「命を救ってこそ病院」
日刊スポーツの連載コラム「井上真の見た聞いた思った」より。
(「命を救ってこそ病院」というタイトルのコラムです)
【命にかかわる緊急事態で医師の治療が切迫しているのに、受け入れ病院が決まらず焦る。誰でもいいからすがり付きたい。わらにもすがる思いだ。
今年8月、奈良県大淀町の町立大淀病院で出産中の妊婦が意識不明の重体になった。受け入れ先の病院を探すも、18病院に「満床」を理由に拒否され、妊婦は19ヵ所目の病院で脳内出血と診断された。緊急手術で男児出産も約1時間後に死亡。意識を失ってから処置を受けるまで6時間かかった。
激しい怒りが込み上げる。拒否した病院の無責任さ、受け入れ先を見つけられず手間取った病院の無能ぶりに対してだ。該当する18病院は妊婦の死をどう受け止めるのか。「我々以外の17病院も拒否した。責任は18分の1だ」とでも言うのか。「18病院もが受け入れできなかったのだから致し方ない。非常に残念です」。そんな空々しいコメントが容易に想像できる。
後日、実は新生児集中治療室(NICU)が満床ではなかった病院の存在が明らかになった。その病院は切迫早産で入院中の妊婦のためベッド確保の必要があった、と説明している。理由はあるだろうう、いくらでも。後から探せば何とでも言える。できない理由など100でも1000でも探せる。
難しくても急を要する患者を厳しい条件下で受け入れ、でき得る限りの治療を施すのが医療人の使命であり義務だ。時間的余裕もあり誰でも治せて、助かる確率が高い患者だけを選んでいるのか?
18病院が受け入れの姿勢を見せていれば、助かる確率は19番目の病院到着時よりも高かった。その事実をどう思うか。
以前、家族が意識を失い救急車で搬送された。付き添った救急車の中で驚いた。受け入れ先が見つからない。1時間は待っただろう、家の前で。救急車は停車したままだ。隊員は困った表情で「ベッドがいっぱいで入院はできないそうです。どうしますか?」と1病院ごとにこちらに判断を求めてきた。
精神的なゆとりはわずかにあったが、緊急搬送の実態を知って焦りは倍増した。「ベッドがどうかは気にしないでください。まず治療を受けられる病院に、それも一番近いところに運んでください」と伝えて、ようやく走りだした。
信号を無視して突っ走る救急車に乗りながら、ものすごく矛盾を感じた。「ここで急ぐことよりも、もっと根本のところが間違っている」。
18病院は大淀病院がどの順番で打診したかを知りたがるだろう。そして、早くに打診された病院は「我々に打診された時はまだ重篤ではなかったはず」と言い逃れ、最後の方の病院は「自分たちよりも前に打診された病院の責任が重い」と主張するだろう。
ひとりの妊婦が亡くなり、これだけずさんな実態があらわになった。死に至らないケースはもっとある。とても人を助けるどころじゃない。命を救うのが病院ではないのか。命を見捨てた18の病院に言いたい、恥を知れ。】
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僕はこの事件に関しては、実態がよくわからないので触れる気はなかったのですが、このコラムを読んでいてものすごく悲しくなってしまいました。ああ、この記者は「絶対悪」を責めたてる快感に浸りながら、このコラムを書いていたのだろうなあ、と。こうしている間にも、大勢の医療者たちが不眠不休で救急患者に対応しているというのに。
でも、このコラムを読んだ人の多くが「そうだそうだ!」と快哉を叫んでいる姿も、僕には想像できてしまうのです。そして、ここに書かれている内容には確かに看過できない問題点が含まれてもいるんですよね。
【難しくても急を要する患者を厳しい条件下で受け入れ、でき得る限りの治療を施すのが医療人の使命であり義務だ】というのは、確かに「正論」です。もし、この急病が起こったのが離島で、対応できる救急病院がひとつしかなければ、その病院は、「できるかぎりのことをした」に違いありません。もちろん、それで患者さんが助かったかどうかは別の話です。
しかしながら、今回のような「婦人科、脳外科、小児科の救急に同時に対応できるような病院」というのは非常に限られており、そして、そのような病院は、つねに患者さんで溢れています(本来は、そういう救急病院が「本当の救急」に専念できるような環境づくりこそなされているべきなのですけど)。そういう状態で受け入れ要請があった場合に、「それでもウチの病院で診るのが適切なのかどうか?」「他の病院で診てもらったほうが、より良い治療を受けられるのではないか?」と、病院側は考えてしまうのです。いくら「入院できなくてもいいから!」と言われても、現実的に廊下に患者さんを寝かせるわけにもいかないし、この文章の中に出てくる「NICUが満床ではなかった病院」がこの患者さんを受け入れて、もし、切迫早産で入院中の妊婦のお産と重なったらどうするのか?それでもし不測の事態が起これば「身の程知らずの受け入れをして、入院患者を死なせた病院」として批難を浴びる可能性は十分にあるわけです。
