随想集2(荒井公康著)

広島でのオバマ大統領の演説(日本語訳付き)

<<   作成日時 : 2016/05/30 12:25   >>

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オバマ大統領の広島訪問所感の全文(NHKの翻訳)
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71年前の晴れた朝、空から死が降ってきて世界が一変しました。せん光が広がり、火の海がこの町を破壊しました。
そして、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示したのです。

なぜ、私たちはこの場所、広島を訪れるのでしょうか?
私たちは、それほど遠くはない過去に、恐ろしいほどの力が解き放たれたことを深く考えるためにここにやってきました。
この場所に来て10万人を超える日本の男性、女性、そして子どもたち、数千人の朝鮮半島出身者、数十人のアメリカ人などの犠牲者の死を悼みます。

犠牲になった人たちの魂が、私たちに語りかけています。
もっと内側を見て、私たちはいったい何者かを振り返り、今後、どのようになろうとしていくべきか、私たちに語りかけています。

戦争は広島だけが特別なのではなく、暴力的な紛争は古くから行われています。われわれの祖先は火打ち石で刃を、木片からやりを作る方法を覚えました。こうした道具は、ただ単に狩りのためではなく、人類を殺すための武器として使われてきました。

どの大陸でも、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。
穀物の不足や、金への欲望、あるいは国粋主義や宗教的な理由から戦争が起こってきました。帝国は台頭し、衰退しました。人々は支配され、解放されました。

それぞれの歴史の転換点で罪のないひとが苦しみ、多くが犠牲となりました。
そして、犠牲となった人たちの名前は、時がたつと、忘れられていきました。

広島と長崎で残忍な終わりをみた世界大戦は、裕福で力のある国によって戦われました。
これらの国の文明は、すばらしい都市を築き、壮大な技術を生み出しました。思想家たちは正義、調和、真実の考えを生み出しました。

しかし、支配したい、制覇したいという思いは、小さな部族でも、争いを生みました。
古くからある思考の在り方が、新しい能力によって、増幅されてきましたが、そこには制約するものはありませんでした。ほんの数年の間に6000万人の人たちが亡くなりました。
私たちと同じ、男性、女性、子どもたちです。
撃たれ、殴られ、行進させられ、拘束され、飢え、毒ガスで殺されています。

世界中には、戦争を記しているところや、勇ましく英雄的な行動を伝える慰霊碑があり、墓場やからっぽになった収容所などが、声にならない悪行を伝えています。
しかし、この空に上がったキノコ雲のイメージのなかに、私たちは人類の矛盾を強く突きつけられます。

私たちを人類たらしめている思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして、私たち自身を自然から区別し、思いどおりに自然を変える能力。
そういったものが、私たちに度を超えた、大きな破壊力を与えるのです。

物質的進歩や、社会的革新は、こうした真実を見えなくさせるのでしょうか。
どれだけたやすく暴力を正当化してきたのでしょうか。
すべての偉大な宗教は、愛や慈しみ、公正さを説いていますが、決して、信仰が殺す理由になってはいけないのです。

国は台頭し、人々が結束できる理由を探し、犠牲や協力、偉業が生まれますが、同じ理由が人類を抑圧し、異なる人たちを非人間的に扱ってきました。

科学によって、私たちは海を越えてコミュニケーションを図り、空を飛び、病を治し、宇宙を理解しようとしますが、また、その同じ科学が、効率的に人を殺す道具として使われることもあるのです。
近代の戦争は、この真実を、私たちに教えてくれます。
そして、広島は、この真実を私たちに教えてくれます。

私たちの人間社会が、技術の進歩と同じスピードで進歩しないかぎり、技術はいずれ、私たちを破滅させかねません。
原子を分裂させることを成功させた科学の革命は、私たちの道徳の革命をも求めています。だからこそ、私たちはここに来ました。

広島の中心にある、この場に立つことで、原爆が落ちた瞬間を想像せざるをえません。私たちは、あの日、目にした光景に恐れおののき、困惑した子どもたちの気持ちに、思いをはせなければなりません。

私たちは、彼らの悲鳴にも耳を傾けます。あの酷い戦争、その前に起きた数々の戦争、そして、あの酷い戦争の後に起こりうる、あらゆる戦争で殺害された、罪のないすべての人たちのことを思います。

彼らの苦しみとその声は、どんなことばであっても表現しきれないものです。
しかし、私たちは、みな、歴史を直視する責任があります。そしてこのような苦しみを再び起こさないためにも、私たちは何を変えなければならないのかを、自問すべきなのです。

被爆者の方々から、証言を直接うかがうことは、いずれできなくなるでしょう。
しかし、1945年8月6日の記憶は、風化させてはなりません。
その記憶によって、私たちは現状に甘んじてしまうことに、あらがうことができます。その記憶は道徳的な思索を後押ししてくれます。

そして、変わることも可能にするのです。
あの運命の日以来、私たちは希望を持つことのできる選択をしてきました。

アメリカと日本は同盟を結んだだけでなく、友情で結ばれました。その同盟と友情は、戦争が奪う命の数よりも、はるかに多くの人たちに恩恵をもたらしました。
ヨーロッパの国々も連合をつくり、かつての戦場を商業と民主主義で結ばれた場所に変えました。

迫害されている人や国々は自由を求めています。
そして、国際社会は国際機関や国際条約を成立させ、戦争を回避するとともに、核兵器を制限し、減らし、究極的には、廃絶させることを追求してきました。

とはいえ、国家間のあらゆる対立、テロ、腐敗、残虐、迫害といった、世界各地でいまも見られる出来事が、私たちの任務に終わりがないことを示しています。
私たちは、人間が悪を行う可能性を完全に消し去ることはできません。

だからこそ、国家と、それらの間で結ぶ同盟は、自分たちを守る術を持たなければならないのです。
しかし、わが国アメリカのように、核兵器をみずから持つ国は、恐怖の論理から脱する勇気を持ち、核兵器のない世界を追求しなければなりません。

私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、破滅から世界を遠ざける努力を続けなければなりません。
そのために、核兵器を廃絶するための道筋をつけることができるし、核兵器が新たな国家や狂信者たちの手に渡るのを防ぐこともできるはずです。

ただ、それでも足りません。どんなに粗雑な銃や爆弾であっても、すさまじい規模の暴力を可能にするさまを、私たちは今も、世界の各地で目の当たりにしています。

私たちは、戦争に対する考え方を変え、外交によって、紛争を回避し、すでに始まった紛争についても、それを終えるための努力を怠ってはなりません。世界の国々は、ますます相互に依存するようになっています。
しかし、それを暴力的な競争ではなく、平和的な協力につなげるべきです。

起こすことのできる破壊の大きさではなく、何を作り出すことができるかで国の価値を判断すべきです。
もしかすると、何よりも必要なのは、私たちがいかに世界の人々と互いにつながっていて、人類の一員であるのか、改めて思いをいたすことなのかもしれません。

このことこそが、私たちの種の特別さなのです。私たちの運命は、遺伝子で決まっているわけではありません。だから、過去の過ちを再び犯す必要はないのです。

私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに、これまでとは違う話を伝えることができます。人類に共通の価値観があり、戦争が起こりにくく、今よりも残酷な行いを許さない世界の話を。

そうしたものを、私たちは被爆者の方々の話しの中にみることができます。最も憎んでいるのは戦争そのものだとして、原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性の被爆者の話。肉親を失ったのは自分と同じだとして、広島で原爆の犠牲になったアメリカ人の遺族を探した男性の被爆者の話。

アメリカという国は、シンプルなことばで始まりました。「すべての人は平等で、生まれながらにして生命、自由、そして幸福を追求する権利を持っている」と。
ただ、こうした理想を現実のものにすることは、アメリカ国内であっても、そしてアメリカ人どうしであっても、決して簡単なことではありません。

しかし、この理想は大陸や海を越えて共有されるもので、追い求めること自体に大きな価値があるのです。

どの人もそれぞれの価値があり、誰の命も貴重なものです。私たちが伝えなければならないストーリーは、私たちはみな、人類という1つの家族の一員だということです。
それが、私たちが広島に来た理由です。

愛する人たちのことを考えるために。朝、子どもたちが見せる最初の笑顔。妻や夫といったパートナーがキッチンのテーブル越しに見せてくれる気遣い。そして、安心をくれる両親からの抱擁。

私たちは、同じような大切な瞬間の数々が、ここ広島で71年前、多くあったことに思いをはせることができます。

亡くなったのは、私たちと同じような人たちです。普通の人たちには理解できると思います。人々はこれ以上の戦争は求めていません。彼らは、科学のすばらしさが人生を終わらせるためではなく、向上させるために使われることを望むでしょう。

国々が選択をするとき、リーダーたちの選択にこのシンプルな英知が反映されれば、広島の教訓は生かされます。

ここで、世界は永遠に変わってしまいましたが、きょう、この町の子どもたちは平和な日々を過ごすことができます。
それはなんと尊いことでしょうか。それは、守り、すべての子どもたちに広げていくべきことです。それは、私たちが選択しうる未来です。

広島と長崎を核戦争の始まりとして記憶するのではなく、私たち自身の道徳的な目覚めにしなければならないのです。



Full text of Obama's Hiroshima speech

71 years ago, on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed.

A flash of light and a wall of fire destroyed a city, and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself. Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder the terrible force unleashed in a not-so-distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 Japanese men, women, and children. Thousands of Koreans, a dozen Americans held in prison. Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.

It is not the fact of war that sets Hiroshima apart. Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man.

Our early ancestors, having learned to make blades from flint, and spears from wood, used these tools not just for hunting but against their own kind. On every continent, the history of civilization is filled with war, whether driven by the scarcity of grain, or hunger for gold,

compelled by nationalist fervor or religious zeal. Empires have risen and fallen. Peoples have been subjugated, and liberated, and at each juncture innocents have suffered a countless toll, their names forgotten by time.

The world war that reached its brutal end in Hiroshima and Nagasaki, was fought among the wealthiest and most powerful of nations. Their civilizations had given the world great cities, and magnificent art.

Their thinkers had advanced ideas of justice, and harmony, and truth. And yet, the war grew out of the same base instinct for domination or conquest, that had caused conflicts among the simplest tribes. An old pattern amplified by new capabilities,

and without new constraints.

In the span of a few years, some sixty million people would die. Men, women, children. No different than us. Shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death.

There are many sites around the world that chronicle this war, memorials that tell stories of courage, and heroism, graves and empty camps that echo of unspeakable depravity. Yet in the image of a mushroom cloud, that rose into these skies,

we are most starkly reminded of humanity’s core contradiction, of the very spark that marks us as a species, our thoughts, our imagination, our language, our tool making, our ability to set ourselves apart from nature and bend it to our will.

Those very things also give us the capacity for unmatched destruction.

How often does material advancement or social innovation blind us to this truth? How easily we learn to justify violence in the name of some higher cause. Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness,

and yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith is a license to kill. Nations arise, telling a story that binds people together, and sacrifice, and cooperation, allowing for remarkable feats, but those same stories have so often been used to oppress,

and dehumanize those who are different. Science allows us to communicate across the seas, fly above the clouds, to cure disease, and understand the cosmos, but those same discovieries can be turned into ever more efficient killing machines.

The wars of the modern age teach us this truth. Hiroshima teaches this truth. Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.

That is why we come to this place. We stand here, in the middle of this city, and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see. We listen to a silent cry. We remember all the innocents killed across the arch of

that terrible war, and in the wars that came before, and the wars that would follow. Mere words cannot give voice to such suffering, but we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.

Someday, the voices of the Hibakusha will no longer be with us to bear witness, but the memory of the morning of August 6, 1945, must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our moral imagination. It allows us to change. And since that fateful day, we have made choices that give us hope.

The United States and Japan forged not only an alliance, but a friendship that is one, far more for our people than we could ever claim through war. The nations of Europe built a union that replaced battlefields with bonds of commerce and democracy. Oppressed peoples and nations want liberation. And the international

community established istitutions and treaties that work to avoid war,

and aspire to restrict, and roll back, and ultimately eliminate the existence of nuclear weapons.

Still, every act of aggression between nations, every act of terror, and corruption, and cruelty, and oppression that we see around the world shows our work is never done. We may not be able to eliminate man’s capacity to do evil, so nations, and the alliances that we form, must possess the means to defend ourselves.

But among those nations like my own who hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear, and pursue a world without them. We may not realize this goal in my lifetime, but persistent effort can roll back the possibility of catastrophe. We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles. We can stop the spread to new nations and secure deadly materials from fanatics.

And yet, that is not enough. For we see around the world today how even the crudest rifles and barrel bombs can serve up violence on a terrible scale. We must change our mindset

about war itself to prevent conflict through diplomacy, and strive to end conflicts after they’ve begun. To see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation and not violent competition. To define our nations not by our capacity to destroy but by what we build. And perhaps above all, we must reimagine our connection to one another as members of one human race.

For this too is what makes our species unique. We’re not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose. We can tell our children a different story, one that describes a common humanity, one that makes war less likely, and cruelty less easily accepted. We see these stories in the hibakusha,

the woman who forgave the pilot who flew the plane that dropped the atomic bomb because she recognized that what she really hated was war itself. The man who sought out families of Americans killed here because he believed their loss was equal to his own.

My own nation’s story began with simple words: all men are created equal, and endowed by our creator with certain unalienable rights, including life, liberty, and the pursuit of happiness. Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents,

and across oceans. The irreducible worth of every person. The insistence that every life is precious. The radical, and necessary notion that we are part of a single human family, that is the story that we all must tell.

That is why we come to Hiroshima. So we might think of people we love - the first smile from our children in the morning, the gentle touch from a spouse over the kitchen table, the comforting embrace of a parent. We can think of those things and know that those same precious moments took place here 71 years ago.

Those who died, they are like us. Ordinary people understand this, I think, they do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life and not eliminating it. When the choice is made by nations, when the choices made by leaders reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done. The world was forever changed here, but today, the children of this city will go through their day in peace.

What a precious thing that is. It is worth protecting, and then extending to every child. That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki, are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.



zoom RSS 涙が落ちる

<<   作成日時 : 2016/11/06 16:55   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 2

 いつものように、自転車で川崎方面に向かう途中で、鶴見川を渡るのだが、川面から冷たい風に吹かれてなのか、涙が出てきてしかたがない。別に悲しい訳ではない。少なくとも意識の上では悲しみはない。しかし、今日で何回目であろうか。一度や二度ではない。よく考えてみると、本当のところ無意識の領域では悲しいのではないか。両親はもういないし、孤独な生活が続いている。母の死から、もう14年になるから、悲しみを意識する感覚も麻痺してしまっているが、体の無意識の領域で悲しみを覚えていて、無意識に涙が出るような気もする。
 キリスト教でいう聖霊とは人間の無意識の領域で働くものではないだろうか。人間は普段の生活で、意識的に生活している時間は少ないもので、ほとんどは無意識に行動し生活しているのではないか。無意識に行動していられる分には、スムーズに生活が進行していると言ってよい。なにかアクシデントがあると、意識が目覚めて、行動を改めるというのは普通のことだろう。なぜこのようなことを言うのかというと、私たちの心の動きは御霊の働きによるものでありながら、その御霊の働きも、人間の意識や知性で捉えられるものではなく、人間には知ることができない無意識的なものであるからである。あくまでも、人間は、事後的に自分の行動や生活を反省してみて、聖霊の働きというものを間接的に把握しうるに過ぎない。
 何故、川を渡ると涙がでるのだろうか。悲しみを忘れた私に、御霊が悲しんでもいいんだよ、とそっと慰めてくれているのかも知れない。男である私には泣くのは難しい。私は祈ることが得意でないのであるが、そんな場合にも、御霊がとりなしとして、替わりに祈ってくれるという。この涙は、私自身の替わりに、聖霊が、両親や自分の孤独のために、流してくれているのかも知れない。聖霊は私の心よりも私の体のほうが御しやすいと理解してくれているのだろう。悲しみのない涙も、悲しんで流した涙と同様、人を慰めるという効用があるのかも知れない。
 もし、キリスト教が普遍的な一神教だとするならば、神の愛はクリスチャンばかりでなく、すべての人類に及ぶのではないか。これを否定することは、キリスト教を一種のローカルな宗教と見なすことであり、キリスト教の普遍性をも否定することだろう。クリスチャンがノンクリスチャンを否定すれば、自己否定に陥り、社会に軋轢を生むのではないか。社会はクリスチャンだけで成り立つわけではない。独自性を失うことなく、他宗教との協調も必要だろう。そうでなければ、自分と違うものは何でも否定してしまう、という狭隘な立場に陥るだけだろう。
 キリスト教の核心は「信仰、希望、愛」にあり、そのうち最も大切なものは「愛」で、神と隣人を愛することが教えられています。その愛(アガペー)は自己犠牲の愛、他者実現の愛であり、必ずしも個人の幸福に繋がるとは限らないが、お互いに愛し合うことも教えられており、その時に天国が現れる、ということでしょうか。



