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いねつけじょう
稲付城
別称:
所在地:東京都北区赤羽西
形状 平城 史跡指定 国特別
平山城
山城 都道府県
陣屋・館 市町村
遺構 建築物 天守閣 現存
石垣 復原
土塁 外観復原
水堀 復興
空堀 模擬
(撮影年月 H19・6)
現存建築物 国宝 なし
国重文 なし
都道府県指定 なし
市町村指定 なし
その他 なし
復元建築物 なし
アクセス 公共 JR東北本線赤羽駅下車後徒歩
首都高速5号線板橋本町ランプから環七外回り赤羽方向
ミニ情報 駅からすぐ近くです
地図情報
城略史
  稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558〜1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城は孫の
資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に使えました。その子康資(やすすけ)後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫
資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
(参照「現地案内板(北区教育委員会)」)
主な見どころ
↑静勝寺:城跡の石碑のある階段を上ると寺の境内(!)に着きます。そうです、城跡の雰囲気は全くありません。 ↑御影堂:太田道灌の木像が安置されています。しかし、よく見ることができません。唯一の見所がこれでは・・・。
探訪年月 @H19・6
併設・周辺資料館
参考見学所要時間 約0時間15分
お薦め度 私見   城跡だと感じる遺構は何もありません。石碑のみが今に伝えています。太田道灌ゆかりの場所ですので、そちらの興味からアプローチするのは楽しいかも知れません。寺院になっているので、これ以上の破壊は無いかも知れませんが、これ以上の発掘調査もなさそうです。都内住宅街に、位置のはっきりとした城郭跡があるだけでも十分といわねばならないでしょう。
城郭ファン以外も必見
見逃せない対象です
城好きは行きましょう
予備知識がある方は・・
マニア向け
公式サイト
参考サイト
初版20071020
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