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みのわじょう |
箕輪城 |
別称: |
所在地:群馬県群馬郡箕郷町西明屋 |
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形状 |
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平城 |
史跡指定 |
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国特別 |
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平山城 |
○ |
国 |
○ |
丘城 |
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都道府県 |
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陣屋・館 |
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市町村 |
遺構 |
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建築物 |
天守閣 |
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現存 |
○ |
石垣 |
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木造復原 |
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土塁 |
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鉄筋復原 |
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水堀 |
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復興 |
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空堀 |
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模擬 |
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本丸石碑(撮影年月 H16・9) |
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現存建築物 |
国宝 |
なし |
国重文 |
なし |
都道府県指定 |
なし |
市町村指定 |
なし |
その他 |
なし |
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アクセス |
鉄道 |
JR信越本線群馬八幡駅下車後徒歩1時間30分又は高崎駅からバス |
車 |
関越自動車道前橋ICから |
ミニ情報 |
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地図情報 |
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城略史 |
明応・永正年間(1500年頃)、長野業尚により西上野榛名山の山裾が南に延びる先端に箕輪城は築かれた。山内上杉氏の重臣長野氏は北条氏や武田氏によく抵抗したが、永禄9年(1566)に武田軍に攻められ、箕輪城は落城し長野氏は滅んだ。
武田氏が滅んだ後は織田家の滝川一益が、本能寺の変後は北条氏邦が入るが、北条氏が滅亡し徳川家康が関東移封の後は井伊直政が入った。現在みられる遺構は、直政時代のものだとつたわる。のち直政はより平地である高崎へ居城を移し廃城となった。 |
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主な見どころ |
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↑現地案内図:広大な城域が、ほぼ全域現存している。それだけに、整備の遅れが目立ち、いまひとつ不親切な感じが否めない。 |
↑大手虎韜口:井伊氏時代の大手。長野氏時代とは反対側にあたる。駐車場もあり、ここから登城するのが便利。 |
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↑鍛冶曲輪:城内でも数少ない石垣。見応えあります。 |
↑三の丸門跡:城内で一番良好に石垣が残る場所。井伊氏が必死に城を近代化しようとした痕跡。 |
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↑三の丸:木々が生い茂り見にくい。 |
↑大堀切:二の丸南側にある大堀切は城を南北に二分する程の規模。まるで二つの城が連なっているかのようである。 |
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↑郭馬出:二の丸南側。大堀切をはさんだ場所に位置する。 |
↑二の丸:こちらも木々が生い茂り、大変見学しにくい。もう少し整備していただきたい。 |
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↑本丸:周囲が厚い木々に覆われ、城の全体像がつかみにくい。本丸自体は、整備が進んでいるようだ。 |
↑本丸土塁:高さはそれ程でもないが、本丸全体を覆うように巡らされている。 |
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↑御前曲輪:本丸よりさらに北側にある、詰めの丸のような曲輪。しかし敷地は広い。 |
↑本丸・御前曲輪間の堀:非常に幅が広い。おそらく深さは、発掘されていないか、埋め戻された状態であろう。 |
探訪年月 |
@H16・9 |
併設・周辺資料館 |
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参考見学所要時間 |
約1時間30分 |
お薦め度 |
私見 |
長野氏時代の遺構がどれ程残っているのか疑問であり、中世城郭のファンをどれだけ満足できるかは私にはわからない。しかし井伊氏の遺構として、石垣も少しながら見ることができる事など、全体的には素晴らしい城跡であるといえる。要所は見学しやすいが、例外なく木々に覆われ見学はし難い。 |
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城郭ファン以外も必見 |
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見逃せない対象です |
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城好きは行きましょう |
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予備知識がある方は・・ |
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マニア向け |
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初版20061218 |
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