気が滅入る、しかし・・・・

<<   作成日時 : 2016/09/29 16:43   >>

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 会う人もなく、毎日、家にこもっていると、気が滅入ってしかたがない。毎朝、川崎方面に自転車で出かけているのだが、運動量が足りないらしい。運動量を増やすために鶴見方面に40分ほど徒歩で運動することにした。また、自転車で午後から3度めの外出することにした。これだけ運動すれば、気分も爽快になり、そのうち気が滅入ることも解消するだろう。元気だから運動するのではなくて、運動するから元気になるのだ、という論理である。悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ、というではないか。
 去年、ビリー・グラハムの伝道集会に出席し、イエス・キリストを受け入れて以来、私自身も変化し始めた。第一に孤独が苦でなくなった。父・御子・聖霊がいつも一緒におられると感じられるようになり、寂しいという思いが消えた。神が私の中におられるのだから、何かあっても、耐えられるという確信が芽生えた。聖書やキリスト教関連の書籍もよく読むようになり、キリスト教がどういうものかだんだん分かってきたような気がする。ただ、もっと研究する必要がありそうだ。今は平安な気分だ。退屈でも、何事もなく、平安でいられるのが最良だろう。退屈もそれほど苦にはならない。
 暑い夏も終り、だいぶ秋めいてきた。外にいると金木犀の香が漂ってくる。蝉の鳴き声も消えた。両親がいたら、一緒に旅行に行きたくなるような気候だが、今となったら、過去の旅行の想い出に浸るしかない。ただ、悲しくない。とても懐かしい。
 高校生まで、私は優等生だった。東大に入ったが、周りは優秀な人ばかりで、東大での私は劣等生だった。駒場進学でも、底なしの工業化学科に進学した。その後、大学院修士課程まで進んだ。劣等生ではあったが、両親にとって私は自慢の息子であった。父も鳶が鷹を産んだようだ、と喜んでいた。私も両親の前では優秀な振りをしていた。しかし、社会に出てからは、両親の期待を裏切ることばかりであった。母は生前私が偉くなると思っていたと残念がっていた。私自身は偉くなればなったで大変だろうから、偉くもなりたくなかったが、母を落胆させ嘆かせたのは残念だった。
 この世の人生において、得られたものと得られなかったもの。持っているものと持っていないもの。普通の人にあって、自分にはないと思われるもの。そういったものに対する執着がしばらく私を苦しめていた。しかし、それが、神のみこころであり、全知全能の神のしもべに対する、最善の選択であり、恵みとあわれみであるとするならば、諦めと喜びの混じりあった複雑な感情と感謝の念を覚えずにはいられない。
 テレビも点けず、一人きりで部屋の中で何も考えずに瞑想していると、なにか永遠の世界に帰入していくかのような錯覚に陥り、不思議と平安で幸福な感じがする。仏様か神様に包まれているような感覚を覚える。孤独も寂しさも感じない。何もしないということも大切なのかもしれない。そして、自分の存在が何かに支えられているのを静かに味わうことも。自分が自分に与えられているという至福も。仏教の坐禅なのどの修行は、何もしない、何も考えない、という修練であるから、なにほどかの効果があるものならば、何か理由があるのだろう。キリスト教に坐禅のようなものがあるのかどうかは知らないが、先日、教会で黙想の時を持った。気持ちを整えるのと同じような効果があるのかも知れない。
 今日の朝、目が覚めると、またもや、何故か私は生きていた。もはや、何の役にも立たない、生きていても意味のない私を生かしているのは、神の怠慢ではないのか?自分の存在というものが私には本当に不可解である。じゃ、首を括って死ねばいいじゃないかとなるのか? 生きていても仕方がない私であるが、最近は聖書をよく読んでいる。私が生きて在ることの秘密が分かるかもしれないという、かすかな望みである。信、望、愛である。人間の愛は期待できなくとも、神の愛は確かなものだとしたら、この生は生きるに値するのではないか。たとえ、気休めに過ぎないにしても。私自身は、この世の人生において、ささやかな楽しみをまだ失ってはいない。ささやかではあっても、ひとりよがりであっても、その楽しみがあるかぎり、私は生きよう。その楽しみも神の賜物であり恵みなのだ。幸い、私の探求はまだ終わっていない。
 朝早く、川崎方面に行くと、通勤途上の人々が大勢颯爽と歩いているのが見られる。それを見ていて私も勤めていた時分が懐かしく思われる。思えば、人生の春だった。若気の至りで、めちゃくちゃな社会生活を送っていた人生であったが、それでも懐かしい。多くの人々に迷惑をお掛けしてしまったが、それでも、かばってくれた人もいたのは、今でも嬉しく思われる。あの日に戻れたら!また、やりなおせたら!もう、遅いが、老い先短い人生だ。先を目指して、着実に進もう。
 そりゃ、若い頃は、沢山の希望、夢、可能性があった。しかし、今となっては、それらは夢のまた夢。求めよ、さらば与えられん。しかし、年をとると、求める気持ちさえ起こらない。そんな気力さえない。仏教では、求めない心こそ悟りという。キリスト教との大きな差である。私が今欲しいものは、お金では買えないもの。会話、団欒、人との交わり。そういったもの。極めて家庭的なもの。すべて両親を亡くして失ったものである。
 想い出は思い出そうとして思い出せるものではない。それは、ふと受身になった時に、与えられる、といった感じなのだ。確かにそれは、暇を持て余した、未来のない、老年期の人に与えられる過去からの贈り物。いや、時空を超越した神からの賜物かも知れない。忘れていた意外な想い出は、もう未来のない人にとって、掛け替えのない贈り物。楽しい想い出には微笑みを、悲しい想い出には涙を。どんな想い出でも来るがいい。私はお前を歓迎する。
 私はどうしてこんな人生を送っているのだろう。どうしてこんな生活をしているのだろう。こんな、とは不満があるのか。自分が選んだことだろう?それとも神のご計画なのか?いずれにせよ、この人生、この生活を愛すべきであろう。そうしなければ、将来が見えてこない。この生の良さも見えてこない。死ぬも独り、生きるも独り、人の中にあっても独り。この孤独な人生、孤独な生活にもよいところがあるのを実感している。人間というもの、自分が持っているものよりも、持っていないものに意識が向きがちで、持っているものに対する感謝の念を忘れがちだ。すべて、神の賜物だというのに。今与えられている状況を吟味し、愛し、有効に生き抜くべきだろう。
 求めよ、さらば与えられん、か。今、アンドリュー・マーレーの「とりなしの祈り」を読んでいるのであるが、この本を読むと、私の人生には、いかに、願いと祈りが足りなかったかと痛感する。私はクリスチャンではなかったので、やたら何かを求めるのには、罪悪感もあったし、みっともないことだとも思っていたのだろう。一流大学を出て一流企業に勤めるというところまでが私の望みであった。努力の甲斐があってそれだけは実現した。しかし、それ以降は、意欲も望みも目的もなく、だらだらした人生になってしまった。私には強く求めるということができなかった。この年ではなおさら求めるものも限られてくるし、なにしろ欲がなくなってしまった。金銭面に自信がなかったのと、自分の性格からある程度自分の人生も予測できたので、結婚も諦めた。ただ、こんな人生もある程度予測していたので、それほどのショックでもなかった。人生、諦めが肝心といったところが私の信条だろうか。なにやら情けなくなってきた。結局、高校時代や受験生時代が懐かしくて、勉強したいだけなのだ。読書量は増えるばかりだ。英語の辞書を調べれば、高校生の気分が味わえるし、若返った感じで、うきうきすることもある。
 キリスト教の核心に祈りがあるのは事実だろう。私はうまく祈れないのであるが、そんな場合でも、聖霊がとりなしてくれ、替わりに祈ってくれるという。
 もし、キリスト教が普遍的な一神教だとするならば、神の愛はクリスチャンばかりでなく、すべての人類に及ぶのではないか。これを否定することは、キリスト教を一種のローカルな宗教と見なすことであり、キリスト教の普遍性をも否定することだろう。クリスチャンがノンクリスチャンを否定すれば、自己否定に陥り、社会に軋轢を生むのではないか。社会はクリスチャンだけで成り立つわけではない。独自性を失うことなく、他宗教との協調も必要だろう。そうでなければ、自分と違うものは何でも否定してしまう、という狭隘な立場に陥るだけだろう。
 最近のキリスト教のイメージは「情熱的な信仰を持って、執念を持って祈り通す宗教」といったものだ。以前は、もっと静かで穏やかなイメージを持っていたのであるが、教会での祈りを聞いたり、アンドリュー・マーレーの本などを読んで、認識を改めるに到った。涅槃寂静を目指す仏教とは違うようである。どちらがいいかということではなく、年配の私にはキリスト教についていくのが難しい。そんな気力も情熱もなくなってしまった。元気がなくなってしまった。
 キリスト教の核心は「信仰、希望、愛」にあり、そのうち最も大切なものは「愛」で、神と隣人を愛することが教えられています。その愛(アガペー)は自己犠牲の愛、他者実現の愛であり、必ずしも個人の幸福に繋がるとは限らないが、お互いに愛し合うことも教えられており、その時に天国が現れる、ということでしょうか。




第三次人工知能ブーム

<<   作成日時 : 2016/09/06 16:47   >>

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 転職した当時は第二次人工知能ブームで世の中は騒がしかった。1980年代のことである。Knowledge is power.「知識は力なり」を合言葉に計算機に知識を埋め込んで、専門家並みの判断ができるエキスパート・システムが期待されていた。現在の第三次人工知能ブームのディープ・ラーニングを中心とした数値処理とは異なり、記号処理に基いた計算機システムの開発がブームだった。そのブームも長続きはしなかった。なぜなら知識の提供者がいなかったのである。エキスパート・システムは作られたが、オモチャのようなものが多かった。専門家から知識を聞き出すのも難しかった。
 私の自動作曲システムもシステム開発者である私自身の音楽歴の長さが物を言った。どうすればメロディーができるかは、私自身がよく知っていた。音楽は「緊張ー弛緩の原則」でできている。音楽は論理的なものではない。コード進行もメロディーもこの「緊張ー弛緩の原則」で作ることができる。メロディーはテンションノートとコードトーンとの往来で作れる。コード進行もドミナントートニックまたはサブドミナントートニック間の緊張ー弛緩の響きの変化を利用したものである。私は自分の曲の作り方をそのままLispで表現して、自動作曲システムを構築した。
 ふりかえってみて、当時の人工知能は、Lispを使ってできることと言ったほうが適当だった。性能は悪かったが、パソコンで動くLispもあった。私見を言うと、専門家がLispを習って、自分でしていることを、そのまま記述したほうが早道だと思っていた。当時は高温超伝導のブームも重なっていて、高温超伝導の材料探しも人工知能でやってしまおう、という話もあった。
 現在の第三次人工知能ブームは”Knoledge is power.”というよりも”Data is power.”という言葉があてはまるようである。データ量に物を言わせて、大量のデータから、計算機が自ら規則性を発見して、知的に振舞うといった感じであろうか。
 現在のディープ・ラーニングは多層のニューラル・ネットワークで行われ、三層のニューラル・ネットワークと異なり、誤差逆伝播による学習は行えず、随分特殊な学習方式が必要なようである。これが、汎用的な学習機械に発展するかどうかは個人的にはよく分からない。当然のことながら、2045年の技術的特異点があるとも思えない。大量の画像データからシニフィアンーシニフィエのシニフィエ(概念)を学習できるようなったと言っても、それだけの話で、そこから言語運用への道のりは遠いであろう。自ら考え、自ら語り、人間と対話できる人工知能の実現はそう簡単ではなかろう。まぁ、人工知能によって、人類が滅亡すると恐れている人もいるようだが、人工知能開発経験者として、そう心配することはないと思う。人工知能は実現できなくとも、目標を高く掲げることによって、副産物として、人に役立つ便利な技術が生れればよいと思う。ちなみに、第二次人工知能ブームは終わったのではなく、ごく普通の技術になったのだと思う。ファジー家電やニューロ家電を見れば分かると思う。当時の私の上司も人工知能という言葉は大げさだと言っていた。


夏祭り、読書と音楽etc.

<<   作成日時 : 2016/08/07 12:16   >>

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 8月7日日曜日は全国的に夏祭りの日のようだ。最近は暑くなってきたので、自転車での散歩も、距離を短くした。川崎方面に行くのであるが、西口には行かず、途中で曲がり、銀柳街を通って、帰ってくる。銀柳街は商店街で人通りも多いので、人恋しさのあまりの私には、寂しさも和らぐ。銀柳街の入り口では、熱中症であろうか、人が倒れていて、警官と救急車が来て、患者を救急車に載せる光景が見られた。私も熱中症対策に、コンビニでポカリスウェットを購入し、飲んできたところであった。皆さんも、こまめに水分をとり、熱中症には気をつけてください。
 今日は行き帰りに夏祭りの行列に出会った。行きは川崎市役所の近くの平和通で、帰りは川崎シネチッタであった。神主さんの格好をした人を見ていると気持ちがよくなった。時々聞こえる笛や太古の響きも気持ちよい。
 気持ちよく帰ってきたのであるが、自宅の部屋に戻ると、なにやら、気が滅入ってきた。テレビをつけて、水割りを5杯ほど飲んだら、リラックスしてきて、やる気がでてきた。こうやって、ブログを書く気にもなった。
 さぁ、これから、読書に励むつもりだ。今日は何を読もうかな。

 8月8日月曜日。全国的に猛暑が続いているようだが、私の地元、横浜・川崎方面は今日は曇りで、幾分暑さも和らいでいる。今日も銀柳街へ行ってきた。銀柳街は思い出深い商店街だ。子どもの頃、よく親に連れられて買い物にきた。昔なじみの店も数件残っている。岡田屋や、さいか屋は言うまでもない。
 私の両親は、給料日が来ると必ず、銀柳街にあるレストランに食事に連れていってくれた。裕福とはいえなかった当時、月一回の贅沢だった。決まって洋食だったが、最後にいつも注文した、ミックスジュースのことは今でも忘れられない。これ以外にも、両親と外出をすると、必ず外食をするのも習慣だった。子ども思いの両親だった。今思うと本当に懐かしい。そして、家へ帰ると、一人きりで、悲しく、寂しい。今日も、水割りを飲んでしまった。
 銀柳会では、母がよく、私に、靴や洋服を買ってくれたのもよく覚えている。

 8月9日火曜日。今日は今年最高の暑さのようだ。山梨県では気温が39度を越えたところもあるようだ。オリンピックが開催されている地球の裏側のブラジル・リオデジャネイロは涼しいようだ。男子体操が金メダルをとってくれて嬉しい。柔道も大活躍だ。
 午前中にコンビニに買い物に行ったところ、外は焼けるような暑さで、急いで帰ってきた。さすがに自転車で川崎まで行くのはやめた。早めに読書を開始した。最近は数学に凝っている。代数系の本を読んだ。行列環など懐かしい響きがする。音楽を計算機で扱って長年になるが、音楽を数学的に直接表現するのは不可能のようである。しかし、私の自動作曲システムなどの音楽関連システムでも、基本的な数学的概念は必要であった。集合論、組み合わせ理論、代数、写像などの概念は到るところに出てくる。ただし、高度な数学は使っていない。数値計算というよりも、もっぱら記号処理の威力に負うところが大きい。音楽の記号に数値を対応させて、転調などの操作を行っている。記号同士の計算はできないが、数値を対応させておけば、計算が可能になる。一種の記号接地問題である。そういう意味では、直接に高度の数学を使っていなくとも、ある程度の数学的常識は必要であった。なお、Googleで「自動作曲システム」で検索すると一ページ目に出てくるようになった。旋律生成アルゴリズムや曲の知識表現を変えれば、HPに公開しているのとは違った印象の作品ができるはずである。本システムを参考に、他のシステムが構築され、多様な音楽が生れればよいと願っている。きちんとした自動作曲システムはまだまだ少ないようである。本システムを参考にされたい。

 8月11日木曜日。今日は少し涼しいので、自転車で川崎まで行くことにした。第一国道の鶴見橋の途中で、教会のEさんが声を掛けてくれた。一日一回でも人と話せるのはありがたい。教会のMさんとも、よくここらへんで出会う。最近は教会に行っていない。私は信仰心が強くないので、知らず知らず、教会からも遠のいてしまっている。聖書は読んでいるのであるが、それだけで疲れてしまう。いっそ読まないほうが、教会に行く気になるかも知れない。
 9日10日に比べると随分と涼しいので、気持ちよく散歩することができた。帰ってきて、哲学、人工知能、数学の本を斜め読みした後、DVDでビル・エヴァンスの演奏を楽しんだ。1965年の録音である。とにかく、ビル・エヴァンスはカッコよい。演奏を聴いていると、気持ちが高揚してくる。自分もカッコよくなった気分だ。私も後20年生きられるか分からないが、カッコよく生きて、カッコよく死にたいものだと、ふと、思った。

 8月15日月曜日。読書を止めて、気がつくと、蝉がしきりに鳴いている。今日は終戦記念日だ。戦後10年目に生れたのでは、戦争と言っても実感が湧かない。呆れたことに、子どもの頃は、戦争映画にあこがれて、戦争とはカッコよいものだとまで思っていた。戦争ごっこは、子どもがよくする遊びであった。最近は遊ぶ子どもの集団が見られないのであるがどうなっているのだろうか。
 両親は戦争経験があったので、子どもの頃は、戦争中のことを両親から聞かされたことがある。しかし、私の両親の話は、当時の食糧事情などを面白おかしくしたようなものであった。父も戦争に行ったわけではない。そんな父も空襲で死に掛けたこともあったらしい。
 戦争を知らず、平和ボケの私は、終戦記念日もただぼんやりと過ごすだけで、反省の気持ちも起きない。しかし、若い頃から、仕事と人間関係という、戦争とは別種の戦いに望んでいたといえなくもない。戦争ではなくとも戦いはある。
 戦争とは残酷で悪いことだと思っていても、本当に実感が湧かない。それは、いけないことだと思っていてもどうしようもない。戦後71年、戦争体験者も少なくなりつつある。戦争体験を風化させてはならい、と思っても、私にはどうしようもない。そんなことを言う資格もないのだ。せめて、戦争を体験した人々に対して、申し訳ないという気持ちは持っていたいと思う。そして、平和のありがたさなら充分知っていると言えるから、戦争には反対する立場でいたいと思う。

 8月19日金曜日。昨日は台風7号の影響で、9日同様に暑い日だった。自転車での散歩は諦めた。今日、川崎方面へ自転車で出かけたところ、意外に涼しかった。太陽の日差しは強いが、吹く風に秋の涼しさを感じる。立秋も過ぎたから、暑さのピークも過ぎただろうか。
 最近、インターネットで、私が最初に勤めていた会社で開発していたセラミックが実用化され利用されていることを知って嬉しく思った。その会社とはいろいろあって、詳しいことは言えない。いずれにしても、中途で転職した。配属に不満を持ってのことであったが、今考えれば、会社のほうが大所大局から見ていたので、会社の配属のほうが正しい判断だったと思う。実際、そのセラミックの開発には短期間しかかからなかった。
 その会社に残っていればどうなっていたかと思うこともあるが、転職して人工知能や計算機言語Lispの世界に触れることができたのは幸運でもあった。これで、私の長年の念願であった音楽を計算機で扱う技能を身に付けることができたのだから。最初の会社では、C言語が限度で、Lispは使わせてもらえなかっただろうし、人工知能とも無縁であっただろう。
 今更、あの時はこうしていれば、と考えても仕方のないことだし、益もないことだ。最初の会社に残っていたとしても、もう定年退職だ。大学では、化学、最初の会社では、送変電工学、2番目の会社では、人工知能と、幅広い経験ができたのは幸いだったと感謝するしかない。専門外の仕事ばかりで、大変であったが、それが運命だったのだろう。2番目の会社も早期に退職することになった。専門外だったので致し方ない。
 人生に悔いなし、と言いたいところだが、そうもいかないし、男らしく、潔く諦めるしかないのだろう。私も社会的責務は果たしたものと自負している。苦労ばかりであったから、そのくらいはいいのではないか。

 8月21日日曜日。「公康、また台風だよ。よく、来るね」と、母が生きていたら、私にそう話しかけてくるような天候が続いている。母とはよく天候の話をしたものだ。今年のように、低気圧が日本近海で台風に変わるなどというのは珍しいことだ。私は初めて聞くことである。逆の話ならばよくあることだ。
 今日も、川崎方面に自転車で出かけた。少し暑いが、体を動かして、たまに汗をかくのは気持ちがよい。清々しい気分になる。
 今日も教会に行かなかった。いや、正確に言うと、行けなかった。理由は分からない。これも、神の思し召しかも知れない。もっと聖書を勉強してからのほうがよいとのことかも知れない。しばらくしたら、また教会へ行くつもりだ。きのう、Kさんと、聖書の学びを電話を通して行った。次回からは聖霊についての話だ。テキストをざっと読んだら面白かった。
 なかなか祈る習慣がつかない。一人暮らしの私には、毎日、何もないと言ってよいから、きっかけがつかめない。

 8月22日月曜日。台風9号の影響で、横浜も豪雨だ。今日は、一日中、家にこもっているしかないようだ。気が滅入るが致し方ない。天候を選ぶわけにはいかない。
 昨日は久しぶりにDVDで映画を観た。トム・ハンクスとジュリア・ロバーツの「幸せの教室」とオードリー・ヘプバーンとジョージ・ペパード主演の「ティファニーで朝食を」である。恋愛映画はハッピーエンドがよい。こういう映画を観ると私も若返る思いで胸が熱くなる。
 本を読むばかりでなく、今日もDVDで映画を観ようかな。人生楽しまなきゃ。映画を観て、昔を思い出すのも、よい慰みになる。この雨で退屈な日に、何の映画を観ようかな。
 8月22日午後。NHKでは一日中台風に関する情報を伝えている。午後になってから、映画「レナードの朝」をDVDで観た。1990年に映画館で観た記憶がある。もう、26年前である。まだ、両親も健在で、私も2番目の会社に順調に勤めていた。関係ないが、この映画は女性と観にいった覚えがある。昔観た映画を観直すと、当時の私自身の状況や生活状態も思い出される。あの当時は、まだ景気がよく、私の生活も余裕があった。当時は、こんな人生になるとは夢にも思っていなかった。当時の自分には今現在とは異なる将来があると確信していた。現在を見れば私は負け犬だ。人生の敗残者だ。キリスト教に頼っても平安は得られるだろうが、未来はないことは確かだ。しかし、心は持ちようだ。この先何もなくてもいいではないか。こうやって、普通ではないが、衣食住に不自由なく生活できているのだから。過去も満更でもない。想い出を大切にして生きよう。昔の映画を観て、昔のことを思い出し、現在を豊かに生活しよう。「レナードの朝」のレナードのような人生もあるのだから。それに比べれば、私の人生は、幸せなほうだ。

 8月23日火曜日。台風も去り、横浜は曇天続きで、それほど暑くもなく、夏も終りの気配を見せる。作新学院の甲子園優勝とリオ・オリンピックの41個のメダルが、今年の夏の思い出だ。テレビも普段どおりに戻り、少し寂しい感じがする。
 今日も、川崎方面へ自転車ででかけた。汗が少し出たが、かえって気持ちがよい。今日は読書だけで、映画は観ないつもりだ。最初の会社での技術資料を読んでいる。社外秘なので、今読んでも面白い。本当は退職時に返却すべきものだったが。もう、30年くらい以前の資料だから、構わないだろう。技術の進歩は著しい。もはや時代遅れだろう。あまり、いい思いではないのに、何故か懐かしい。過ぎ去れば皆懐かしく秋の空昔の写真いまだにここに。


時間が経つのが遅い!

