面白い話、その2

昔、むかし、そのむかし、江戸時代中期に塙保己一(
はなわ ほきいち、1746−1821)
http://www.onkogakkai.com/
という、えらぁ〜〜い学者が居た。

この人は、小さい子どもの頃から視力が弱く、やがて全盲となってしまう。
しかぁ〜し、
彼は、周囲の人にも恵まれたのだが、もちろん、自分の努力のかいもあって、当時の随一の学者となり、何度か将軍にも御進講(
オシンコーと読まないように、ごしんこう、と読む。将軍に講義をした、という意味)したというのだから、世が世なら、オレなんぞは、軽々しく、ハナワホキイチ、などと呼んでは、恐れ多いのだ。

  まだ、おもしろくない、、、、

なんと、
 「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。

先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

なんと、なんと、この言葉は、あの三重苦(聾、唖、盲目)で有名な、ヘレン・ケラー氏(1880-1968)が訪日した時の言葉として伝えられている。
ということは、1900年ごろには既に塙保己一先生のことは外国に知られていた、ということになる。

それはともかく、
若いころは、盲人の常として、按摩や鍼(はり)を修業したが、不器用のためモノにならず、一時は自殺も考えたらしいが、彼の学才に気付いた按摩の親分が学問への道を開いた、というのだから人間の運命は、いつどこでどうなるか解らないものだねぇ。

そして、果ては、
日本のあらゆる古文書(こもんじょ)類のカタログ集みたいな『群書類従』を幕府の許可を得て、編集をはじめ、その事業は現代の東大にまで引き継がれているってんだから、この親分の目利きがなければ、現代日本の歴史学や、多くの時代劇、特に江戸初期以前の、太閤記や源義経などは大きく影響を受けているのかもしれない。

と考えると、
一盲人の学者のお陰で、日本史上の有名人の評価は左右されている、と思うとソラ恐ろしいものがある。

ま、堅苦しい話はそれまでにして、

この先生は、江戸は今で言う千代田区番町に居を構えて、塾を開いていた。
町民や侍相手にやっている私塾だから、隙間風の差し込む部屋で、ロウソク点けての夜の講義も多い。

いいですか? 
江戸時代でも夜間学校があった、のですぞ!!! 
昼間は仕事、夜は勉強、義務教育でもないのに!

    (サラリーマン時代のあたしは毎晩飲み歩いていた)
    (だから、こんなふうになったのだ)
    (神も他人も怨めない、表眼もない) ??注記 一番最後ね

で、塙先生が、
「師ノタマワク、酒なんか飲んでる暇があれば、、、、」
「あ、せっ、先生!、か、風でロウソクが消えました!」
「で、なんじゃ?」
「あのぅ〜、暗くて書き取りが出来ません」
「おぼえて帰って、家で書けばよいではないか、」
「い、いやぁ、それまでに忘れてしまいます」
「ワシは、30年前に聞いたことをおぼえておるぞ、、」
「そ、そんなに、いじめないで、、、、」
「いま、ロウソクが点きましたので、続きをお願いします」
「そうかぁ、眼あきとは不自由なもんじゃのぅ〜」
弟子一同「、、、、、、、」

日本の裏文化として、落書(らくしょ)がかなり古くからある。
塙先生にちなんだものとして、

   番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙保己一

   番町で 眼あきめくらに 道を聞き

いづれも七五調で、すぐれたものである。

   (あぁ、あたしゃ、江戸時代の落書き師にも劣る)

参考資料
1.ウィキペディア「塙保己一」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80
2.ウィキペディア「ヘレン・ケラー」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC33.ヘレン・ケラーの言葉の出典が解らなくなったので明示出来ません。誰か教えてください。

注記
怨めない=裏目無い、おもて目もなければ、にっちもさっちもいかない
佐野の桜 : 多分、当時名勝としての桜の木が有ったのか?
        よく解らない、だれか教えてチョ
道を聞き  : これは当然、行き先を聞く意味と、道徳の意味の懸け言葉

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