26 トゥーリナがリトゥナをお仕置き4
トゥーリナはギンライの部屋を訪れていた。あれから数日が過ぎていた。本当はすぐに来たかったのだが、時間が合わなくて遅くなってしまった。
「そうか、何事もなく叱れたのか。」
「ああ。」
ギンライの言葉にトゥーリナはうなずいた。
「もう何も問題は無しか?」
「まあ、今の所は。」
「そうか。良かったな。」
父の顔を見ながら、トゥーリナは父に言おうと決めたことを思い出した。
「なあ、親父。」
「ん?」
「俺さ、鞭は使わないでおこうと思ってるんだ。」
「…どうしてだ?」
ギンライには不思議でならない。
「説明されてもピンとこねえし、鞭には嫌な思い出があるから…。」
「成る程な。…まあ、いずれ使う時が来ると思うが、今は無理に使う必要はないさ。」
「来るかな。」
「リトゥナで来なくても、お前が親父でい続ける限りは…。」
「…。」
そんな日は来なくていいと思った。叩くこと自体、本当は嫌なのですから。でも、体罰無しに躾る方法を知らなかった。
それから、リトゥナは時々お仕置きが必要な悪さをしたが、殆どは百合恵がしていた。彼女はトゥーリナの気持ちから、自分の叱り方を考え直し、前と変わった。リトゥナは喜んだ。ターランから叱られなくなったし、お母さんは前より優しいから。
百合恵は日本人で、リトゥナはその百合恵に育てられたので、二人は妖魔界語を話せない。それで、二人は家庭教師に妖魔界語を習っていた。
「えっと、…は食事ね。」
「…は、食べる。」
「じゃ、…は?」
「朝ご飯!」
「ブー!お昼ご飯。最後が違うでしょう。」
「あっ、そうか。」
「腹減ってくるな…。」
最後に喋ったトゥーリナは、ターラン先生の指導のもと、ザンと二人で勉強をしていた。今日は皆で勉強会。百合恵達はほぼ毎日しているが、ザンとトゥーリナは仕事が暇な時にだけ勉強する。
「トゥー!よそ見しないで、テストやって!」
ターラン先生の叱責が飛んだ。
「はいはい。」
トゥーリナは、今度は食べ物の名前を復唱している妻子から、テスト用紙に目を移した。お昼が近いのもあって、お腹が鳴りそうだった。
勉強会が終わり、本当の食事の時間が来た。ザンは家族と食事するので、自分のお城へ帰っていった。
「これはわたしが作ったのよ。」
百合恵はお皿の一つを指差した。
「いつの間に?」
トゥーリナが訊いた。勉強会は2組同時に始めたし、終わったのだって一緒だった。
「勉強会の前よ。」
「どれどれ。」
納得したトゥーリナはそれを口に運んだ。「…まあ、今はこれでいいか。」
「あら、美味しくなかったかしら?」
作る時に味見していたが、時間がたって味が落ちてしまったのかと思い、もう一度食べてみた。しかし、特に悪いとは思えなかったので言う。「いいと思うけど…。」
「ちょっと足りない。」
ターランが口を挟んだ。「…っ。…もうちょっと練らないとね。」
「そうだなー…。」
「そう言われればそうね。」
前に百合恵は妖魔界の食材は気持ち悪いと言って、ずっと料理はしていなかった。しかし、トゥーリナがいつまで第二者でいるかは分からない。止める止めるなと揉めたこともあったし、奥様のままでいられないかもしれない。そうなったら、料理も出来ないと…と頑張って、出来る料理から挑戦し始めた。日本では料理のレパートリーの多い主婦だった。でも、妖魔界には気味の悪い生き物もいる。ゲテモノは美味というか…人間界にも虫など不気味な物が美味いとも言うが、妖魔界にもそういうのがあって、それが元人間の百合恵には耐えられないかったのだ。
「最初から上手いわけないし、気持ちは汲み取るさ。」