<<   作成日時 : 2016/07/13 17:43   >>

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 仕事を辞め、独り暮らしをしていると、時間はたっぷりあるのだが、何をしてよいか分からず、時間が経つのが遅く感じられる。特に何もしていないと、尚更、時間が経つのが遅く感じられる。これは、なんとも言えず不快で退屈だ。そういう時には、読書に励むことにしている。いつも自分のことばかりで申し訳ないが、家族がいないので、どうしてもこうなってしまう。ブログの記事を書くのも、時間のやり場を作るのには都合がよい。ブログを書いていると、時間が経つのが早く感じられる。
 思えば、私が仕事を辞め、会社を辞めたのは、40歳の頃だった。二つの会社に勤めていたが、両社とも、7年ほど勤めただけだった。送変電と人工知能の仕事だった。最初の会社は、人間関係のもつれで辞め、二番目の会社は、仕事に燃え尽きて辞めた。若かった私には人工知能は難しかった。人工知能は極めて学際的な分野である。
 会社を辞めてからも、両親が生きていた頃は、時々旅行に行ったりと、特に退屈することもなかたった。英会話に熱中していたこともある。人工知能のことが分からないのは悔しいので、その方面の勉強は継続していた。最近、人工知能のことは、大体理解できるようになったので、物理化学や送変電工学や高電圧工学など勉強を再開した。30年ほど前にやっていたことなので、忘れている部分も多い。かといって、今更この歳で、自分にとって未知の世界に入るのは大変なことだから、昔やっていたことの分野で読書したほうが、楽だし、負担も少ない。仏教やらキリスト教やら、宗教の本にも、最近、没入していたのだが、そろそろ飽きてきてしまった。私は理系だから、理系の本のほうが楽しい。神仏の言うことよりも、人間の言うことのほうが理解しやすい。哲学にも長年馴染んでいたのだが、これもそろそろ飽きてきた。ウィトゲンシュタインの論考を読んでいて、哲学よりも論理学や数学のほうが、自分に向いていると思った。
 話が変わるが、グーグルで、キーワード「ブール代数」「自動作曲システム」で検索すると、1ページ目に、私のHPのサイトである、「ブールの論理代数の多変数への拡張と応用について」と「音楽と人工知能」が出てくる。それぞれURLは

ブールの論理代数の多変数への拡張と応用について
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/kaiki.html

音楽と人工知能
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/mus-know.html

である。実を言うと、この二つのページは、勤めていた時の経験に基き、退職後にこつこつと書きためたものである。ブール代数に関してはウィトゲンシュタインと関係があるかも知れない。論理定項の数学的な意味について述べたものである。音楽に関しては、ジャズの理論をほぼ網羅したシステムを構築し、自動作曲システムや和声付けシステムなどに応用したものである。「音楽と人工知能」で、計算機音楽の議論は、ほぼ尽きていると自負している。自慢する訳ではないが、長年の成果なので、熟読玩味して頂ければ幸いである。グーグルで上位に来るのは、それなりに評価されてのことと思う。

できれば、読者の皆様も上記のページを利用して、材料開発用のソフトなり、音楽関連のソフトを作ってみてはいかがであろうか。自動作曲システムも作れるはずである。私のシステムが作った音楽とは感じの違う音楽を作るシステムには興味がある。私は自分のやることはやったと思っている。私はもう発想切れである。



zoom RSS 「伝道者の書」に見る人生の慰め

<<   作成日時 : 2016/06/23 19:25   >>

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人生はむなしい。なんのために生きているか、若い頃からわからなかった。だから、ちゃんとした目標ももたずに、中途半端な人生になってしまった。いまでも、なんのために生きているわからず、死ぬこともできず、ただ生きている。しかし、私自身は不幸という自覚はない。伝道者の書では、しあわせを見つけ、飲んだり食べたりして楽しむことを賛美している。

聖書の「伝道者の書」は、人生のむなしさを強調しているが、どう生きるべきかの指針も示している。いくつか、引用したい。

1.「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見出すよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが楽しむことができようか。なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」(2:24~26)

      私もささやかながら、コンビニで買う、菓子パンと緑茶の味のコンビネーションを
      楽しんだり、読書で知恵や知識と喜びを得ている。これらも神の導きでなくなん
      だろうか。神から離れて楽しみはない。

2.「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだり、すべての労苦の中にしあわせを見出すこともまた神の賜物であることを」(3:12~13)

      しあわせも神の賜物なのだ。神に感謝したい。

3.「私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。」(3:22)

      仕事は大変でも、仕事ができることは、大きな喜びだ。私ももっと働きたかった
      が、思うようにいかなかったの残念だ。

4.「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」(5:18~20)

      これは、私にも当てはまる。

5.「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行いを喜んでおられる。」(9:7)

      神も、私たちが飲んだり、食べたりして、楽しむことを喜んでおられる。

6.「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、人の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」(9:9)

      私に妻がいないのは残念だが、特に悔いはない。ただ、寂しい。

7.「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」(11:8)

      人生はもちろん良いことばかりでない。

8.「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:14)

      すべて、神の賜物なのだら、神を恐れ、神の命令を守るのが大切。






自力と他力
キリスト教に似ているとされる浄土真宗の開祖親鸞は『末燈抄』に次のようなことを書いている。

「自力と申すことは、行者の各の縁に随いて、余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わが計の心をもって、身口意の乱心を繕い、・・・・・浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。他力と申すことは、弥陀如来の御誓のなかに選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御誓なれば、他力には義なきを義とす、と聖人の仰言にてありき。・・・・・他力は本願を信楽して往生必定なる故に更に義なしとなり」

 キリスト教と浄土真宗はよく似ていると言われる。浄土真宗の特徴は他力という考えにある。「信じる」というよりも「信じさせていただく」というのが適当だと言う人もあるが、これはあくまで自力で、他力の信仰とは、神仏が人をして信じさしむる、というのが適当であろう。キリスト教でも、行いによってではなく、信仰によって義とされる、とあるが、信じることは思いの他難しい。信じるということは、相手にまかせる、ということでもあるが、神がどのような方であるか分からずに、まかせたり、信じたりできるだろうか。キリスト教でも、神は人間に対して、一方的な恩寵や愛を示すとされる。神仏などの絶対者の真実を信頼し、その正義を確信、その支配に服従することが信仰だと言われる。
 私は聖書などを読んでいるが、どうしても自力的な態度になってしまう。理解できないものを理解しようと奮闘努力する態度になってしまう。これは結構疲れる。絶対者にすべてをお任せするのが宗教だと分かっていても、なかなか、お任せできない。お任せすれば、どんなに楽なことか。それが信楽するということだろう。
 自力道という性癖は私みたいな経歴の人間には抜きがたい。奮闘努力の人生であったが、その甲斐もない人生でもあった。自力の大変さを知っていることをバネに、他力へと転向できないものかと、知恵を絞って(計の心をもって)、また奮闘努力である。いやはや、自分でも呆れる。私は死ぬまで、キリスト教も浄土真宗も理解できないというか、回心できないのかも知れない。

原始仏教の要点と般若心経・法華経

般若心経と法華経をざっと読んでみたのであるが、大体、原始仏教の要点を抑えておけば、理解可能と思われる。般若心経は原始仏教を否定するかに見えるが、苦しみの世界を空ずることにより、苦しみから度脱し、生きる勇気を得ようとする経典のように思われる。法華経は、そのようなことはなく、原始仏教に準ずる考え方のようである。専門家ではないので詳しいことは分かりません。適当な文献を当たってください。

それでは、原始仏教の要点を列挙します。意外と単純です。

【三宝印】
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静
【四法印】
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦
南伝系では苦・無常・無我
【四苦八苦】
生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦
【五蘊】
色・受・想・行・識
【十二処】
六種の認識対象(色・声・香・味・触・法)と六種の感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)の接触によって万物の認識がなされるという理論
【十八界】
十二処に六種の認識作用(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)を加えたもの
【十二縁起(十二因縁)】
①無明(根源的な無知)
②行(潜在的な活動)
③識(認識作用)
④名色(認識対象)
⑤六処(認識器官)
⑥触(③④⑤の接触)
⑦受(苦楽の感受)
⑧愛(欲望)
⑨取(欲望から起こる取捨)
⑩有(潜在力)
⑪生(この世に生れること)
⑫老死(苦)
【根本的な煩悩:三毒】
貪(好ましいものへの愛着)・じん(好ましくないものへの反発)・ち(無知)
【涅槃】
有余涅槃(まだ肉体を残している涅槃)
無余涅槃(肉体もなくなった完全な涅槃)
【四諦】
苦諦(人生は苦であるという、現象世界の真実をいう)
集諦(ものが集まり生ずる原因に関する真理であり、具体的には苦がどのような原因から生ずるかということの探求)
滅諦(苦と逆の理想状態であり、渇愛の滅した涅槃の境地)
道諦(理想の境地に達するための進みゆくべき道筋を示したものであり、具体的には八生道という八つの実践法が説かれる)
【八生道】
正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
【六波羅蜜】
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧

キリスト教について
私が通っている教会で知り合ったKさんと、毎週一回、聖書の学び会を行っている。もう半年くらいになるだろうか。教材として、「聖書から学ぶ”豊かな人生シリーズ①~⑪(C.C.C)」を使っている。まだ2巻しか終わっていないが、これから始める3巻の冒頭文を読んで、次のようにまとめてみた。

「つまり、彼らの回心の目的と目標は、人々の魂をいまこの地上においても、天の父との日々の交わりに導き入れることにあるということを、クリスチャンたちは充分に自覚していないのです。回心の際に、罪の赦しを受け、神に自分を明け渡すだけでは充分でありません。若い信仰者は、自分の霊的生活を自力で維持することはできないことを理解しなければなりません。そうです、彼は日々、主イエスとの交わりをとおして、天から新しい恵みを受ける必要があります。これは、あわただしい祈りや、聖書からほんの数節を表面的に読むだけでは得られないものです。静かな落ち着いた気持ちで神のみ前に出るために、時間をとらなければなりません。そして、自分自身の弱さと必要を知り、心の中の天からの光といのちとを新しくしていただくために、聖霊をとおして神の働きを待たなくてはなりません。そのとき始めて、一日中、すべての誘惑からキリストの力によって守られることを期待することができるのです。聖霊によって自分たちの生活を新しくし、きよめていただくために、密室において日ごとに神に祈る時間を割く必要があるのです。(アンドリュー・マーレー)」

ここでいう聖霊とは結局、私の心の中に住むキリスト・イエスのことで、私自身もイエスを信じて、神の子とされると聖書にあるから、聖霊とは自分自身に語りかけるなにかのことではないかと思うのである。「神のみ前に出る」というのは、自分自身と向き合うということではないだろうか。天の父との交わりといっても、私には神の声は聞こえないし、間接的に、後から考えてみて、神の導きみたいなものを悟ることがあるのみである。神のみこころは決して人間に直接分かる形では働かないのではないか。私たちは神の御手のうちにあるのは確かだと思うが、神と直接交信できると考えるのはオカルトっぽいのではないか。信仰によって義とされるといっても、信仰のうちに確実なものがあるわけではない。信・望・愛がそろわないとキリスト教は成立しない。パウロもコリント人への第一の手紙(13:2~13)で次のように言っている。

「たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない・・・・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。・・・・・・・いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

日本人には仏教に比べ、キリスト教は分かりにくいと思う。高校の古典などの授業などを通して、仏教思想に触れる機会は多いが、キリスト教に触れる機会は、自ら、教会にでも行かなければ、ほとんどない。はじめのうちは新約聖書しか読まないものだが、読んでいくうちに、新約聖書も旧約聖書を読まないと理解できないことに気づく。旧約の律法全体が新約の愛の思想にまとめられるのである。あと、イスラエルの歴史についてもある程度知らないと、聖書を理解するのは困難だろう。イエスの発言も旧約に基くものがほとんどである。しかし、旧約聖書を読むのは苦通である。ただし、ヨブ記、伝道者の書、箴言は面白く、読みやすいが、東洋的なところがあるためだろう。

【そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これが第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」】(マタイ22:35~40)

「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、---その教えは真理であって偽りではありませんーーーまた、その油があなたがたに教えたとおり、あなたはキリストのうちにとどまるのです。」(Iヨハネ2:27)

ここで、「キリストから受けたそそぎの油」とは聖霊のことと思われ、この聖霊からすべてのことを教われば、誰からも教えを受ける必要はないとある。この聖霊の教えを、何を媒介にして聞き取ることができるのか、よく分からないのであるが。あるメルマガでは、聖霊のことを次のように説明している。

「聖霊とは「助け主、擁護する人(Advocate)」であり「相談相手」であり「慰める人」である、そういう心強い存在なのです。聖霊は三位一体のひとつを構成する神さまであり、イエスさまが自分の代わりとしてイエスさまを信じる人ひとりひとりに宿らせるために神さまのもとから送られ、一度宿ったらその人に封印されて決してその人を離れないと書かれています。つまりクリスチャンひとりひとりの中には神さまが宿り、その人を決して離れず、その人を守り、その人を慰め、その人を正しい方向へと導くのです。」

最近は、聖霊に満たされたいというか、聖霊にもっと自分を委ねて、楽になりたいという心境になっている。

     神の愛
信仰、希望、愛
そのうち最も大切なものは愛
神を愛せよ
隣人を愛せよ
それは
自己犠牲の愛
他者実現の愛
必ずしも自分の幸せに繋がらないが
お互いに愛し合う時
そこに生じる
神の国


お金が全ての世の中を目指すことについて
 お金とは貨幣のことで、貨幣とは特殊な商品とみなせ、他のいかなる商品とも交換可能なものである。つまり、論理的には、お金で買えるのは商品であるので、商品以外の存在者は、いかなる代金を支払っても買えないことになる。
 商品以外の存在者には、人の心、真心、愛、家族、友人、自然、人間自体、命、地球、月、太陽、海、など、いくらでも例を挙げることができよう。当然、商品には人間が作り出したものが多い。人間が作り出したものが商品になることが多いので当然であるが。
 世の中にはお金がすべてという人もいるようだが、たとえ、お金が大切なものだとしても、お金で買えないものの存在を認めざるを得まい。逆に、お金で買えるものを増やせば、人間は幸せになるのだろうか。そうかも知れない。お金で買えないものと掛け替えのないものとの外延は等しくはないだろうが、近いというのも真実ではないか。
 現実的には、掛け替えのないもの、大切なものほど、お金では買えないものだ。しかし、進歩とはお金で買えるものの存在を増やすことではないのか。肉体的な病気であっても、医療の進歩で、お金を払えば、治してもらえる時代になった。命だって、殺して生き返らせることができるなら、人殺しをしても、お金を払って、罪を赦されることになるかもしれない。お金で済ませるというのはある意味便利で都合のよい考え方だ。それほど重大でない損害では、お金で解決したり、重大であっても慰謝料などの形で、お金で済ませてもらうことも現実には多いようだ。国にもっと財政にゆとりがあれば、もっと福祉など世の中のためになることができるだろう。お金は便利で役立つという側面は無視できない。
 お金で全てのことを計るの愚かだが、それしか方法がない、という考え方もある程度、説得性がある。はたして、世の中は、お金が全ての世界を目指しているのだろうか、それとも、既にお金が全ての世の中なのであろうか。
 お金で買えるものを増やす、というのも、一種の世の中の進歩であり、肯定せざるを得ないことなのかも知れない。理想主義の人間には許せないことかもしれないが。特に若い人は反発するかもしれない。私もそうだった。
 現実を言えば、人間にとって全てが可能になったときに、お金が全ての世の中が到来するのだ。そして、多分、あり得ないことだろう。人間が全てのものを作り出せれば、お金を含め、全てを商品化して、はじめて可能なことであるから。世の中に商品しか存在しないことになるのであるから。
 本当は、お金が全てでない、という人は欲張りなのかも知れない。どんなにお金を出しても買えないような貴重なものを欲しているからである。それでは、求不得苦に陥るかもしれない。少欲で、安い値段で売っているものでも満足できる人のほうが、お金が全てではない、と主張している人より幸せかもしれない。もちろん、理想を失わないことも大切であるが、やせ我慢に終わることが多いのではないだろうか。

孤独と禅の世界観
枡野俊明著【「ゆるす」という禅の生き方】(水王舎)に次のような文章があった。

*****以下引用*****
「独座大雄峰」という禅語があります。百丈慧海禅師の言葉とされるものですが、「いまこの大自然の中で、自分がここにたった独り坐っていることが、いちばんありがたいのだ」という意味です。孤独の中にありがたさを感じ、幸福感を見出すのが、禅の世界観なのです。
 事実、禅僧が理想とする生き方は、いわゆる隠遁生活です。独り自然と一体になって、鳥のさえずりを聞き、川のせせらぎに耳を傾け、風のにおいを感じながら坐禅を組む。また一方では田畑で鋤鍬をふるい、ときに書物をひもとく。そんな暮らしの中に、生きる喜びも楽しさも、充実感も満足感も、一切合切があるとするのが禅的な考え方だといっていいと思います。もちろん、あえて人との?がりを断つということではありませんが、人が生きるということの根底に流れているのは「孤独感」なのです。
 出家後、漂泊の旅を続けながらすぐれた和歌を詠んだ西行さんも、孤独に寄り添って生きた人でした。その晩年の歌に次のようなものがあります。
「ねがわくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
 できることならば、(旧暦)二月の満月の光の中、花の下で死にたいものだ、という意味ですが、歌の調べの背後には、独り自然の中で静かに死を迎え、やがては土に還っていくのだという孤独への愛着、あるいは孤独者の矜持のようなものが見え隠れしていないでしょうか。
 孤独であることを怖れたり、孤独でいる自分を責めたりする必要などはありません。独りぼっちをじっくりかみしめ、ゆるりと楽しんだらいいのです。
*****引用終り*****

 坐禅こそ組まないが、私の生活も随分禅的だと思う。母が死んで以来独り暮らしだから、14年も孤独な生活が続いていることになる。母は平成14年に亡くなった。父ともそれ以来、ほぼ離れ離れに暮らしていたが、その父も4年前に亡くなった。
 日本人の生活の根底には禅があるといわれるが、私にも日本人の血が流れているということだろう。孤独にあっても、不思議と寂しさを感じない。ありがたさや幸福感を感じるのも事実である。孤独も慣れてくると、相手がいないので、知らず知らず、無心というか無の境地に陥り、自分の存在さえ忘れて生活していることに気づくことも多くなる。自分がいないのだから寂しさを感じようがない。
 まさしく、私の生活は隠遁生活だ。朝、朝食を済ませると、自転車で川崎方面の南河原公園に行く。途中、鳥のさえずりを聞き、鶴見川のせせらぎに耳を傾け、風のにおいを感じながら一行三昧。コンビニで菓子パンと緑茶を買い、路上に坐って、喫茶喫飯。鋤鍬をふるいはしないが、自宅を掃除し、書物をひもとく。たしかに、こんな暮らしの中には、生きる喜びも楽しさも、充実感も満足感も、一切合切がある。
 私には孤独者の矜持を持つというよりも、己を忘れて生きている、という感覚が強いので、プライドさえもない。
 将来は何が起こるかは誰にもわからない。わからないものは分からないとして、不安を感じず、その日その日を、精一杯生きていきたいものだ。人の人生は次の歌によくでている。

みわたせば 花ももみじも なかりけり 浦の苫やの 秋の夕暮れ (藤原定家)


時と思い出
冬を越えて
暖かい春の日差しがありがたい
見慣れた街角が
何故か、久しぶりに見た景色のように懐かしい
私は春が待ち遠しかった
木や花や草
小鳥のさえずり
民家、商店などの並ぶ町並み
私は随分と長く生きてきたものだ
嫌な経験もしてきたはずだが
時の流れに曝されて
嫌な思い出も角が削られて丸くなり、
あるいは、時の流れに流されて
よい思い出ばかり思い出す
心は、悪い思い出を忘れさせ
良い思い出を残してくれる
それは粋な計らい
人の心はそのように作られているようだ
悪い記憶は忘れやすく
良い記憶は残りやすく、と
あぁ、幼少の日々
父母との日々
父母との旅行の日々
社会で活躍していた日々
ガールフレンドと恋愛ごっこを楽しんでいた日々
ドライブを楽しんだ日々
リコーダーの演奏を仲間で楽しんでいた日々
会社帰りに映画を観て楽しんだ日々
仕事帰りの赤ちょうちんの日々
こんなに、楽しい思い出があるのか
歳をとるにも良いところがある
悪いことは忘れ、良いことは覚えている
これも歳をとらないとわからないこと
若くして賢明に生きるのはなんと難しいことか
すべてのことに時がある
覚えるのに時があり、忘れるのに時がある
そして今の時がある
私の時は、またいつ来るのか
そんなことに思い煩うことなく、時に任せよ
必ず神様が計らってくださる

