主治医の涙
医者というのは、「他人の死に立ち会う仕事」だ。
もちろん、そんな場面には、縁遠いほうが良いに決まっている。
でも、現実問題として、それは、「臨床医であるかぎり、避けられないこと」なのだ。
何年か前、ある患者さんが長い闘病の末に亡くなられようとしたとき、まだ研修医だった女性医師は、病室の隅で涙を流していた。僕は彼女の指導医だったので、ナースステーションで、彼女に死亡確認のやり方を教えて、最後に、死亡確認するまで、患者さんは「生きている」ということを忘れるな、と言った。それは僕の「患者の家族としての体験」から得た教訓で、家族としては、昏睡状態とはいえ、「生きている」人の眼の前で「今夜いっぱいは厳しいでしょう…」とか言われることに、違和感を感じていたから。人間の感覚で最後に残るのは、聴覚らしいし……相手だって、そんなことを本当に「気にしている」かどうかなんて、全然わからないのだけど。
そのとき、僕のさらに上の先生が、彼女に、こんなことを言った。
「患者さんの前で、涙を見せるな。お前の仕事は、患者さんに同情することじゃない。最後まで医者としてできることをやれ」と。
僕の中にはそのとき、その先生のプロとしての姿勢への共感と同時に、「別に泣きたくて泣いてるわけじゃないだろう…」という反感もあった(もちろん、その場で反論したりはしなかった)。
死亡確認のあと、彼女は泣いた。泣くまい、としているようには見えたのだけど。
僕は泣かなかった。自分と彼女の仕事に不備がないか確認しなければならないという緊張感もあったし、人の「死」に慣れてしまっていた面もあったし、家族の涙に対して、「他人である自分が、中途半端な共感で泣くのは失礼」というような気持ちもあった。いや、もっと正直に言うと、「泣けなかった」のだ。もちろん、悲しい気持ちもあったけれど、頭の片隅では、親族が間に合ってよかった、とか、家族が疲れきって、病院に張り付いていることにストレスを感じはじめる前でよかった、とか、僕もこれで家に帰れるな、というような気持ちもあった。そして、大粒の涙を流している彼女に対して、「あんまり御家族の前で泣いちゃだめだよ」(「主役」は患者さんと家族なのだから)と言って、御家族に挨拶をしてナースステーションに戻った。少しだけ、泣けない医者である自分が、後ろめたかった。
僕も、研修医時代には、「いつでも冷静すぎる上司」に対して、「それでも人間か!」的な憤りを感じていたこともあったのだ。でも、自分が経験を積んでくると、医者というのは、所詮「身内」ではないのだ、ということもわかってきた。医者の仕事は、命を保てる人は全力で保ち、そうでない人には、より良い「着地」を演出(というのは、あまりに言葉が乱暴なのだけれど、それ以外に相応しい言葉を思いつけないので)するというものだ。人に「死」がある限り、それは、避けて通れない「仕事」なのだ。
そして、「一緒に泣いてあげること」は医療者じゃなくても可能だが、「(薬などを使って)苦痛を取り除いてあげること」は、医療者にしかできない仕事。「自分が泣いている余裕があったら、家族が泣けるようにする」べきなのだろう。「医療者は、ときには家族以上に患者さんに接している」という面がある一方で、「医療者は、『身内』ではない」というのも事実なのだから。やっぱり人の死というのは辛いことではあるけれど、僕がどんなに「悲しい」と思ってみたところで、それは「医者としての同情」の範疇に過ぎないのかもしれないし。
実際のところ、主治医の涙というのに対して、患者さんから「泣くな」というクレームを受けたことは一度もない。逆に「一緒に泣いていただいて、ありがとうございます」という言葉をいただくことはある。それはそれで、家族にかえって気を遣わせてしまって申しわけない、というところもあるのだが。
そこまで感情移入するのは、医療者として「越権行為」のような気がするのだけれど、僕にはいまだに、「主治医が泣くこと」が正しいのかどうかは、よくわからない。
「人間として間違ってはいない」とは思う。でも、医者というのは「黒子」でなければならないのではないか、という気もする。
ただ、「家族が誰も悲しんでくれない死」というのは、個人的には、ものすごく悲しくて寂しい。そういうときには、僕も少しだけ、泣きたくなる。