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 森の中は広く、うす暗かった。木々が風にゆれ、葉っぱがざわめくたびに、かすかに差し込んでくる日光の糸も揺らめき、地面にモザイク模様を描いていく。足元の土は、降り積もった落ち葉で柔らかく湿った感触だ。虫の羽音がかすかに聞こえる。ときおり頬を掠めて飛びすぎていくのは、蛾だろうか。今ではもう自分がどっちの方角から来たのか、どうすればもと来たところへ──それがどこかということも、わからなかったが――戻れるのか、まったくわからなくなっていた。 
 声を上げて、名前を呼ぶ。誰の名前? それすらわからない。一緒に来た誰か。何人か。それもわからない。 
 返事のかわりに、ひゅーっと風がうなった。乾いた小枝が揺さぶられ、お互いにぶつかり合って音を立てる。そのざわざわという響きは、まるで怒っているように聞こえた。片手で抱いていた人形──緑の帽子に緑の服を着た、金髪の妖精を、ぎゅっと胸に押し当て、にじみ出てきた涙を、慌てて押し戻そうとした。 
 森は暗く、ざわざわと不気味にささやき続けている。もう一度、強く瞬きをした。まぶたも頬も熱くなり、徐々に濡れていくのが感じられる。両手でしっかりと人形を抱きしめながら、立ち止まったまま、あたりを見まわす。どこかに出口が見つからないものかと。 
 疲れ果て、その場にうずくまり、泣こうとした。が、不意に足にもぞもぞとした違和感を覚え、思わず小さな声を上げて立ち上がった。てんとう虫だ。もっといやなものではなかったことにほっとしながら、足を這い登ってくる小さな虫を指ですくった。黒地に黄色い斑点のあるその虫は指先から羽根を広げ、飛び立っていった。 
 再び歩き出した。地面には、虫がたくさんいそうだ。てんとう虫ならまだましだが、毛虫などに這い登られたら、いやだ。方向の見当はつかないが、じっとしていて、誰かが探しに来てくれるのを待つのも、耐えられそうになかった。のどが乾き、空腹も感じた。ここに迷い込んでから、どのくらいの時間がたったのだろう。 
 がさっと足元の藪がゆれ、丸いかたまりが勢いよく飛び出してきた。心臓が一瞬跳ね上がった。ウサギだ──足元をすり抜け、あっという間にまた藪の中に飛び込んでいく。ほっと安どのため息が漏れた。 
 終わりのない森、迷路のような――いつになったら、ここから出られるのだろう。そもそもどうして、自分はここに入っていったのだろう。わからない。木々は果てしなく茂り、道らしい道もない。それでも自分は歩き続ける。 
 突然、木々が途切れた。小さな広場。上から差し込む光。いや、上からだけでなく、広場全体が光っているような―― 
 
 あっ、と小さな声を上げて、ありさは目覚めた。またあの夢を見た。森の中を迷う夢。最後はいつも、光に出会って目覚める。薄い緑色のカーテンから差し込んでくる、朝の光のせいだけではなさそうだ。 
 ありさは上半身を起こし、次いでベッドボードに置いた目覚まし時計をつかんだ。六時半にセットしたアラームが、あと三分で鳴るところだ。アラームをオフにし、元の位置に戻すと、大きく髪を振りやり、伸びをして起き上がる。パジャマの上からパーカーを羽織り、ピンクのスリッパをはいて、洗面所に行く。 
 顔を洗い、髪をとかしながら、鏡に映った自分の姿を、見るとはなしに見ていた。長くまっすぐな、明るい茶色の髪。すっと通った高めの鼻、薄い唇、抜けるような肌の色、長いまつ毛に囲まれた大きな目は、髪と同じような色合いの明るい茶色。 