神と孤独
私はなんと孤独に生れついているのだろう
毎日、会話する相手もなく
ただ、本を相手にしているばかり
会話相手は本の作者ばかり
しかし、彼らにこちらから話しかけることはできない
今日も、誰とも話していない
思えば、どうして私がこれほどまでの孤独に耐えられるのか今まで不思議だった
そう思うとき、私は神様の存在に気づく
人から見放されても、家族が皆死んでしまっても
神様は私を見捨てられない
いつも、私にも気づかぬように、私を支えてくださる
一方的な恵みにより、価値のない私をも
愛し、哀れんでくださる
きっと、いままでもいつもそうだったのだ
時折、神様は私を懲らしめに遭わされたが
それも愛ゆえのこと
私を滅ぼそうとは決してなさらなかった
その代わりに
毎日の生きる糧を与えてくださる
食べることや、着るものや、住まいのことで
困ったことは一度もない
これは両親のお陰でもあるが
すべて神様が計らってくださったこと
孤独でもいつも一緒にいて下さる偉大な方がおられる
そう思うと
心が平安になり、安らぐ
この弱い私が極度の孤独に耐えられるのは本当に不思議なのだ
きっと、神様が私の心の中に入られて
心の奥から
このつまらぬ私を支えて下さるのだ
つまらぬ者だからこそ、支えて下さるのだ
なんと、感謝したらよかろう
あぁ、主よ、神よ
あなたの御名によりて感謝します、アーメン


春の知らせ
甘い香りに
春の訪れの知らせを載せ
沈丁花の花が咲く
一房の沈丁花を取り
ポケットに入れる
春の知らせをポケットに入れ
私はどこまでも行こう
あなたに出会うまで
そして寒さに凍えているあなたに捧げよう
この春の訪れを
愛せよ、そして汝の欲することをなせ
と、聖アウグスティヌスは言った
私もそうしよう


二月の雨と沈丁花
春雨の降る
悲しみの隙間から
沈丁花の香の
漂う公園
花々や木の葉から滴り落ちる
雨の粒は
悲しむ人の涙のように
私をも悲しませる
果たせなかった夢の数々
それほど大それたことを夢見ていたというのではない
ほんのささやかな夢の数々
それらが、私を悩ませるというよりも悲しませる
雨に釣られて
私の心も悲しみが支配する
一番悲しきことは
愛されなかったことよりも
愛さなかったこと、愛せぬこと
私は両親に愛されて育った、しかし
父や母や弟を愛さなかったこと
それが私を悲しませる
今は愛する隣人もおらず
弟も遠く離れていってしまった
父も言っていたように
私は要領の悪い人間
しかし、誰のせいでもない
自分で招いたこと
せめて
この悲しみに堪えて
流されないでいたい
明日はきっと晴れに違いない
そんな気がする、かすかな予感


野の花
名もない野の草にも花言葉がある
それは、「自然のなつかしさ」
私は花の名前を多くは知らない
いつも午前中に訪れる公園には
すみれ、水仙、菜の花などが咲いていた
他の花々の名前は残念ながら分からない
今日は、まだ二月なのに春のような暖かさだ
河津桜が狂い咲きしていた
公園のキャノピーでは
木々の間から
小鳥のさえずりが零れ落ちてくる
私は二月の春を楽しむ
私の人生の春はいつだったか
大学在学中ではない
浪人時代だ
ひとつの目的に向かって
一心不乱に勉強できたのは充実して楽しかった
私は予備校へは行かず、宅浪をした
独学好きの私には向いていた
何事も、結果よりも過程だと思う
結果、結果と叫ぶ人は可哀想になる
結果は結果で、それに至る過程にこそ意義がある
結果が出なければ無意味だという考えもあるが、
それは、自分では何もやらない御仁の科白だ
過程にこそ楽しみがある、充実感がある
結果などくれてやってもいい、失敗してもいい
結果が出た後の虚しさを知らないのか
結果を利用するだけの御仁には分かるまい
浪人時代はもう40年くらい前のことであるが
私の生活は、それ以来、あまり変わっていない
今はまるで年老いた学徒である
学者の「野の草」版である
勉強、独学は楽しい
大変そうに聞こえるかも知れないが
そんなことはない
老子は、限りある身をもって、限りなきを追う、危うきのみ
と言ったが
限りなきを追う幸福もあると思う
でなければ、退屈だろう
尽きない好奇心を持てるとはなんと幸福なことだろう
そして、知れば知るほど、知らない領域が増え、好奇心が増すのである
本当に退屈することがない
私は幸せだ


己を忘れる
どうして、こんな人生になってしまったのか
妻もいなければ、子もいない
国になんとかしてもらいたくても
国には金もないし、借金だらけだ
民間には金があっても
お前など必要ない、目障りだ、といった感じだ
社長にも、学者にも、首長にも、音楽家にもなれなかった
なににもなれない人間は価値がない
今さら、どうしようもない年齢だ
しかし、私は正直に生きてきた
自分に不利と分かっていても
自分に正直に生きてきた
すべて、自分が招いたことだ
この歳であがいても見苦しいだけだ
潔く諦めて
余生を充実して楽しんで過ごすだけだ
人間は皆死んで忘れられる
歴史に残る人物など本当に僅かだ
歴史に残っても悪名じゃどうしよもない
私自身も物覚えが悪くなった
最近数年のノーベル受賞者の名前も覚えていない
今年もらった人の名前を覚えてもすぐに忘れてしまう
人は皆そんなもの
自分のことで忙しくて精一杯
忙しくで心を亡くしているうちが花
孤独で暇になれば、嫌でも
自分の心に向き合わなければならない
いかがすべきか我が心
これこそ人生の一大事
己を忘れることこそ、平安の道
一事に没入し
無になり、無心になる
これぞ、安楽の道だと最近悟った


冬の日の午後
冬の日の午後
永遠は一日のようであり
一日は永遠のようであり
私はもう老人でも
幼子のような心がときおり沸き起こる
少年の頃のあの日の冬の日も
今日一日と同じで
変えられたと思うものは
私自身だけ
他のものは何も変わらず
永遠の中に佇んでいる
ふと、木枯らしの音
この木枯らしの音もいつか聞いたもの
私は思った
孤独の中で
変えられるのは私だけ
永遠の中で存在は姿を変えず
毎日、私と出会う
私はあなたと出会う
失われたあなたと


悪夢と二月の春
毎朝、悪夢に目が覚める
起きているときには忘れている無意識からのメーッセージにうなされて
目が覚める
毎日のことだ
寝床にいるのも苦痛になる
就寝時に寝床に持ち込み、真夜中にはそれから開放されたはずの疲れが
早朝の悪夢とともに再びよみがえってくる
目が覚めても疲れきってしまう
いまいましく、私は寝床から身を起こし
朝食をとる
いつもの花が咲いている公園に行くのだ
あそこへ行けば、疲れがとれるはず
今日は、まだ2月なのに、春のように暖かい
この暖かさなら
防寒着では汗が出るくらいだ
ゆっくりと自転車をこぐ
消防署の前のあじさいはまだお化けのようだ
しかし、6月になれば
瑞々しい花を咲かせてくれるはず
自転車をこぐこと1時間
私は悪夢から解放され
疲れもとれ
元気を取り戻して家に帰る
帰宅後、気分もリフレッシュして読書に取り組むのだ
今日は何の本を読もうか
これが、私の毎日だ
これだけが、一生続くのだろうか
それを思うと、私は少し憂鬱になる


孤独の中のバナナとゆで卵
私の好物はゆで卵とバナナ
バナナは最近食べないが
毎日、ふたつのゆで卵は欠かさない
もう、50年以上も前のことだ
小学校の遠足のお昼どき
私は、バッグからバナナとゆで卵を引っ張りだし
ひとりで食べ始めた
母が入れてくれたものだ
同級生は私に近寄らず、私も同級生に近寄らず
私の孤独癖は昔からだ
しかし、今でも、友だちやガールフレンドが欲しい
いや、昔からずっと欲しかった
できれば、このままで死にたくない
バナナやゆで卵の世話をしてくれた母ももういない
晩年まで、毎日のように電話をくれた父ももういない
亡き父母との別れこそ最大の悲しみだった
それも、なんとか乗り切った
本当は、深い孤独は私に親しい
しかし、時々人と話したくなるのも事実だ
なにごともほどほどだ
2~3年前に理想的な状況になったが
現在はまた孤独に戻ってしまった
しかし、慣れているせいか、苦ではない
あぁ!私は一体何をいいたいのだろう


「在るか」から「在ることの不思議」へ
 今日の朝、目が覚めると、またもや、何故か私は生きていた。もはや、何の役にも立たない、生きていても意味のない私を生かしているのは、神の怠慢ではないのか?。私の存在というものが私には本当に不可解である。じゃ、首を括って死ねばいいじゃないかとなるのか?
 自然や人間を含め、この世は、絶妙なデザインによって創られている。しかし、このことだけから、創造主たる神の概念が生れるのではない。世界が「いかに在るか」に拘る科学者には神は見えない。
 世界がいかに在るかが神秘なのではなく、世界が在ることが神秘ばのだ、と言ったのは、理系出身の哲学者ウィトゲンシュタインであった。この言葉を聞いたとき、ピンと来なかったのを覚えている。私も科学技術者として物質がいかに在るのかという問題を相手にしていたので、存在自体はあまりにも自明で、存在することの神秘が分からなかったのだろう。
 私としては、神が存在を生成して、あとは神は自然に任せたという説を採用したいのだが、どうであろうか?私なりの神の存在証明である。
 生きていても仕方がない私であるが、最近は聖書をよく読んでいる。私が生きて在ることの秘密が分かるかもしれないという、かすかな望みである。信、望、愛である。


神の存在証明
 神の存在証明を人間がするというのは、信仰という立場からは本末転倒の冒涜というものであろうが、いくつか載せてみる。私個人としては、神に私自身の存在証明を希うばかりであるが。

アンセルムスによるもの
定義 神は、それよりも大なるものが可能でない対象である。
仮定1 神は、理解において存在する。
仮定2 神は事実において存在する可能性がある。[可能性]
仮定3 もし任意の対象が、理解においてのみ存在し、事実において存在する可能性があれば、その対象は、それ自身よりも大なる可能性がある。
背理4 神は、理解においてのみ存在すると仮定する。
背理5 神は、神自身よりも大なる可能性がある。
背理6 神は、神自身よりも大なるものが可能な対象となる。
背理7 それよりも大なるものが可能でない対象が、それよりも大なるものが可能な対象となる。
背理8 神は、理解においてのみ存在することはない。
結論 神は、事実において存在しなければならない。[必然性]

これは、存在論的証明で、観察や経験はなく、神の定義や概念そのものから神の存在を導く方法である。推論形式は演繹的であり、そのため「ア・プリオリ証明」とも呼ばれる。

トマス・アクィナスによるもの
仮定1 すべての結果には、原因がある。
仮定2 因果関係は、無限に連鎖しない。
結論 因果関係の最初に、第一原因(神)が存在しなければならない。

これはア・ポステリオリな論証で、経験的に受け入れられた事実を基に、その原動者としての神の存在を導こうとする方法である。

デカルトによるもの
仮定1 神は完全である。[定義]
仮定2 もし神が完全であれば、神は存在する。
結論 ゆえに、神は存在する。

ゲーデルの存在論的証明
肯定的であることは、一つの性質である。
公理1 もしPが肯定的性質であり、Qも肯定的性質であれば、PかつQも肯定的性質である。
公理2 性質は、肯定的であるか、肯定的でないかのどちらかである。
定義1 対象xがすべての肯定的性質を持つときに限って、xは神性Gである。つまり、すべての性質P二対して、Pが肯定的ならばPを所有する対象xが、神性Gである。
定義2 任意の対象xが性質Pを持つとき、xの任意の性質Qに対して、Pを持つ任意の対象yが必然的にQも所有するとき、Pはxの本質である。
公理3 在る性質が肯定的であれば、それは必然的に肯定的である。ある性質が肯定的でなければ、それは必然的に肯定的でない。
定理1 もし対象xが神性Gを持つならば、Gはxの本質である。
定義3 対象xの任意の本質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つ存在するときに限って、xは必然的存在Eである。
公理4 必然的存在Eは、肯定的性質である。
定理2 もし対象xが神性Gを持つならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。そこで、神性Gを持つ対象が少なくとも一つ存在するならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。よって、神性Gを持つ対象xが少なくとも一つ存在することが可能ならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在することも可能である。したがって、Gを持つ対象xが少なくとも一つ存在することが可能ならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。
公理5 もし性質Aが肯定的であり、すべてのxに対して、Aを所有するxが必然的にBも所有するならば、Bも肯定的である。このことは、自己同一性x=xが肯定的であり、自己矛盾性x#xが否定的であることを意味する。

この証明の要点

神性Gは、肯定的性質である。任意の肯定的性質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つ存在する可能性がある。したがって、神性Gを所有する対象xが少なくとも一つ存在する可能性がある。この結果に定理2を適用すると、Gを所有する対象xが、少なくとも一つ必然的に存在する。さらに、定理1と定義2により、その対象xは、Gを唯一つ持つ対象である。ゆえに、唯一の神が存在する。


Wikipediaより
「複雑な化合物が満ち溢れた原始海洋で数十億年の年月をかけてさえも、DNAと認識される分子が偶然に構成されるということは確率的にありえない。DNA分子が64種類のトリヌクレオチドが400個集まってできたものだと考えると、その構成パターンは3×である。この宇宙に存在する生命のDNAの種類は多く見積もっても2.5×なので[2] 、3×と比べればゼロに等しい」(ゆえに、生命は何者かに創造されたとしか考えられず、神は存在する)


記号はどこにあるのか?(古典的計算主義を巡って)
 ゲーデルの数学的実在論と関係あるのだが、私が作った自動作曲システムを構成する、音楽で使われる記号、ひいては音楽の記号体系はどこにあるのだろうか?これらは、人間の脳内にあるのではない。あくまで、外界に実在するもので、記憶として一部脳内にあるに過ぎないのではないか。音楽自体も音楽の記号体系も、外界にあり、双方に対して、人間の脳は解釈系として機能する。
 世界内の存在を解釈する時に、人間は自分の知識に基いて解釈すると考え勝ちだが、あくまで、知識は人間の外界にある(あった)ものであり、人間の解釈対象は「存在自体」と「理論や知識」に二重化されているのではないか。存在を記号体系化したものが理論や知識であり、存在理解とは存在自体の記号体系に対する解釈である。記号体系は教育や観察・発見によってもたらされる。人間は存在を直に解釈するのではなく、存在を表すとされる記号体系を解釈するのではないか。そして、その記号体系は外界と記憶として脳内に存在する。
 Dijkstara(1972)の次の言葉がある。プログラミング言語Lispに関するものである。
 「Lispは冗談に『計算機を誤用するための最も賢い方法』であると言われてきた。この描写は大変な賛辞であると思う。この言葉によってLispの持つ完全に自由な雰囲気が伝わってくるからであるーーーーLispは、われわれの最も才能のある人々が、以前は不可能であった思考を行う手助けをしてきたのである。」
 Lispは、マッカーシーがリスト・データ構造の基本要素を極限まで簡略化し、その上の計算モデルを計算の理論で知られるラムダ計算に基いて構成し、設計したプログラミング言語である。いずれにせよ、記号の取り扱いや記号を組み合わせて複雑な知識を表現し、計算機上でそれらを操作するのに適した言語である。
 私は自分の作った自動作曲システムのことを言うのは、自慢するためではなく、他に経験も業績もないのと、今考えてみれば、古典的記号主義、計算主義に立ったシステムであるからである。私は自動作曲システムを作るのに、音楽を分析したのではなく、ジャズ理論の記号体系を分析し、それを応用したからである。私には音楽理論は分かるが、音楽が理解できるという自信はない。
 黒崎政男によると、ライプニッツは普遍記号学を構想し、ホッブスの「思考するとは計算することである」というテーゼを発展させ、「思考のアルファベット」たる少数の基本概念から、計算という記号操作によってすべての真理を演繹的の構築しようとしていた。つまりそれは、記号体系が特にうまく作られたならば、記号間の関係や秩序が、事物間の関係や秩序に対応する、という発想に基いており、記号の側の操作だけで事実や事象の知識に到達しようというものであった。この普遍記号学、およびこの記号主義と感覚、直感などの連関をめぐるライプニッツの思索は、今日のAI(人工知能)の計算主義をめぐる議論の原型をなしており、AIの根本問題に対する貴重な示唆を与えている。
  このライプニッツの説は、記号体系をジャズの理論体系とすれば、音楽という事象について、そのまま当てはまる。音楽を知らずとも、ジャズの理論で使われる記号を操作するだけで、作曲編曲なども可能であるということである。これは、記号操作の主体が、人間であろうと計算機であろうと、変わらない事実である。
 古典的人工知能の考え方は次のようなものである。
 心の構造を知識の構造と考え、さらに知識は記号の形式系として最もよく表現されると考える。認知は記号として表象された知識の上での形式的操作として理解される。古典的人工知能のパラダイムを特徴付けるためには計算主義の基く必要がある。
 古典的人工知能を特徴付ける計算主義では、知識は常にそれがどのように用いられるかという、処理過程の観点から扱われ、知識の表現ないし記述は、知識処理のアルゴリズムと不可分の関係にある。知識表現の方式として現在の人工知能で常用されている、意味ネットワーク、フレーム、プロダクション規則、論理式などいずれでも、知識を要素とその組み合わせからなる記号で表現し、それらを操作するための形式的規則/アルゴリズムを定義すると、知識の計算が実現する。記号で表現された要素が、心的構造においては概念、命題などに対応し、その上での操作(計算)が、認知、思考、推論、理解、記憶などに対応する。
 知識、ひいては心の本質は、形式的操作の対象となるような「記号」の概念でとらえることができる、という主張に対しては批判がある。その批判の多くは、人間の知識や認知のもつ状況依存性や身体性、イメージ性、アナログ性、技能性などに関わるもので、こうした批判を建設的に取り込んで、より豊かな記号概念にたつ古典的人工知能が十分に可能であると主張されている。
 古典的計算主義に対する克服は、コネクショニズムに基く計算観で試みられている。概念の分散表現の考え方は、記号なき知識表現を可能にするもので、古典的な知識観に対する改変をせまっている。


待っていても・・・
 待っていても、なにも来やしない。何も起こりやしない。人から見捨てられたこの私には何の希望もない。このまま死を待つだけだ。毎日、同じことを繰り返す。同じ道を通って、同じ公園を訪れる。同じ道を歩く。家にいても本を読むばかり。知る人は誰もいない。深い孤独によく耐えられるものだと、我ながら、呆れる。
 まぁ、そうは言っても、生活に困っているわけでもない。人間、それだけで満足すべきかも知れない。
 待っていても、何も始まらない。しかし、私にできるのは、HPやブログを更新することくらいだ。あとは、どうしてよいか分からない。
 最近は教会に通っているのであるが、待っていても、神の声も聞こえないし、好きなあのひとも、私に近づいてこない。人工知能の消去主義は説得力がある。いくら、心に強く念じても、何の効力もない、他者にも伝わらない。直接、言葉で表現せずにどうすれば通じるか?
 人間には本当に「心」なんてあるのだろうか?もし、あるならば、もっと実効的であっても良さそうなものだ。テレパシーとか念力とか、心に力があって、物事に作用できれば可能なはずだ。あの人も、私の気持ちに気づいてくれるはず。でも、口にはできない。「心」は存在しても、何事にも直接作用することはできない。あぁ!心は孤独だ。



ジョーク:脳の男女差(再掲)
男性の脳の重さが女性の脳の重さよりも重いと知った時、私は思わず「勝った!」と思ったが、イルカや象の例もあるので、脳の重さは決定打ではなさそうだ。右脳と左脳を連絡する脳梁や前交連という部分は、男性より女性のほうが大きいという。つまり、女性は右脳と左脳とで情報を男性よりも上手くやりとりし、脳全体としてのパフォーマンスを向上させ、容量を補っているらしい。分かりやすくするため、極端な式で表すと

    男脳パワー = 右脳パワー + 左脳パワー ー 0.06*(右脳パワー*左脳パワー)

    女脳パワー = 右脳パワー + 左脳パワー + 8956*(右脳パワー*左脳パワー)

くらいになっているようだ。大きく分けて言うと、右脳は感情、左脳は論理を司るので、女性がときとして見せる矛盾と不可解さも上の式で近似的に理解できるかもしれない。
 ノーベル章を受賞した根岸英一さんが、教育でも競争を重視するように提案したのも、女性を牽制してのことではなかろうか。競争に興味を示すのは女性よりも男性に多いから、競争を強調すれば、まだ男性が優位に立てるとの計算があるのではないか。それが証拠に、科学技術関連予算を巡る事業仕分けでも、「世界一じゃなくてはいけないんですか?」とふと本音を漏らした女性議員がいたではないか。いや、男である私自身も、「世界一」派ではなく「オンリーワン」派なので、世界一の連発はあまりよく分からないのだが。つまらないことでも、オンリーワンならば競わずしてナンバーワンだと思うのだが、ちと不精か。一面から見れば、あの仕分けは男性原理と女性原理の対立に見えた。
 女性の社会への進出は目覚しいものがある。その勢いで私のような人間は肩身の狭い思いをしなければならない世の中になった。一般的に言って男性が暮らしにくい世の中になったとは言えるようだ。


ブール代数と神経回路網
ブールの論理代数(ブール代数)の多変数への拡張と応用について(荒井公康著)
     (ブール代数を非線形重回帰分析すると?)

