1 良くある話1
「いいよなー…。皆さあ…。」
ザンは空を眺めた。妖魔界の赤く暗い空にトゥーリナとターランが飛んでいる。ザンの頭のちょっと上には、タマちゃんが浮いている。それを見たザンは、深く息を吐き出した。「はあああぁぁぁぁ。」
「ざー?」
タマちゃんが不思議そうな顔をする。それから、ザンの頬に手を伸ばし、落ち込んでいるザンを慰めようとした。
「タマちゃん…。」
ザンは無理に笑う。タマちゃんがにこっと微笑み返した。「いいよな、タマちゃんには悩みがなくて。」
「?」
トゥーリナもターランもタマちゃんも皆好きだ。でも、皆にはある羽根が自分にはない。それはとても辛かった。よく気がつくターランですら、平気でザンの上を飛んでいるのだ。『皆はあるから気にしないんだよな、飛べない奴の気持ちなんて。』
「トゥーっていいよねぇ…。俺、トゥーになりたいな。」
空の散歩を終えた後、畑をのんびり見て回っているトゥーリナを見ながら、ターランは呟く。トゥーリナはハンサムだ。ターランは変身する事が出来るが顔は変わらない。それに…。「のみの夫婦なんて嫌だよぉ…。」
決してトゥーリナは小さくない。ターランがでかいのだ。195センチ近くはある。それは仕方ないのだけど。
「でもさ、でも夫婦ってさ、やっぱり夫が大きい方が格好つくじゃない。トゥーの膝に座ったら、彼の顔を可愛く見上げたいのにぃ…。」
「ターランお坊ちゃまの食事は豪華だったから、背も伸びたんだろ。」
何時の間に後ろに回ったのか、背後からトゥーリナの声がした。吃驚して振り返ると、トゥーリナがひくつきながら言った。「俺んちの飯は粗末だったし…。」
「トゥーがちびだなんて言ってないよぉ。怒らないでー。」
ターランは慌てて謝った。忘れていた。自分よりトゥーリナが身長差を気にしていた事を。「何で妻のお前の方がでかいんだろうなー。」なんて言葉では冗談めかしていたが、顔は真面目に言うトゥーリナ。それなのに、馬鹿な事を呟いてしまったとターランは後悔した。しかし。
「お前がでかすぎるんだよっ!俺は普通だっ。」
謝罪のつもりで言った言葉が火に油を注ぐ結果になったようだ。どかっと座りこんだトゥーリナに、ターランは腕を引っ張られ、膝の上に乗せられた。びしぃっ。慌てたターランは思わず抵抗して、思い切り左のお尻をぶたれた。
「ひっ、痛いよっ。」
トゥーリナは構わずターランのズボンとパンツをぐいっと下ろした。そして、びしっ、ばしっと力を込めて、ターランのお尻を叩き始めた。「うわーっ、痛いぃぃっ。」
悩んでいただけの筈なのに、ターランは何故かお尻を叩かれ始めてしまった…。そして、トゥーリナの怒りが収まるまでは、許してもらえないのである。今日のターランはなんだか不幸だった。
次の日の朝。主婦ターランは一番先に起きる。トゥーリナの方が早い日もあるが、それはただたんに早く目覚めたか、ターランに疲れさせられていないだからで、安定して早く起きるのはターランだ。トゥーリナに満足させてもらっているからかもしれない。ザンとタマちゃんがいるので、前のようには楽しめないが、それでも充分満足なのだ。
「ふわぁぁぁ…。」
トゥーリナを起こさないようにそっと欠伸をしようとしたターランの目に長い爪が…。「…?…えっ…、ええええっーーーー!!!」
トゥーリナが飛び起きた。
「何があった!」
トゥーリナは叫びながら、ターランの方を見た。「…な・ななな!?」
顔を見合わせた二人の目が丸くなる…。お互いの瞳に映っていた姿は…!