 ありさを生んだ母は、日本人ではなかった。父が若いころ海外赴任先で出会った人だと。カナダのブリティッシュ・コロンビア州、バンクーバーで。そう聞いている。あの街も今ではアジア系移民がわりと多いらしいが、母は純粋なアングロサクソン系の白人だったと、父は言っていた。父と母はありさが赤ん坊の頃に別れ、ありさは四歳の誕生日近くまで、母に育てられたらしい。父がそう説明してくれたのを聞いたから。ただ、なぜ母が自分を手放すことになったのか、その事情は聞いていなかった。いや、聞いたけれど、忘れたのかも知れない。ありさには、母と暮らしたという幼いころの記憶はなかった。母の顔も覚えてはいない。写真もなかった。父の話では、今の母、ありさには継母に当たる瑤子と結婚した時、処分したという。 
 ありさの覚えている一番古い記憶は、空港だ。ざわざわとした空気、行きかう人々。迎えに来た父と継母。二人とも、笑顔を浮かべていた。「大きくなったなぁ」父は感嘆したように言い、「なんてかわいい子でしょう」と、継母は声を上げていた。二人はその二年半前に結婚したのだと、父は説明していた。「おまえの新しいお母さんだよ、ありさ」と。 
「よろしくね」継母の瑤子は、優しそうな笑顔を浮かべていた。もっともその時には、言葉はわからなかったはずだ。日本語に接したのは、この時が初めてだったから、意味のわからないノイズのようにしか聞こえなかった。背景に流れ続けている、ざわめきのように。父がそのあと英語で説明してくれたのが混ざりあって、漠然とした、おぼろげな記憶になっているようだ。ただ、それも不完全な記憶だ。自分をその空港に連れてきてくれたのは誰だったのかわからないし、飛行機に乗っていた記憶もない。
  
 あれが四歳前のことだとしたら、あれから十二年、いや、もうすぐ十三年。ありさはブラシを戻し、落ちた髪をティッシュでぬぐってごみ箱に捨てると、キッチンへと向かった。ライトをつけ、電動ポットでお湯を沸かし、インスタントのコーンスープを作る。冷蔵庫から卵とオレンジジュースを取り出し、目玉焼きを作り、冷凍したパンをトースターに放り込んだ。そしてできた朝食を、ダイニングのテーブルに運んで食べた。広いリビングダイニングの向こうのガラス窓越しに、庭が見える。今は萌えてきた若葉の緑が美しい季節だ。ただその庭も、祖母が生きていたころのように、さらにはその後妹と二人で庭の維持に努めていたころにように、美しく整ってはいない。 
 窓ガラスの向こうに、楓の若木が見える。あれはありさの木。祖母が植えてくれた。その光景を、おぼろげに覚えている。祖母が優しい笑みを浮かべて、自分を見ていたこと。「これがあなたの木よ」――This is your tree――あまり流暢とはいえない英語で、そう言っていたこと。子供が生まれると、その誕生を記念して木を植える――祖母のゆき乃は、のちにそう説明してくれた。それが、この常盤家の伝統なのだと。その木が、その子を守ってくれるように。父が生まれた時に植えられたいう欅の木は、今はかなり大きなものになっていた。叔父が生まれた時に植えられたという、樅の木も。さらに祖父やその兄弟たち、さらにその先代の木もあり、それらは今、かなりの巨木になっている。 
「おかげで我が家の庭は、森のようだ」と、かつて父はそんなことを言っていたが。 
「本当はありさちゃんが生まれた時に、植えたかったのだけれどね」――祖母はそう続けていた。楓の木なのは、ありさの母の母国であり、ありさが生まれた国、カナダを象徴する木だからと。「まあ、あちらはサトウカエデだから、日本のものとは種類が違うけれど」そんなことも、祖母は言っていたっけ。 
 楓の木の横には、桃の木があった。妹が九年前に生まれた時、祖母が植えた木。ただ、子供の誕生を記念して木を植えることに対し、継母瑤子はあまりいい顔をしなかった。 
