現させたい。14年間、机の前に座るのが嫌いな僕は、調教中の馬の上、車の運転中、電車の中、入浴中にいたるまで、いかなる時もファンの皆さんに愛される馬を育てるべく勉強してきた。
僕の夢である凱旋門賞制覇に向けて皆さんと共に歩んで行きたい。
これがゴールではない。
今日からがスタートだ。

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ファインをスーパースターに!田中、頼むぞ!

あれはちょうど去年の今ごろだった。親友の田中一征厩務員が「今やってる新馬、筋肉を押すとすごく柔らかい反動で押し返して来るんだ。こんな感触はエアグルーヴ以来!ちょっと体質は弱そうだけど、大物かもしれない。」と興奮を隠せない表情で語ってくれた。
それがファインモーションだった。腕利き田中の眼に狂いはなく、彼女は阪神での新馬戦を圧勝。たった1戦だけで仏オークス遠征話が出る程の鮮烈な勝ち方であった。
だが悪い予感の方も同時に的中してしまう。成長途上にあったファインモーションは特にどこが悪いという訳ではなかったが、完調に至らない日々が続いた。調教が進んでは休みを繰り返す苦闘の毎日。田中の表情にも苦悩が浮かび上がっていた。傍目から見ても大変な日々であった事は想像に難くない。
そしてようやく迎えた函館での復帰戦で彼女のケタ外れの能力を確認した後、われわれの思いはただ一つ「無事にいってくれ」だけになった。
彼女にとっての現状は、まだ通過点でしかない。来年の海外遠征成功はもちろんのこと、僕は彼女にオグリキャップのような社会現象を起こさせるスーパースターになってくれる事を願っている。
ファインモーションならそれができる。
田中、頼むぞ!

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ドバイの重い馬場に泣いた日本勢

ドバイ・ワールドC当日。レースの数時間前にブロードアピール担当の渡辺勉調教助手から電話が入った。その時点での気温は39度。朝の調教時は10度の時もあれば、25度の時もあったそうで、調教時間が午前4時からの15分間に制限されている事も含めて、馬の調整に関する苦労がうかがいしれた。最も気になったのは馬場状態の話だった。渡辺助手によると「乗っていて硬いんですが、重いのです」との事。日本のダートの場合、硬ければ必ず軽いから、全く初めて経験する馬場状態であって、彼の言葉の端々に大きな戸惑いが感じられた。
結果的に、その不安が残念ながら的中してしまったが、僕は今回の結果にそれほど驚きもしないし、悲観もしていない。今回、日本から遠征した4頭とスタッフは、間違いなくワールドクラスであった。ただ、どんな条件下でも勝てるほど飛び抜けて強くなかっただけである。
当然の事ながら世界最高峰レベルの競馬は甘くない。ほんの少しの状態や条件の変化でレース結果はコロコロ変わる。まさに紙一重なのだ。香港の時が表なら、今回はそれが裏に出ただけだと僕は思うし、それよりも全馬が無事で完走してくれた事に拍手を送りたい。ただひとつ残念だったのは、その場にクロフネがいなかった事だけである。

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競馬人気回復へ古き慣習やこだわりは捨てる時

北の競馬を盛り上げるために、JRAが特別に出馬投票後輸送を認めている事もあって、まだ多くの馬が函館競馬場に滞在している(8月29日まで滞在可能)。これによって第1回札幌開催は例年以上に出走頭数も多く、白熱した競馬が展開されている。
だが、出走頭数が多いということはイコール馬房の不足をもたらし、札幌に十分な馬房数を確保している少数の厩舎以外は皆、馬房探しに必死の状況だ。実はこれがなかなか難しい。JRA全体の利益やファンのニーズを考えれば、馬房の回転をスムーズにして出走可能馬を多く入厩させるのが当然と思えるのだが、古くからの同門・縁故関係や、敵に塩を送らない妙な競争意識により、馬房の活用に無駄が多く生じている。非常に残念である。
物価の下落がさらなる不況を招く悪循環、いわゆるデフレスパイラルに日本全体が突入したともいわれている今、可処分所得は減り、一人当たりの馬券購入額は落ち込んでいる。まだまだ売り上げは苦しい状況が続くだろう。一人勝ちといわれたJRAだが、もはや地方競馬の不振は対岸の火事ではないのだ。今こそ関係者が一丸となり、古くからの慣習やこだわりを捨てて、競馬人気回復の旗手とならなければならない。
我々はファンのために、面白い競馬を見せる義務があるのだ。(平成13年8月23日執筆)

