レヴィナスの思想
レヴィナス哲学が本質的に倫理学であるならば、そこでは当然、善と悪とが問われる。 悪は存在への固執に由来する。主体が自己の存在を肯定するために他者と関係する時、他者の他性は必然的に否定される。<他>は<同>によって承認される場合にのみ<他>でありうる。この関係に潜む暴力を、ヘーゲルは承認への闘争によって、それを翻案したサルトルは対他存在の論理によって描き出した。主体の生のこの求心的な運動は、レヴィナスにおいても本質的である。しかし、この運動は、苦痛と「ある」において限界を知る。苦痛は、苦しむ自己の存在に縛られ、存在から脱出できないことに由来する。極限において苦痛は、内世界的な活動からその意味と可能性とを奪い去る。残るは無意味な自己の存在の事実のみ。これに対し純粋動詞的な存在一般たる「ある」はさらに、主体の存在の自己性までもが消滅する体験として描かれる。光なく言葉なく、存在者の形なく、世界の分節も主体もなき存在の情態(創世紀1~2)。死も不可能な「恐ろしさ」。「誰」の情動でもなく「存在の意味」の問を立てる間もないこの存在の過剰は、忘却も安眠も許さぬ「存在の苦痛=悪」をなす。例えばサルトルの即自存在とも解釈されかねないこの存在の無意味な過剰はしかし、存在論的事実に収まらない。存在が究極的に倫理学的に無意味ならば、苦の名の下に行われるどんな暴力も最終的には悪ではなくなる。レヴィナスにとって、存在の無意味は、正/不正以前に存在自体に由来する悪の開示である。こうして存在に固執する限り、他者への暴力、苦痛、悪から逃れることはできない。 主体が存在の悪と暴力とに耐えうるのは、苦痛が他者の苦痛を痛む形に二重化されるからであり、善によって予め方向・意味づけられ、予め「他のために在る」からである。レヴィナスにとって、善は存在から導出することができない。主体が社会において正義を要請せざるをえないとすれば、その要請自体に存在論的根拠はない。主体が自由に善を選ぶのではなく、善が主体を常に既に選択してしまっている(一方通行、不可逆性)。この点でレヴィナスは、自由と法との関係を論理的に解明しようとするカントとも岐れ、善のイデアが存在を超越するとしたプラトンを評価する。善は存在/非存在、自由/隷属の対立を超えた「意味の過剰」であり、存在の「何」ではない「存在のいかに」である。また「善による選択」の概念に、神による民の選択というユダヤ教の伝統を読むのは間違いではない。彼の努力は、神を絶対的他性として、常に現前から思考される存在問題から切り離すところにある。 他に依存しない存在の自足(自律)を破り、他者への倫理関係(他律)の第一次性を説き、存在論の伝統を転倒させて第一哲学としての倫理学を主張するレヴィナスは、今日最も独創的な思想家の一人と呼ばれるに値する。
【ヴァルネラビリティ(可傷性・暴力誘発性)】 レヴィナス倫理学の中枢概念の一つ。倫理主体の主体性は、悟性や理性によってではなく、感性において定義される。その意義は、主体の倫理性が、分析し、比較し、判断し、立法する知性の自由に左右されない、という点にある(カントの実践理性との相違)。レヴィナスにおいて、「責任」は意志的当為ではない。 主著『全体と無限』でレヴィナスは、感性を、個体たる主体の正の「享受」に属す一様態だと考えていた。享受は、自らの生を自由に「味わう」こととして主体の生の本質的エゴイズムを基礎づける。「パンひとかけらのために他人を殺害する」、これがエゴイズムの論理である。 第二の主著『存在とは別様に』を準備する過程でレヴィナスは、感性についての解釈を翻し、感性を享受の上位に置き、感性を享受と「可傷性」との二様態から成るものとした。生身の主体が、他者が振う暴力に傷つくという当然の事実をこえて、他者の負う傷に、その悲惨に傷つく、これが可傷性である。ただし、他者の悲惨を、目に見える事実上の貧困・病苦・負傷に限って理解してはならない。主体が関わってくる他者は、強者・富者であっても、その素顔(ヴィサージュ)においては絶対的弱者であり、素顔は、死を前にした悲惨の極みから主体に向けて「汝殺すなかれ」と呼びかけ、叫んでいる。ひとが他者の事実上の悲惨を前に心動かされざるをえないとすれば、それは、素顔の呼びかけを否応なしに感受する、他者の非現実的な悲惨に無感覚ではいられない感性の構造に由来する(差異に対する非・無関心)。素顔の呼びかけによって主体は、自らが課した訳ではない、自分の過失に由来しない他者の苦痛・死・悲惨に対する「責任」を呼び覚まされる。従って、主体が自由に責任を「引き受ける」(サルトル)のではなく、自由がその責任を問われるのである。 感受と可傷性は感性の等根源的な二様態をなす。素顔の呼びかけに無反応ではいられない可傷性によって、主体は他者への応答に迫られる。