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 その日、ありさは学生食堂で一人、レポートを書いていた。ともに昼食をとっていたキャシーとリズは、午後の講義が始まるので教室に行き、その日は講義がないらしいボニーは朝からアルバイト先へ、午後の二コマ目から出る予定のキャスは、まだ寮にいる。ありさは午前の講義に出た後、午後三コマ目に出席予定の学科の課題を仕上げるため、昼食後一人学生食堂に残ったのだった。 
 この大学に入ってから、三度目の十月になっていた。食堂の大きな窓から見える景色は色づき、空気はひんやりとしてきている。学校や寮にも、朝晩には暖房が入るようになっていた。ありさはレポートを仕上げると、読み返し、必要な修正を入れてから、バッグにしまった。これから講義が始まるまでの一時間ほどを、本でも読んでいよう―― 
「常盤さん」 
 背後からいきなり日本語で呼びかけられ、ありさはびくっとして振り向いた。同い年くらいの、日本人男性が立っている。それほど長身ではなく(ありさより五、六センチほど高いくらいだ)、かすかに茶色みを帯びた髪が緩やかにうねって、耳を隠すくらいの長さに伸びている。ロゴの入った白のスウェットにブルーのデニムという、ごく普通の服装だ。――誰だろう? なんとなく、その顔に見覚えがあるような―― 
「御森(みもり)くん?」 
 思い当って、小さな叫びが漏れた。中学高校で、同じ学校にいた男子だ。六年間で、二度同じクラスになったこともある。覚えている限り、話をしたことはなかったが。あの忌まわしい記憶、継母に頼まれたという男子たちに襲われた時、急を告げて助けを呼んでくれたのが、この御森陽斗(はると)であったことは、後日人づてに聞いた。父が学校経由で彼の家にお礼の品を送り、そこにありさも「ありがとうございました」と、短いメッセージを添えた。でも卒業まで、言葉は交わしたことがない。その彼と、まさかブリティッシュ・コロンビアの大学で会うとは。 
「どうして、ここに来ているの?」 
「交換留学で、一年だけこっちに来てるんだ。あ、となりいい?」 
 陽斗は少し照れたような顔で、そう聞いてくる。ありさが頷き、少し椅子を引くと、彼は隣の椅子に座った。 
「そうなの。偶然ね」 
「そうだね」 
 それから先の会話は続かない。やがて陽斗が再び口を開く。 
「レポートはもう終わったの?」 
「ええ」 
 さらにまた、少し沈黙。ありさは居心地の悪さを感じた。もともと日本では、ほとんど友達と交流したことがない。殊に継母の意地悪のおかげで、中学最後の年から高校三年間は、ずっと孤立していたから、日本人の他者とのしゃべり方を、忘れてしまったような感じだ。だが、ここで彼に会ったのなら、言っておくべきだった言葉を言おう。 
「あの時は、ありがとう」 
「ああ……あれは、当然のことだから」 
 そして、もじもじと指を組み替えながら、言葉を継ぐ。 
「……常盤さんには、悪い記憶なんだから、忘れなよ」 
「ありがとう。大丈夫。もう忘れているから」 
「それなら、よかった」 
 そう言って、また沈黙する。でも、こうして隣に座り、立ち上がる気配はなく、何かを言いたそうにしているということは、彼は自分と話したいのだろうか。ありさはしばらく迷った後、日本にいた頃の自分を脇に置いて、ここの友人や他の学生たちと接するように、彼と話してみようと決めた。もし不愉快だったり、無益だと感じたりしたら、その時にはさっさと離れたらいい。 
「御森くんは、九月からこっちに来ているの?」 
「ああ」 
「同じ大学からは、一緒に誰か来ているの?」 
「いや、ここの定員は一名だから、俺だけだよ。他の大学からは、何人かいるみたいだけれど」 
