まず最初にアメリカのチケットのシステムを理解しないと、パール・ジャムとチケットマスターとの闘争についてわからないので、そのシステムについて簡単に説明する。
アメリカではチケット代が20ドルと書かれていたとしても、その代金だけでは買えない。
なぜかと言えば、プロモーターやコンサート・ホールの所有者と提携しているチケットマスターが仲介業者としてチケットを販売しており、1枚につき4〜8ドルぐらいのサービス料を上乗せして販売しているからなのだ。
チケットが買える場所は会場かチケットマスターのみ。だが、会場で発売されるのはチケットの発売初日とコンサート当日のみ。会場で購入すれば、1ドルの施設使用料を加算するだけで済むが、会場で買える人は時間と場所を考えるとそれほど多くはいない。
結果的にほとんどの人はチケットマスターを通じて購入せざるを得ず、その際に払うサービス料が4〜8ドルになるというわけだ。
例えば、18ドルのチケットを購入するのに、会場へ行くことができれば1ドルの施設使用料だけを払えばいいので19ドルで購入することができる。
しかし、チケットマスターの店頭で購入すると、4ドルほどのサービス料が加算されるので、22ドル以上払う必要がある。
もし電話予約で購入しようとすると、サービス料は6ドルほどになり、さらに2ドルの電算処理費が加算され、26ドル以上払わなければ購入できないという仕組みになっている。定価の約1.5倍近くもの値段になってしまうわけだ。(これは問題が起きた94年当時のシステム)
少し前まではチケットロンっていう会社もチケットを販売していたから、このようなシステムではなかったが、91年にチケットロンがチケットマスターに買収されてからこのようなシステムになってしまったようだ。
僕がカナダに行った時も、すでにチケットマスターしかなくて、U2のチケットを買おうと思ってチケットマスターに行って、雑誌に載っている代金だけ払ったら、これだけでは買えないと言われた記憶がある。92年の夏ごろだったかな。その時は腑に落ちなかったんだけど、この問題が起きてなるほどと思ったね。
パール・ジャムの提案
パール・ジャムとチケットマスターとの確執は92年ごろに始まっていた。
この年、地元シアトルでのベネフィット・コンサートに出演したパール・ジャムだが、主宰者側がこのコンサートの手数料のうち、1ドルを慈善事業に寄付して欲しいとチケットマスターに頼んだところ、チケットマスターは同意したにもかかわらず、その後チケット代にさらに1ドル上乗せするということを平気で行ったのだ。この話を聞いたエディは当然怒り心頭になった。
元々、パール・ジャムはチケット料金が高いと考えており、何とかしたいという思いがあった。そこで、94年の夏にツアーをしようと考えていたパール・ジャムは自分たちのコンサートの最終のチケット料金を20ドルまでに抑えたいと考え、チケットマスターにサービス料を1.80ドルにして欲しいと要請。しかし、チケットマスター側は最低でも4ドルは取らないと採算が合わないと、パール・ジャム側の要請を一蹴した。
この話を聞いて、パール・ジャムを支援すると言ってくるプロモーターも中には現れたが、チケットマスターが圧力をかけてプロモーター側も手を引いてしまった。
最終手段として、パール・ジャム側は裁判を起こそうとしたが、チケットマスターは合法的な会社なので、この訴えはあっさり棄却されてしまった。
だが、そこはパール・ジャム。そうですかと、諦めるはずもなく、チケットマスターが独占禁止法の特例として認められていること自体がおかしいとして、94年5月に司法省の反トラスト課に覚書を提出したところ、なんとこれが認められ、反トラスト課が調査に乗り出したのだ。国会で予備審問が行われ、6月30日にワシントンD.C.での下院小委員会に出頭したストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは「チケットマスターが両者の納得する価格設定の交渉に応じないのなら、バンドは同社以外の会社と組む権利があるはずだ」と証言した。
パール・ジャムが司法省に提出した資料の中に、いかにチケットマスターが暴利をむさぼっているかということが書かれていた。
例として挙がっているのがストーンズのコンサート。この時のサービス料は5ドルとなっていたが、このサービス料をチケットマスターがバンドと不当に山分けしていたというのだ。
さらに、エアロスミスのマネージャーの話では同じ様な話をチケットマスター側に持ちかけられたらしいが、こちらはその申し出を断ったそうだ。
ツアーの決定!