「もし木が枯れたりしたら、縁起でもないから」と。桃だったのは、妹の名前が桃香だったから。ちょうど桃の花盛りに生まれたから。二年前、その妹が死んだ時、継母はその木を切ろうとした。ありさはそれを阻止した。「桃ちゃんを二度殺さないで!」と。その時、継母の眼に浮かんだ狂おしい表情を、ありさはよく覚えている。彼女から投げつけられた言葉も。 
「なぜ私の娘が死んで、あなたが生きているの!? あなたが代わりに死ねばよかったのに!! この人殺し! みんなあなたのせいよ!!」 
 ありさにとっては、理不尽な非難だった。でもきっと、継母はずっと心の中でそう思い続けていたのだろう。だが口に出されたそれは、二人の関係をその場で断ち切ってしまった。それから徐々に、瑤子は心を病んでいった。 
 
 ありさは小さくため息をつくと、食べ終えた朝食をキッチンに運び、片づけた。棚の上に飾った妹と祖母の写真に備えた水を取り替え、花瓶にさした花が枯れていないかを確かめた後、制服に着替える。かばんを自転車のかごに置いたまま、庭に出て水撒きをし、施錠して家を出、自転車にまたがった。 
 晴れた五月の日だった。学校までは三十分あまり、途中でコンビニに寄り、お昼のサンドイッチと飲み物を買う。学校への道を、軽快にペダルをこいでたどりながら、彼女はこれからどうしようか、そのことを考えていた。高校も二年になり、そろそろ進路のことも考えなければならない。彼女の学校は中高一貫の私立校で、三年には進路別にクラスが分かれる。父は海外に単身赴任中で、継母は入院している今、相談できる大人と言えば健(たける)叔父――父弘(ひろむ)の五歳下の弟だけだが、彼も今は名古屋に転勤中だ。自分はどうしたらいいだろう、この先――空虚で単調なこの毎日を、変えることはできないだろうか。それが彼女の、ただ一つの思いだった。 
 
  
 
 四歳になる前の春、この家に来て、翌年やっと片言の日本語を覚えた頃、ありさは地元の幼稚園に入れられた。そこでは「お人形さんみたいにかわいい子」と言われたが、親しい友達はできなかった。男の子たちからは人気があったが、それゆえか、女の子たちからは、小さな意地悪をたくさんされた覚えがある。 
 常盤家は旧家らしく、このあたりでもひときわ大きな家と広い庭があった。その広い庭で、ありさはよく遊んだ。一緒についていたのは、たいてい祖母だが、継母も決して不親切ではなく、優しく感じた。話しかける口調も。「お夕飯、何が食べたい、ありさちゃん?」「かわいいお洋服を買ってきたのよ。きっと、あなたに似合うわ」 
 継母との間が変化したのは、妹が生まれてからだ。その理由も、ある程度は知っていた。妹が一才になった頃、継母とその姉が茶の間で話をしているのを、ありさは偶然聞いてしまっていたから。 
「良かったわね、桃香ちゃんができて。やっぱり自分の本当の子どもはかわいいでしょう?」 
 継母の姉はそう言っていた。 
「ええ」瑤子は即座に答えていた。 
「全然違うわ。自分の子どもがこんなにかわいいなんて」 
「結婚して……七年目だったわよね、あなたたち。長かったわね」 
「そうね。私はずっと、自分の子供が欲しかったから、二年半たってもできなくて、その上夫が海外赴任の時に現地で作った子供を引き取りたいって言った時には、一瞬考えたのよ。向こうで育てられないなら、施設にでも入れればよかったのだけれど、弘は責任を感じているらしくて……」 
「父親なのには、違いないわけだしね。不運だったわね。初婚だと思って結婚したのに、途中からいきなり連れ子が現れたようなものでしょう?」 
「そう。でもね、考えたの。養子だと思えばいい、と。子供がなかなかできない時、養子をもらうと自分の子ができやすい、とよく言うでしょう。まあ、それから三年もできなかった時には、焦ったけれど」 