その応答は、いかなる私的・公的利害とも共調しない無償の贈与をなす。素顔の呼びかけによって主体は、享受の利己的自由と無償奉仕との相反する二極に引かれる。可傷性は従って、主体を享受の外へと単純に連れ出す訳ではない。私的享受、つまり失うものなくしては、贈与の倫理的意味が失われる。享受が無垢ではないこと、すなわち、既に貧しい自分が更に与える苦痛を前に享受へ撤退することが暴力行使であり、存在が既に負債たることを告げる他者の素顔の呼びかけへの感受性(他律による開示)が可傷性の内実をなし、失う苦を超えて無償の贈与を行うのが責任の実現形態である。 他者の苦を苦しむ感性である可傷性は、他人の痛みを”思いやる”といった道徳の能力とは無縁であり、「他人の痛みは如何に理解可能か」という認識論上の問いとも関わりがない。それらの問いは、予め能動的で自律した主体を前提しているからだ。可傷性の概念によってレヴィナスは、主体を能動性によって定義する近代哲学の伝統と岐れ、主体を絶対的受動性・他律によって定義するのである。
【ヴィサージュ(素顔)】
レヴィナス倫理学の中心概念。自我の機能の射程を超越する「絶対に他なる者」としての他者は「素顔」において出現する。 レヴィナスは『デカルト的省察』の「第五省察」でフッサールが試みた他我構成の不備から出発する。その結果は、他者は私に似ている限りにおいて自我と同じもの、他我であり、その他者性は、自我の自己現前と違い間接的にしか与えられぬ所から消極的に導かれる。レヴィナスによれば、これでは、他者は私がそう認める限りでしか他者ではなく、私のこの世界に依存しない他者性が失われる。絶対的他者性は従って、他者が私の現前野の地平に現象しない所に求めなくてはならない。他者の非ノエマ的「公現」(エピファニー)、それが「素顔」である。 この概念の源泉をユダヤ教の伝統に探ることは、理解の上で重要である。しかし、哲学的に考えることがこれに優先する。この概念は、現象しない他者の現前(公現)なる哲学上の難問を呼ぶ。現象せずにどうやって他者性が告げられるのか。 他者は、強者も富者も例外なく弱さ・悲惨の極み(異邦人・孤児・寡婦ー申命記16-11)において私に否応なしに関わって来る。暴力に傷つき、今まさに死に行く者の眼差、これが素顔である。自己の死が現象学の超越論的自我の限界であったように(ハイデガー)、他者の死も現象学の限界をなす。死に行く他者を前にして私は、「汝殺すなかれ」、死に行くままになす(暴力)ことなかれ、との呼び掛けに応えるよう要請される(緊急性)。他者の顔を見たと思う時、素顔は死の方へ一歩先んじており、私の現在はすでに後れをとっている。応えるか否か、私の合理的選択の自由以前に私は他者の呼び掛けに捉えられる(「人質」オタージュ)。素顔はこうして、私の意味づける自由の権力性・暴力性を暴き、私を言葉による平和な、傷つけることなき応答、さらには他者の「身代わり」になるよう誘う(責任の構造)。私の主観性は、存在論的な自由以前に、他者への倫理的な関係によって定義される。「素顔」の概念によってレヴィナス哲学は、逆向きの、そして新たな超越論的哲学として読むことができる。
現代思想を読む事典「講談社」より
人間は、自己を中心にして存在を全体化し、その全体性の世界に固執して、他者からの呼びかけに耳をふさぎ、他者に暴力をふるう。自己を中心に築かれた世界への固執が、イリア(ただ、あるだけという意味)と呼ばれる無意味な過剰な存在を生みだす。イリアは、無意味で不気味な存在として人間に重くのしかかるが、人間が自己の全体的世界に固執していることが無意味で過剰なイリアを生みだすのだから、自己に固執している限り、そこからの脱出口はありえない。出口を与えるものは、自己を無限に超越した他者との出会いである。他者は、自己の世界を無限に超越した他なるものという意味で「顔」と呼ばれる。他者の「顔」は貧困・暴力・死の恐怖におびえながら私をみつめ、「汝殺すなかれ」という倫理的命令を呼びかけてくる。私は自己の利益と享受をこえて、他者を倫理的に迎え入れ、他者の苦痛に責任をもつ時、無限の世界へと開かれて、そこで倫理的な主体となる。他者に呼びかけられ、他者に奉仕するために選ばれているということが、私の倫理的な主体性を形づくる。
レヴィナスの哲学は、他者との倫理的出会いを突破口として、自己の内在的世界から無限への脱出を説く、極めて倫理性の強い哲学である。そこには、ギリシア哲学が普遍的なロゴス(理性・論理)によって概念的に全体化した存在を、他者なる神との出会いというユダヤ教的体験によって打ち破り、他者への倫理的責任を引き受けることによって、無限へと脱出しようとする、レヴィナスの独自の視点がある。
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