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レーティング発表は予想行為じゃない

思わず我が目を疑った。
ダービーの2日後の某紙のコラム。その見出しには「JRAは予想行為をやめよ」という文字が躍っていた。
慌てて読んでみると、JRAがダービー前に、出走馬のプレ・レーティングを発表した事と、ダービーを盛り上げるために作成したチラシを予想行為だとして批判した内容であった。開いた口がふさがらなかった。的外れな批判であり、記事を書いた記者の不勉強に驚くとともに、この新聞の見識を疑った。
まだまだ日本では一般的でないが、レーティングによって馬の能力やレースのレベルを数値化する事は、もはや世界の常識である。また、その数値は、パリ競馬会議によってグローバルスタンダードとなっている。わが国では、収得賞金によってレースへの出走順位を決めるが、レーティングを基準にしている国もあるほど。JRAが大レースの前にプレ・レーティングを発表する事も遅すぎたくらいだ。
先週の安田記念。2頭の香港馬の取捨に、皆さんは頭を悩ませたのではなかろうか?
そんな時、頼りになるのがレーティングである。もちろん、レーティングは一つのレースにおける各馬のパフォーマンスを示したもので、馬券作戦上、役に立つかどうかはわからない。しかし、全くの暗中模索である外国馬の取捨に、一筋の光を与えてくれる事は確かだと思う。
競馬は刻々と進歩し、国際化している。我々はそれに遅れぬよう、頭を切り替えねばなるまい。

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競走馬にとってファンファーレは単なる「雑音」

2年ぶりに函館競馬場に出張している。先週はこちらで初めて担当馬を出走させて4、2着。特に4歳未勝利のテンカフブは、これで4走連続の2着となり、とても残念であった。だが、今回の競走では彼に大きな変化が見られた。テンカフブは、いわゆるイレッポ≠ナある。パドックから返し馬、ゲート内でも常に落ち着きがなく、それが原因で出遅れたことも何度かある。ところが先週の競馬ではイレ込みもかなり治まって、馬が実にスムーズに気持ちよく走っていた。これは皇太后さまご逝去による音響自粛でファンファーレ、本馬場入場曲がなく、競馬場全体が静かであったことが大きな理由だ。
今回の措置に対しては、われわれ関係者の間でも「何か物足りない」、「盛り上がりに欠ける」などの声があがっていた。しかし、それは人間の勝手、エゴにすぎない。レースに集中する馬たちにとって、前記の音響は雑音≠ナしかないのだ。
欧米、特にヨーロッパ競馬の経験のある方はご存知と思うが、向こうではレース前は静かで、レースが終わるとそれが一変し、勝者に対する称賛で大きく盛り上がる。それが洗練された競馬というものだろう。
わが国ではなぜ、それができないのだろうか?
日本の競馬ファンは、ファンファーレがないと盛り上がれないほど、底の浅い人たちではなかったはずだ。流れを変えよう。

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ファンファーレの時の手拍子はやめて

皆さん、はじめまして。「週刊ファンファーレ」に連載していた縁で、今回からこの欄にお邪魔することになりました。僕の立場は調教助手であるが、その中でも「持ち乗り」と呼ばれる職種に就いている。もうご存知の方が多いと思うが、「持ち乗り」とは調教に騎乗した上で、厩務員の仕事も兼ねるもので、僕の場合には2頭の担当馬を受け持っている。大変幸運なことに、担当馬2頭はオープンクラスで、古馬のイワテニシキは今週、中京の東海ウインターS・GU(ダート2300メートル)に、3歳のアストラルブレイズは次週、中山の朝日杯3歳S・GT(芝1600メートル)に出走予定である。僕個人としては96年カネトシシェーバーのオークス(16着)以来のGT出走で、今から胸が躍る。だが、心配もある。ファンファーレが鳴った際のあのセンスのない手拍子だ。
僕たち馬を扱う人間は、馬を興奮させたり、追いたてる時に手拍子を使う。詳しくは勉強不足だが、手拍子の発する波長が馬の耳には敏感に響くのだろう。しかも、それをゲート内で極限状態にある馬に対して行ったら・・・。これはもう馬に対するイジメ以外何ものでもない。僕には日々、子供以上に可愛がっているアストラルブレイズをイジメて欲しくない。ブレイズだけでなく、すべての出走馬に対しても・・・。
もう一度書く。ファンファーレの際の手拍子は馬に対するイジメである。

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