 付録:実験計画法の解析手法への応用  付論1 付論2 付論3 付論4 付論5
     ニューラルネットワークとの関連 ブール代数&神経回路網
     
 Googleで「ブールの論理代数」のキーワードで検索すると、Wikipediaについで、2番目と3番目に私のサイトが出てくる。多分、読者も増えてのことと思い、嬉しく思っている。なにか認めて頂いたようで、大変に嬉しい。
 数学科以外の学科で教えられる数学は、線形理論が多いので、わかりにくいかも知れないが、論理関数や論理変数に使われる、0,1という数字を普通の数字と考えて、重回帰分析をすると、ブールの論理代数(ブール代数)は極めて非線形な数式となることが分かる。排他的論理和などを表す多変数のブール代数を表す数式を見たことのある人はいないはずである。論理和ならばあるかもしれない。
 このような数学は、実験計画法などの解析にも威力を発揮する。実験計画法で問題にされる交互作用も非線形項を考慮したもので、実験結果を非線形項を考慮した数式でまとめれば、予測計算などに極めて有効な手段となる。非線形ならば偏微分という操作が可能になるので、最適化方向も見つけやすくなる。線形の式では精度が落ちるし、平均値としての最適化方向しか明らかにならない。実験水準に応じた最適化方向を見出すには、非線形分析をしなければならない。
 よく知られているブール代数の公理系が、一般の代数と異なるのは、論理(演算)というものが、数式で表すと、極めて非線形なためである。非線形の数学は難しく、私にも専門外でよく分からないが、私の投稿がきっかけになればと願っている。新しい数学の一分野に発展すればよいと願っている。
 排他的論理和などは、線形分離不可能で、人工的なニューラルネットワークでは、中間層を挿入し、バックプロパゲーションの手法で、問題の解決を行っているが、学習に時間がかかる。ここでは、そのようなことも関係している。


付論5 ブール代数&神経回路網(ニューラルネットワーク)
以下、a,b,c,dは0または1の値をとる論理変数とする。また、次のように基底項を定義する。
n=2(変数の数が2の場合)の時
{a b ab}
n=3(変数の数が3の場合)の時
{a b c ab ac bc abc}
n=4(変数の数が4の場合)の時
{a b c d ab ac ad bc bd cd abc abd acd bcd abcd}
このように基底項を定義すると任意のブールの論理代数の論理関数は

      基底項の線形結合+定数項(1または0)

で表される。n=2の場合の例を以下に挙げる。

論理和 A∨B=a+b-ab
論理積 A∧B=ab
排他的論理和 A●B=a+b-2ab
否定論理積 A NAND B=-ab+1
否定論理和 A NOR B=¬(A∨B)=¬A∧¬B=(1-a)(1-b)=-a-b+ab+1
含意 A⇒B=¬A∨B=(1-a)+b-(1-a)b=-a+ab+1

n=3,n=4の場合の例をいくつか挙げると

A∨B∨C=a+b+c-ab-bc-ac+abc
A∨B∨C∨D=a+b+c+d-ab-ac-ad-bc-bd-cd+abc+acd+abd+bcd-abcd

A●B●C=a+b+c-2ab-2bc-2ac+4abc
A●B●C●D=a+b+c+d-2ab-2ac-2ad-2bc-2bd-2cd+4abc+4acd+4abd+4bcd-8abcd

A∧B∧C=abc
A∧B∧C∧D=abcd


ここで、基底項について説明する。n=4の時、基底項は

{(a b c d)(ab ac ad bc bd cd)(abc acd abd bcd)(abcd)}

となる。このうち(ab ac ad bc bd cd)は4つの変数(a b c d)から二つの異なる変数を選んだ場合の数で、全部で4から2個を選ぶ場合の数4C2=4!/2!2!=6通りある。同様に(abc acd abd bcd)は4つから3つを選ぶ場合の数で4!/3!=4通りある。

論理変数と神経細胞は同じではないが、共に0,1の値をとるものと抽象化することにより、類比的に考察することができる。即ち、神経細胞も0、1の値をとると仮定することができる。様々な論理関数が

      基底項の線形結合+定数項(0または1)

で表されることが分かったが、このうち、論理変数の積の形で現れる非線形項は何を表すのであろうか。有名なヘッブの規則によれば、神経細胞どうしで同時に発火する確率が高いほど、お互いの結合が強くなる。すなわち、非線形項はヘッブの規則を表したものと考えられる。例えば、ばらばらな神経細胞a,b,c,dがあったとすると、線形項と非線形項の組み合わせにより、様々なパターンの論理関数が現れる。最初に、ばらばらな神経細胞がいくつかあった時に、学習、連合、条件付け、環境との相互作用などにより、ヘッブの規則が適用され、非線形項が変化することにより、神経細胞のアンサンブルの挙動が変化していくのである。

神経細胞の集団の挙動には、分子の集団などの運動とは異なり、ヘッブの規則が適用され、非線形項の出現により、様々なパターンが現れるようである。

逆に、神経細胞が三つあるとする。それをa,b,cで表す。a,b,c個別ではそのまま出力し、ヘッブの法則によりa,bの結合、c,bの結合、a,b,cの結合が生まれ、全体としてそれらが抑制的に働くと仮定した場合の挙動を示すためには、

      a+b+c-ab-cb-abc

の計算をすることになる。具体的には

________a__b__c__-ab_-cb__-abc_______a+b+c-ab-cb-abc
________0__0__0___0_____0______0___________________0
________0__0__1___0_____0______0___________________1
________0__1__0___0_____0______0___________________1
________0__1__1___0____-1_____0___________________1
________1__0__0___0_____0______0___________________1
________1__0__1___0_____0______0___________________2
________1__1__0__-1____0______0___________________1
________1__1__1__-1___-1____-1___________________0

のように論理関数のような挙動を示す。このように「基底項の線形結合+定数項(1または0)」が全て論理関数になるわけではない。論理関数になるためには、抑制性と興奮性の結合のバランスが必要である。

a,b,c,dなどは神経細胞ひとつの出力として考えてきたが、a,b,c,dなどには、アンサンブルとして論理関数として振舞う集団を代入することができる。例えば、論理積A∧BのAに「P⇒Q]、Bに「Q⇒P」を代入すれば、双条件と呼ばれる論理関数が現れる。すなわち、

   A∧B=ab=(P⇒Q)∧(Q⇒P)=(-p+pq+1)(-q+pq+1)=pq-pq-p-pq+pq+pq-q+pq+1=-p-q+2pq+1=P⇔Q

論理変数ではなく、神経細胞の場合も類比的に考えることが可能である。ここで、p^2=p,q^2=qとなることに注意。

次に、最も基本的な推論形式 P∧(P⇒Q)⇒Q も次のように証明できる。

   「P∧(P⇒Q)⇒Q」=1-p(1-p+pq)+p(1-p+pq)q=1-(p-p+pq)+(p-p+pq)q
               =1-pq+pq=1

となり、この推論形式は恒真式(トートロジー)になることが分かる(三段論法・肯定式)。他の推論形式も同様に計算される。

 すべての大脳新皮質では神経細胞は層状に(I-VI層)配列されている。神経結合は主として層に対して垂直に形成されるが、結合の様式は層によって規定される。つまり、細胞がどの層にあるかによって、細胞が入力を受け、出力を送る部位が大局的に規定される。信号を送り出す細胞(遠心性細胞)はIII、V、VI層にあるが、III層は上位の大脳皮質に、V層は大脳以外の下位の神経核に、VI層は下位の大脳皮質と中継核にそれぞれ信号を送る。またIV層には中継核から信号を受ける細胞があり、他の層の細胞はIV層の細胞を経由して信号を間接的に受ける。
 たとえば映像の形と運動の情報をそれぞれ伝えるXとY系の視神経の興奮性視覚信号は単純型と複雑型に並列的に入力されることが示されている。また単純型から複雑型への直列的な抑制結合があることも示され、興奮性と抑制性神経回路の相互作用の結果として反応選択性が生れるとする考え方が提案されている(並列モデル)。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/kaiki.html


自動作曲システムのその後
 Googleを用いてキーワード「自動作曲システム」で検索すると、私のサイト「音楽豆知識と自動作曲システムの仕組み(荒井公康著)」が3番目に出てくるようになった。1番2番は有名な東大の「オルフェウス」だが、私は音楽的には悲観的な見方をしている。私も東大出であるが、資本がないので、頭を使うしかない。マンパワーもない。
 私の自動作曲システムは、オルフェウスよりも、大分以前に作ったものだ。ジャズの理論をほぼ完全に取り入れた本格的なものだ。記号処理という古き良き時代の人工知能の成功例の一つといえよう。
 Googleで3番目に出てくるということは認められたと言っていいかもしれない。うれしい限りである。音楽としてばかりではなく、人工知能としても注目して欲しい。計算機に歌が歌えるようになったのだ。喜ばしいかぎりではないか。
 最近は宣伝ばかりですみません。私も認められたいのですよ。あと何年生きるか解からない年齢ですしね。本当にお騒がせしてすみません。


マザー・テレサと私の苦しみ
マザー・テレサの次の言葉に出会った。

 私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえも忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。<マザー・テレサ>

まさに、私の苦しみだ。マザー・テレサは洞察力の鋭い人でもあったようだ。


暗誦聖句

北島さんから「暗誦聖句」という言葉を教わったので、さっそく、私のブログにも掲載しようと思います。

1.神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16

2.わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ14:6

3.見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録3:20

4.もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
Ⅰヨハネ1:9

5.あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
Ⅰコリント10:13

6.だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
Ⅱコリント4:16~18

7.
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
詩篇51:12,13

8.疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
マタイ11:28~30

9.
わたしたちの生涯は御怒りに消え去り
人生はため息のように消えうせます。
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。
あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。
知恵ある心を得ることができますように。
詩篇90:9~12

10.思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
Ⅰペテロ5:7

11.どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ピリピ4:6,7

12.何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイ6:33,34

13.
神に従う人はなつめやしのように茂り
レバノンの杉のようにそびえます。
主の家に植えられ
わたしたちの神の庭に茂ります。
白髪になってもなお実を結び
命に溢れ、いきいきとし
述べ伝えるでしょう
わたしの岩と頼む主は正しい方
御もとには不正がない、と。
詩篇92:13~16

14.
老いの日にも見放さず
わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
詩篇71:9

15.イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
ヨハネ12:23~25


会いたいな
会いたいな
会いたいな
夢の中でもいいから
あんなに仲良く暮らしていた
お父さん
お母さん
夢の中に来ておくれ
会いたいな
会いたいな
お父さん
お母さん


人工知能研究の課題
1.これまでのところ、確率理論は、基本的に命題的表現に限定されており、このことが、一階言語によって扱われるような複雑な認知形式への応用を阻んでいる。確率理論と一階論理を統合する試み、つまり、数学と哲学両者における最も基本的な進展が、現時点における数学、哲学、人工知能研究の最重要課題である。


老いの問題
老いを語る場合のさまざまな語り口

1.老いを知性のオブジェとして対象化して扱い、そこに合理的な規則を描いてこれを制御監視していこうとする傾向。

2.脆くて壊れやすい老いの言葉というにはあまりにか弱い経験に耳を澄ませてみようという態度。

これらが混じりあいながら表明されている。

1.栄養状態、延命術の進歩などによる平均寿命の延びが生物学的死と社会的な死との間に大きなズレを生み、そこに老年期の問題を作り出した。この文脈では老人がいかに社会に適応し、青年壮年層と棲み分けて、この時期特有の価値を社会にフィードバックさせていくかという点をめぐって語られる場合が多い。

2.死の医学化が進むなか、死が医学知によって管理され病院の中に囲い込まれてわれわれはの日常生活の中から姿を消した現在、ハイデガーが人間を「死への存在」と定義したような、他者化される自己をわがもとに奪還する契機として、死の代わり新たに老いが問われるようになった。

3.ナルシシズムに対する幻滅という問題があげられる。円環的時間意識が神の創造から最後の審判までといったキリスト教的な直線的時間意識の中にかき消された後、最後の審判という目的地もキリスト教の世俗化の中で、科学などにみられる進歩という概念に取って替わられることになる。人々に前進という意識が根づき、あくなき追求にひた走るファウスト的感情に支配された人間が大勢出現してくる。彼らは進歩、発展といった言葉を呪文のように唱え続ける反面、手の届かないものを求めて絶えず不満足な状態に閉じ込められてしまう。加えて後ろから老いが彼らを追いかけてくる。前進あるのみの彼らにこの退歩、後退といった難問は不可能な問いである。彼らは慌てて老いなるものを排除、隠蔽しようとする。つまり老いは欲望が新たな欲望を引き出すという形で肥大化してきたナルシシズムへの幻滅に気づかざるをえない地点を形作ることになったのである。そしてこの地点を永久に忘却するためには、老いはボケという姿でナルシシズムの空間に呑み込まれる以外解決法を持たないのだろうか。

4.ユングの個別化の概念が示すように、自己の統合へむけて老いを描いていく視点もあげられる。

どうも老いを発生のように統合、調和といったシェーマで描き出すことはできないのではないかという声が、あちこちから上がり始めているというのが現状といったところである。


物忘れと自転車
2~3日前に酷い物忘れをしてしまったらしい。コンビニに買い物にでかけて、自転車で行ったことを忘れて、歩いて帰宅してしまった。自転車はコンビニに置き忘れてしまった。昨日、コンビニに行ったところ自転車はなかったので盗まれたものと諦めていたが、今日、コンビニの隣の本屋さんの駐輪場を覗いたところ、嬉しいことに私の自転車が置いてあった。きっと、コンビニの店員さんが、自転車を移動してくれたのだろう。店員さんには感謝したい。店員さん、ありがとう!
 自転車は私の生活には欠かせない。毎日の長距離散歩や買い物にはなくてはならないものだ。今日は文化の日だが(11月3日)、秋晴れに恵まれ、暑くも寒くもなくちょうどよい気温で、気持ちよく、川崎の南河原公園まで、自転車で散歩ができた。昨日は雨が降っていて、こもっていたので、気分も少し晴れた。
 自転車がなくなってからというもの、私の病気が出て、いろいろつまらない考え事につきまとわれ、いさささか疲れていたので、今日の散歩は、本当に清々しく気持ちがよかった。新しい自転車を買わなければならない、とか、どのくらいの出費になるだろうとか、繰り返し、同じ考えが浮かぶのである。強迫観念の一種らしい。
 いずれにせよ、自転車が見つかってよかった。心配事もひとつ減った。これで、少しは楽になった。


認識の仕組みと他者性(拙文ですが再掲いたします)
以下は、私が長年悩んできたことに対する、稚拙ですが、真面目に考えた哲学です。

人間の活動の重要なものに「認識」というものがある。この認識とはどういうものか現象学のテーゼにそって分かり易く説明する。それは

「現象は光のうちで視られうる」

というものである。この命題の意味を解説する。簡単に言うと認識が成立するためには、「認識する者」と「認識されるもの」だけでなく、第三のもの(イデア、カテゴリー、形式、言葉、基準枠、パラダイムなど)が必要とされる事態を述べている。例えば、ある物の長さを測る場合を考えてみよう。この行為を行うためには、測定者、測定対象、物差しが必要になる。これを認識に対応させると、測定者が「認識する者」、測定対象が「認識されるもの」、物差しが「第三のもの」に対応する。上のテーゼとの対応をとれば、「視る主体」が「認識する者」、「現象」が「認識されるもの」、「光」が「第三のもの」に対応する。つまり、私たちの認識が成立するためには、主観としての自分、客観としての対象、判断基準の三つの要素が揃って初めて成立する。これは、ほとんど自明のことと思われるが、私たちが何らかの認識ないし判断を行う場合に、これら三つを充分に自覚しているだろうか。おそらく無意識に認識ないし判断をし、自分が認識していること自体にさえ気づかない人も多いだろう。このことに徹底して反省を加えた人に現象学を創始した哲学者フッサールがいる。簡単に言えば、認識という行為は、主観としての私たちが、第三のものとしての判断基準をもとに、客観としての対象を(主観的に)「構成」することに他ならない。客観と主観は対概念で切り離されて存在するものではなく、従って、客観的判断などというものはあり得ず、必ず主観が関与(対象を構成)しているのである。主観のない客観も客観のない主観もないのである。

次に認識の正しさについて考えてみる。自然科学では、ある理論、認識、判断は実験によって検証されて初めて正しいかも知れないという可能性を獲得し、他の人の追試によって検証されて初めて正しいと認められる。ところが他の人の心などについては、検証の手段はないから、他の人の心などについて認識ないし判断しても、正しいか間違っているか決定不可能である。他の人の心以外にも決定不可能なものは沢山あるはずである。「沈黙は金」という知恵を忘れてはならない。私個人は判らないものは判らないとするのも一つの見識であると思うのであるが、それを無視して他者に対して決め付けるのは暴力であろう。認識と言いながら、三つの要素のうち、「認識されるもの」(客観)から目をそむけて無視し、自分の主観的内容が対象に等しいかの如き錯覚に陥っており、本来ならば「認識」とは言えない。客観と主観の間に越えられない壁を設けて、判断しているつもりになっているのである。これを避けるためには、何らかの手段で「対象」(客観)に己自身を示して頂くしかないであろう。但し、相手が人間の場合は無理強いはできない。

これに関連して、レヴィナスという哲学者は、いわゆる「認識」すらも、同じものの領分に属さない他者を、同じものの領分のなかに取り込もうとする限り、一種の暴力(光の暴力)だとし、他者は、認識の光に対して、おのれを退け隠れるとした。他者理解とは他者を自己の論理の支配下におくことに等しいのであるが、これは不可能なのである。単純化して言えば、他者とは自分とは論理的に全く異なった存在であり、理解不能なものであり、他者に対する理解は暴力だと言っているのである。他者理解は必ず間違っていると考えたほうが良いだろう。かと言ってレヴィナスは冷たい人間ではなく逆に人間は皆徹底的な「弱さ」を持っていることの指摘も忘れなかった。ただ、これは本筋から逸れるのでまたの機会にしたい。

貴方がある人に対して何らかのイメージを持ったとしよう。それは貴方が勝手に主観的に構成したものであり、現実とは限らないのである。相手の責任だけにするのは卑怯だし、自分の責任も考え、判断を保留する(「エポケー」という)訓練を積むことを学ぶ良い機会と思うべきである。自分が判断していること自体を忘れ、責任を放棄することは「自己忘却」と呼ばれ深刻視される。勝手に想像して他者に迷惑を掛けるのは避けたいものである。

フッサールでは、通常の「主観」と区別して、「構成する働きをする主観」を「超越論的主観(性)」と呼ぶのが初期現象学の慣わしである。後期では、「構成」から、第三のものに相当する「生活世界」「地平」といった認識を成り立たせる「場」の如き概念へ思考の重点が移された。しかし、「主観が認識を構成する」という事態には変わりない。

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「認識の仕組み」で述べたように、認識が成立するためには三つの要素が必要である。つまり、次の三つである。

・主観(認識する主体)
・客観(認識される客体)
・第三のもの(イデア、カテゴリー、形式、言葉、基準枠、パラダイムなど)

