「余命1年」と宣告された人間の生き方

 

「僕の生きる道」という、ドラマが今、放映されている。

あれを観たあと、自分があと余命1年だったら、どうしようなどと考えてみた。
別に医者だから死なないなんてこともなく、僕自身もいつか死ぬのだし、
医者として自分の患者さんが亡くなられたこともあるし、自分の親を看取ったこともある。

よく、「死ぬ前に、めいっぱい好きなことやってから死にたい」なんて話を聞くけれど、
僕の経験上は、そんなに好きなことばっかりやる人は、ほとんどいない。

 

 まず第一に、余命がわかるような癌のような消耗性の疾患に罹患している場合、倦怠感が強くて、何もやる気が起こらない、という人がけっこう多い。食事だって、いわゆる「美味しいもの」は、味が強すぎて入らなくなってしまったりする。

 第二に、好きなことって、何?ということだ。
 自分の趣味なんて、「いくらでもやっていい」と思うと、意外と面白くないものだ。
 毎日パチンコや競馬をやっても、きっと面白くない。
 だいたい、儲けたとして、そのお金をどうするのか?ということになる。

 でも、僕の母親は、癌の末期にやったことのないパチンコをやって「大工の源さん」の確率変動中の台を
「ずっと続いてばっかりで疲れたから」という理由で辞めてしまったそうだ(弟に聞いた話)。

 余命は少ないのに、今は暇。こういう状況の人間って、いたたまれないのではないだろうか。
時間をつぶしたいけれど、それももったいない。何かをしたいけれど、すぐにできることもない。
 それは、辛いなあ。

 結局、僕の知っている人たちは、日常を続けることを選んだ人たちが多い。
 もちろん、体が持ちこたえられる範囲でということになるのだけれど。

 だいたいみんな、病気をする前と同じように仕事をしたり、家事をしたりしている。
 それが、いちばん楽であり、充実しているんだろう。

 中には、自棄になり借金しまくって遊びまくったりする人もいるらしいけれど、多くの人は日常を続けながら、
子供と過ごす時間を増やそうとしたり、ときには旅行に出て想い出をつくろうとしたりしている。

 ただ、ひとつだけ言えることがある。
 死期を考えるようになった人間は、だいたい、他人のために何かしようとするのだ。
 自分がキツイ状況なのに、家の法事が終わるまではと入院を断ったり(いや、一応最近の若者である僕としては、
法事より…と思うし、実際、その人がいなくても他の家族が法事はちゃんとやってくれそうなのだが)、
子供たちに読ませるための日記をつけてみたり、会社の仕事を整理したりする。

 そんなことは、死んでいく自分のためには、何のメリットもないことなのに。

 たぶん、人間というのは、何か自分が生きた証を残したい生き物なのだ。
 だから、痛みにも耐えて、家族にきつい様子を見せまいともする。家族を心配させないために。
 そして、なるべく素晴らしい想い出をこの世に残すために。

 僕はどうだろう、余命1年と言われたら、モルヒネを沢山使って、ギャンブルに明け暮れるのかなあ。
 それとも、体が動く限り自分より元気そうな患者さんを診ようとするだろうか?

 死なない人間はいない。

でも、永遠の命というのは、あるのかもしれないなあ、と最近思う。