「ほんのお礼ですから」のユウウツ。
今日、こちら(とこりさんの「しゃべりたがる私」の「ぎぶ あんど ていく」を目にして、その邪まなものの正体がピンときたような気がしたので、書いてみようと思う。
僕は、人口一万人ちょっとくらいの小さな町で、数年間勤務医をやっていたのだが、その手の「心づけ」を渡そうとしてくれる患者さんは、かなりたくさんおられた。
診察中にポケットにねじ込まれたこともあったし、看護婦さんに預けて退院される患者さんもおられた。もちろん、看護婦さんは返そうとしてくれるのだが、逆切れしてしまう方もけっこういたのだ。
僕は、パソコンやら、ゲームやら、読書やら、お金がかかる娯楽が好きだし、「お金は、いくらあっても基本的には困らないし、世の中にはお金の力だけで解決できるトラブルがけっこうあるということも知っている。まあ、それは要するに、真夏に歩かずにタクシーに乗ることができるというレベルだと認識していただいてけっこうなんだけど。
でも、だからといって、こういう「お礼」を受け取るわけにはいかないのだ。
いちばん困るのは、そういうものをもらってしまうと非常に仕事がやりにくくなるということなのだ。
これから書くことは、「もし僕が『お心付け』をもらってしまったら」という仮定の話。
「もしもボックス」で定義された世界の話だと思っていただきたい。
それまで「医者」と「患者」という対病気の特殊部隊の同僚だったのが、患者さんがスポンサーのような気がしてしまうのだ。なんでも「ハイ!ボス!」というような患者ー医者関係は、すごくやりにくそうだし、必要なことも言えなくなってしまうかもしれない。
第二に僕は小心者なので、「お金をもらったから、他の患者さんより頑張ったほうがいいのかな…」なんて悩んでしまうかもしれない。だからといって、悩んでも仕方がないことなのだ。
なぜかというと、超人でもないかぎり、医者という仕事は常にギリギリのところで全力を尽くしてやっていかないと、まともにやっていくことは、まずできない。
今以上に頑張れといわれても、たいがいはオーバーヒートしてしまう。
たとえば、巨人の松井に年俸を100億円に上げてやるから5割、50本打てと要求しても、そんなことできっこないのと同様に。
仮に他の患者さんにしわ寄せが来るようなひいきの仕方をしたとして、医療事故でも起こったら絶対に割に合わないしなあ。
正直、患者さんに対して「借り」を感じながら仕事をするのはすごく嫌だし、そういう心の動揺が、いい結果を生まないことは明白です。平常心が一番。
失礼かもしれないけど、第三に本音の部分を。
僕はお金が必要ですし、お金は好きですが、お金や物のために患者さんに卑屈になりたくありません。医療という仕事を100%金のためと割り切れるほど、大人でもありませんし、これからも多分そうだと思います。
どうか、「お心付け」なんていう形で、僕のささいな職業的自己満足を傷つけないでください、ただそれだけなんです。プライドは、そんなお金じゃ売れません。
僕をふくめ、大部分の医者は、お心付けなんて必要としていません。ほんとに、困るんです。
どうしても感謝の気持ちを形にしたいと仰っていただけるのでしたら、手紙とか、時候の挨拶などをいただけると、とても嬉しいです。ほんとうに、宝物になります。
もちろん、自分が食べていけるだけの給料(+バイト代)があるから、きれる啖呵ではあるんですけどね。