「そうなの。こっちの授業には慣れた?」 
「いや〜、難しいな。全部英語の講義は。半分もわからない」 
 相手は自嘲気味の笑いを浮かべ、首を振る。 
「常盤さんはすごいな。英語で友達とおしゃべりしてる。さすが帰国子女だね」 
「帰国子女って言っても、わたし四歳の時に日本に来たから、英語なんて、ほとんど忘れていたわ」 
「知ってる。幼稚園で、英語をペラペラしゃべってたよね」 
「え?」 
「覚えていない? 俺、幼稚園の年中で、常盤さんと同じ組だったんだ。一緒に遊んだこともあったんだよ」 
「え、そうだった?」 
 ありさは改めて相手を見つめた。しかし、幼稚園の時の記憶は、まるで白い霞がかかったようにぼやけて、あまり思い出せない。でもたしかに男の子たちの何人かとは、一緒に遊んで、話したような気がする。というよりむしろ、男の子としか遊んだ覚えがなかった。 
「小学校も一緒だったんだよ。でも俺は二年になる時、父の仕事で北海道に行って、五年の秋に戻ってきたし、同じクラスにもならなかったけれど」 
「そうなのね。わたし、中学部の二年で同じクラスで、高等部の三年でも一緒だったことは覚えているけれど、小学校は知らなかったわ」 
「うん……」陽斗は頭をゴリゴリと掻いて、しばらく黙った。 
「常盤さんは、ほとんど校庭で遊んでる姿って、見たことがなかったな。体育の時には、たまに見かけたけど」 
「休み時間は、いつも本を読んでいたから。その方が、好きなのよ」 
「そうみたいだね。中高で一緒のクラスになった時も、君はいつも本を読んでいた。その……気を悪くしたり、触れられたくなかったら、本当にごめん。つまり……お継母さんの意地悪のせいで、クラスの人たちに誤解されていて、だから本を読んで過ごすしかなかったのかなって、その時には思ってたけど……でも小学校から、そうだったんだね」 
「そうね。わたしは変わっていると言えば、そうなのかもしれない。女の子とおしゃべりするのは、なんとなく疲れてしまったりしたから。幼稚園の頃とか、小学校の時も、わりと……意地悪されているな、って感じることもあったし」 
「それは、ヤキモチだと思う」陽斗は即座に頷いていた。 
「俺も幼稚園で、何回か見た覚えがある。腹が立ったけどさ。常盤さんが美人で、人にこびないから、気に入らないんだろうな」 
 そうなのね、と頷こうとしたところで、微かに引っかかった。“美人”は肯定していいのだろうか。 
「それは……わたしが美人っていうより、ハーフだからじゃないかしら。いえ、今はダブルとも言うのね」 
「それもあるけど、それも含めてさ」言ってから恥ずかしくなったのか、陽斗は赤くなって、両手をそわそわと小刻みに動かした。 
「で、俺、思ったこともあったんだ。常盤さんって、孤高の人かなって。人とは群れないで、我が道を行くのかってさ。でもここの大学に来て、君を見かけたら、友達と楽しそうにしゃべってるから、軽く衝撃だった。常盤さんも人とあんな風にしゃべったり笑ったりするんだって」 
 そして慌てたように、「気を悪くしたら、ごめん」と付け加えている。 
 ありさは微かに笑ってみせた。 
「群れるのは、たしかに好きではないかもしれないけれど、気の合う友達と、適度な距離を置きながらも、一緒に時間を過ごすのは楽しいわ。ここに来て、日本にいた頃より、はるかに多くの人たちに出会うことができたし」 
「それは……良かった。君が楽しそうで」 
 陽斗も少し顔を赤くして、笑いを浮かべていた。そして少し黙った後、赤い顔のまま、意を決したように口を開いた。 
「あのさ、常盤さん」 
「何?」 
「黙ってようと思ったけど、最初に言っちゃった方がすっきりするから、聞いてくれ。あのさ、俺がここを交換留学先に選んだのは、君がここへ来たって聞いたからなんだ」 
「え?」 