トゥーリナは優しく言った。日本で食べた百合恵の料理が美味しかったのを記憶していた。彼女がやる気さえ出してくれれば、彼女の手料理が食べられる。それで、今食べたのは本当のところを言うと不味かったのだが、和らげて表現した。ターランが文句を言いかけた時、彼は足を蹴飛ばした。それでターランはアドバイスにとどめた。
平和な時が流れていた。第二者の仕事として、何処かの国や城を滅ぼすなんてこともなく、とても穏やかだった。ザンは退屈がっていて、時々トゥーリナやターランと手合わせをしていた。
勉強が進んでいるので、トゥーリナは読書家になった。百合恵は夫の新たな一面を見つけて面白がっている。ギンライは変わらないが、正常な時はトゥーリナ達とは良好な関係を築いている。
それから、ゆっくりと何かが変わり始めた。でも、最初は気づかなかった。最初にリトゥナが気づいた。次に百合恵が、そしてターランが。
トゥーリナは最初に父がしてくれた忠告を忘れていた。彼は勉強によってもたらされた知識欲を全て教育の本に傾けた。ザンと二人で学校について色々話していたので、余計に。それは一冊の本だった。妖魔界に溢れる教育や躾の本の中の一粒の砂。何の偶然か、トゥーリナはそれを手に取った。彼の書斎には本棚が増え、一つの本棚には、躾の本で埋め尽くされていた。だから、いずれは手にしたかもしれない。それでも、それがもう少し後だったら…。
大袈裟になってしまった。でも、リトゥナにとってはおおごとだった。
リトゥナは泣きながら、父の仕事部屋を出た。かつては入ってはいけない部屋だった。入るとターランに酷く叱られ、お尻を沢山叩かれた場所だった。でも、今は、お仕置きを受ける為に入る。そう、仕事部屋はお仕置き部屋になっていた。
今回のお仕置きは何が理由だったのか、リトゥナは覚えていない。ただ、お父さんが怖い顔で、リトゥナの腕を引っ張りながら、この部屋に連れてきた。リトゥナは恐怖で一杯になっていた。
いつからか、お父さんは恐ろしくなっていた。今では、ターランが「やりすぎてるよ。」と忠告しても聞く耳を持たない。お仕置きの理由が告げられぬまま、部屋へ連れて行かれ、お尻を沢山叩かれる。トゥーリナが何故そうなったのか、誰も知らない。
一粒の砂は、まだ誰にも知られていなかった。その本は、鞭が当たり前の時代から、平手打ちが主に用いられるような時代へと変わってしまったのを嘆く者が書いた本だった。平手でお尻を叩くくらいで子供が良くなるわけないとその人は思った。しかし、時代は変わった。おもに平手で、鞭ではたまにしか打たれなかった子供が大人になっても、妖魔界は特に悪くはならなかった。だからこそ、今でもその方法が用いられているのだ。
トゥーリナが、少し過激なタイトルのその本に興味を持ったのは、責められることではないだろう。しかし、内容を良く考えもせずに、いきなり実践し始めてしまったのは…。
トゥーリナの横暴なお仕置きに耐え切れなくなったリトゥナは、ギンライに相談に行った。今では、ターランですらトゥーリナを止められないからだ。
「お祖父ちゃま。」
「リトゥナか…。」
祖父の額には玉の汗が浮かんでいた。発作が終わって数分も経っていなかったのだ。
「ごめんなさい。また後で来るね。」
「行くな。どうせまたすぐくるんだ。…それより何かあったのか?前はもっと五月蝿かったのに。」
「僕、悪い子だった?」
ギンライの言葉に、リトゥナは不安になった。お祖父ちゃまは病気なのに、五月蝿くしていたなんて。
「子供らしかった。今は年齢に不釣合いだな。体は人間の血が入ってるから大きいが…。」
違うと分かってほっとした。