「本当に良かったわね」 
「ええ。主人は男の子を欲しがっていたのだけれど。やっぱり跡取りが欲しかったのでしょうね。でも、わたしは女の子が欲しかったの。だから桃香が生まれて、本当にうれしいわ。女の子でも、婿をもらえばいいことですものね」 
 当時八歳だったありさは、ショックではあったが、絶望はしなかった。ある程度は彼女にも、感じられたことだったから。継母が妹を溺愛していることは、小さな娘を見る目の表情からも容易に察せられた。妹が生まれた時から、瑤子がありさに対し、少し距離を置いたような扱いをするようになった理由も。 
 継母は決して、ありさに小さな妹を抱かせてくれなかった。 
「落っことしてしまうと、危ないからね」と。 
 赤ん坊に触ろうとしても、押しとどめられた。 
「手はきれい? 赤ちゃんはデリケートなのよ」 
 いつも優しげな微笑を浮かべ、物柔らかな口調で、継母は言ったものだ。でも、その目は決して微笑んではいなかった。そういえば初めて会った時から、継母の目が自分に向かって笑いかけられたことはなかった。唇は笑っているけれど。だから自分も他の子のように甘えてすり寄ることができなかったのだろうか、とも。 
 でも妹に対して、ありさは強い愛情しか、感じたことはない。本当に愛しい存在だった。桃香は愛らしい子供だった。鼻と口は小さく、眼は大きくてパッチリして、ほんの少しだけ茶色みを帯びた髪は柔らかいくせっ毛だった。彼女は純日本人だが、少し髪に茶色みが混じっているのは瑤子の遺伝だろうと、父が言っていた。継母もまた、生まれつき少し茶色みがかった髪だったからだ。半分西洋人の血が混じったありさの髪に比べると、明るさも茶色みも格段に控えめだが。妹もまた、姉を慕ってくれた。「ねえね」から「おねえちゃん」と、呼びかけは大きくなるにつれ変わっていったが、いつも嬉しそうな笑顔で手を差し伸べてくれた。 
 
 お祖母ちゃん──常盤の祖母は、ありさが愛情を持っている、もう一人の人だった。でも彼女は、妹が四歳の時に亡くなった。 
 父の母、ゆき乃は母屋から少し離れた別棟に住んでいた。祖父はありさが常盤家に来る五年前に他界し、父は自分が結婚する時、母屋に一緒に住むように勧めたらしいが、「一人の方が気楽なのよ」と、祖母は固辞したという。 
 祖母は天気の良い日は、たいてい外にいた。縁石にこしかけて日向ぼっこをし、庭の水まき、花壇の手入れ、草むしり、落ち葉掃きと、庭の面倒を一手に引き受けているようだった。ありさもよく、一緒に手伝った。手入れをしながら、祖母は花や木に、しばしば語りかけていた。 
「今日も元気そうだね」 
「おやおや、昨日は暑かったからねえ。すっかりしおれてしまって、かわいそうに」 
「寒いから大変だろうね。春が来るまで、辛抱しておくれ」 
「もうすぐ花が咲くね。良かった良かった」 
「おや、虫がたかったね。よしよし、今取って上げるよ」 
 幹に触れ、葉に触れ、花に触れながら、まるで自分の子どものように祖母は語りかけていた。木はそれに答えるようにまっすぐそびえ、花はコンクールで何度も優勝するほど美しく咲いた。ありさの木も桃香の木も、すくすくと育っていった。ありさは祖母が庭に水をまく時の匂いが好きだった。太陽の光を受けて飛び散る水飛沫、光の向こうに透けて見える虹、緑の葉っぱの上に光る水球。 
 桃香も庭が大好きだった。家でお絵描きをしたり本を読んだりしているより、庭に出て祖母の仕事を眺めているほうを好んだ。継母は桃香が庭で遊ぶことをあまり歓迎しないようではあったが、祖母への遠慮もあったのか、午前か午後か、数時間だけは娘を庭で遊ばせることを認めていた。 