 ありさは一瞬驚きで言葉に詰まり、ついで聞き返した。 
「誰に聞いたの?」 
「君の叔母さん、っていうか、直接聞いたわけじゃないんだ。俺の友達の従妹が、君の叔母さんがいる学校に通ってるらしくて、そこから聞いてきてもらった。君が日本の大学じゃなく、カナダに行ったっていうのは知ってたから――クラスの噂になってたから。でも君はSNSもやってないし、君から聞くわけにもいかないし――どこの大学へ行ったのかわからなかったから、いろいろ調べてみたら君の叔母さんらしき人が桂木高校で教えてるってわかって、で、そこの在校生が誰かいるかなって探して――まあ、いろいろあって、なんとか聞き出せてこれたわけなんだ。それで、最初に入った大学では、交換留学先にここがなかったから、ある所を選んで、受けなおしたんだ。あ、気持ち悪いって思ったら、本当にごめん!」 
「気持ち悪いっていうのは、よくわからないけど――でもなんで御森くんが、わざわざ大学を入りなおしてまで、わたしが行っているここへ来ようとしたの?」 
「ああ、常盤さん、クッソ鈍感!」 
 小さな呟きが、陽斗の口から洩れた。彼は顔をますます赤くしながら、続けた。 
「そんなもん、常盤さんが好きだからに決まってる!」 
「え?」ありさが感じたのは驚きだけだった。異性から好意を持たれるとか、そんなことは自分には無縁だと、なぜか感じていた。もしくは面倒くさいから、そういうものはなくとも構わないと、思っていたのかもしれない。 
「ずっと好きだったんだ。幼稚園の時から。ずっと君を追いかけてた。君を見てた。だからあの時も、君の危機を知って、すぐに知らせに行けたんだ」 
「そうなの……」 
「ああ、まともに会った瞬間、告ることになるって、思わなかった。クソッ」 
 陽斗は赤い顔のまま、首をぶんぶんと振った。 
「でもまあ、いきなり俺と付き合ってくれ、なんて言わないつもりだ。言ってもいいけど。で、君が俺のこと気持ち悪いと思ったら、もう学校で君を見かけても、声はかけない。今まで通り、君を遠くから見られるだけで満足する」 
「気持ち悪い……とは思わないけれど」 
 ありさは言葉を探した。唐突な告白に、心は驚きに満たされていた。彼に対し、今までは全く白紙に近い思いしかなかったけれど、少なくともネガティヴなものは感じない。 
「普通に、大学のお友達の一人として、付き合っていけないかしら。わたし、彼とか彼女とか、そういうのは考えたことがなかったから……」 
「まずは友達から、だね。いいよ。良かった」 
 陽斗は微かに安どしたような笑みを浮かべた。 
「友達でも、わたし、あまりべったりしたお付き合いは嫌いなの」 
「うん。それはわかってる。君の友達の一人として、どうすればいい?」 
「時間が合えば、時々お昼をここで一緒に食べましょ。女友達の方を、優先するかもしれないけれど。あなたもここでのお友達を、大事にした方が良いわ」 
「うん……たまには授業が終わった後、夕飯を街に食べに行ったりもできるかな」 
「月に一、二度くらいなら、いいわ」 
「おー、良かった! じゃあ、メルアド教えて。あ、LIONでもいいけど」 
「わたし、そういうメッセージアプリ、やってないのよ。やる気もないし」 
 ありさは小さく肩をすくめた。中学高校の頃、そういうメッセージグループで自分の悪口が盛んに言われていると、おせっかいなクラスメートからほのめかされたりもしたが、見なければ、それは存在していないのと同じだ。同じように、学校の裏サイトを覗いてみたこともなく、ソーシャルネットワークサービスも、アカウントを作らず、他の人のものも見はしなかった。ここに来てからは、別のメッセージアプリを使って、寮の友人たちとグループを作っているが、用事のある時にしか使わない。スマートフォンやコンピュータ通信を一切拒否している母の夫、スティーヴ・マーロン氏ほど極端ではないが、彼の考えもわかる気がするくらいだ。 
