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おおたわらじょう |
大田原城 |
別称:龍城、龍体城 |
所在地:栃木県大田原市城山 |
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形状 |
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平城 |
史跡指定 |
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国特別 |
○ |
平山城 |
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国 |
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山城 |
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都道府県 |
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陣屋・館 |
○ |
市町村 |
遺構 |
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建築物 |
天守閣 |
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現存 |
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石垣 |
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復原 |
○ |
土塁 |
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外観復原 |
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水堀 |
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復興 |
○ |
空堀 |
ー |
模擬 |
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(撮影年月 H18・7) |
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現存建築物 |
国宝 |
なし |
国重文 |
なし |
都道府県指定 |
なし |
市町村指定 |
なし |
その他 |
なし |
復元建築物 |
なし |
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アクセス |
公共 |
JR東北本線西那須野駅下車後、大田原市営バス大田原市内循環線または黒羽線 |
車 |
東北自動車道西那須野塩原ICから国道400号線で約10` |
ミニ情報 |
大田原市営バス路線図 |
地図情報 |
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城略史 |
大田原城は天正12年(1543)頃、大田原資清によって蛇尾川西岸丘陵地帯に築かれた平山城です。蛇尾川に沿って比高約25メートルの龍体山に築城されたもので、北から、北曲輪・本丸・二の丸・三の丸と配されています。大手は西方の奥州街道に面し、搦め手は北方にありました。
大田原氏は、武蔵七党のひとつである丹党に属し忠清を祖とします。武蔵国阿保郷に住していたところから阿保氏を称していました。明応3年(1494)康清のとき那須郡に移り、大俵氏を名乗り那須氏に仕えました。その後、那須七騎のひとつに数えられ、大田原城築城とともに、苗字も大田原に改めました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に、大田原晴清は主家である那須氏に先んじて参陣したため、本領の7千石を安堵され、同時に那須氏からの独立を果たしました。徳川家康の関ヶ原前哨戦である上杉攻めの際は、徳川家康に協力したので4千石余りが加増され大名となりました。以降、大田原氏は明治維新までこの地で存続しました。中世から明治維新まで、同じ場所で変わらず存続した家は大変珍しい例です。
明治4年に大田原県となり、明治6年には廃城となりました。その後、個人所有を経て公園として整備され、戦時中は陸軍の弾薬保管所となりましたが、戦後は再び公園として整備されました。
(参照「国別城郭・陣屋・要害台場事典(東京堂出版)」) |
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主な見どころ |
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↑現地案内板:おおむね写真の赤線枠内が現存し公園化されている範囲です。もちろん水堀はありませんが、それでも結構な広さがあります。 |
↑二の丸:本丸の一段下にあり、長屋2棟と弾薬庫があったそう。 |
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↑本丸と二の丸間の空掘:左側が本丸。もちろん往時は、もっと深い堀だったのでしょうが、今は随分と埋まってしまったようです。 |
↑本丸台門跡:おそらくここが本丸へのメインの入口であったのでしょう。今は何も残っていませんが。 |
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↑本丸@:本丸土塁の上から撮影しました。割合と広い敷地で、地図を見る限りは御殿もあったようです。 |
↑本丸A:北側の搦め手に当たる方から撮影したものです。 |
探訪年月 |
@H18・7 |
併設・周辺資料館 |
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参考見学所要時間 |
約0時間30分 |
お薦め度 |
私見 |
遺構が良好に、かつ割合に広範囲に現存しているにもかかわらず、知名度やアクセス的な制約から、いまひとつ訪れる人が少ないのでは?たしかに駐車場の整備もなく、道しるべの案内板もなく、折角の史跡が宝の持ち腐れような気がしてなりません。原因は中途半端な公園化でしょうか? |
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城郭ファン以外も必見 |
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見逃せない対象です |
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城好きは行きましょう |
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予備知識がある方は・・ |
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マニア向け |
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初版20070528 |
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