35 昔は良かった3
「…なーんてことがあったよなあ…。」
トゥーリナは隣にいる百合恵へ言った。
「そうね。あの後、暫くは、あなたの顔を見ると胃が痛くなって、神経性胃炎になったかと思ったわ。」
「…いや、俺が言いたいのは、そんなことじゃなくて…。」
「さ、ラィティア、お母さんと一緒にお外で遊びましょうね。」
百合恵はトゥーリナの話を最後まで聞かず、娘と一緒にさっさと行ってしまった。
「俺が言いたいのは、そういう所なんだよ…。」
トゥーリナはぶつぶつ呟いた。あなたの為になんて可愛いことを言っていた百合恵は、子供しか眼中にない。人間の夫婦ならともかく、妖魔界の夫婦は、結婚して何年経っても、ラブラブしていて、いつまでも新婚のようなのが当たり前なのだ。だから、トゥーリナは百合恵の変化が気に食わない。
でも、昔は良かったと言いたくなるのはそれだけではなくて…。
物思いにふけっているトゥーリナの前に、リトゥナが颯爽と現れた。女の子っぽい顔は変えようもないが、勇ましい表情のお陰で大分男らしく見えるようになった。凛々しい今のリトゥナに可愛らしかった子供の頃の面影は無い。
「お父さん!」
「あ、リトゥナ。どうした?」
「暇なんでしょ?さっさとあの報告書、提出して。」
「いや、あれは…。」
「お父さんさ、第二者だった癖に、あの仕事の重要性も分かってないの?お昼までには片付けてよね!」
リトゥナは冷たく言い放つと、マントを翻して歩いて行った。
「…あの可愛かったリトゥナは、何処へ消えたんだ…。」
ふぅ。トゥーリナはため息をついた。親を馬鹿にした罰として、お尻を叩いてもいいんだけど…そんな気力さえ沸いてこない。最近、第二者になったリトゥナ。すっかり偉くなってしまって…。トゥーリナはまたため息をつきたくなった。
今度はターランが現れた。昔に戻りたくなる3つ目の原因が…。
「トゥーリナ、リトゥナから聞いたと思うけど、あの仕事を片付ける気があるなら早めにね。ないなら、俺がやるから頂戴。」
「あ、そうか。お前が片付けてくれるなら、お前に任せる。俺はもう仕事なんて見たくもないんだ。」
「分かった。」
ターランはトゥーリナの顔を眺めた。「君、引退したら?仕事もしないのに、城をうろうろされても迷惑だしさ。」
「…お前、そんなに毒舌家だったか?」
「前は君を愛してたから、君には甘かったけど、俺は元からこんなだよ。」
「そうか。…娘は元気か?」
「勿論。じゃあね。」
ターランもさっさと出ていった。トゥーリナはぼんやりしていた。一生君を愛すよ、なんて言っていた男は、ストーカーの女と結婚した。元は気味悪がっていたので、いつ心変わりしたのかは知らない。今は娘がいる。ラィティアより、3つばかり下の赤ちゃんだ。
また足音が聞こえてきたので、トゥーリナは顔をあげた。
「お久しぶり。」
美しいドレスに身を包んだザンが、しゃなりしゃなりと歩いてきた。
「あ、ザン。」
「ご機嫌が宜しくないようね。」
「なんかその言葉、おかしくないか?」
「…まだ慣れてねえんだ。仕方ないさ。」
素に戻ったザンがトゥーリナの隣にどかっと座る。「元気ねえな。」
「まあな。…お前はどうなんだ?」
「大分女に戻って来た。でも、時々素に戻っちまって、ああ、俺は男が染みついてるなって思うんだ。」
「そうか。な、ドレスは着慣れたのか?」
「まだ。くすぐったいし、スースーするし、気恥ずかしい。」
「女でいた時間の方が短いんだよなあ…。」
「ああ。でも、俺の夢は叶ったし、ゆっくり女に戻るさ…。」
ザンは立ち上がると、優しい笑みを浮かべて、「何があったか知らないけど、元気を出して下さいな。では、ごきげんよう。」
「ああ。」
ザンは軽やかに去っていく。とても幸せそうだけど…トゥーリナには気持ち悪かった。散々男言葉のザンを見せられていたのだ。男女平等の世の中になったからと、女らしい姿を見せられても、演技でもしているようにしか感じられない。
「昔は良かったなあ…。」
トゥーリナは息を吐いた。百合恵は、ちょっと生意気だったけど可愛く、リトゥナは、情けない所もあったけど素直で、ターランは、愛してると囁くのが嫌だったけど大切な友で、ザンは、乱暴で人使いが悪かったけどいい仕事相手だった。自分は、仕事に追われながらも充実した毎日を送り、父を含めた大切な家族や親友と幸せに生きていた…。
何処かで何かが狂ってしまった…。父も死に、生き甲斐もなく、ただ昔を懐かしむ自分…。今、ふと消えてしまっても、誰も気にも留めないのではないか…そんな恐ろしい想像が現実感を伴ってやって来た。
トゥーリナは激しく胸が痛むのを感じた。このまま、死んでも何の感慨もない…。
「トゥーリナ!トゥーリナぁっ!」
「うっ…?」
「起きたのかいっ!?」
トゥーリナは目を開けた。百合恵とターランが、トゥーリナを覗き込んでいた。
「…?」
「あなた、凄くうなされていたのよ。もう大丈夫?」
状況が分からないトゥーリナに、百合恵が優しく説明する。「まだ夢の余韻が消えないの?」
「もう何も怖くないよ。安心して、トゥー。」
二人はとても心配そうにトゥーリナを見ている。
「あ…。…ああ。」
いつもの二人だ。トゥーリナは、二人に微笑みかけた。少しして、意識がはっきりしてきた。
「俺さ、凄く嫌な夢を見たんだ…。百合恵は冷たくなるし、ターランは結婚して子供まで作って、素っ気なくなるし…。リトゥナは俺を馬鹿にして嫌な笑い方するし、ザンは女に戻っちまって気味悪いし…。」
「僕が結婚?面白いね。でも、それって君にとって嫌なことなの?」
「結婚したお前は幸せそうだった。でも、俺には嫌な奴だったんだ…。俺は、お前に幸せになって欲しいけど、俺とは親友のままでいて欲しいと思っているから。」
ターランはトゥーリナを抱きしめた。
「心配しないで。心は変わるから、結婚は有り得るかもしれないけれど、君が大切な気持ちは変わらないから…。」
「ああ。」
「わたしだって変わらないわ!人間だった頃は、倦怠期もあったけど、妖怪になってからは、あなたを愛する気持ちで一杯よ。」
「有難う。」
トゥーリナは嬉しくてまた微笑んだ。それを見て安心したターランが、疑問を口にした。
「…でもさ、ザン様は別に悪い所がなかったよね?」
「まあ、そうなんだが、あのザンが女言葉を使っても、怖いんだよな…。」
トゥーリナは笑った。ザンに聞いたら、めちゃくちゃに殴られそうな言葉だったが、ターランと百合恵は思わず笑ってしまった。