つまり、認識するという行為は、主観が第三のものに基づいて、客観を(主観的に)「構成する」ことに他ならないことであった。この三つの要素のどれが欠けても認識とは言えない。一般にあることに対しては個人個人異なった認識をするのが普通である。ある人物に対して多くの人の間で認識が一致する場合、なんらかの政治的意図、群集心理、心理操作、徒党、結託、共謀などの要因が働いている可能性が高い。但し、当事者が意識または自覚できるとは限らない。いじめ、差別、排除、各種嫌がらせ、スケープゴードの発生はこのような場合に行われることが多い。これについては本筋からずれるので、またの機会にしたい。

通常の認識では、なんの制約条件もない場合、個人個人異なるのが普通である。これに関しては、黒澤明監督の映画「羅生門」で見事に描かれている。何故認識が異なるのであろうか。主観は動物としての人間同士でそれほど違うとは考えられない。客観は誰にとっても同じはずである。個々人で大きく異なるとすれば、「第三のもの」しか考えられない。「第三のもの」は人間が歳を重ねる過程で、公教育などの権力による刷り込みによって自明視されるようになる間主観的なもの、社会環境や家族からの影響、個々人ごとに異なる経験などによって、「経験的」に獲得されるもので、公的なものと私的なもののアマルガムとも言ってよいものである。つまり、この「第三のもの」は人間同士のコミュニケーションを可能にする一方で、認識の違いを齎す側面もある矛盾した性質を持つものである。

全ての人間に対して「第三のもの」が一致することはあり得ないことで、認識が各自異なるのは自然なことである。むしろ、認識の一致を強要するような世の中になれば、ファシズムや全体主義の兆候であろう。

以上のことを考慮すると、絶対の真理とか正しい認識などはあり得ないことである。相対主義の論拠である。それでも、人間は「真理」や「正しさ」を求めるものである。私個人は、想像を交えず、事実を淡々と述べているのが、人間としての理想的あり方と思う。私の自動作曲システムで言えば、採用した仮定で音楽を生成できれば、その仮定は一応正しいと言えるが、たまたまその仮定が正しかっただけであり、私自身が「正しい認識」を行ったというのは早計であろう。

人間として、「自己忘却」に陥らないためには、自分の持つ「第三のもの」への反省を行うしかないであろう。求められることは、「正しさ」ではなく、「責任」などの倫理的なものなのである。

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例えば、ニワトリの鳴き声。

日本では「コケコッコー」と鳴くと言われている。
米国では「クックドゥールドゥー」と鳴くと言われる。

こういう時こそ、フッサールの超越論的哲学(現象学)の出番である。同じものを認識しながら、表現が異なるのは、超越論的主観性の対象を構成する側面の表れである。認識が成立するための条件は一つではないから、超越論的主観性に個人差があろうがなかろうが関係ない。こういった慣習的な鳴き声は言語と同じく、恣意的ではあるが間主観的な共同妄想で、根拠を持つものではない。このような共同体ごとに呼び方が異なる慣習の中(生活世界)に住み込んだ人間は、成長するにつれ、共同妄想を自明のことと思い込むようになる。このような自明性が失われると人間は精神疾患に陥ることがある。精神疾患を持つ人たちとは、失われた自明性を求めて、「無意識」に世界を再構成しなければならない人たちのことを言う。「意識的」に再構成する人間は、科学者、哲学者の類である。いわゆる紙一重と言われる所以である。

実際、ニワトリの鳴き声を正確に表現可能であろうか。主観的構成が関与する限り、いかなる表現も正確な鳴き声でなく、恣意的なシニフィアンという言語の一側面に留まるだけであろう。言語の生成場面である。言語とは制度であり、真理ではない。

私にはカラスの鳴き声は、「アホー、アホー」としか聞こえないのであるが、「カー、カー」と鳴くと主張する人が多いのは不思議だが、当然である。

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 他者とは何か?他者とは他人のことではない。他人について認識する時、自分の認識という構成から逃れるものが必ず残る。この他人についての認識(構成)から逃れ、自分の知りえない他人の部分を「他者」と呼ぶ。自分の中にも他者は存在する。いわゆる「無意識」である。しかし、無意識を知りえない以上、無意識を巡る言説は全てフィクションである。フロイトは無意識(自分の中の他者)を発見したまではよかったが、語りえぬものを語るという矛盾に陥った。自己という体系も不完全なのである。
 
 他人について、認識(構成)が及ばず、知りえぬ側面が「他者」であるから、他者とは自分にとって存在しないものである。しかし、他人は明らかに、その他者を抱えて生きているのである。これは現実である。
 
 よく他者理解という言葉を聞くが、自分にとって存在しない「他者」を理解するということはあり得ないことである。他人の他者性を無根拠の想像で補えば、現実と全く異なる認識に至り、他人に暴力的な迷惑を与えることになる。理解と言えば聞こえが良いが、事実を言えば、他人を自分の論理の支配下に置き、知りえないはずの他人の「他者性」を想像(妄想)で補い、決め付けという暴力を振るい、他人を傷つけて、満足しているだけなのである。ただし、臨床の場で、クライエントとその手の専門家同士で、契約の元で、合法的にカウンセリングなりが行なわれることには文句は言わない。精神分析などでも、分析者がクライエントを理解しようとするわけではない。あくまで言葉のやりとりというコミュニケーションの成立を目指すのみなのである。心理学に詳しい(?)つもりの素人が、(場合によっては多数で、)特定の人物をターゲットにした場合、そのターゲットが暴走に至っても、そのターゲットだけの責任ではないだろう。あくまでも、不法に干渉する側の責任で、巌に謹んで頂きたいものである。彼らは不幸が起きるのが嬉しいのであろうか。全く、人間性も理性も感じられない。
 
 中には理解しないと困ると考える人がいるはずである。そういう人間は理解とコミュニケーションを混同しているのである。他者理解は常にフィクションと誤解に終わるが、コミュニケーションは主に言語を介する情報のやりとりで、共通の情報を共有することであるから、あくまで可能である。商店やコンビニへ行って、店員さんとコミュニケーションを図って、何が欲しいか伝え、お互いに情報が共有され、所望のものを得ることができるのは日常のことであろう。その時、店員さんをまず理解しなければならないと考え、理解しようとすれば、トラブルは避けられないであろう。理解を優先させた場合、永遠に相手と倫理的関係に入れないことを自覚すべきである。まず共感という人もいるが、テレパシーなどの超能力のない私には、とても期待に答えられないことである。
 
 感性、感情などが優先され、言葉や論理が軽視されるようになったのには危惧を覚えている。技術も芸術も、感性や感情でなく、言葉や論理の上に構築されるのである。感性や感情も言葉や論理で表現されなければ理解されない。確かに、受け手にとっては、感性や感情で済むのだろうが、創り手はそれでは済まさされないところがある。受け手しか存在しない社会とは死んだ社会であろう。
 
 いずれにしても、コミュニケーションだけで満足できず、他人を理解しようとする人は、その他人を苦しめていることを自覚すべきである。コミュニケーションを拒絶し、理解しようというのもおかしな話である。相手にあてつけ、嫌がらせをし、苦しめることに、快楽を覚えているようである。非言語的コミュニケーションも極力少なくするべきであろう。非言語的表現に対してこちらに理解を求めるほうが無理な話なのである。再度言うが超能力がある人などいないはずである。

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例.ロールシャッハのひげ

 最初の会社に入社したての頃、私は口ひげを蓄えたことがある。当時(1980年代)としては余程目立ったらしく、周りの人からいろいろなことを言われた。

部長「皆が怖がっている。剃りなさい。いつ反省するのかと思っていた。」
課長「自信があるなら、生やしていなさい。」
先輩「荒井さん、ひげが似合うな」
女性「同期でひとりだけ、お髭。素敵。」
同期「カッコいい。」
馬鹿「卑猥だ。」
馬鹿「ヒットラーみたいだ。」
同僚「気分の問題だろうな。気が変われば剃るさ。」
工場医「なんでひげを生やしているのか知りたいの。」

こんなものだったろうか。本当に人間とは他人に対しては何を言い出すやら分かったものではないが、それらを分析する価値はあるかも知れない。あなたなら、上の反応をどう分析します?
まぁ、目立つことはしないほうがよさそうだとは言えそうだが、ひげが濃い私は、生やしたり、剃ったりして楽しんでいるのが実情だ。
真相を言えば、ビル・エヴァンスのアルバムに口ひげを蓄えた彼の写真が載っていて、カッコよいと思い、いつか口ひげを生やしたいと思っていました。


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他人の言っていることこそ正しい?
 mixiで私のマイミクの一人の信条に驚いた経験がある。その人の言うことには、「私の言うことが間違っているのであり、他人の言うことは無条件かつ絶対的に正しい。」のだそうである。この命題の真偽はともかく、私自身の読書に対する姿勢は、この命題に沿っている。そうでなければ、読書などできないし、する意味もない。この私という主観に汚されない純粋な他者への歓待とも言うべきこの立場は興味深いのではないか。


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コメント(2件)
内 容 ニックネーム/日時
哲学への造詣がとても深いですね。
参考になり勉強になりました。
ひろたか えいほう
2010/05/02 10:01
とんでもありません。哲学系MLで調子に乗って書いたものです。被害妄想的なところもあり、恥ずかしいです。 きみだんご
2010/05/02 10:58



レヴィナスの思想
 レヴィナス哲学が本質的に倫理学であるならば、そこでは当然、善と悪とが問われる。
 悪は存在への固執に由来する。主体が自己の存在を肯定するために他者と関係する時、他者の他性は必然的に否定される。<他>は<同>によって承認される場合にのみ<他>でありうる。この関係に潜む暴力を、ヘーゲルは承認への闘争によって、それを翻案したサルトルは対他存在の論理によって描き出した。主体の生のこの求心的な運動は、レヴィナスにおいても本質的である。しかし、この運動は、苦痛と「ある」において限界を知る。苦痛は、苦しむ自己の存在に縛られ、存在から脱出できないことに由来する。極限において苦痛は、内世界的な活動からその意味と可能性とを奪い去る。残るは無意味な自己の存在の事実のみ。これに対し純粋動詞的な存在一般たる「ある」はさらに、主体の存在の自己性までもが消滅する体験として描かれる。光なく言葉なく、存在者の形なく、世界の分節も主体もなき存在の情態(創世紀1~2)。死も不可能な「恐ろしさ」。「誰」の情動でもなく「存在の意味」の問を立てる間もないこの存在の過剰は、忘却も安眠も許さぬ「存在の苦痛=悪」をなす。例えばサルトルの即自存在とも解釈されかねないこの存在の無意味な過剰はしかし、存在論的事実に収まらない。存在が究極的に倫理学的に無意味ならば、苦の名の下に行われるどんな暴力も最終的には悪ではなくなる。レヴィナスにとって、存在の無意味は、正/不正以前に存在自体に由来する悪の開示である。こうして存在に固執する限り、他者への暴力、苦痛、悪から逃れることはできない。
 主体が存在の悪と暴力とに耐えうるのは、苦痛が他者の苦痛を痛む形に二重化されるからであり、善によって予め方向・意味づけられ、予め「他のために在る」からである。レヴィナスにとって、善は存在から導出することができない。主体が社会において正義を要請せざるをえないとすれば、その要請自体に存在論的根拠はない。主体が自由に善を選ぶのではなく、善が主体を常に既に選択してしまっている(一方通行、不可逆性)。この点でレヴィナスは、自由と法との関係を論理的に解明しようとするカントとも岐れ、善のイデアが存在を超越するとしたプラトンを評価する。善は存在/非存在、自由/隷属の対立を超えた「意味の過剰」であり、存在の「何」ではない「存在のいかに」である。また「善による選択」の概念に、神による民の選択というユダヤ教の伝統を読むのは間違いではない。彼の努力は、神を絶対的他性として、常に現前から思考される存在問題から切り離すところにある。
 他に依存しない存在の自足(自律)を破り、他者への倫理関係(他律)の第一次性を説き、存在論の伝統を転倒させて第一哲学としての倫理学を主張するレヴィナスは、今日最も独創的な思想家の一人と呼ばれるに値する。


【ヴァルネラビリティ(可傷性・暴力誘発性)】
 レヴィナス倫理学の中枢概念の一つ。倫理主体の主体性は、悟性や理性によってではなく、感性において定義される。その意義は、主体の倫理性が、分析し、比較し、判断し、立法する知性の自由に左右されない、という点にある(カントの実践理性との相違)。レヴィナスにおいて、「責任」は意志的当為ではない。
 主著『全体と無限』でレヴィナスは、感性を、個体たる主体の正の「享受」に属す一様態だと考えていた。享受は、自らの生を自由に「味わう」こととして主体の生の本質的エゴイズムを基礎づける。「パンひとかけらのために他人を殺害する」、これがエゴイズムの論理である。
 第二の主著『存在とは別様に』を準備する過程でレヴィナスは、感性についての解釈を翻し、感性を享受の上位に置き、感性を享受と「可傷性」との二様態から成るものとした。生身の主体が、他者が振う暴力に傷つくという当然の事実をこえて、他者の負う傷に、その悲惨に傷つく、これが可傷性である。ただし、他者の悲惨を、目に見える事実上の貧困・病苦・負傷に限って理解してはならない。主体が関わってくる他者は、強者・富者であっても、その素顔(ヴィサージュ)においては絶対的弱者であり、素顔は、死を前にした悲惨の極みから主体に向けて「汝殺すなかれ」と呼びかけ、叫んでいる。ひとが他者の事実上の悲惨を前に心動かされざるをえないとすれば、それは、素顔の呼びかけを否応なしに感受する、他者の非現実的な悲惨に無感覚ではいられない感性の構造に由来する(差異に対する非・無関心)。素顔の呼びかけによって主体は、自らが課した訳ではない、自分の過失に由来しない他者の苦痛・死・悲惨に対する「責任」を呼び覚まされる。従って、主体が自由に責任を「引き受ける」(サルトル)のではなく、自由がその責任を問われるのである。
 感受と可傷性は感性の等根源的な二様態をなす。素顔の呼びかけに無反応ではいられない可傷性によって、主体は他者への応答に迫られる。その応答は、いかなる私的・公的利害とも共調しない無償の贈与をなす。素顔の呼びかけによって主体は、享受の利己的自由と無償奉仕との相反する二極に引かれる。可傷性は従って、主体を享受の外へと単純に連れ出す訳ではない。私的享受、つまり失うものなくしては、贈与の倫理的意味が失われる。享受が無垢ではないこと、すなわち、既に貧しい自分が更に与える苦痛を前に享受へ撤退することが暴力行使であり、存在が既に負債たることを告げる他者の素顔の呼びかけへの感受性(他律による開示)が可傷性の内実をなし、失う苦を超えて無償の贈与を行うのが責任の実現形態である。
 他者の苦を苦しむ感性である可傷性は、他人の痛みを”思いやる”といった道徳の能力とは無縁であり、「他人の痛みは如何に理解可能か」という認識論上の問いとも関わりがない。それらの問いは、予め能動的で自律した主体を前提しているからだ。可傷性の概念によってレヴィナスは、主体を能動性によって定義する近代哲学の伝統と岐れ、主体を絶対的受動性・他律によって定義するのである。


【ヴィサージュ(素顔)】
 レヴィナス倫理学の中心概念。自我の機能の射程を超越する「絶対に他なる者」としての他者は「素顔」において出現する。
 レヴィナスは『デカルト的省察』の「第五省察」でフッサールが試みた他我構成の不備から出発する。その結果は、他者は私に似ている限りにおいて自我と同じもの、他我であり、その他者性は、自我の自己現前と違い間接的にしか与えられぬ所から消極的に導かれる。レヴィナスによれば、これでは、他者は私がそう認める限りでしか他者ではなく、私のこの世界に依存しない他者性が失われる。絶対的他者性は従って、他者が私の現前野の地平に現象しない所に求めなくてはならない。他者の非ノエマ的「公現」(エピファニー)、それが「素顔」である。
 この概念の源泉をユダヤ教の伝統に探ることは、理解の上で重要である。しかし、哲学的に考えることがこれに優先する。この概念は、現象しない他者の現前(公現)なる哲学上の難問を呼ぶ。現象せずにどうやって他者性が告げられるのか。
 他者は、強者も富者も例外なく弱さ・悲惨の極み(異邦人・孤児・寡婦ー申命記16-11)において私に否応なしに関わって来る。暴力に傷つき、今まさに死に行く者の眼差、これが素顔である。自己の死が現象学の超越論的自我の限界であったように(ハイデガー)、他者の死も現象学の限界をなす。死に行く他者を前にして私は、「汝殺すなかれ」、死に行くままになす(暴力)ことなかれ、との呼び掛けに応えるよう要請される(緊急性)。他者の顔を見たと思う時、素顔は死の方へ一歩先んじており、私の現在はすでに後れをとっている。応えるか否か、私の合理的選択の自由以前に私は他者の呼び掛けに捉えられる(「人質」オタージュ)。素顔はこうして、私の意味づける自由の権力性・暴力性を暴き、私を言葉による平和な、傷つけることなき応答、さらには他者の「身代わり」になるよう誘う(責任の構造)。私の主観性は、存在論的な自由以前に、他者への倫理的な関係によって定義される。「素顔」の概念によってレヴィナス哲学は、逆向きの、そして新たな超越論的哲学として読むことができる。


心の自由エネルギーとは?
 化学で重要になる物理量にGibbsの自由エネルギーがある。エネルギーとあるが、普通の意味のエネルギーではなく、Gibbsの自由エネルギーはエネルギーとエントロピーを組み合わせた概念である。Gibbsの自由エネルギーGは
    
      G=H-TS=E+PV-TS

で表され、Hはエンタルピー、Tは温度、Sはエントロピー、Eはエネルギー、Pは圧力、Vは体積を表す。
 一般に現象は、エネルギー一定、エントロピー増大の方向に向かって起きる。エントロピーとは乱雑さの尺度で、孤立系ではエントロピー増大、即ち、乱雑さが増加する方向に現象が起きる。Gibbsの自由エネルギー変化が正になるような現象は起こらず、Gibbsの自由エネルギー変化が負になる現象しか起こらないのは、現象の生起を通して、エネルギーは一定、エントロピーは増大するからである。
 物事はエネルギーだけでは決まらない。エントロピーも考慮しなければならない。
 心的エネルギーが減少とかいう表現があるが、あくまで、エネルギーは一定であり、エントロピーの増大により、高級なエネルギーが低級なエネルギーに変化するのであり、エネルギー量はあくまで一定である。
 以上は、物質の世界での話であるが、一般の物事にも拡張できるのではないか。エロスとタナトスという言葉があるが、タナトスとはまさしくエントロピー概念であり、フロイトはエネルギーの概念とエントロピーの概念を区別しなかったために、理論的に窮地に陥ったのではないだろうか。心理学の復権のためには、エネルギーの概念ばかりでなく、エントロピーの概念を的確に取り入れる必要があるのではないかと思う。
 心が乱雑になるのは自然な傾向であるが、それによって、ふと妄想が浮かぶのは、そのよい例ではないだろうか。心が乱雑になり、妄想が浮かぶことにより、心の自由エネルギーが低くなり、心が安定化するとは言えないだろうか。つまり、妄想が生れることにより、精神が安定化するということである。というより、人間は妄想を抱かざるを得ない存在といえよう。


認識と他者理解の暴力性
 認識するというのは学問に通ずる楽しい行為だが、自己ならざる他者の理解とは、知りえぬ他者を自己に同一化しようとする、征服であり、暴力ではなかろうか。相手が物質といえども他者である。相手が人間ならば言うまでもない。他者を知りえぬものとして、自己ならざる他者のまま許すありかたを探るべきであろう。理解するのではだめなのだろう。時には理解を断念することも必要だろう。
 私自身、自分を理解してもらう、というのは有り難いことであっても、時にそこに暴力を感じてきたのも事実である。私は理系であるから、物質の研究をしていたが、調べた物質に口が聞けたら、私が何と言おうと、それらの物質群も「心外」と言うだろう。相手が人間ならば、尚更であろう。人間には社交辞令というものがあるから、調子を合わせることも多いだろうが、内心は何を言われても「心外」ではなかろうか。人によっては、多く知れば知るほど、独我論の閉域にはまりこむだけかも知れない。
 認識対象は自己でも自己の知識でもない。認識したつもりでも、自己ないし自己の知識を発見しただけである。対象は神秘のままである。これは単純なことではなかろうか。知りうるのは自分のことだけであり、対象を認識したつもりでも、対象をきっかけとして自己ないし自己の知識を発見しただけというのが真実ではないだろうか。それが分からぬのは滑稽というものだろう。
 相手が馬鹿に見えたら、自分が馬鹿なのであり、病気に見えたら、自分が病気なのかも知れないよ!