「メールで雑談をする気はないから、用件だけにしてね」 
 メールアドレスを交換しながら、そう付け加えると、 
「うん。常盤さんらしいね」という答えが返ってきた。 
 
 それから月に二、三回のペースで、陽斗と一緒にお昼を食べたり、学校が終わってから近くの町のファーストフードに行ったりした。友人たちには、『日本の学校にいた頃の、同級生』と紹介した。『ボーイフレンド? それともただの友達?』と、ルームメイトのジェニーも聞かれた時には、『後者よ』と答えた。実際に最初の半年ほど、二人の間は完全に普通の友達のようだった。陽斗の方も、ありさの意図を尊重してか、あまり積極的に踏み込んでこないようだったし、ありさも今の関係の方が安心感があり、心地よかったためだ。 
 その間に、最初に会った時陽斗が「気持ち悪いと思ったら、ごめん」と言ったわけもわかった。友人たちに、彼がこっちの大学に来た経緯を話したところ、『なんかそれ、ストーカーっぽいわね』と、微かに眉をひそめてリズが言ったからだ。そういう見方もあるのか、と改めて思ったが、それが御森陽斗への嫌悪感には結びつかなかった。 
『それだけ熱心に、エリッサのことが好きだったんじゃないの?』というジェニーの見解と、『悪い人ではないと思うわ』というボニーの見立てが、心をやわらげてくれた。 
 そうして秋が過ぎ、冬が終わり、やがて春が来ようとしていた。 
 
 その日の夕方、ありさは陽斗とともに、学生食堂で一緒にレポートを書いていた。最近では時々、彼の英語を添削したり、テキストを訳したりと、何度か勉強を手伝っていたのだ。 
 その時、ジェニーとキャス、そしてリズが、食堂に連れだって現われ、近づいてきた。 
『勉強中ごめんね、エリッサ。それにハルト。でも、これ見て。この子、あなたの異父弟ちゃんじゃない?』 
 ジェニーがスマートフォンを突き出す。ニュースサイトのようだ。そこに示された記事を読み、ありさは思わず小さな叫びを漏らした。 
【ジェームズ・サミュエル・マーロンくん 九歳が北部の森林で迷子になってから、一週間がたちましたが、今朝、捜索に入ったレンジャーによって、遺体が発見されました。死因は低体温症とみられます。警察は、父親の工芸家であるスティーヴン・トーマス・マーロン氏、四七歳をネグレクトの疑いで調べています……】 
 去年の夏休みに二週間滞在した後、マーロン氏からは一、二か月に一度ほど、簡単な言葉で近況が短くつづられた、葉書が届いていた。最近のものは先月来たばかりで、まだ雪があって外に行けず、菜園もお休みだ。でも制作にはいい環境だ。ジェイも一日、本を眺めたりニックと遊んだりしている、と書いてあった。友人たちも、親子のことは知っていた。訪問や滞在の様子を話したことがあり、彼女たちもマーロン親子の“変わり者”ぷりを面白がって聞いていた。それゆえ、印象に残っていたのだろう。 
「どうかしたのかい、常盤さん?」 
 陽斗が驚いた様子で聞いてくる。付き合い始めて半年近く過ぎても、いまだに二人は「常盤さん」「御森くん」と呼び合っていたのだ。 
『この子の、ハーフブラザーが死んだの』 
 ジェニーがゆっくりめの英語で言う。陽斗にも、それが聞き取れたらしい。 
「弟さんが――? ハーフブラザーって」 
「ええ」ありさはゆっくりと頷いた。 
「まだ御森くんには話してなかったけど、わたしの母は父と別れたあとに、こっちで結婚して、男の子が生まれていたの。だからわたしには、父親違いの弟。去年の夏には、その子の家で二週間くらい、一緒に過ごしたのよ」 
 そう説明した後、ありさは片手を頭に当てた。 
『ジェイ、嘘でしょ……信じられない』 