子供部屋。ザンは、大きな声で目が覚めた。
「うるせーな、何騒いでるんだよ…。」
彼女は目を擦った。「あーあ。」
ターランが見たら、女の子らしくないっと叱りそうな大口を開けて欠伸と伸びをする。
「あれ?周りの物がでかい…?…あ、あー、あー。誰の声だっ、これっ!?」
「…ざー?…ねむねむ…。」
「た・タマちゃん…?」
ザンは呆然としながら隣のタマちゃんを眺めた…。
「で、結局、これって…。」
トゥーリナ、ターラン、ザン、タマちゃん。皆は起きて服を着ている。「俺とトゥーリナ、ザンとタマちゃんが、入れ替わっちゃったんだよね…。…聞きなれない声で変だよぉ…。」
「ターラン、トゥーリナの体と声でなよなよすんなよ、気持ち悪いぞ。」
ザンが言う。ターランはザンを睨む。
「なよなよして悪かったね。どうせ俺は女みたいな男だよ。」
ターランは膨れたが、気を取り直して言う。「…ザンの顔がタマちゃんみたいにぽややんとしてるのって、変…。」
「タマが喋るとそんな声になるのか。」
トゥーリナが感心したように言う。タマちゃんは喋れるけれど、まだまだ赤ちゃんなので、普通に喋ると違って聞こえるようだ。
「たー?」
「ターランがタマちゃんを呼び捨てにしたと思って、タマちゃん、不思議がってるぞ。」
ザンはトゥーリナに言う。タマちゃんを呼ぶ時、ターランとザンはタマちゃんと呼ぶが、トゥーリナはタマと呼び捨てにする。
「タマには説明しようがないから放っておけ。…それよりも、声が変に聞こえるのは何故だ?」
「声は口の中で反響して耳に届くから、人が聞いている自分の声と本人が認識している自分の声は違うんだよ。」
ターランは言った。ザンがトゥーリナの言葉に不満そうな顔をしている。ターランも気になったが、今はもっと大切なことがあるとその件は後回しにした。
「つまり、この声がターランが耳で聞いているターランの声なんだな。…聞き慣れないから変だ。」
「なーなー、声が一緒ってことは、霊体が入れ替わってるのかな…?」
ザンは、タマちゃんを気にしながらも口を挟む。
「霊体が喋っても生前の声だよねー…。」
いつもなら、大人の話に子供は口を出すなと叱るターランも、今回は素直に聞いた。
「霊体は幻で声帯を使ってないから、あれは厳密に言うと違うぞ。」
トゥーリナは言う。「それに、霊体が入れ替わっているだけなら、幽体離脱で簡単に戻れる。俺とターランは試してみたが出来なかった。」
「そっか。それじゃあ俺等、簡単には戻れないんだな…。」
すぐに元に戻れると思っていたザンは落ち込んだ。ふとタマちゃんを見ると、話が難しいせいなのか、話を聞かないでお腹を撫でていた。
「ぺこぺこ。」
「タマちゃんの言う通りだよー…、俺も腹減った…。」
タマちゃんの言葉で空腹に気付いたザンが皆のテーブルの上に横になった。タマちゃんの体なので、テーブルの上にあるタマちゃん用のテーブルについていたのだ。
「だって、指が5本もある上に、トゥーってば指ぐらいも爪伸ばしてるんだもん。ご飯なんか作れないよぉ。」
ザンの行儀の悪さを叱る余裕のないターランは、手をザンに向けながら言う。彼もお腹がへっていた。
「お前さ、こんなぶっといたった3本しかない指で良く細かい作業が出来たよなー…。刺繍とかさ。」
「君、お腹が空いていないの?」
「空いているけど、この指で何が出来るんだ?服を着るのだって大変だったんだぞ。」
「俺だってタマちゃんの体じゃ何も出来ないし…。…餓死しちまうっ。」
ザンが喚いた。タマちゃんは泣きそうな顔をしている。いつもなら温かいご飯が用意されているのに、皆は喋るばっかりでいつまで経ってもご飯が出てこないのだ。
「こりゃ、ターランの羽根を売って、金作って、飯屋に行くしかねえな。」
妖魔界の大半の人々は質素な生活が当たり前で、ここトゥーリナ・ターラン家でも余計なお金はない。トゥーリナの提案は当然だった。
「売りに行く途中で盗賊に出会ったら…?」
「食べに行く手間が省ける。それによ、俺ら素手でもこの辺の盗賊なら殺れるだろ?」
「まーね。」
答えた後、ターランはトゥーリナの耳(正確には自分のだが)に口を近づけ、「タマちゃんの教育に良くないから、簡単に殺すって言わないで。」
「タマなんかこの際どうでもいいだろ。」
「トゥーリナ、何を言い出すんだよっ。」
いつもより更に冷たい言葉にザンはいきり立った。
「そうだよ、トゥーっ。」
「命がかかっている時に、教育なんかどうでもいいって言ってるんだ。タマをないがしろにしてるんじゃねえよ。…ザン、何も知らないのに口を挟むな。」
トゥーリナはザンを睨みながら言った。ザンは、トゥーリナに素っ気無くされたことがないので、傷ついた表情をした。ターランより強いトゥーリナにはかなり痛いお仕置きをされる場合もあるけれど、ザンにとってトゥーリナはいい兄貴なのだ。それなのに…。