 しかし祖母は春の盛りに、庭で仕事中に突然倒れ、病院に運ばれた翌日に、帰らぬ人となった。心筋梗塞、それが正式な病名だったらしいが、心臓の発作だと父は説明していた。世話をしてくれる人を失った庭は、やがて荒れてしまうだろう。それくらいならと、継母はいっそのこと木を──祖父と父、叔父、それにありさと桃香の木を残して、全部切ってしまい、花壇も縮小して、芝生にしてしまおうかと提案した。が、それを聞いて、泣いて反対したのが、当時四歳の桃香だった。「木を切っちゃだめ! お花を抜いちゃだめ! わたしとおねえちゃんで、お世話するから!」と。 
「あなたたちには、無理でしょう?」 
 継母は当惑顔だったが、父が決済を下した。 
「よし、それじゃ、定期的に植木屋さんに来てもらおう。毎日の水撒きは、ありさと桃香でやれるかな?」 
「ええ」 
「うん」 
 姉妹は同時に返答し、父は微笑して二人の頭をなでた。 
「よし。では、もしおまえたちが水遣りをしないで花が枯れたら、お母さんの言うとおり、芝生にしてしまうからね。そのつもりでやりなさい」 
「あなた。桃ちゃんに水撒きなんて──」継母は心配げに口を出した。 
「桃香だって四才だ。できるだろう? おまえがやると言ったんだぞ、桃香」 
「うん。できる!」桃香は、にこりとして頷いた。 
「ありさちゃん──桃ちゃんをカバーしてあげてね。あの子は小さいし、あまり丈夫ではないの。わかっているでしょうけれど。水まきしている間に濡れて、かぜでもひいたら大変だわ。よく気をつけてあげてね──」 
 桃香が寝てしまってから、継母はありさにそっと言った。 
「ええ、気をつけるから、大丈夫」ありさは短く頷いた。 
 それからは、登校前と夕方の水やりが、ありさの日課となった。日曜日には、草むしりをした。月に二回来る植木職人は無口な老人だったが、ありさと桃香に肥料や土の選定、草花の育て方などの知識を教えてくれた。祖母が生前教えてくれたこと、そして植木職人の下村さんから教えてもらったこと、ありさと桃香の熱心さ──祖母も見守ってくれていたのかもしれない──そのおかげで、それから三年間、庭は荒れることなく、草花や木々は、祖母が生きていた頃と同じような勢いで栄えていた。ありさと桃香が花壇に植える一年草も、生き生きと花を咲かせた。 
 
 祖母が亡くなって一年半がたった秋のある日、中学生になったありさは少し寄り道をして、帰るのが遅くなった。急いで家に帰ると、庭では、桃香がじょうろで木の根元に水をまいていた。肩まで伸びた、母親似の柔らかいくせっ毛に金色の日が反射して、ありさの髪に近い色合いに見える。妹はクリーム色のブラウスに、緑のジャンパースカートを着、大きな緑のじょうろを重そうに抱えて、真剣な顔で水のシャワーを降らせていた。 
「あっ、おねえちゃん!」 
 桃香はありさの姿を見ると、うれしそうに笑った。 
「ごめんね、桃ちゃん、遅くなっちゃって!」 
 ありさは笑顔で、妹に近づいた。 
「ありがとう。木の方は、わたしがやるわ。もう、花壇は終わったの? だったら、おうちへ入った方が良いわよ。お継母さんが心配するから……あら、桃ちゃん、どうしたの?!」 
 近くで見て、気づいた。妹の髪の毛から、ぽたんとしずくが落ちている。ブラウスの袖も濡れて、少しだけ下の皮膚が透けて見えていた。 
「お水、かぶっちゃったの」桃香は笑い、ぺろっと舌を出した。 
「花壇終わって、木にお水を上げようとして、ホースで。でもあれ、重いんだもん。上手くできなくて、上に、お水が飛んじゃったの。あたし、急いで止めたんだけど」 
「ええ? ホースはあなたには無理だって、いつも言ってるじゃない。下村さんだって、そう言っていたでしょう?」 
「うん。あたしも、わかった。だから、じょうろにしたの」 
