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おやまじょう |
小山城 |
別称:祇園城 |
所在地:栃木県小山市城山町 |
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形状 |
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平城 |
史跡指定 |
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国特別 |
○ |
平山城 |
○ |
国 |
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山城 |
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都道府県 |
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陣屋・館 |
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市町村 |
遺構 |
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建築物 |
天守閣 |
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現存 |
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石垣 |
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木造復原 |
○ |
土塁 |
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鉄筋復原 |
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水堀 |
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復興 |
○ |
空堀 |
ー |
模擬 |
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(撮影年月 H17・7) |
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現存建築物 |
国宝 |
なし |
国重文 |
なし |
都道府県指定 |
なし |
市町村指定 |
なし |
その他 |
なし |
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アクセス |
公共 |
JR宇都宮線小山駅下車後徒歩10分 |
車 |
東北自動車道佐野藤岡ICから国道50号線約15q |
ミニ情報 |
城跡は公園ですが駐車場はありません |
地図情報 |
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城略史 |
小山城は平安時代、藤原秀郷により築かれたとの伝承もあるが、正式な築城者・築城年代は不明です。記録に見えるようになるのは14世紀(1300年代)後半からで、城の守り神として祇園社を祀ったことから、祇園城とも呼ばれるようになったといわれています。
小山氏の本拠となったのは1400年代後半、室町時代中期頃のようです。小山氏は藤原秀郷の後裔で、秀郷九世太田行政の子政光が下野都賀郡小山庄に居住し、小山を称したのが始まりです。小山氏は、義政の時の康暦二年(1380)、私闘を行なったとの理由で鎌倉公方足利氏満から追討を受け(小山義政の乱)、小山氏嫡流は一旦断絶します。しかし、関東の名族の滅亡を惜しみ、同族である結城泰朝に小山氏を継がせ、家名は存続するものの一時威勢は衰えました。
戦国時代の頃には、秀綱が上杉謙信と北条氏康との間で海道被官を繰り返しました。しかし、北条氏は着実に勢力を拡大し、下総の古河・栗橋・関宿の諸城は北条氏の支配するところとなり、小山氏領にも進攻がはじまり、天正3年(1575)北条氏の猛攻によって小山氏の居城小山城(祇園城)は落城し、秀綱は常陸の佐竹義重のもとへ逃れることとなりました。北条氏の勢力下に入ることとなった小山氏は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めに際して、北条方として行動したので北条氏の滅亡とともに所領を没収されてしまい、小山氏領は結城氏の領内に組み入れられ、戦国大名としての小山氏の歴史は終わりました。その後の小山氏は、
寛文年間に秀堅が水戸家客分として迎えられ、水戸小山氏として存続しました。
さて、城の方は天正三年(1575)北条氏照により陥落されたあと、氏照により拡大整備されたようです。北条氏滅亡後は、江戸時代本多正純が3万石で入城し、城を整備したとあるので、いま目にする姿はその頃の城跡だと思われます。本多正純は後に宇都宮に転封となったので元和5年(1619)小山城は廃城となりました。
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主な見どころ |
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↑現地案内板:茶色の部分が空堀で、現存しています。すぐそこまで市街化されていますが、奇跡的に破壊をまぬがれています。 |
↑本丸跡:南側の入口から入ると本丸跡になります。曲輪内は完全に公園化されています。 |
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↑本丸北側の空堀:堀底には旧結城街道がはしります。街道を城内に取り込み、交通の押さえともなっていた重要地点であったことがわかります。 |
↑馬出の空堀:幅の広い空堀が現存します。深さは、埋没しているのか浅いです。整備の余地は充分あると思います。 |
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↑空堀 |
↑空堀 |
探訪年月 |
@H17・7 |
併設・周辺資料館 |
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参考見学所要時間 |
約0時間30分 |
お薦め度 |
私見 |
小山駅から徒歩10分という素晴らしいロケーションに、城跡がこれほど良好に現存しているというのは、いい意味で予想を裏切られました。城跡は全域公園となっているのですが、公園なのか、城跡なのか整備状況がイマイチよくわからないのが残念です。
とにかく、このまま公園としてでも存続して、破壊が進まないことを祈るばかりです。 |
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城郭ファン以外も必見 |
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見逃せない対象です |
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城好きは行きましょう |
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予備知識がある方は・・ |
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マニア向け |
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初版20070305 |
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