『死因不明社会』(海堂尊著・講談社)感想


読売新聞の書評より。

先進社会で原因不明の死が生じれば、死因究明を専門とする監察医の管理に託され、解剖されるのが普通である。だが日本では、東京都23区と一部大都市以外にはこの制度はない。だから外観だけを見て、死体検案書が書かれる場合が少なくない。加えて、病院で死亡しても病理解剖に付されるのは極端に少ないから、死因究明は不徹底となる。こうして日々、偽装殺人が見逃され、児童虐待の事実が隠蔽(いんぺい)されている恐れ大なのである。

 一方、画像診断技術が飛躍的に発達し、日本はその装置が大量に設置されている。そこで本書は、死後の画像診断を制度化するという大胆な提案を行う。これによって、解剖が必要な死体を同定して死者の人権を守ると同時に、画像情報を体系化することで、死体から学ぶという医学本来の姿を取り戻そうというのである。架空の厚労官僚を取材する形を借りて、政策立案が行われる真の動機までが書き込まれており、考え抜かれた政策提案の手法ともみえる。(講談社、900円)

評者・米本 昌平(東大先端研特任教授)

(20071217  読売新聞)


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 あの『チーム・バチスタの栄光』がベストセラーとなっている、海堂尊先生が、ライフワークとして啓蒙活動をされている「Ai (Autopsy imaging)」について書かれた入魂の一冊。これは、臨床経験と病理学教室での勤務経験がある僕にとっては、まさに「読まなくてはならない本」なのではないかと思い、手にとってみました。
 この分野にはそれなりに予備知識も経験もある(はずの)僕にとっても、「ちょっと冗長だな、というか、クドイな」と感じられる本だったので、自然科学的・社会的な興味からこの本を手にとった医療関係者ではない人にとっては、最初は「おおっ、Aiってすごいな!」と感じられても、途中からは、「もうAi飽きたよ、もっと面白い具体的なエピソード無いの?」と思われるのではないかと、やや不安なのですけど。


 現在の日本の「解剖率」というのは、約2〜3パーセントくらいなのですが(これは先進国最低で、アメリカは1998年で12%程度。ただし、各国とも減少が続いています)、実際には、「どの病院で亡くなられても100人に2人」というわけではなく、司法解剖や行政解剖を除けば、「患者さんが亡くなられた際に、ご遺族に解剖をお願いする病院と、解剖の話すらしない病院に二極化されています。前者は大学病院をはじめとする先進医療を行っている病院だけで、後者では、異状死でないかぎり、ご遺族に、解剖の話をすることさえしない場合が多いのです。

 臨床医も病理医も、「解剖」が大事だということは頭ではわかっているのですが、実際に現場で働いていると、「剖検」という仕事は、お互いにとってなかなか大変ではあるんですよね。

 現場で働く臨床医は、死が迫ってきている患者さんの症状を緩和し、「看取る」ために、何日か病院に泊り込んだりしてボロボロになっていることも少なくないのに、さらに何時間かかけて剖検をするというのは(当然主治医はその場に一緒につきますので)かなり肉体的にも精神的にも辛いことではあるんですよね。そして、病理医にとっても、剖検の当日だけではなく、組織の標本をつくって死因を特定していくという仕事は、けっこうな負担ではあるのです。そして、残念ながら、病理医の世界では、「剖検をたくさんやっていること」は「必要だけど、キャリアアップや外部からの評価にはあまりつながらない」のですよね。研究をやって学会発表や論文にしないと、周囲も認めてはくれないのです。

 そしてもちろん、「目立たないようにする」とは言っても、身内の遺体に大きな傷がついてしまう「解剖」というのは、日本人の「遺体観」からすると、あまり気持ちのよいものではないようですし。

 ここで海堂先生が強く薦められている「Ai (Autopsy imaging)」(=遺体に対するCT,MRIなどでの画像診断)に関しては、現在でも、救急病院などではかなり広い範囲で実際に行われています(ただし、この検査代は現時点では「医療費」として国に請求できないので、病院の「持ち出し」です)。「心肺停止状態で救急搬送され、蘇生を試みるも反応がみられず、そのまま亡くなられてしまった患者さん」で、症状、、既往歴、血液検査のデータなどでは死因がはっきりしない、という場合はけっして少なくないので。本来は、そういうケースでは、全例病理解剖(あるいは司法解剖)を行うべきなのでしょうが、実際は、そうするためには病理側も臨床側もマンパワーが全く足らないのです。当直医が剖検を見守るために待合室に患者さんを溢れさせる、というわけにはいきませんし。

 Ai を行っても「これはちょっと死因がわからないな」という場合には(実際、Aiですべてのことがわかるわけではありません。肉眼解剖まで行ってもわからないことも少なくないのです)、警察に検死を依頼するのですが、これも正直、どこまでアテになるのだろうか……と考えてしまうことも多いんですよね。警察というのは、要するに「事件性があるのかどうか?」ということだけが大事なようですし、外部に傷がつかず、画像でも急性の変化がみられないような場合、「末期がんの患者さんが自宅で放置死」なんていうときには、たぶん、家族が口裏を合わせてしまえば、そのまま「病死」として片付いてしまうはずです。いやほんと、実はそういう「見逃された異状死」って、けっこうあるんじゃないかとも思うんですよね。でも、僕も含めて、多くの臨床医は、「これ以上睡眠時間を削って、そんな探偵ごっこをやるほどの余裕はない」のが本音なのです。

 病理をやっていてわかったことは、「剖検をやったからといって、すべての死因がクリアカットにわかる、というわけではない」のも事実ですし……

 このAi (Autopsy imaging)という手法は、患者さん(とその遺族)側にとっても、医療側にとっても負担のわりには非常にメリットが大きい方法だと思いますし、最近ではむしろ、医療側のほうが、「自分たちの身を守るために」診断・診療に問題がなかったことの証拠として行うことに積極的になってきている印象すらあるのです。おそらく、これからは「剖検の前に、まずAi」という時代になってくるのではないでしょうか。ただ、「あんまり過剰に期待されても……」という気持ちもあるんですよね。そのデータを分析するのは、現時点ではあくまでも人間の仕事ですし。
 「剖検よりははるかに負担が少ない」とはいえ、末端の一臨床医にとっては、「どんなに『正しいこと』『大事なこと』でも、これ以上仕事が増えるのは、もう勘弁してくれ……」という気持ちもあるのです。とにかく、何をやるのにも「じゃあ現場の医者がそれをやって」って押し付けられることばかりで……

 それにしても、この本を読んでいると、「生きている人への延命」に比べて「亡くなってしまった人の死因」に対する人々の興味の低さをあらためて思い知らされます。

【死亡診断が軽視される社会では、明らかな犯罪行為や児童虐待すら発見できず、治療効果判定も行われない無監査医療がはびこる】

 本当にその通りなんですよね。まだまだ「ご遺体から学ぶべきこと」はたくさんあるはずなのですが……