「まあ、桃ちゃん。わたしがしたのに」 
「うん。でも、おねえちゃんが間に合わないといけないと、思ったの」 
「ああ、ごめんね、桃ちゃん。ありがとう」 
 ありさは妹の手からじょうろを取り、軽く抱きしめた。 
「あとはわたしがやるから、早く家へ帰って、お母さんに着替えを出してもらったほうが良いわよ。濡れたままだと、風邪をひいちゃうかもよ」 
「うん」桃香は素直に頷くと、玄関へ入っていった。 
 妹の後ろ姿を見送ったあと、ありさは裏へまわり、水撒き用ホースを取り上げた。夕闇が迫ってきた庭をめぐりながら、ありさの頭に継母の顔が浮かんできた。継母はきっと怒っているだろう。桃香は花壇の水撒きを、じょうろでした。それは彼女の日課だ。でもそれが終わっても姉が帰ってこないので、かわりに木の水遣りもしようとして、水をかぶった。濡らさないでくれ、カバーしてやってくれと継母はありさに頼んだのに、それを果たさなかったと、きっと内心ではありさを責めるだろう。 
 
 その日の桃香は元気そうだったが、翌日夜になって、熱を出した。その事実もありさに後悔の気持ちを起こさせたが、それ以上に継母の刺すような視線がつらかった。 
「ねえ、ありささん。わたしはあなたに、桃ちゃんをカバーしてあげてと頼んだはずよ。あの子にあなたをカバーさせろとは、言わなかったわ」桃香を着替えさせ、濡れた服を洗濯カゴに入れながら、継母は皮肉をこめて言ったものだ。 
「ごめんなさい……もう、こんなことはないように、気をつけます」 
 ありさは、それだけしか言えなかった。 
「本当に、そうしてちょうだい。そうでなければ、本当に芝生にしてしまいますからね」 
 継母はそれ以上なにも言わなかったが、翌日桃香の具合が悪くなってからは、ありさと顔を合わせるたびに、怒りのこもった非難の目で見た。そのたびに、ありさはまるで針に刺されたような気分を感じたものだった。 
  
 幸いにして、三日ほどで妹の熱は下がり、風邪は回復に向かっていった。四日目、ありさが学校から帰ってきた時、継母は留守だった。今まで桃香の部屋とキッチンを往復し、家から一歩も出なかった継母だったが、どうやら桃香が元気になってきたので、やっと出かける気になったらしい。 
 妹の部屋に行くと、桃香はベッドの上に起き上がって絵本を読んでいた。妹が病気になってから、顔を見るのは初めてだった。それまで、継母が部屋に入れてくれなかったのだ。妹は自分を見ると、ぱっと表情を輝かせて絵本を下に置いた。その笑顔に、ありさはほっとすると同時に、救われたような思いを感じた。 
「ごめんね、桃ちゃん」 
 妹のベッドのそばに座りながら、ありさは改めてわびた。 
「どうして、あやまるの?」 
 妹はしんから怪訝そうな顔で、首を傾げていた。 
「わたしがあの時、遅くなったから」 
「どうして? それはあの時、あやまってたよ」 
「あの時濡れたから、風邪を引いちゃったんでしょ?」 
「おねえちゃんのせいじゃないよ。あたしのドジだもん」 
「でも、わたしが遅くなったから」 
「関係ないよ、そんなの」 
 桃香は絵本を下に起き、ベッドから下りて、ありさに抱きついた。 
「おねえちゃんが来てくれなかったから、寂しかった!」 
「お母さんがいたじゃない」 
「うん……ママはね。けどママって、時々、ちょっとうるさい」 
「まあ、桃ちゃんったら!」 
 ありさは笑い、桃香も笑った。桃香は満足したように吐息をつくと、ありさから離れ、ベッドに戻った。 
「お継母さんは?」ありさは妹の布団をなおしながら、問いかけた。 
「お買い物。プリン食べたいって言ったから」 
「ああ、そうなの」   
「ね、おねえちゃん。ちょっとだけ、窓開けて」 