知識欲と他者理解の暴力性について
 知識欲というふうに「欲」という言葉がついているから、知識欲も欲望の一種なのだろう。歳をとっても、食欲と知識欲だけは衰えない。その他の欲望には衰えを感じるが。外に散歩にでる以外の自宅でのほとんどの時間は読書に費やしている。読書依存症といった状態である。知識が増えると、理解できる領域も増えるので、読書はますます楽しくなる。スピノザのいう知的喜びである。認識とは喜びであり快楽である。最近は、辞典類の大型の書籍を読むことが多くなった。

・化学便覧
・情報処理ハンドブック
・人工知能ハンドブック
・エージェントアプローチ人工知能
・人工知能学事典
・MIT認知科学大事典
・現代数理科学事典
・現代物理学小事典
・現代数学小事典
・AI事典
・岩波哲学思想事典
・現代思想を読む事典
・現代哲学事典
etc.

などの書籍を気ままにめくっていると、時間が知らぬ間に過ぎる。なにもしないと時間がたつのが遅く、非常に辛いものがある。哲学や人工知能が学際的なので、ほぼ全ての分野を網羅している。
 知識欲を満たすことには、まだまだやる気がある。何か、面白い話題はないだろうか?
 認識するというのは学問に通ずる楽しい行為だが、自己ならざる他者の理解とは、知りえぬ他者を自己に同一化しようとする、征服であり、暴力ではなかろうか。相手が物質といえども他者である。相手が人間ならば言うまでもない。他者を知りえぬものとして、自己ならざる他者のまま許すありかたを探るべきであろう。理解するのではだめなのだろう。時には理解を断念することも必要だろう。
 私自身、自分を理解してもらう、というのは有り難いことであっても、時にそこに暴力を感じてきたのも事実である。私は理系であるから、物質の研究をしていたが、調べた物質に口が聞けたら、私が何と言おうと、それらの物質群も「心外」と言うだろう。相手が人間ならば、尚更であろう。人間には社交辞令というものがあるから、調子を合わせることも多いだろうが、内心は何を言われても「心外」ではなかろうか。人によっては、多く知れば知るほど、独我論の閉域にはまりこむだけかも知れない。
 認識対象は自己でも自己の知識でもない。認識したつもりでも、自己を発見しただけである。対象は神秘のままである。これは単純なことではなかろうか。知りうるのは自分のことだけであり、対象を認識したつもりでも、対象をきっかけとして自己ないし自己の知識を発見しただけというのが真実ではないだろうか。それが分からぬのは滑稽というものだろう。


酒の効用
酒を巡ることわざに

・【酒は憂えの玉ばはき】:酒は心配や憂いを取り除き、忘れさせてくれるものだ。
・【酒は百薬の長】:適度な酒はどんな薬にもまさる効果がある。
・【酒の酔い本性忘れず】:酒によってもその人本来の性質はかわらない。

などがある。最近はコンビニでも酒を買える。私も「Suntory Whisky since 1937」を愛飲している。ウィスキーは甘口なので好きだ。
 歳をとると、どうしても悲観的になる。将来の心配や憂いは尽きることがない。水割りを一杯飲んだだけで、そのような心配や憂いは一切消え去る。不安な思いも一瞬にして晴れ、安心感と心地よさが体全体に拡がる。本当に酒とは不思議なものだ。
 適度な飲酒ならば、疲れも取れるし、気持ちも前向きになる。読書にも差し支えない。夜もよく眠れる。
 これからも、適度な飲酒を続けるつもりだ。酒に呑まれるのはまずいが、適度ならば問題あるまい。


博士の愛した数式について
 小説家、小川洋子の著した小説「博士の愛した数式」に出てくるのであるが、主人公の数学者が世界で最も美しい数式として愛した「exp(πi)+1=0」という数式について感想を述べる。
 これは美しいというよりも不可思議な恒等式である。記号については以下の通り。exp(πi)は自然対数の底eの(πi)乗。πは円周率、iは虚数である。
 超越数とは有理数を係数とするいかなる代数方程式の根ともなり得ない数のことである。例えば√2は無理数であるが、x^2-2=0の根だから超越数ではない。円周率πや自然対数の底eは超越数である。実数または複素数の中で、超越数でないもの(代数的数)は可算個しかなく、この意味で、実数、複素数の大部分は超越数である。
 ところで、exp(πi)=cosπ+isinπで、cosπ=-1,sinπ=0であるからexp(πi)=-1となり、exp(πi)+1=-1+1=0となる。
 以上のように、この短い数式には、数学の様々な概念が含まれる美しい数式といえる。


動物の攻撃本能とその抑止力(核兵器廃絶)
 もう40年以上前になるが、大学の教養学部にいた頃、ドイツ語の講義で、動物行動学者コンラッド・ローレンツの著書「ソロモンの指輪」の中の一編「モラルと武器(Moral und Waffen)」を読まされたことがある。同著によると、例外はあるが、人間以外のほとんどの動物が、聖書に書いてある「人もし汝の右の頬をうたば、左をもむけよ」という教えに、進化論的に発達した原理により、本能的に従っているようである。仲間同士で殺しあう動物は、基本的に人間だけである。
 犬やオオカミの持つ牙のように、動物は身体に付属した「武器」を持っている。それらの武器の「使用本能」を持つと同時に、一般の動物はそのような本能の解発「抑止本能」も、併せ持っており、仲間同士で殺しあうことは基本的にない。人間以外の動物同士の戦争などというものは聞いたことがない。これらの相補的な本能は、動物が進化の過程で、獲得したもので、もし、そのような仕組みがなければ、その動物は滅んでしまう。
 人間以外の動物にとって、武器は身体の一部で、それに対して、進化論的に本能が発達しても不思議はない。しかし、人間は自分の身体の一部ではない核兵器などの武器を発明してしまった。身体の一部であれば、進化論的に抑止本能を発達させて、戦争を防ぐということもできようが、核兵器を始めとする一般の人間の武器は、身体の一部ではないので、そのような本能を発達させるのは、原理的に不可能である。
 広島、長崎以外に原爆が投下されたことはまだないが、これは本能によるものではなく、人間の理性による抑止力であろう。従って、本能のように無条件に適用されるわけではあるまい。広島や長崎の記憶は風化させてはならない。したがって、いつまた、核兵器が使われるかは分からない。核兵器などが使われるのを防ぐには、基本的に核兵器の廃絶など、武器を廃棄する以外には、根本的に方法はないだろう。
 戦争を防ぐには、「人工的な武器」の廃絶以外には、根本的な方法はないだろうが、実際に全ての武器を廃絶するというのは、理想論ではあり得ても、現実には難しい話だと思う。最近の安保法案を巡る議論も、これと反対方向の議論になっている。自分だけ、武器を捨てるのは難しいからだろう。こちらが武器を捨てれば、相手も武器を行使できないということも、人間以外の動物の攻撃抑止本能には組み込まれているのであるが。これを、人工的に構築するのは非常に難しいだろう。やはり、武器の廃絶以外に方法はない。


地球温暖化(人類滅亡か?)
 地球温暖化の原因については温室ガス効果によるものと考えられているが、その背後にあるのは、地球全体の熱収支のバランスが崩れてきているということだろう。人類全体の生産活動によって生成される熱エネルギーが、放射冷却によって地球から宇宙へ放出される量よりも、大きくなってきているのである。したがって、温室効果ガスの排出を削減をしたからといって、すぐに地球温暖化が止まるわけではない。温室効果ガス濃度が同程度でも、地球全体の熱収支が改善されない限り、地球温暖化は進むことになる。地球温暖化を止めるためには、温室効果ガスの排出を削減するばかりでなく、人類全体の生産活動を抑え、生産活動による熱エネルギーの放出を抑える必要がある。効率が100%の熱機関は存在しない。どのような熱機関を用いても、利用できない部分のエネルギーは熱エネルギーとして放出される。熱機関によるエネルギーのほぼ70%は熱に変化してしまう。
 人類全体の生産活動を抑えるというのは、大げさな話だが、経済活動と直結する問題なので、発言するのも憚れ、生産活動を抑えろと主張するのは勇気がいることだが、本当の話であろう。地球温暖化といえば温室ガス効果を連想するのが普通だろうが、人類全体の生産活動量を連想する人は少ないようである。
 地球温暖化と同時に冬の寒冷化という矛盾することも生起しているので混乱しがちだが、今日観たNHKの番組によると、地球温暖化により、北極海の氷が解け、寒気を閉じ込める効果をゆうする北極圏ジェット気流の速度が遅くなるため、北極圏の寒気が拡散することにより、冬の寒冷化が起こるとのことである。
 今年の日本の夏は記録的な猛暑であったが、オーストラリアは以前から、そのような現象が見られ、40度以上の猛暑も普通になったという。
 はたして、経済的発展を求めて、人類滅亡への道を選ぶか、人類全体の生産活動を抑えて、そのよう道を回避するのか。私が生きている間に人類滅亡ということはありえないだろうが、長い目で見た場合、私個人は人類の未来を悲観的に観ている。


老いの心境と寂(さび)の境地
「寂(さび)」とは芭蕉とその門下によって打ち立てられた詩的理念である。「寂」は、老年、孤独、あきらめ、静穏などを結合した中世の美意識を指向するが、同時に、多彩で庶民的な江戸時代の文化をも内包している。時には茶の湯の美的理念である「侘(わび)」の同義語として、また、「侘」と組み合わせて使われる。
 藤原俊成は、「寂」の関連語「さぶ」をはじめて使った高名な歌人であるが、海辺の霜枯れの葦といったイメージをひいて、内包する孤独と荒涼の意味を強調した。その後、中世の芸術家世阿弥や心敬は、「寂」の意味として荒涼に比重を置いたので、そこから生れる美は、かなり冷え冷えとしていた。この理念の底に流れるのは、中世仏教徒に典型的な宇宙観で、人間の実存的孤独を認識し、自らその孤独に身をまかせ、孤独の中に美を見出そうとした。
 芭蕉自身は、「寂」についてほとんど書いていないが、弟子たちの俳論から推し量ると、芭蕉の「寂」は中世の理念をかなり変えたものであったらしい。芭蕉は向井去来の次の句に「寂」を認めたという。

      花守や
      白きかしらを
      つき合わせ

このように、白い桜の豪華な美と、白髪の老人の無彩色の美という、美的に対立する価値を組み合わせることによって、孤独の意味をいっそう高めているのである。人生の無常に目覚めた人は、肉体の衰えや孤独をおそれない。それより、その事実を、静かなあきらめをもって受け入れ、そこに喜びの源泉さえも発見するのである。




sabi(寂)

Poetic ideal fostered by Basho and his followers. Sabi points toward a medieval aesthetic combining elements of old age, loneliness, resignation, and tranquillity(静穏), yet the colorful and plebeian(卑俗な、普通の) qualities of Edo-period culture are also present. At times sabi is used synonymously or in conjunction with wabi(侘), an aesthetic ideal of the tea ceremony.
Fujiwara no Toshinari, the first major poet to employ a sabi-related word (the verb sabu), stressed its connotations of loneliness and desolation(寂しさ) by, pointing to such images as frost-withered reeds on the seashore. With later medieval artists such as Zeami and Shinkei, the implications of sabi focused so heavily on desolation that the emerging beauty seemed almost cold. Underlying this aesthetic was the cosmic view typical of medieval Buddhists, who recognized the existential loneliness of all men and tried to resign themselves to, or even find beaty in, that loneliness.
Basho himself wrote little on sabi, but from his disciples' writings it can be inferred that his concept of sabi was a considerably modified version of the medieval ideal. Basho is said to have found sabi in this haiku(俳句) by his disciple, Mukai Kyorai:

Two blossom-watchmen
With their white heads together
Having a chat

Such a synthesis of conflicting aesthetic values --- the gorgeous beauty of the white cherry blossoms and the "colorless" beauty of white-haired old men --- elevates loneliness to a higher level of meaning. A person awakened to the essential mutability(変わりやすさ) of life does not dread physical waning(衰え) or loneliness; rather, he or she accepts the sad facts with quiet resignation(あきらめ) and even finds in them a source of enjoyment.



これからの目標
 私は仕事で、電気工学や人工知能をやっていたが、これは不本意なことだった。大学時代は物理の勉強をしたかったが、不本意ながら、工業化学科に進学した。物理は勉強できなかったが、それに近い物理化学を勉強することができた。
 社会に出て、周囲から、人間、人間と言われ、翻弄されてきたが、私はもともと理系の人間であるし、この先何年生きるか分からないので、初心に戻るつもりだ。今現在、なんら、社会的責任もない身分であるから、構わないと思うが、何か、まだ、社会的制約を感じてしまうのである。うしろめたさを感じてしまうのである。さほど経験とは恐ろしいものである。理系の私が理系の勉強をするのにうしろめたさを感じてきたのが、私の人生なのである。理系が理系の学問をやらなくて、世の中はどうなってしまうのだろうか。いずれにしても、改めて、社会の理不尽さを痛感する。社会を離れても、社会を意識しなければならないとは、人間が社会的動物であるにしても、無意識に人間の自由や幸福を制約するものではなかろうか。私も晩年は堂々と自分のやりたいことをやろうと思う。と言っても学問的な話であるが。
 電気工学や人工知能の知識も無駄ではないだろう。大学時代は水素社会などのエネルギー問題などもかじったので、其の方面の勉強もしようと思う。そんなことをしたって、無駄だし、しょうがないのは理解しているが、人生、何もしないでいるのは非常に辛いものがある。ただでさえ役立たずなのに、尚更、無力感を感じ、虚しくなってしまうのである。
 今日は、放送大学の古い教材である「現代物理学」をひっぱりだして読んだのであるが、たとえ、今後役に立たないにしても、懐かしい気分に浸れたのはいいことではなかろうか。この本を教会に持っていこうかと思う。結構、この手の話題も多いからである。


父の思い出
過去のブログから父(荒井徳蔵)に関する記事を転載致します。

ホットケーキ
 ヤマサキのホットケーキサンド(メープル&マーガリン)(110円)を買ってみた。懐かしい味がした。
 子供の頃、両親は外出すると必ず外食に連れていってくれた。外出して外で食事をしないことはなかった。大抵、ペコちゃんで有名な不二家に行くことが多かった。「あっ、ペコちゃんだ」と言うと、不二家の中に連れていってくれた。私の注文は決まってホットケーキ。ホットケーキ2枚にシロップとバターが付いていた。暖かいホットケーキの上にバターを塗ってシロップをかける。それをナイフで切ってフォークで食べる。懐かしいはずだ。あの当時の味だ。
 小さな子供がナイフとファークを器用に操るので、親戚も面白がった。
 もう、あの頃には戻れないけど、また食べてみたいのが暖かな本物のホットケーキだ。


 鈴木大拙の「禅学入門」を流し読みしていたが、禅が人間を論理、言葉(概念)から自由にするものだとしても、その非論理性を支えているものは、日常言語であり、通常の論理であるのではないかという思いを強くした。そうでなければ、そもそも、日常のコミュニケーションも不可能だろう。
 禅とは青い鳥を探している人間に、幸福や真実が遠いところにあるのではなく、足元の日常の生活にあることを教えるものだ。日常の経験や生活を丁寧に味合うことを教えるものだ。公案は難しいので、深遠な理論があるのだろうと錯覚するが、そのようなものはないようだ。
 母は早食いの私に、よく味わって食べるように諭したものだ。これも禅である。父は時折、私に禅問答もどきの問いを発し、私を黙らせた。これも禅である。
 曇天の梅雨の日に、紫陽花の花は鮮やかに咲く。しかし、紫陽花と気付く前に、その花は何であったか。現象学との関係は如何。


囲碁と酒
 子供の頃、父はよく将棋の相手をしてくれた。決まって、棒銀で攻めてきて、私は防戦一方で、いくらやっても適わなかった。囲碁も教えてくれたが、私にはよく分からなかった。就職し立ての頃、私の給料はほとんど酒代に消えた。こんな私の親とは信じられないのであるが、父は酒一滴も飲めない体質であった。囲碁と酒に関しては父と私はすれ違いであった。若い頃、囲碁の本を買って帰った私に、教えてやるからと言っていたが、私のほうは乗り気になれなかった。酒はともかく、私も囲碁を本気でやっていたなら、父の相手をできたのだろうなと思うと残念である。また父が酒を飲めたら、親子関係も随分違っていたと思う。
 最近まで父は電話をよくくれた。決まって、俺は大丈夫だ、お前の方はどうだ、と言う内容だった。だから、私は父が元気だと思っていた。先日は夜の11時半に電話をくれた。入院先の病院からだった。それが最後のメッセージになりそうなのだ。今日、病院に行ったところ、治療法がもうないのだそうだ。安定剤と薬で父はほとんど寝ているばかりになってしまった。一昨日行った時には起きていたが、機嫌悪そうだった。夜の11時半とはその夜のことだった。私がまた行くからと言ったら、安心したように電話を切った。本当にその時の声が最後に聞く声になってしまったようなのだ。
 最後に私の一人住まいの家に来た時は、父はなんとトイレの掃除をして帰った。囲碁以外に何も関心のない父であったが、日常では極めて几帳面で、だらしのない私を叱った。偉そうなことを言う前に、当たり前のことができる人間になれ、というメッセージのようだった。
 あとどれだけ生きてくれるのかわからない。目を覚ましてくれるかもわからない。しかし、これからしばらく、病院通いをするつもりだ。
 父が酒を飲めたら、そして私も囲碁の相手ができていたなら、と思うと残念でならない。父と酒を酌み交わしたかった。
 子供が頑張るのは親のためだ。それが親孝行だ。私は勉強でも仕事でも頑張ってきたとは到底言えない親不孝ものだ。本当に後悔先に立たずとなってしまった。



父の訪問 
 本日11月28日に父が私の家へ来てくれた。母の月命日である。
 冬用の洋服を持ってきてくれた。父とは事情があって同居していない。病弱の父のことが心配であるが、本人の事情があるので仕方がない。父はもう囲碁をやらないようである。
 父ももうすぐ80歳である。元気を取り戻して長生きして欲しい。とぼとぼ自転車で去っていく父を見て、私は寂しく、悲しくなった。