 弟とは、ずっと英語で話していたせいだろうか。嘆きの言葉は英語になって漏れた。森で迷子になって、一週間――森とは、あのアザーサイド・フォーレストだろうか。彫刻の材料を取りに行く父親と、よく一緒に行くという。冬はさすがに行かないだろうが、春先になり、少し暖かくなってきた今なら。それでも陽が落ちると、気温は急激に下がる。この一週間で二回ほど、冷たい氷雨が降ったこともある。それでは凍死しても、無理はない。でもどうして、弟は迷子になったのだろうか。 
 
『“彼”は呼ぶ。笛を吹く。いつか、ぼくも行くと思う』 
 あの夏の朝、ジェイが言っていた言葉が、不意に思い起こされてきた。 
 森へ行った時も、あの子は小川をたどろうとしていた。源流に行きつけば、“彼”に会えるけれど、今は時間が足りないと、残念そうにしていたことも。桃香のことを話した時に、ジェイは言っていた。『その子は、呼ばれちゃったんだね』と。呼んだのは、神様ではなく、“彼”? ジェイも、その“彼”に呼ばれた? では“彼”とは、いったい何なのだろう。ジェイの想像の中の何かだと漠然と思っていたが、それは桃香の言う“みどりちゃん”と同じようなものなのだろうか。そういえば、妹も言っていた。学校の帰りに“淵が森”へ行き、命を落とす数日前に、「みどりちゃんに、会いたいんだ」と。 
 思いが渦巻いて、ありさは言葉を忘れ、頭を押さえた。 
「『マーロンさんのところへ、行かなきゃ』」 
 やがて言葉が日本語と英語で、続けて漏れた。 
『今日はもう遅いし、そのマーロンさんが警察に引っ張られているなら、いないかもよ』 
 友人たちは、顔を見合わせていた。 
『明日行ったら? まだ木曜日だけど、弟さんが亡くなったのなら、二、三日の休みは許されるわよ。講義は、誰かにフォローしてもらえばいいわ』 
 キャスの提案に、みな頷いている。 
『私の車、使ってもいいわよ。ああ、でも困ったな。私、明日はちょっと抜けられない』 
 リズがそう申し出ながら、少し困惑した顔をした。 
『俺が、行きます』 
 陽斗がそこで、たどたどしい英語で会話に加わった。 
『もし、あなたが、俺に車を、貸してくれるなら』 
『運転、大丈夫? それにあなたも、明日講義あるんでしょ?』 
 問いかけるリズに答えようと、陽斗は何度か英語を試み、ついにあきらめたのか、日本語でありさに言った。 
「大丈夫。と思う。俺、国際免許あるし。ここ来てから運転してないけど、もし事故ったら、弁償するって、常盤さん、通訳して!」 
 ありさは英語で同じことを言いなおした後、陽斗に問いかけた。 
「でも、いいの、御森くん? あなた、授業あるでしょ?」 
「いいさ、なんでもない! 俺で役に立つなら」 
『わかったわ。明日、エリッサに私の車のキー預けるから。事故らないでね。それと、明日中に返してね』 
『ありがとう、リズ! それに、御森くん!』 
 ありさはそれしか言葉がなかった。 
 
 翌日、リズの車でありさと陽斗は、マーロン氏の家に向かった。 
「そう言えば、ここって右側通行なんだよな」 
「そうよ。だから、気をつけてね」 
 ありさは助手席に座り、スマートフォンの地図を見ながら、陽斗に行き先を指示した。マーロン氏の住所を打ち込んだので、ナビ機能で道が示されるのだ。学校からは、二時間弱の行程だった。 
 道中、二人は運転に関する会話しかしなかった。 
「そこの角を左ね」 
「左……って、そうか、日本の右折の逆バージョンか」 
「この道、ずっとまっすぐ」 
「本当に、まっすぐな道だなあ。北海道みたいだ」 
 そんな言葉を交わしながら、淡々と時間が流れていく。 