「そうね。少し空気がこもっているみたい」 
 ありさは窓に歩み寄った。ベッドの反対側にある大きな窓は、ちょうど桃香が横になった時、外が見えるような位置にあった。桃香の部屋は一階にあったので、庭がよく見えた。 
 窓を開けると、涼しさを含んだ秋の風が、穏やかに吹き込んできた。クリーム色のチェック地にクマのプーさんが描かれているカーテンが、緩やかに揺れていた。 
 ありさは外の空気を吸いこみ、妹がよく外を見られるように、少し脇へどいた。 
「あのね、桃ちゃん。思いきって、言っちゃうけれど」 
「なあに?」 
「あなたが、わたしのかわりに木にお水を上げようとして、濡れてしまったあの日ね。本当はわたし、もっと早く帰れたの。だから、よけいあなたに悪いことをしたな、という気になってしまったのよ。ごめんなさいね」 
「なあんだ、そうなの」 
 桃香はちょっと驚いたように言い、ベッドの上に肩ひじを突いて起きあがった。 
「ええ。わたし、それから学校の裏の丘に登ってしまったのよ。あそこから、町がよく見えるの。それでね……」 
 学校の裏の丘――ありさがその春から通い始めた近所の中高一貫私立の、広い敷地の裏手には、小高い丘があった。学校の裏門から少し回ったところに、その頂上まで続く細い道があり、そこから町が一望できる。その時から、そして今でも、ありさのお気に入りの場所だった。その話を、何度か妹にしたことがある。その時も妹は少し驚いたような顔をし、そして問いかけてきた。 
「おねえちゃん一人で?」と。 
「ええ」 
「ずるーい!」 
 妹はベッドの上に起きあがり、ありさをひたと見つめてきた。 
「ずるい、おねえちゃん。あたしもお姉ちゃんの学校の裏山、行きたかった!」 
「登ってみたいの?」 
「うん。いっぺん行って見たかったの。でも、ママはお庭だけで充分でしょう、なんて言って、連れてってくれないし。お買い物には、連れてってくれるのに」 
「あなたには危ないと思っているんでしょう、お継母さんは」 
 ありさはほんのすこしだけ苦笑を浮かべた。継母は桃香を大事に思うあまり、少しの危険も冒させたくないようだった。妹がまだほんの赤ん坊の頃から、「危ない危ない」を連発した。小さな物を握ろうとすれば、「飲んだりしたら、窒息してしまう。赤ん坊はなんでも口へ持っていってしまから」と、その手から取り上げた。這いずり始めると、ぶつかって怪我をしないようにと、その進路の障害物を、机でも椅子でも徹底的に取り除けた。動かせないものの前まで来ると、いち早く桃香を抱き上げたものだ。歩き始めれば、「転ぶから」と、よろけ始めるや否や、また抱き上げる。五歳のその時になるまで、ずっとそんな調子だった。桃香は幼稚園にも通っていなかった。「他の子にケガをさせられたら」「先生が目を離している間に、遊具から落ちたりしたら」「それでなくとも、変な人が多い世の中だから」継母が父にそう訴えているのを、ありさは聞いたことがある。 
「まあ、幼稚園は義務教育じゃないから、行かせなくてもいいんだろうけれどなあ。でも、来年には小学校だろう? 行かせないわけにはいかないぞ」 
 父は半ばあきれたような口調で、そう言っていたものだ。 
「それはわかっているわ。でも、その時はまでは、手元においておきたいの」 
「桃香がかわいそうだとは思わないのか? 近所に子どもはいないし、幼稚園にでも出さなければ、友達ができないじゃないか。同じ年配の子どもとの付き合い方も知らないで、いきなり小学校に入って、うまくいくと思っているのか?」 
「桃ちゃんは良い子よ。きっとお友達とも上手くやって行けると思うの。でも、そのお友達が問題なのよ。それで、小学校なんだけど、私立を受けさせようかと思っているの。聖邦学園の初等部を。あそこなら、公立より変な子はいないでしょう?」 