僕は逆に問いたい。「じゃあ、もし受け入れられるだけの設備がない病院でこの患者さんを引き受けて、できるだけのことをやった結果が不幸なものとなったとしても、世間はそれを当然のこととして受け入れてくれますか?」と。
病院は頑張ってくれたのだから、それで十分です、と理解してくれる患者さんばかりではないことを、我々は経験上知っています。
このような記事を読んでいて思うのは、あくまでも「結果論」で語られていることが多いということなんですよね。結果からすれば、「どこの病院でもいいから、できるだけ早く治療をしていたほうがマシだった」と思う人が多いのもわかるのですが、リアルタイムでこの連絡を受け、「助かるのかどうかギリギリのところ」での判断を迫られた病院では、「ここで自分たちが引き受けるのが患者さんにとってプラスになるのかどうか?」と悩んだはずです。
たとえば、野球の試合で9回の裏、2アウト満塁、一打サヨナラのチャンスが巡ってきたとします。しかしながら、ここで凡退したらゲームセット。そこで監督が、ピンチヒッターを出そうとするわけです。
そこで、監督は言うのです。「誰かヒットを打てる自信のあるやつは名乗り出ろ」と。
この場面で、「自分が絶不調なのを承知の上で名乗り出てバッターボックスに立つ」のが「チームプレー」なのでしょうか?いや、ベンチに他に選手がいなければ、どんなに自信がなくても、バッターボックスに立たざるをえないでしょう。それはよくわかるし、とりあえず自分にできるだけのことをやるしかない、と思うはずです。
でも、ベンチには自分より調子が良い、あるいは実力がありそうなバッターがいる場合には、「その選手に任せる」のもひとつの「チームプレー」なのではないでしょうか。今回の件では、ベンチの選手たちがみんな、「この場面は、他に自分より良い選手がいるはず」と思い込んでしまい、「たらい回し」になってしまったのですが……。むしろ、現代の救急医療の問題点というのは、個々のバッターには、自分の立場がわかっていないこと、なんですよね。ある地域の病院の現在の状況を総括して、搬送先を決めてくれる「監督」のような存在がいてくれればいいのでしょうけど……まあ、それはそれで、監督に対する不満というのも出てくるのは間違いないのですが。
そして、「誰でもいいから出て来い!」なんて言いながら、出てきたピンチヒッターがアウトになったら、「なんで打てないんだよ!」「プロとして恥ずかしい」って言われちゃうんだよなあ。
医療の場合、「アウトなら袋叩き、ヒットで当たり前」になりがちでもありますし。「アウトになるんだから、誰がバッターボックスに入っても同じだった」というのは、あくまでも「結果論」です。リアルタイムのその場面では、試合に勝つためはどうすればいいか?しか、みんな考えていないはず。医療者も、「自分が頑張っている姿をアピールする」ために患者さんを診るのではありません。
あと、僕がもうひとつ言っておきたいのは、このような事例が起こるたびに「もっと救急医療の充実を!」とみんなが思う気持ちはわかるのだけれど、こういう「稀な疾患の患者さんが田舎で発症しても救えるような医療体制」というのをつくるには、ものすごい費用と人的資源が必要だということなのです。例えば、「このような妊婦さんを1年間に1人多く助けるために、国民ひとりひとりが1年間にあと100万円ずつ税金を徴収されるとしたら、あなたはそれを受け入れられますか?
それにしても、このコラム、あまりに内容が主観的なもので(そして、それゆえに共感する人も多そうで)、本当に悲しくなってしまいます。
【該当する18病院は妊婦の死をどう受け止めるのか。「我々以外の17病院も拒否した。責任は18分の1だ」とでも言うのか。「18病院もが受け入れできなかったのだから致し方ない。非常に残念です」。そんな空々しいコメントが容易に想像できる。】
【理由はあるだろうう、いくらでも。後から探せば何とでも言える。できない理由など100でも1000でも探せる。】
【時間的余裕もあり誰でも治せて、助かる確率が高い患者だけを選んでいるのか?】
【18病院は大淀病院がどの順番で打診したかを知りたがるだろう。そして、早くに打診された病院は「我々に打診された時はまだ重篤ではなかったはず」と言い逃れ、最後の方の病院は「自分たちよりも前に打診された病院の責任が重い」と主張するだろう。】
この記者が書いていることって、実は「取材した事実」でもなんでもなくて、「彼本人が頭の中で想像していること」ばっかりなんですよね。僕は医療側にも変えるべきところはたくさんあると思うけれど、これじゃあ魔女裁判です。
現場で当事者にきちんと取材をして、自分の目と耳で確かめたことをみんなに伝えるのが「報道」ではないのですか? 自分では何も調べようとせず、勝手な思い込みばかりを並べ立てて、その思い込みを「根拠」に他人を責めているだけのマスコミに言いたい、恥を知れ。