「女医」と呼ばれる人々への幻想と妄想(1)


<参考リンク>

半熟ドクター・更新記録(2/7,8,12)

陽だまり日記「女医と時代の移り変わり」

女医の愚痴(2/8,11)


「だって、女が一生働ける専門職なんて、医者か、学校の先生くらいしかないじゃない」

 僕がその言葉を聞いたのは、今から15年くらい前で20歳くらいのころ。ちょうど、解剖をしている最中だったような記憶がある。この話をしてくれたのは僕の同級生の女の子だった。
 この言葉を今でも記憶しているのは、男である僕にとっては、「仕事というのは、一生やるもの」だという常識が刷り込まれていたからで、彼女の発言を聞いた直後は「一生続けられるから、という理由で医者になろうとするのは、『動機が不純』なのではないか?」などと、ちょっと思った記憶もある。
 2005年現在では、女性で企業の管理職を務めている人はたくさんいるし、選択肢というのもだいぶ増えたように思われるが、少なくとも1990年前後というのは、まだまだそういう時代だったのだ。
 僕は田舎の進学校と呼ばれる高校から、某地方大学の医学部に入ったのだが、その大学は、男がやや多いものの、男女比率はほぼ半々で、高校時代男子校だった僕にとっては、「女の子がたくさんいる学校」というのは、まさに未知の世界。最初はちょっと怖かったような気もする。そして、大学は、どんどん「女ばかり」になっていった。なぜかというと、男の多くは、出席を取らない講義をサボって遊びに行ったり、学校に行かずにバイトに精を出したりするようになっていったから。もちろん、女にもそういう人はいたのだが、比率からすれば、男のほうが圧倒的多数だった。半熟さんも書かれているように、留年するのも男がほとんどだったし。
 まあ、所詮医学部なので、「サボれる講義」とか「サボれる期間」なんて、たかが知れたものではあったとしても。
 いつもノートを綺麗にとって資料を作ってくれたり、レポートの課題がわからないときに主軸になって調べてくれたのは、女の子のほうだったような気がする。少なくともあの頃は、彼女たちのほうが、オトナだったのだ。
 僕たちは、カッコいい先輩たちと次々にカップルになっていく同級生たちに、なんだか行き場のない苛立ちを感じたりもしていたしなあ。
 学生時代、同じ大学の医学部の女子と話していて痛切に感じたことは、「彼女達はエリートなんだなあ…」ということだった。いや、こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、同じくらいの偏差値で、同じ大学に入ってきたはずなのに、やっぱりその印象は拭えなかった。

 基本的に、僕の出身大学のような田舎の医学部というのは、当時の一般男子高校生にとっては、「第一志望」にはされにくい傾向がある。もちろん僕もそうだった。男子学生の多くは、僕のように、「進学校出身」で、周りには東大とか京大に合格している連中がゴロゴロいるなか、「なんとか、医学部には受かった」という意識を持っていた人間が多かったような気がする。僕たちは偏差値エリートだった中学時代から、名門高校に進んで、本物の「天才」を目の当たりにして、自分が「天才とは程遠い、どこにでもいる人間のひとり」であるということをあらためて思い知らされていたのだ。もちろん、そんな中で、凡人なりの努力をし、最低限の目標は果たしているはずなのだが、そういう「挫折」の経験というのは、なんだか自分の限界を悟らされたような気分になるものだ。実際、進学校出身者は、大学でも講義に出てこなくなったり、卒業できずにドロップアウトしてしまう率が高いと言われていたし。