「あのね、お父さんね…。」
ぼろっ。大粒の涙が零れた。今ではそれすらもお父さんは許してくれない。リトゥナは汗臭い祖父にしがみついた。発作で苦しんだからだし、今は気にする余裕が無い。リトゥナは泣きながら一所懸命に変わってしまったお父さんについて語った。前の優しかったお父さんに戻って欲しい。げんこで殴られていた時よりも、もっと恐ろしい今のお父さんは嫌だ。僕が頑張っていい子になろうとしてても、お父さんは責める。どうすればいい?愛して欲しい。嫌いにならないで。
お祖父ちゃまが優しく抱いてくれた。リトゥナは大声で泣いた。なくなってしまったお父さんの暖かさを感じた…。
「落ち着いたか?」
「あい。…はい。」
「トゥーリナの奴、どうしちまったんだろうな。神経質に思えるほど叱ることを気にしていたのに。」
「分かんない…。」
ギンライは唸った。何をそんなに恐れているのかと不思議なくらいにお仕置きについて心配していたトゥーリナ。彼に何があったのだろう。
「話を聞く必要があるな。リトゥナ、今、トゥーリナを呼べるか?」
「訊いてみる…。」
リトゥナはギンライの頬にキスをすると、祖父の部屋を出た。
とんとん。恐る恐る仕事部屋の戸をノックすると、ターランが出てきた。
「どうしたの?」
前は仕事中に邪魔をされるときつい態度をとっていた彼だったけれど、今はリトゥナを哀れに思い優しくしてくれる。
「お祖父ちゃまにお父さんが怖くなったって話したら、呼んで来いって言われたの。今、大丈夫ですか?」
それを聞いたターランは、素早く頭を回転させた。結論が出た。
「いいよ、ちょっと待ってね。俺が話すから。」
ターランはトゥーリナの側へ行った。「あのね、トゥー。」
「…聞こえてた。俺が何だっていうんだよ。」
「リトゥナをちゃんと叱りたいって言っていた君は、今はもういない。俺も百合恵も心配してる。今の君はとても変だ。リトゥナへの愛情は何処へ行ってしまったのさ?」
「…。」
自分ではちゃんとしているつもりだったので、トゥーリナはターランを睨んだ。子供を甘やかしたら駄目になる。あの本はそう書いていたのだ。かつて叱れなかった頃、百合恵に甘いと言われたことも覚えていた。それなのに何故責められるのか。彼には理解できなかった。
「仕事は何とかなる。ギンライさんの話を聞いておいでよ。」
「俺がリトゥナを叱らなかった時は逃げてるって責めて、叱ったら叱ったで文句を言われるのかよ。」
「少し前の君は、立派なお父さんだったけど、今は違う。」
「大体、俺が父親になったら情けないって言うくせに、急に態度変えやがって。」
「確かにそう思うさ!でも、俺だって情はあるんだよ。リトゥナも少しは可愛い。それに俺は虐待をするような男なんて嫌いだね。まるで構わないか、可愛がる方がまだましなんだ。今の君なんて大嫌いだ!」
「っ。」
トゥーリナはターランを見つめた。どんな時だって自分を慕っていて、奴隷みたいに尽くしていたこともあったのに。そのターランにそこまで言わせてしまう程、今の自分はおかしいのだろうか?トゥーリナは分からなくなった。
「…俺は君に尊敬できる素晴らしい男でいて欲しいんだよ。第一者でいて欲しかったし、君には迷惑な思いだけどさ。でも、あの時は完全に俺の我が侭だったけど、今回は絶対に俺の方が正しいからね!」
トゥーリナは無言で部屋を出た。ターランの声が追いかけてきた。「また、逃げるの?」
「親父の所へ行く。」
「そう、それならいいけど。」
ターランは少しだけ不安そうに、百合恵のところへ行くようにリトゥナへ言っているトゥーリナを見た。トゥーリナは部屋を出て行った。