日本の「普通の医者」による、映画『シッコ』の感想

SiCKO』公式サイト

参考リンク:『SiCKO』の紹介(by Press Box)


医療保障の破滅によって崩壊し、粉々にされ、場合によっては絶たれてしまったごく普通のアメリカ人数名のプロファイルで幕をあける本作は、その危機的状況が、4700万人の無保険の市民たちだけでなく、官僚形式主義によってしばしば締め付けられながらも保険料を律儀に支払っている、その他数百万人の市民たちにも影響を及ぼしていることを明らかにする。いかにしてこれほどの混乱状態になったのか、それだけを述べた後、観客はすぐに世界へ連れ出される。カナダ、イギリス、フランスといった国を訪れるのだが、それらの国々では、国民全員が無料医療という恩恵を受けているのだ。またムーアは、9・11事件の英雄の一団を集結させる。彼らは、アメリカにおいて医学的治療を拒否され、今も衰弱性疾患に苦しむ救助隊員たちであった…。

オスカー受賞作『ボウリング・フォー・コロンバイン』や、ドキュメンタリー作品として最大のヒット作となった『華氏911』という草分け的作品に続くマイケル・ムーアの最新作。

 この映画の冒頭は、かなりショッキングなシーンで幕を開けます。

 作業中、機械で手の中指と薬指を切断してしまった男性。彼は病院で、こんなふうに言われたのです、「中指をつなぐには700万円、薬指をつなぐには140万円かかるけど、どうする?」

 結局からは、中指の接合手術だけを受けました。劇中では、ため息交じりに「ロマンティックな選択」だと述べられていますが、日本で生活し、医療に携わっている僕にとっては「ええっ?」と愕然としてしまうような話です。目の前に指を失くしてしまいそうな人がいて、そこにはつなげる指と技術が存在している。でも、「お金が払えないのなら、手術はできないよ」という現実。こういうのは「あってはならないこと」なのだと思うのだけれど、これが、アメリカの現実なのです。

 アメリカの医療保険の多くは、HMO(健康維持機構)という、民間の保険会社によってまかなわれているのですが、この制度、非常に問題点が多いというか、かなりムチャクチャなシステムなのです。審査担当の医師は、なるべく多くの治療費の請求を「無意味な治療」「実験的な医療」「必要なし」などとクレームをつけて却下することによって評価され、ボーナスがもらえるそうです。保険会社自身も、ちょっとした書類の不備や既往歴が書かれていないことを問題にして、受給者にお金を払おうとはしません。そもそも「受診をするときには、常に保険会社に一報してから」なんてシステムでは、事故や急病のときは、どうしろというのでしょうか?

 それでも、アメリカの国民は、「国民皆保険」は「社会主義医療」である、という企業の宣伝工作に踊らされ、その一方で、「保険会社は弱者の味方じゃなかったの!」と憤っています。うーん、日本人である僕からすれば、医療保険会社も「企業」であるなんてことは、ちょっと考えてみればわかりそうなものなのですが……

 しかし、アメリカの「社会主義的」「共産主義的」なものに対するアレルギーの強さというのは、なんだかもう病的な感じにすら思えます。

マイケル・ムーアは、以前からアメリカの医療問題について強い関心を抱いていて、この『SiCKO』は、『華氏911』の前から製作にとりかかっていたそうなのですが、この映画が「アメリカ社会を動かす力」になることを僕も願っています。

 ただ、この映画はある意味とても「偏った作品」であるのも事実ではあるんですよね。

 劇中では、カナダ、イギリス、フランス、そして「アメリカの宿敵」キューバまでが登場し、その(アメリカに比べて)充実した医療制度をアメリカ国民に見せつけるのですが、僕がイギリスに留学した先輩に伝聞した話では、イギリスの医療制度もそんなに理想的な状況ではないんですよね。『Wikipedia』の『SiCKO』に関する記述でも、

劇中ではアメリカの「悪い医療」に対して、イギリス、フランス、カナダ、キューバなどの医療を「良い医療」として対比させる。極端に悪い逸話の羅列や恣意的な統計の提示などによりアメリカの医療制度を徹底的に批判する一方、対照とされる医療制度の欠点、例えばフランスにおける非常に高い税金や、イギリスにおいて資金削減により病院の倒産や医師の出国が相次いでいることなどには言及しない。

 と書かれているように、マイケル・ムーアは「他国の良いところ」だけをあえて例示しているように僕には思えました。逆に言えば、切り口しだいで「最先端の医療技術で小さな子どもの命を救える、素晴らしいアメリカ医療」というドキュメンタリーを「画一化された日本の医療」と比較して作ることだってできるはずです。

 いや、マイケル・ムーアは、この問題提起のために「目的のためなら手段を選ばず」という覚悟を持ってやっているのだとは思うのですけどね。彼が、イギリスやフランスの「本当の実情」を調べもせずに、この映画を撮ったとは考えにくいので。

 それでも、マイケル・ムーアの結論は、「今のアメリカの『保険制度』よりは、他国の保険制度のほうがはるかにマシ」だということだったのでしょう。それをアピールするには、「国民皆保険の問題点」を公平に描いていては、観客へのインパクトは薄れてしまいますから。キューバでの医療なんて、今回の撮影は確実にキューバ政府の監修下のものなので、「本当に普通の国民と同じ医療なの?」と思わずにはいられません。

