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まつやまじょう |
松山城 |
別称:城山 |
所在地:埼玉県比企郡吉見町北吉見 |
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形状 |
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平城 |
史跡指定 |
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国特別 |
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平山城 |
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国 |
○ |
山城 |
○ |
都道府県 |
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陣屋・館 |
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市町村 |
遺構 |
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建築物 |
天守閣 |
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現存 |
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石垣 |
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復原 |
○ |
土塁 |
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外観復原 |
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水堀 |
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復興 |
○ |
空堀 |
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模擬 |
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本丸跡石碑(撮影年月 H19・2) |
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現存建築物 |
国宝 |
なし |
国重文 |
なし |
都道府県指定 |
なし |
市町村指定 |
なし |
その他 |
なし |
復元建築物 |
なし |
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アクセス |
公共 |
東武東上線駅下車徒歩30分 |
車 |
東北自動車道東松山ICから国道254号線約3キロ |
ミニ情報 |
城跡の駐車場はないので、隣の吉見百穴の駐車場を利用します。 |
地図情報 |
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城略史 |
松山城は、市野川が形成した広大な低地に突き出した丘陵の東端に築かれていて、北武蔵地方屈指の平山城です。築城には諸説あり、室町時代初期新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23年(1416)ころ上田上野介築城説などがあります。しかし、城郭としての体裁を整えたのは、15世紀半ば扇谷上杉氏と古河公方の対立のなかで、太田氏が川越・江戸・岩槻各城を築いた時期に近いと考えられています。
この城が天下に知れたのは、天文年間から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏・武田氏・北条氏の争奪戦は有名です。天正18年(1590)小田原攻めに伴い、豊臣勢(上杉景勝ら)に攻められて落城しました。歴代城主上田氏の滅亡後は松平家広の居城となりましたが、跡を継いだ忠頼が慶長6年(1601)浜松に転封されたのを最後に廃城となりました。
(参照「現地案内板」) |
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主な見どころ |
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↑現地案内板:あまりにも複雑な縄張りで、地図がなければ見学は困難。水色の部分は空堀でもちろん水堀ではありません。 |
↑本丸:西側から攻城した場合(案内板があるのでだいだいこのルートとなると思います)、2つの削平地を登ると本丸になります。本丸は思いのほか広く、結構な人員を収容できたかと思われます。(@) |
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↑本丸付近の空堀@:本丸から見下ろすように撮影。 |
↑本丸付近の空堀A:左右に横切る筋が、見学用のコースですが、こんな程度のものでも無ければ見学は困難です。 |
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↑二の丸:二の丸も、本丸とほぼ同じぐらいの広い敷地を有し、本丸の東側を取り囲むような形をしている。(A) |
↑二の丸付近の空堀:二の丸の南側は城内でも随一の高低差があります。堀を挟み左手には土塁が見えます。 |
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↑春日丸:二の丸の東側に位置する変形の曲輪。(B) |
↑春日丸付近の空堀:ここらの空堀はかなり幅広で、堀底も平らである。 |
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↑三の丸:春日丸の東側に位置します。三の丸もかなり広大な削平地で、重要な曲輪であったことでしょう。(C) |
↑眺望:北西方面を眺めます。豊臣勢もこの方向から攻めてきたのでしょうか? |
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↑平場:本丸、二の丸、春日丸、三の丸を中心に多くの平場が展開します。写真はそのうちのひとつ(D)。冬枯れの木が乾いた空に突き刺さります。 |
↑岩室観音堂:城の北側には観音堂があります(E)。写真は城の中から撮影したので、観音堂からは裏側になります。V字の谷が城には天然の要害となっていたようです。 |
探訪年月 |
@H19・2 |
併設・周辺資料館 |
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参考見学所要時間 |
約1時間00分 |
お薦め度 |
私見 |
規模はそれ程大きくないのですが、なんと言っても整備されていない(荒れてるという意味ではない)が、保存状態の良いところが見所である素晴らしい城跡。戦国時代らしく、小さな曲輪が密集し、横矢やアップダウンのきつい空堀など、こまかな見どころがたくさんあり、さすが比企地方を代表する名城で、気付くと時間が経っているという感じです。ただ、木々の生い茂りは凄まじいので、夏の探訪はやめたほうが良いと思います。 |
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城郭ファン以外も必見 |
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見逃せない対象です |
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城好きは行きましょう |
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予備知識がある方は・・ |
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マニア向け |
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初版20070717 |
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