「ちょっときつい言い方だね。お腹が空くといらいらするからかな。」
ターランは慰めた。
「そうかもな。」
トゥーリナは言いながら、ザンの頭を指で撫でた。彼女はやっと微笑んだ。
保存のきかない昨夜の残り物を少しだけ啜り、皆は小旅行する事になった。皆の住まいから、堕天使の羽根の換金所へは歩いて数日かかる。万が一の為に保存食を作っていたので、それを持って出た。人里離れた所に住むデメリットを感じたのは今回が初めてだ。
「ザンだけ楽して…。」
「仕方がないだろっ。俺に飛び方を知らねえし、タマちゃんの体で歩いて間に合うかよっ。」
ザンは、文句を言ったターランを怒鳴りつけた。
「そうだけどさ…。」
「無駄口叩くな。余計に腹が減る。」
「そうだね。」
ターランは頷くと、タマちゃんを振り返った。「大丈夫かい?」
「あい。」
タマちゃんはにこっと微笑んだ。タマちゃんのボキャブラリーでは今の状況をどう感じているかを説明できないので、気を使ってやらなきゃとターランは思った。
「たー、ぺこぺこ。あるー、んめー。」
暫く歩いた後、タマちゃんが立ち止まって、トゥーリナへ言った。タマちゃんへは説明をしていないので、彼はターランがトゥーリナになっているのを知らない。
「タマは何て言ってるんだ?」
トゥーリナはターランを見た。タマちゃんは、ザンとターランに懐いているので、トゥーリナはタマちゃん語を理解していない。
「お腹が減って歩けないって。」
「俺も腹減ったー…。」
トゥーリナの肩の上でザンがへばった。
「タマちゃんは分かるけど、ザンは歩いてないでしょ。我が侭を言わないの。」
「ミニサイズのタマちゃんの腹がいつまでも持つかよ。」
「ターラン、タマにこれ食わせろ。ザン、お前はまだ我慢しろ。」
「何でだよー…?」
「ターランの言った通りだからだ。ケツ叩かれたいのか?」
「うー。」
ターランは、タマちゃんにトゥーリナが渡した物を食べさせた。タマちゃんは食べなれない物と味に目を白黒させたが、食欲が勝ったらしく、一気に食べてしまった。ザンはいいなーと思いつつ見ていたが、怒られたくないので黙っていた。
数日後。やっと、堕天使の羽根の換金所が見えた。保存食も尽きてしまい、皆へろへろだった。幸か不幸か盗賊には一度も会わなかった。
換金所の中へ入る。職員が目を丸くした。皆がへたり込んだからだ。
「一番いいのを換金してくれ…。」
トゥーリナは言った。職員は返事をするとトゥーリナの所へやってきて、羽根を触り始めた。
「あ、普通に抜いて下さい。」
様子を見ていたターランは、ふと気がついて言った。
「いい状態になるように、でいいだろ。」
「凄く痛いけど?」
堕天使の羽根は抜き方によって状態が変わるので、値段も大きく違ってしまう。痛く抜く方がいい値段なのだ。
「今の俺には痛みより、空腹を満たす方が重要だ。」
血走った目で睨みつけられて、ターランは縮み上がった。『俺の顔があんなに怖くなるなんて、想像もしなかった…。』
「…では、痛い方でいいんですか…?」
遠慮がちに聞く職員にトゥーリナは無言で頷いた。その途端、下の翼に激痛が走った。ターランの忠告を無視した手前、声だけは漏らさなかったが、顔は歪んだ。痛みが薄れてから、ターランを見ると、心配そうに見ていた。
「気に食わねえ。」
「えっ!?」
「勝ち誇った顔をしてた方がまだましだ。」
「えっ?えっ?」
ばしいっ、ばしいっ。後から考えれば、ただの奴当たりだったのだけど、トゥーリナはターランを引っつかんでお尻を打ち据えていた。ばしいっ、ばしいっ。叩いているのが自分のお尻だなんて意識はまるでなかった。
「痛いよっ、何で心配しちゃ駄目なのぉ?痛いってばあっ。」
言う通りにしてば良かったという顔をされた方が頭にくると思うけど…とは言えないまま、ターランはトゥーリナの怒りが去るのを待つしかなかった。
「いつまでひっぱたいてるつもりだよっ。いい加減にして早く飯を食いに行こうぜ。」
ザンがうんざりした声を出して、トゥーリナははっとして手を止めた。
「1枚でよろしいですか?」
この訳の分からない4人組みにはさっさと出て行って欲しいという気持ちをありあり出した職員の言葉に、トゥーリナは
「全部だっ。」
と怒鳴った。空腹で一番いらいらしているのはトゥーリナだった。
頭にきたらしい職員はろくに確かめもせずに残り4枚を選び出し、乱暴に引き抜いた。そして、余りの痛みに青くなっているトゥーリナを残して、計算を済ませ、金貨をターランに放り投げた。
「有難う御座いましたっ。」
ちっとも有り難がってない声で怒鳴ると、4人を外へ押し出した。