 日本の医療現場で働く僕としては、一人でも多くの人にこの映画を観てもらって、「いつでも、誰でも医療を受けられること」の素晴らしさを知ってもらいたい、と思います。

 しかしながら、現在の日本の状況というのは、どんどん「アメリカを見習って」いるというのも、あわせて覚えていていただきたいのです。

 「自由競争にすれば、顧客にとって、より質の良いサービスが生き残っていく」というのは、資本主義経済のメリットだというイメージを植えつけようとしている人たちがいます。

 ところが、このアメリカの保険制度の事例をみてみると、生き残るのは、より宣伝力に長けていて、よりコストカットに成功した会社なんですよね。確かに、もし日本でHMOのようなシステムができれば、日本でも「保険の安売り合戦」が起こるでしょう。人々は、「民営化されたおかげで、安くなったし、愛想もよくなった」と大喜び。

 でもね、保険会社が「企業」であるかぎり、どこかで利益をあげなければ生き延びていけません。となると、保険料を安くするためには、当然「医療費をなるべく払わないようにする」という選択をするはずです。これは別に未来の話ではなくて、今の日本の普通の医療でも、保険審査というのが行われていて、「適応外治療」などに関して、国から病院への支払いが削られています。
 しかし、国がやっているこのシステムですら、現場の医者にとっては、「なんでこれが削られるんだ……」と憤りを感じることがけっこうあるのです。結果的には「ムダな検査」だったと言われても、最初から「答え」がわかっているわけではないのに。
 少なくとも、僕が医者になってからの
10年で、「医者のコスト意識」というのは、劇的に変化させられています。昔の大学病院は、「大学なんて赤字で当たり前なんだから、必要な検査はどんどんやれ!」というタイプの人がいたのですが、最近は「それは保険で削られるからやめとこうか……」というのが主流です。

 また、保険会社からの理不尽な問い合わせ(僕は入院中の糖尿病の患者さんが運動療法のために外出している、という事例に対して、「こんなに外出できるのなら、入院の必要はないじゃないか」というクレームを受けることもあります。まあ、それはそうなんですけど、家にいるとどうしてもいまくいかない人っていうのもいるんですよね、現場的には)に閉口する一方で、生命保険に関しては、患者さん側も「この既往歴は無かったことにしてほしい」とか「働けない期間をもっと長くしてくれ」、もっと酷い例になると「癌だったことにして」なんていうことを言ってくる人もいるらしいのです(すべて僕の知り合いの劇画原作者の話なので念のため)。

 『
SiCKO』に出てくる患者さんのなかでも、911のボランティアの消防士たちとか、医療保険が違うからということで受診させてもらえなかった女の子には心から同情しますし、憤りも感じるのですが、正直、「それはちょっと太りすぎなのでは……」と「一部自己責任論」を唱えたくなる人がけっこういたのも事実なんですよね。そりゃ、あんな体格では病気になりやすいだろうし、民間保険会社が企業であるかぎり、「ハイリスク群」に対しては保険料が上がったり、拒否したりするのもしょうがない面はあるな、とも思うのです。いや、日本人だって、「国民皆保険」の結果、食べるものや住むところがないからという理由で「入院」を繰り返しているホームレスの人や病院に来て職員を脅すチンピラや、毎晩酒に酔って『ここは病院なんだから、面倒みろ!』と転がり込んでくる人などを目の当たりにしたら、そのあまりの不毛さに「平等な医療」に対する「不公平感」を感じる人も多いのではないでしょうか。俺の税金は、こんなことに使われているのか?と。
 「富めるものが貧しきものを助けるのが民主主義だ」という言葉をマイケル・ムーアは劇中で紹介していて、僕にとってもそれは印象的な言葉だったのですが、それが「権利」だと声高に主張し、貴重な「医療」という資源を浪費していく人たちの存在は、「平等な医療」の存続にとっては、非常に大きな問題なのです。

 みんなが「キツイから風邪くらいでも救急車で病院に行く」ようになれば、日本の救急体制なんて、一晩でおしまいです。「呼ばれたら断らない」という救急車のシステムがなんとか維持されるためには、「利用者側の節度」が絶対必要なんですよね。もう、これも破綻寸前なわけなのですが。

 マイケル・ムーアの主張に強く頷く一方で、僕のなかでは、「でも、もし今のアメリカに『国民皆保険』が導入されたら、アメリカの財政は崩壊してしまうのではないか?」という気持ちもあるのです。人々はもっと「薬漬け」になり、行き場の無い人たちは病院に住むことを要求し、医者は診察室よりも被告席にいる時間の方が長くなり……

 これだけは忘れてはならないと思います。

「国民皆保険」というのは、「国が病人を無条件で助けてくれるシステム」ではなくて、「その国に住む人たちが、お互いに身銭を切って支えあうシステム」なのです。医療サービスを受けるためには、それなりの負担が必要なんですよね。

それはもちろん、「お金の問題」だけではなくて。


 この作品、やっぱりちょっと「重い」こともあって、そんなに長く上映されない可能性が高そうなので、興味がある方は、ぜひお早めに劇場に足を運んでください。

 でもなあ、このタイトルだけは、ちょっとなんとかしてほしかった……
 映画館のチケット売り場のお姉さんに「し、しっこの次の回を……」っていうのは、かなり恥ずかしかったです。