チケットマスターとの問題が解決の糸口をなかなか見つけられないため、本国アメリカでのパール・ジャムのツアーは長い間、宙に浮いた状態になっていた。
なんとかチケットマスターを通さずコンサートを行いたいパール・ジャムはETMネットワークという会社を使ってチケットを発売するところまでこぎつけ、95年6月16日アイダホ州ボイシを皮切りに12都市14公演が発表された。
今回採用されたチケット販売方法は、トール・フリー(フリーダイヤルのこと)で電話をかけてチケットの予約を取り、後日配達されるというもの。
チケット代は3公演を除き基本料金18ドル+サービス料2ドルで20ドルとパール・ジャムの納得できる価格となった。
チケットにはバンドのロゴが印刷されており、料金も基本料金とサービス料がちゃんと分けて明記されており(チケットマスターではされていない)購入者にわかりやすいものになっていた。
さらに偽造防止とダフ屋対策として、半券の裏に購入者の氏名とバーコードを印刷し(あ〜、2002年のワールド・カップを思い出してしまう)、入場時にチェックできるようにしてあるのだ。
だが、問題が無くなったわけではない。主要な会場はチケットマスターが独占契約を交わしているため、多くの都市では郊外の不便なスキー場や遊園地といったところでの公演にせざるを得なかった。
さらに、ロサンゼルスやニューヨークといった大都市では会場が結局探せず、この時点での公演の発表は無し。
まだまだパール・ジャムのツアーは前途多難なことを思わせた。
ツアーはスタートしたが...
ツアーの日程を発表し、いよいよ全米公演をスタートしようとしていた矢先に、問題が起こってしまった。
初日の会場になるはずだったボイシのアイダホ州立大学では、通常と違うチケットの販売には政府の許可が必要だとして、会場の使用を許可しないと言い出したのだ。バンド側はしかたなく、ワイオミング州キャスパーという小さな都市での公演に振り替えねばならなくなった。
2日目の公演地ソルトレイク・シティでは、暴風雨が会場を襲い、やむなく中止に追い込まれてしまった。エディはステージに出て、会場に来ていた1万2千のファンに「必ず帰ってくる。その時は2倍長くプレイするから」と停電してマイクが使えないため、拡声器を使って訴えていた。
さらにサンフランシスコ公演の後に行われる予定のサンディエゴでは遊園地で行われるはずだったが、こちらは警備上の問題から使用が出来なくなり、保安警察局からスポーツ・アリーナへの変更を要請されたのだった。
問題は変更した会場だった。このスポーツ・アリーナ、実はチケットマスターと契約を交わしている会場なのだ。この発表を聞いたマスコミは一斉に「パール・ジャム、チケットマスターに降伏!」と見出しを打った。
まだこれだけでは治まらなかった。ツアーがスタートして9日しか経っておらず、ライヴは5本しかこなしていなかったバンドは、6月24日のサンフランシスコ公演を迎えた。ここで最後の問題が起こってしまった。
"Last Exit"でスタートしたこの日、7曲演奏したところでエディが突然「この24時間は俺の人生で最悪の24時間だった。吐き気がひどく、今朝3時に救急病院に担ぎ込まれたんだ。今日はニール・ヤングが来ているから、この後は彼に代わってもらうよ」とショッキングなことを告げた。ゴールデン・ゲート・パークに詰め掛けた5万を越すファンは唖然としたことだろう。まだ30分しか経っていない。なのに、エディはステージから姿を消してしまった。エディの言葉通り、ニール・ヤングが登場しパール・ジャムとの共作である「ミラー・ボール」の曲を7曲披露し、全13曲約2時間のライヴをこなした。
ヤングと残りのパール・ジャムの演奏は素晴らしいものだったらしい。だが、ファンが見たいのはもちろんエディのヴォーカルでのパール・ジャムの曲だ。