(亡き父のために)
 去年、父を亡くして、寂しいです。短気で怒りっぽい父でしたが、気前がよく、私には生前贈与までしてくれました。相続時精算手続きをしてありますが、他の相続分もあるので、どう処理するかは、弁護士さんと税理士さんにお任せしています。父は本当に私のことを心配していました。私のマンションにも何回か来て、一度はなんとトイレの掃除をして帰りました。几帳面な性格で、だらしない私をよく叱りました。私自身は他の人たちからは、非常にきちんとした人間と思われていますが、父はそれ以上でした。学もない父でしたが、碁が滅法つよく、私のへ理屈など退け、当たり前のことだけを言う父でした。晩年は少し認知障害があり、知り合いに電話ばかりしていたようです。私のところへも夜昼かまわず電話をしてきましたが、父の声を聞くと、何故か私は嬉しくなりました。もう、その声も聞けません。私のマンションにも二度と来てくれません。81歳になってから、歩けなくなって、老人ホームに入居しましたが、私は毎週、お煎餅とお寿司を買って見舞いに行きました。とにかくお煎餅が好きな父でした。誤燕性急性肺炎で、菊名記念病院に緊急入院しましたが、三日後の平成23年9月13日17時04分に死去しました。三日間は毎日、私は病院に通いました。息が荒く、少し苦しそうでしたが、結局呼吸不全で息を引き取りました。人の最後を看取るのは初めてでした。人工心肺などで延命措置をするか、自然に息を引き取るのを待つか、医師から決断を迫られました。延命措置をとると、遠くの病院に入院させなければならないし、本人も苦しむし、家族の負担も大きくなるからと、医師も延命措置には反対しました。弟も面倒なことは嫌だと延命措置に反対しました。私はどんなことになっても父には生きていて欲しいという気持ちで一杯で、泣きたくなりましたが、男ですから、涙を堪えて、医師と弟の意向に従わざるを得ませんでした。結構長い時間黙っていましたが、物凄い葛藤がありました。弟のことも少し冷たいと思い憎らしく思いました。もう少し迷ってもいいのじゃないでしょうか。父の早い死を願うというのはどういうことでしょうか。父の最期のことは今でも忘れられません。通夜には、私ひとりで、一晩中父の遺体と共にいました。広い斎場にはだれもおらず、電子キーの番号だけを斎場の人に教えてもらい、朝5時頃自分で鍵を開け、コンビニに弁当を買いに行き、食べました。一晩中、ときどき棺の窓を開け、父の顔を見て、いろいろ話しかけました。普通、こんなことは、ひとりでは怖くてできないのでしょうが、私は平気な性分なのです。私の父なのですから、怖いとは思いませんでしたが、普通の人にはできないかも知れませんね。弟家族も帰ってしまうのは、少しおかしいですけどね。皆で、一晩中、見守るのが普通でしょうけどね。弟はかなりの額の父の預金を勝手に引き出していることが、弁護士さんと一緒に調べて分かっているのですが、自分の弟ですから、どうしたものかと思っています。本当に弟は調子がよくいい加減なんですが、人が良さそうで皆に好かれます。私と反対です。
 母の死後、父は若い女性にお世話をしてもらっていたのですが、普通なら家族として、私は反対する立場だったでしょうね。しかし、私は高齢の父には幸せに好きなように暮らして欲しかったので、反対しませんでした。6年前までは、主治医は現在とは異なる小堀先生という方に診てもらっていました。父のことを話すと、小堀先生も、私のことを、人間として分からない人だなぁ、と言っていました。父はその女性と小さなアパートで暮らしていました。私の一人暮らしも11年目です。6年前に実家から現在のマンションに移りました。実家は広かったので、現在のところは部屋が三つあるにしても、私には狭いです。ピアノと楽譜と本とパソコンとテレビしか置いてありません。夜が来ると寝るだけです。父の居場所に私も何回か訪問したのですが、いくつかの部屋のひとつの6畳間の狭い部屋で、エアコンをつけて、一日中お煎餅を食べながら、座椅子に座ってテレビを見ていたようでした。居心地が良かったのでしょうね。その女性は看護婦さんで、父のことを、お父さんと呼んでいました。近所には荒井家の本家もある場所でした。本家は海苔問屋をやっています。その女性と父と私で、今後のことを話し合ったこともあります。その女性も、父の世話には限界を感じていて、いろいろな経緯から、結局、東電関連の樅の木という介護付き老人ホームに入居することが決まったのです。父は東電OBですので、すぐに入居できました。福島の原発事故以降は、東電も資産を売却し、現在は大和ホームが経営しています。関係ないですが、原発事故は、私にとっても想定外で、今後のエネルギー政策に関心を持っていますが、簡単に脱原発には賛成できません。大学、東芝、とエネルギー関係の仕事をしていたので思うのですが、技術的に不安定な供給しかできない再生可能エネルギーへの転換は簡単ではありませんし、火力に頼って、地球温暖化防止に逆行するのもどうかと思います。東電他、他の電力会社にも儲けてもらって、安定した電力供給を続けて欲しいですね。東電が潰れるということは、日本の終わりと考えていいと思いますよ。もちろん、私が決めることではありませんが、原発再稼動は必要悪と思います。



私のツイート集から
 センターでは今日はカラオケ大会で、桶(オケ)にもいろいろあって、私は一人で風呂桶で歌っていたほうが気持ちがいいね。皆、いつか棺桶に入れられてしまうが、その中でも歌えたらいいね。親父は歌っていたよ。本当だよ。まぁ、私にしか分からないだろうね。本当は悲しくて泣きたいよ。




今年の立秋
 今日、8月8日は立秋だ。暑さも峠を越して立秋の声を聞くようになると、急に涼風がそよぐ時期になる、と言われるが、連日猛暑が続いた関東でも、今日は暦どおり、本当に少しは涼しくなった。昔中国ではこの時期をさらに5日を一候とする三候(涼風至、白露降、寒蝉鳴)に区分したという。それは、秋のそよ風が吹き、草葉に露を結び、ひぐらし(寒蝉)が鳴きすさぶ時期の意味である。
 亡き母は、こういう気候の話をするのが好きだった。もし、生きていたら、今年の記録的な猛暑のことをどう言っただろう。そして、3年前に父も死んだ。私は淋しい。結婚していて、子供でもいたらと思うが、今更どうしようもない。父母のことを思っても寂しさを増すばかりであったが、最近、聖書をよく読むようになって、神様がともにいて下さるのだと感じられるようになって、寂しさも和らぎ、調子もよくなり、気分も落ち着くようになった。
 午前中にお弁当屋さんが持ってくる朝食を食べてから、久しぶりに川崎方面に自転車で出かけた。サンクスで緑茶を買い、多摩川沿いの南河原公園のほうまで足を伸ばした。確かに、今年は暦どおりの立秋の訪れである。さして暑くもなく、清々しい散歩ができ、気分もリフレッシュした。


イエスの教えたこと
 福音書の語るさまざまなことのうちで何を重視すべきかについては、信仰者の意見も、学者の意見も、極めて多様である。イエスの受難と死による全人類の罪の贖いをか、復活による永遠の生命への先導をか、審判と終末の告知をか、愛と希望の教えをか。それにより、教派も学派もわかれる。私は一人の、信者でも専門家でもない者として、イエスの教えの内容のうちの、律法の基礎・完成としての愛の教えと、弱く貧しく苦しむ者への福音を、もっとも私に語りかけるものとして、福音書の中核として読みたい。
 最近、教会へ通うようになったが、聖書に見られるイスラエル的ヘブライイズムというものは、ヘレニズム的な徹底的に普遍的・一般的なものの学問訓練を受けた私には、なかなか難しいと思う点も多いが、毎週、教会で礼拝させて頂くことは、大変勉強になっている。
 教会の皆様も、このブログを読んでおられるとののことで、これからも宜しくお願い致します。


京急の警笛
 平成21年に現在の住所に転居してきてから、7年近くなる。最近、何故か静かになったので不思議に思っていたのであるが、私の現在の住居から60-70m手前のところを足っている京急の電車が警笛を鳴らさなくなったのに、ここようやく2~3日たってから気づいた。しばらく、工事をしていたので、何をしているのかと思ったが、京急の電車が警笛を鳴らさず済むように、システムを改築していたらしい。警笛以外の電車の通る時に生じる騒音や振動は大きくはないので、現在は窓を閉めていれば電車が通っても気づかないほどである。
 私は騒音に弱いタイプで、ここ10年ばかりの間、騒音問題に悩まされていた。騒音は精神にダメージを与えるので、騒音に弱いタイプの人々がいることへの配慮や精神的ダメージへも配慮して頂きたい。近辺のパチンコ店も自主的に騒音規制に取り組み始めたようで、私が総務省の苦情窓口や自治体の騒音トラブル窓口に通報したのも理由かも知れない。
 京急の警笛が聞こえなくなったので、私の住居に音環境は改善されたようだ。音楽や読書に専念するには私の環境も良い方向に向かっているようである。ここ10年ばかり、騒音問題などに悩まされ、失われた歳月のさまざまな代償は計り知れないが、私もあと何年生きるか分からないので、前向きに頑張ろうと思う。もう、これ以上は良くならず、今が全て、と思って、何も望まず、未来にも期待すまい。


聖書の中心テーマ
さまざまな内容をもっ六十六の書物から聖書は出来上がっていますが、そこには一貫したテーマがあります。

1.天地万物を創造した人格的な神、義と愛の神が存在し、一切のものを究極的に支配されているということ。
2.その神のかたちに創造された人間は、神にそむき罪を犯すようになってしまったということ。
3.その人問を救うために、神はまずアブラハムを選び、かれの子孫を神の民として用意したこと、そしてその民のひとりとして神の「ひとり子」イエスが生まれ、メシヤ=キリストとして人類を救う計画を実現したということ。
4.聖霊の働きによってキリストを信じるようになった神の民たちは、教会を形づくり、神のみこころにしたがって生きることを通し、この世界で神の栄光を現すよう期待されていること。
5.救いは終末においてキリストが再び来られることによって、最終的に完成すること。

旧・新約聖書の内容は、この五つのポイントのどれかに関係しているといえるでしょう。


死に打ち勝つ仕事の役割(聖書より)
詩編
49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。
49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。
49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。
49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。
49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

伝道者の書
3:19 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
3:20 みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。
3:21 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。
3:22 私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。


聖書にみるキリスト教の「愛」の本質
【ローマ人への手紙】
13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

【ヨハネの手紙第一】
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

【コリント人への手紙第一】
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

【ガラテア人への手紙】
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。


私がよく陥る状態と、それに対する聖書の言葉
 私は時々、何もしたくないのでもないが、気力が失せ、一日中なにもせずグッタリとして過ごして、余計に疲労感を感じてしまうことがある。今日も今頃の時間になってから起きだして、両親の写真を前で、リコーダーを吹いてみたり、メルマガで購読している聖書関連の記事に偶然出会って、少なからず、癒される経験さえもしばらく以前から続けてている。

783.マタイの福音書
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


の箇所から、「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」とあるから、教会での礼拝を守ることだと解釈しておく。間違っていたら、ご指摘願いたい。余計なことを心配しなくても、神が用意してくれということあろうか。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
(マタイ12:7)
But if you had known what this means, ‘I desire compassion, and not a sacrifice,’ you would not have condemned the innocent.
(Matthew12:7)

それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。命を救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
(マルコ3:4)
And He said to them, “Is it lawful to do good or to do harm on the Sabbath, to save a life or to kill?” But they kept silent.
(Mark3:4)

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
(マタイ22:36ー40)
“Teacher, which is the great commandment in the Law?”
And He said to him, “‘You shall love the Lord your God with all your heart, and with all your soul, and with all your mind.’
This is the great and foremost commandment.
The second is like it, ‘You shall love your neighbor as yourself.’
On these two commandments depend the whole Law and the Prophets.”
(Matthew22:36-40)

私も、心配事も無気力感も神に任せてしまい、自然と力が湧いてくるのを待とう。先のことを思い煩っても仕方がないし、なるようにしかならん。私は全てを神に委ねるよ。アーメン。


大きな古時計&ジャズ・ピアノ
大きな古時計&ジャズ・ピアノ

作成日時 : 2006/01/21 20:27 >> ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 11


 今週は、最近知り合ってリコーダーのパートナーになって頂いている、鈴木隆さんと、1月17日火曜日午後7時から、私の自宅でアルトリコーダーの合奏の練習をした。2回目の練習である。楽譜は、全音楽譜出版社「新版アルトリコーダーテキスト(下)」田中吉徳編を使っている。鈴木さん、はかなりの熟練者らしく、次回でこのテキストは一通り終わってしまう程の早さである。今までは初見でやってきたが、後半はバッハ、テレマンが登場し、次回のためには、大分練習が必要な感触である。充分練習しようと思う。

 1月19日木曜日3時に、ピアノの斎藤先生のところで練習をした。いつも、まずハノンをやるが、自宅でハノンをやることはないのは怠け者の証拠であろう。DOREMIの「発表会に役立つ初級ピアノ小曲110選」という楽譜を見つけ、気に入ったのでこれを練習素材にしてもらっている。「初級」となっているが、発表会用なので、内容はかなり充実している。ベートーベンのトルコ行進曲を練習したが、トルコ行進曲とはどう弾くか勉強になった。その後、「大きな古時計」を弾いた。G-E7-Am-Adim-G(又はEm7)-D7-Gと転調が含まれている部分が泣かせる洒落た編曲である。ト長調であるが、B7-Em7-A7-(D7)-G(Em7)のところも良い。

 ピアノというのは両手で弾くのでかなり難しい楽器の一つだと思う。ピアノほど教則本の多い楽器はない。私の基本練習方針は簡単な曲をなるべく多くこなし、楽器に体を馴染ませることである。ツェルニー100番、30番の練習は毎日欠かさない。ピアノやギターのような和音を出せる楽器をマスターするには理論の理解も必要で、最低20年練習しなければ、聞けたものではないと思う。しかし、音楽の理解のためにはこれ程適した楽器はないと思う。

 話は戻るが、「大きな古時計」を初めて聞いたのは小学生の時だった。古時計が止まったのが、おじいさんの死を象徴するということは、子供心にも充分理解でき、悲しいが美しい曲だと思った。今はこの曲が、私の父の姿と重なるのである。そして人生の2/3以上を生きてしまった自分の姿にも重なるのである。子供の頃から太陽に寿命があることを知り、その知識とこの曲の二つは、私にある種の諦念を植え付けた。私の中にある諦念は、東洋思想の伝統とは全く関係なく、こういう理由によるものである。

 私は拙い指使いで「大きな古時計」を弾く。そして涙がこみ上がる。

 なんと悲しく美しい曲だろう。

***********************************

 ジャズ・ピアノと言えば、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリング、ケニー・ドリュー、ドン・フリードマン・・・・とかが我輩の好みです。我輩もピアノを18年ばかりやっておりますが、とてもとても、彼らの演奏レベルの足の裏にも及びません。でも、そんな人も多いんじゃないですか。そんな人たちに救いのCD付き楽譜があります。それは

藤井英一の
「ステップアップ・ジャズピアノ」
楽しく身につくセオリー&レパートリー集

という楽譜がヤマハから出版されています。技術的にはツェルニー30番以下で大丈夫です。ツェルニー100番は半分くらいやっていたほうがよいかも知れません。バイエルは言うまでもありません。藤井英一さんは大橋巨泉に日本のオスカー・ピーターソンと呼ばれたとか言われます。この楽譜には「私の音楽歴」で藤井英一さんの自己紹介があります。

技術的には難しくはないのですが、シンコペーションやスウィング感を出すのは、クラシックばかり聴いたり弾いたりしている人には難しいかも知れません。ジャズばかり聴いてきた我輩には、そこの辺は問題ありません。クラシックを弾いても、スウィングしたり、弱拍が強くなってしまい、ピアノの師匠から笑われますからね。でもCD付きだから大丈夫だと思います。曲目は

・茶色の小瓶
・聖者が街にやってくる
・ブルー・レディーに紅いバラ
・スターダスト
・オール・オブ・ミー
・嘘は罪
・バイ・バイ・ブラックバード
・ブルー・ムーン
・朝日のごとくさわやかに
・デイ・バイ・デイ
・ス・ワンダフル
・テンダリー
・サムタイム・アイム・アッピー
・我が心のジョージア
・イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン
・アラバマに星おちて
・マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ
・明るい表通りで

シンプルな編曲なので、理論の知識があれば、再編曲し、ビル・エヴァンス風に加工芸術を楽しむことも可能です。アドリブフレーズも盛り込まれているので、アナライズすればアドリブも習得できる内容です。上記の如く洒落た選曲でもあります。いくらでも深読みが可能な楽譜です。

以前から気づいていたのですが、正式な音楽教育を受けた人たちの多くは、確かに演奏技術はしっかりしていますが、それ以外は苦手なようですね。。音楽に対して偏見や誤解を抱いているのは不思議です。音階には長音階と短音階しかないと断言する音大卒までいますから、日本の音楽教育には創造性を押し殺してしまうような致命的欠陥があるようです。事実、作編曲までこなすのは、むしろ、音大卒の人たちではなく、他の学部を出た人たちや、素人の音楽好きに多いものです。もちろん理論面まで詳しい音大卒の方はいます。

作編曲というのは一種の設計ですから、理系に作曲家が多いのもうなずけます。絶対音感とか感覚的なものは作編曲では重要ではなく、むしろロジカルな思考ができるかどうかが重要な点です。作編曲は英作文より簡単なはずです。音楽には意味論がなく統語論だけがあるだけですから。

「この世は美しいメロディーだ。但し語られる科白は無茶苦茶だ。」とかいう言葉があったと思います。音楽の世界はその科白がなく、美しい無意味な音の形式なのです。ただただ美しいはずです。

ところで、この我輩はインターネットの世界では社会学の先生になっていますが、どうしてなんでしょ。工学部卒業なんですけどね。(下記URLをみて確かめてみてね)

http://a.hatena.ne.jp/contractio/simple?gid=173015


それでは、また。


コメント(11件)
内 容 ニックネーム/日時
草笛演奏を趣味としておりますLeafmanです。7月22日の午後、故郷の公民館で、聴衆300人ほどで、コンサートがありました。当初は「大きな古時計」をピアノと合奏する予定でしたが、貴ブログを拝読し、これはピアノソロでなければならない、と確信し、当日、私は言葉でのイントロだけにしました。ピアニストも自分のおじいさんを想いながら演奏し、多くのお客さんも涙ぐみました。この1曲がコンサート全体を盛り上げてくれました。貴ブログに感謝申し上げます。 Leafman
URL
2006/07/25 12:41
Leafmanさんへ

コメントありがとうございます。私はリコーダーも吹きます。「大きな古時計」は名曲で、草笛やリコーダーの独奏でも充分鑑賞に堪える曲だと思います。次回は是非草笛で演奏して下さい。私の知人のリコーダー奏者小俣達郎さんは、道端に転がっている穴の開いた石ころなどを拾ってきて、それを楽器代わりに使って曲を吹いてしまいます。きっと、草笛と同じ原理を用いているのでしょうね。

いつか、草笛の演奏を聴けることを、祈っております。

それでは、これからも宜しくお願い申し上げます。 荒井公康
URL
2006/07/25 14:12
荒井様

ご返事のコメントありがとうございました。小俣達郎さんは、小生の尊敬する友人でもあります。荒井様のこと、小俣さんのこと、小生ブログ「一葉無限」に記しておりますので、ご笑覧いただけましたら幸いです。「大きな古時計」を草笛演奏できるように精進して参ります。どうぞよろしくお願い申し上げます。 Leafman
URL
2006/07/25 16:10
ミュージックソフトのご紹介ありがとうございました。「おおきな古時計」でご縁をいただき、感謝申し上げます。小生ブログからリンクを張らせていただきましたので、ご了承ください。貴ブログへの来訪者が増えるよう念じております。 Leafman
URL
2006/08/29 21:49
Leafmanさんへ

リンクを張って下さり有難う御座います。

LeafmanさんもブログだけでなくHPも持たれたら如何ですか。MIDIファイルの公開など、ブログよりも融通が効きます。URLのアドレスをプロバイダーから取得し、HPビルダーを使えば、3日以内で開設可能です。 荒井公康
URL
2006/08/29 22:10
ご助言ありがとうございます。小生自身も考えていることなのですが、なかなか踏み出せないでおります。もう少しPC全般の修行を積んでトライしてみたいと存じます。今後ともよろしくお願いいたします。 Leafman
URL
2006/08/30 09:15
Leafmanさんへ

これは「案ずるよりも生むが易し」だと思います。私はIBM(ソースネクスト)HPビルダーを使っていますが、「できるHP」とい本が付いていて、それに従えば、簡単にできてしまいます。ワープロのWordより単純です。転送ソフトも付属しています。Wordの方が凝ったページが作れ、それを混用しても、HPを作成できます。

いずれにしても意外と簡単です。

Perl,PHPなどとなると少しやっかいですが、そこまでやる必要はないと思います。 荒井公康
URL
2006/08/31 18:09
荒井様
 重ねましてのご助言ありがとうございました。「案ずるよりも生むが易し」を頼りに、踏み出すようにいたします。また、よろしくご指導ください。 Leafman
URL
2006/09/03 19:14
荒井様
 金曜日の夕方、秋葉原のヨドバシカメラに行き、Siger Song Writerを手に入れて参りました。値段と、草笛仲間の田中さんが使っているものですから、分からないところがあれば田中さんから、直接手ほどきを受けられると思い、このソフトにいたしました。なんとかインストールできましたが、使いこなすのは、まだまだ先になりそうです。ご示唆をいただき、ありがとうございました。 Leafman
URL
2006/09/11 09:23
Leafmanさんへ

私のお勧めしたソフトは小学生でも使えるもので、楽譜ワープロとしても使えるものです。ただ店頭販売でなく、注文しなくてはなりません。

「Singer Song Writer」の使い勝手はどういうものか分かりませんが、うまくいくことを願っています。 荒井公康
URL
2006/09/11 21:22
荒井様
 お勧めいただいたMusicProも、ヨドバシカメラでは店頭にありました。説明を読みますと、機能は分かりましたが、使い勝手までは分からず、中学生並みのを買ってしまったのかもしれません。田中さんの手ほどきに対する期待に併せ、価格に惹かれた面がかなりあります。
 無事インストールは済みましたが、時間がなくて、まだ「使って」はおりません。作品をお送りできるまでになれたら、と夢見ております。 Leafman
URL
2006/09/13 11:25





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