 やがて車は、見慣れた細道に入ってきた。マーロン氏の庭に車を乗り入れると、ありさは外へ降りていった。三月の半ばの今、花壇も菜園も、茶色い土がむき出しになっていた。これから種をまく季節なのだろう。ブルーベリーの茂みもまだ茶色の葉が残っている。 
 飛び石を踏んでドアにたどり着くと、ありさはノックしてみた。あのニュース記事には、マーロン氏はネグレクトの疑いで、警察に事情を聴かれているという。九歳の、少し発達障害のある子を森に置いたまま、木片を探しに行っていたことが、保護義務怠慢とみなされたのだろうか。 
  
 不在かと思ったが、やがて返答があり、ドアが開いた。そしてマーロン氏が現れた。しかし、その頬には深いしわが刻まれ、顔色も土気色に近くなって、眼は薄いクマに縁どられ、光も感じられない。去年の夏に会ったマーロン氏とは、まるで別人のようだった。 
『エリッサ!』マーロン氏は驚いたように声を上げた。 
『ここへ来たのかい? どうして』 
『ニュース記事を見たんです。友人たちが知らせてくれて。あの……ジェイが……』 
『ああ』マーロン氏はのろのろと頷いた。 
『ありがとう。来てくれて。君に会えたら、ジェイも喜ぶよ。でも、どうやって来たんだい?』 
『友達が車を貸してくれて、もう一人の友達が運転してきてくれました』 
『そうなのか。では、運転手がいるんだな』 
『ええ』 
 答えながら、ありさは素早く頭を働かせた。この場はプライベートなものだ。我が子を亡くした父親と、その姉と。リズも今日中に車を返してと言っていた。 
『一回、彼には学校に戻ってもらうことにします。わたし、今日は泊めてもらっていいですか? 明日、また連絡して送ってもらいます』 
『明日、ジェイの葬儀をするんだ。ささやかにだが。君にも送ってもらえたら、ありがたいんだが。その後、私が君の学校まで送っていこう』 
『わかりました。そうします』 
 ありさは踵を返し、まだ運転席にいる陽斗に、窓の外から話しかけた。 
「御森君。本当にありがとう。わたし、明日か明後日までここにいるから、あなたは学校に戻って」 
「わかった。もともとそのつもりだったよ。帰る時になったら連絡してくれれば、迎えに行くから」 
「ああ、それは大丈夫。マーロンさんが送ってくれるって。帰りの道は、大丈夫?」 
「スマホのナビがあれば、大丈夫だろ。一度ここまで来たし」 
「無事学校に着いたら、メールで知らせてね。ここ、電波状態悪いから、すぐに返事は返せないけれど」 
「わかった。非常事態だもんね、がんばれ」 
 陽斗は窓を開けて手を伸ばし、ありさのその手を握り返した。 
「ありがとう。気をつけて帰ってね」 
 車が再び今来た道を引き返していくのを見送った後、ありさはマーロン氏の家に入った。リビングの真ん中に小さな棺が置いてあり、そのそばに意気消沈した様子のニックが丸くなってうずくまっている。傍らにエサの皿が置いてあったが、ドッグフードが山盛りになったままだった。 
『ニックも元気がないんだよ。エサも食べようとしない』 
 マーロン氏はため息とともに言い、ダイニングの椅子に座った。 
『君もまず、座ってくれ』 
『はい』ありさは氏の正面に席を取り、そして聞いた。 
『あの、警察に話を聞かれた、と聞きましたが、大丈夫だったですか?』 
『さあ、どうなるかな。警告ですむのか、罰金か、禁固刑か、まあ、そんなところだ。だがそんなことは、もうどうでもいい。私がどうなろうと――私が悪かったのかもしれない。あの子を一人にしてしまった。いつも、森で好きにさせてしまった。だからあの子は迷って、死んでしまったんだ』 
 マーロン氏は両肘をテーブルに着き、顔を伏せた。泣いているような震えが走った。ありさは言葉を失い、ただ見つめていた。 
  
 
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