ライヴが終了しても誰もがエディの再登場を待っていた。だが、ジェフが現れ、エディは戻らないと事情を説明すると、観客からはブーイングが。それを聞いていたヤングと他のメンバーが再び登場し"Peace & Love"と2度目の"Rockin' in the Free World"を演奏してサンフランシスコ公演は幕を閉じた。
なぜこれが最後の問題となったのか? それは、結局この公演が最後の公演となったからだ。
この日、エディを除く残りのメンバーとマネージャーによる話し合いを行い、その結果、残りのツアーをキャンセルすることを決断したのだ。
バンド側は「ビジネス的な問題と今回のツアーによって起こった論争が原因でツアーを中止し、新しいアルバムを作るためにスタジオに入る」との声明を発表している。
今回のツアーでのプレッシャーで全員が心身共に疲れ果て、バンドを解散の危機に追い込む可能性もあると考えての結論だったようだ。
最悪の結末を迎えて
ツアー中止という事態に追い込まれたバンドにさらに追い討ちを掛けるような情報が舞い込んできた。
今回のツアーが中止となったのは、チケットマスターの独占的な事業のためであり、ツアーの中止は同社が独占的な事業を行っていることの証拠であるとバンド側は訴えていたが、95年7月5日に司法省がこの件に関する調査を突然打ち切ったのだ。この日はETMの関係者が司法省の役人と会う予定であったにもかかわらずだ。
当局は「業界に新たな企業が進出している事実を見つけたようだ。その事実に基づくと、作業を進行するための十分な土台が無い」というコメントを発表。
専門家の間では、会場のオーナーやプロモーターが自ら進んでチケットマスターとの独占契約に応じていたために、同社への嫌疑を退けるしかなかったと分析しているようだ。
この時点でパール・ジャム側の完全なる敗北が確定したのだった。
実際のところ、アメリカのファンはこのことをどう思っていたのだろうか? 「あと2〜3ドル出して、ちゃんとした所で見られるならその方がいい」そんな話はあちこちで聞かれた。
会場がどこだろうと、チケット会社がどこだろうと、チケット代が少しぐらい高かろうが、そんなことかまやしない。彼らはいい音楽がちゃんと聴ければ、それ以外の事などどうでもいいのである。
R.E.M.はパール・ジャムのこの問題を応援していたけれども、95年のツアーではチケットマスターと組んでアメリカをまわった。「チケットマスターは好きじゃないけど、ツアーをやらないわけにもいかないよ」とはギタリストのピーター・バックの言葉である。
パール・ジャムのこの戦いについて、アメリカでツアーを出来なくしたのは、自分たち自身であるだとか、こんな大企業に戦いを挑むなど無謀な戦いだと揶揄する者もいた。
そして、見事にパール・ジャムは敗れたのだ。
この戦いが残したもの
ツアーは当分の間は再開されないだろうと誰もが思っていた。だが、メンバー全員がプレイしたいという衝動に駆られていることをお互い確認すると、すぐにツアーを再開させた。もちろんチケットマスターは通さないでだ。
1996年以降もバンドはFT&Tという会社などを使い、チケットマスターを通さずにチケットを販売しているが、チケットマスターを使わなければ会場を確保できない場合はやむを得ず使用するという形を取っているようだ。
パール・ジャムがファンを大切にすることを一番重要な事としているのであれば、パール・ジャムのライヴを見たい! と思っているファンにライヴを見せることをもっと優先させるべきだったのではないだろうかとも思う。
だが、無謀な戦いにあえて挑んだパール・ジャムを単なる不器用で愚直なバカ野郎たちと思ったら、それは間違いだろう。
彼らは常に既成概念に風穴を空け、社会に多大なる影響を与えている。
誰もが当然と思っている事に疑問を抱き、その疑問にぶつかって行く姿に僕は拍手を送りたい。
そして、それと同時に社会を変えていくということは、並大抵のことでは出来ないんだということもよ〜くわかった。だからといって、現状に甘んじる事だけはしたくない。パール・ジャムのこの闘争は、僕にそう強く思わせた。