 それに対して、女の子たちには、当時は「全国的レベルの進学校」そのものが少なかったし、そもそも、「遠くに越境入学させてまで女の子を進学校に入れる」という発想の親が少数派だったこともあって、本当に「出身校で成績優秀だった子」が多かったようだ。だから、彼女たちは、「勝者」として医学部に入ってきた。もちろん、内心では「もっといい大学に」と思っていた人もいたのだろうけれど、それでも、「なんとかここに引っかかった…」という僕たちとは、エリート意識にも、その「自分に対する期待度」も、大きな差があったような気がする。人というのは、無意識に周りに求められている役割を演じようとするものらしいし。
 そういえば、僕が聞いた話では、ある女の子の高校時代、実家である病院の診察室の壁には、いつも娘の成績表が貼ってあったそうだ。そういう行為の是非はともかくとして、親にとっては、まさに、自慢の娘だったのだ。
 ここで、冒頭の話に戻るのだが、医学部の女の子というのは、基本的には「普通」なのだ。それこそ、ちょっと頭が良くて、エリート意識が強いくらいの。ただ、当時の僕にはそういう「真面目な女の子」しか周りにいなかったものだから、後で世間の「本当に普通の女の子」と接して、そのお気楽さに愕然としたこともあったのだが。
 「医学部に入る」というのは、多くの女の子にとっては、「自分の人生に対する、ひとつの主張」でもある。「自分は一生働くつもり」という。
 もちろん、そういう女性の中にも厳然とした「温度差」は存在していて、それこそ「男とか女とかは関係ない。私は医者として生きる!」という人もいれば「やっぱり女として、結婚もしたいし子どもも欲しい。だから、医者としての仕事と家庭人としての生活を両立するために、比較的自分の時間が持てる科に行ったり、基礎に行きたい、あるいは資格をとって、保健所などで働きたい」という人もいたのだけれど。ただ、その時点で、彼女たちは、男よりもひとつ余計に「人生の選択」を済ませてきているのは事実だ。
 しかしながら、医学部の男にとっては、自分の医者としての未来像というのは、自分の家庭像とはほとんどリンクするものではない。「自分の趣味の時間が欲しいから」という理由で比較的拘束時間が少なくない科を選ぶ者はいても、「結婚したいし」とか「子どもが欲しいから」という理由で進路を決める男はいない。そういう意味では、女子医学生というのは、男子に比べたら常に過酷かつ複雑な選択にさらされているのだし、自分の進んできた道に対して、より「自己責任」を感じているのではないかと思う。
 まあ、そういった「内面的な事情」はさておき、医学生時代の勉強の質とか知識量において、女子医学生は、むしろ男子よりも上回っているのではないか、と僕は感じていた。彼女達は試験においては成績優秀で、病棟実習でも患者さんのところに足しげく通い、綺麗な字で整ったレポートを提出し、よどみないプレゼンテーションをしてみせた。僕などは、同じグループの優秀な女子のプレゼンに比べて自分のプレゼンがあまりに酷いので、彼女の直後にはやりたくないものだと、いつも内心思っていたくらい。
 よく言われる「体力的な問題」に関しても、実習レベルではとくに遜色は無かったと思う。もちろん遜色がないように彼女達もがんばっていたのだろうけれど、医者になってみてつらつら思うに、学生レベルの経験と覚悟では、男だろうと女だろうと、手術に何時間もついているのはけっこうキツイものだ。僕は内科医なのだが、医者になってみると、今何をやっているのか認識できるし、疲れているどころではない、ということもある。必要なのは一時的に大きな力を出すことよりも持久力だし、手術は女性に向いていない、とは必ずしも言えないような気がする。ただし、下世話な話で恐縮だけれど、排泄の問題とかにおいては、ちょっとたいへんかな、とも思うのだが。
 ただ、一緒に実習していて、ひとつ気になったことがあるとすれば、女は男よりも「グループを作りたがる」というのと、「なぜか突然ケンカをすることが多い」ということだった。男の大部分は、はっきり言ってしまえば「他人のことはどうでもいい」というヤツが多かったし、ベタベタしない代わりに「ケンカなんかしてもムダだ」とみんなあきらめていた記憶があるのだが、女の場合は、「グループの評価=自分の評価」というような発想で、周りにも多くを求めるタイプが多かったような気がするのだ。
「あなたがちゃんとやってくれないと、このグループの評価が下がるでしょ!」とか、そういう感じ。そして、女は同性には厳しい人が多かった、という印象もある。
 男は、一般的に女性には甘く、男性のことはどうでもいい生き物なのだが、女の場合、女性のことを「どうでもいい」とはなかなか思えないのかな、と対立する双方からそれぞれ相手の悪口を聞かされて、考え込んだりもしたものだ。
 まあ、とにかく、学生時代までは、いわゆる「女医の卵」というのは、僕にとってはこういう生き物だった。これはあくまでも僕の経験の範囲だし、こういうのが「根源的な性差」ではないのだろうけど。

 かなり長くなってしまったので、今日はここまで。

 次回は、医者になってからの僕の体験の範囲での「女性医師」について、書いてみたいと思います。