「幼稚園にも行っていないような子が、受験なんてできるのか?」 
「塾には通わせているわ。桃ちゃんは、とっても優秀なのよ。先生は聖邦でも大丈夫だって、おっしゃってくださっているわ」 
「いつから桃香を塾になんて通わせ始めたんだ? 俺は知らなかったぞ」 
「去年からよ。かまわないでしょう? わたしも一緒についていっているわ」 
「もういい。おまえの好きにしなさい」 
 父はため息を一つついていた。 
「受験には親の面接もあるのよ。あなたも協力してね」 
「わかったよ……」父はさらにため息をついたようだ。 
 思い出されてくると、その時でさえ、ありさも我知らずため息が出たものだ。継母が継娘に対しては、これほど熱心に保護しようとはしなかったことが、かえってありがたくさえ思えたものだった。 
「ねえ、桃ちゃん。幼稚園、行きたい?」 
 思わず、ありさはそう問いかけていた。 
「うーん。少しだけ」桃香は首を傾げて答えた。 
「行きたかったら、行きたいって言えばよかったのに」 
「だって、それほど、うんとは行きたくなかったんだもん。お家でずっと遊んでるのも、楽しいかなって思えて」 
「そう。それなら、いいけれど。桃ちゃんは聖邦には行きたいの?」 
「あそこ、遠そうだから、いやだな。本当はね、おねえちゃんが行ってたとこがよかったんだ。ママは怖い人がいるって言うけれど、あっ」 
 妹は不意に思い出したように言葉を途切れさせ、小さく頭を振った。 
「おねえちゃん! 話、飛ばしてる! あたし、お山に行きたかったって、言ってたのに」 
「あっ、ああ、そうだったわね」ありさは小さく笑った。 
「じゃあ、今度連れていってあげるわ」 
「ホント!?」桃香はベッドから飛びあがり、ありさのそばに駆け寄ってきた。 
「ホントに連れてってくれるの?」 
「ええ。あなたに風邪をひかせた、お詫びのしるしにね」 
「わあー!」妹は歓声を上げ、ありさに抱きついた。やがて興奮が収まると、ベッドに戻っていきながら、心配そうに言葉を継ぐ。 
「でも、ママがいいって言うかなあ?」 
「お継母さんには、もっと安全な場所……そうね、聖が原公園にでも行くといえば言いわ」 
「ああ、そうね! じゃ、お姉ちゃんとあたしだけのヒミツ! 今度の日曜日にね」 
 姉妹は目を見交わし、おたがいに笑いあった。継母の目をくぐってささやかな冒険をするために、それまでも二、三回は小さな嘘をついてきた。それは、二人だけの秘密だった。 
 継母が帰ってきたらしく、廊下に足音が聞こえた。桃香は急いでベッドにもぐりこみ、ありさは窓に飛んでいって、閉めた。窓を開けているのを見つけたら、継母は顔をしかめるだろう。病人を風に当てるのはよくないと、信じこんでいるようだったから。空気がちょっとひんやりしているのを感じて、疑わないだろうか。少々心配ではあったが、入って来た継母はただ、「冷えてきたわね。もうそろそろ夕方だから」と言っただけだった。 
 入り際、ありさを見つけた継母の目の中に、ほんの一瞬だけ不快そうな表情がよぎっていった。ありさも気づいてはいたが、さりげないふうを装い、微笑を浮かべた。 
「ちょっと桃ちゃんの様子を見にきたの。心配だったから」 
「ああ、そう」継母の返事はそれだけだった。 
「元気そうでよかった。わたし、水撒きに行ってくるわ」 
 ありさはドアに手をかけた。ドアを締める時、桃香がこっそりとウィンクをしてよこした。ありさも笑い、秘密の合図を返すと、廊下に出ていった。 
  
 
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