1 トゥーリナとターラン1
ざっざっ。第一者ギンライの兵士二人が道なき道を進んでいる。一人の男は、生まれて数週間が経った赤子を抱いている。
「これで何十人目だ?子供を捨てるのは。ギンライ様も罪なお人だ。」
「さあ、知らねえな。俺等は、黙って命令に従っていればいいのさ。」
二人はまた黙り込み、うっそうとした森の中を歩き続ける。
それから少し前。
「おめーなあ、いい加減にしろよ。いつまでそんな馬鹿げたことを続けるつもりだ?天国へ行けなくなるぜ。」
ザンは、鬼のギンライへ向かって言った。ギンライは、トゥーリナが第一者になる前の王だ。
「俺が何をしようが、お前には関係ない。子供は腐るほどいるんだ。いらないのを捨てて何が悪い。」
「お前みたいな外道に、ルトーちゃんが殺されたなんて、信じられないぜ。」
「それとこれとは話が違うじゃねえか。…俺はお前の言うままに、第一者をやってる。それでいいだろ。それ以上は放っておいてくれ。」
ギンライは、ザンに背を向けた。ザンは、顔をしかめると、ギンライの城を後にした。本当の第一者はザンだ。しかし、仕事が面倒で、ギンライにやらせている…。
赤子が捨てられてから、しばらく後。家路へと急いでいた旅人は、聞こえる筈のない赤ん坊の泣き声に、ふと、足を止めた。おぎゃああ。やはり聞こえる。男は、そちらへ向かった。
布に包まれた赤ん坊が、泣いていた。
それから40年後。
「こら、お前、僕の命令が聞けないって言うのかっ。」
がんっ。貴族の子供と見まごうばかりの贅沢な衣装に身を包んだ少年が、目の前の怯えきった少年の頭を殴りつけた。殴った少年の名は、ターラン。堕天使という貴重な種族に生まれ、甘やかされて、我が侭放題に育った。お尻を叩かれた経験がない、妖魔界の子供としては、これまた貴重な子供だ。
「ご免よ、ターラン。」
殴られた少年は、泣きそうになりながら、言った。
ターランは、堕天使。妖魔界の住民が、一目見られるだけで幸運だという種族。堕天使の羽は、たった1枚で、金貨数十枚の価値を持つ。ターランの住む村は、彼の羽のおかげで潤い、村人達が額に汗して働く事無く生きていられる。ただ、その為には、我が侭一杯のターランを敬わなければならない。子供達がターランを恐れるのは、親達から厳しく言われているからだ。ターランに従えと。
ターランの祖父は、村長をしている。これも、ターランのおかげだ。ターランは、金の卵を産み続ける鶏。小さい頃は、孫を甘やかす息子達を叱っていた彼も、今では孫の言いなりだ。そのせいで、ターランは、自分は村長の孫なのだと、ますます増長するようになった。
村の片隅の小さな家。働かなくても生活が出来る恩恵を受けているこの村では、常識破りの子沢山の家庭が多い。この家もそのうちの一つだ。
「トゥーリナっ。何やってんだいっ。さっさと、水汲みを終えちまいなっ。お前の仕事は山ほどあるんだよっ。」
肝っ玉かあちゃんの名に相応しい大きな体を揺すり、母親は、奴隷のトゥーリナを怒鳴りつけた。今の時代では、特別の時にしか使わなくなった鞭を彼のお尻に振るう。
「ごめんなさい、お母さん。」
トゥーリナは謝ると、子供の体には大きすぎるバケツを持って、共同の井戸まで歩き出した。
妖怪の子供は、種族や血の混ざり具合によって、体の成長が様々である。トゥーリナは、人間の10歳くらいの子供と同じ大きさだった。
トゥーリナは奴隷だ。彼を拾った男は、只で奴隷を拾ったと大喜びだった。お母さん、お父さんと呼んでいても、実子達のように、可愛がられる事はない。
山のような仕事を終えたトゥーリナは、自分の場所と決めている川の側で横になっていた。酷く疲れていた。遊ぶ気力もない。
ぐったりと眠っているトゥーリナの所へ、子分を山と従えたターランがやって来た。この村で、ターランお坊ちゃまの子分になっていないのは、トゥーリナだけである。
「おいっ、奴隷のこうもりっ。」
ターランが威張って、トゥーリナを呼ぶ。しかし、疲れきったトゥーリナは、眠り続けている。むっとしたターランは、トゥーリナの血の繋がらない兄弟の一人をこづいて、彼を起こすように命じた。
揺さぶられて起きたトゥーリナは、思いきり不機嫌な顔で、ターランを睨みつけた。
「うるせーな、何の用だよ。俺は疲れているんだ。ほっといてくれよ。」
「お前は、僕の部下になっていないんだ。お前だけだぞっ。」
ターランは、トゥーリナを責める様に言った。「お前も僕の部下になれっ。」
トゥーリナは、馬鹿馬鹿しく感じて、ターランに背を向けて、目を瞑った。その態度に腹を立てたターランは、トゥーリナの背中を蹴りつけた。
「お前は僕の部下にならなきゃいけないんだっ。言うことを聞けっ。僕は、村長の孫なんだぞ。」
ターランは、叫びながら蹴り続けた。いつも暴力を受けているトゥーリナには、ターランの蹴りなぞ、痛くも何ともなかったが、うるさくて寝ていられない。
「いい加減にしろっ。」
トゥーリナは、怒鳴りつけた。「俺は疲れて眠たいって言ってるだろっ。トラの衣を借りる狐が喚くなっ。皆がお前の言う通りにするのは、お前が村長の孫だからなんだぞっ。お前が村長の孫じゃなかったら、誰もお前の命令なんてきかないんだ。」
「そんなことないっ。僕は…、皆は、僕が凄いから言うことを聞くんだっ。」
「お前なんて金貨と同じじゃないか。お前はただの金だ。羽が無かったら、ただの生意気で憎たらしいガキなんだ。」
「違うっ!!!僕はそんなんじゃ…。お前なんか奴隷じゃないか…。」
口では勝てない。ターランは悟った。周りを見ると、子分の子供達が、いや、騒ぎに気付いた大人達までがこちらを注目していた。このまま引き下がる訳にはいかない。ターランは、拳を握り締めた。
「わああああっ!!」
ターランは、トゥーリナに殴りかかった。他の子供は、ちょっと殴るだけで言う事を聞く。ターランは、軽く叩かれた事さえない。しかし、トゥーリナは…。
「なんとお詫びしていいか…。」
トゥーリナの両親は、凄い形相で怒鳴りつけるターランの両親に平謝りしていた。祖父の威力だけで、実力の伴わなかったターランは、トゥーリナに一方的にやられて泣きながら家に戻って行き、怒り狂った彼の両親がここへやって来たのだ。
殴ったトゥーリナは、膝を抱えて部屋の隅に座っていた。こうなることは分かっていた。だから我慢していたのに…。どれだけ鞭で殴られるのだろう。彼は気が重くなっていた。
「何てことをしてくれたんだっ。」
「もう少しで、うちだけが働かなきゃならなくなるところだったじゃないのっ。」
妖魔界の母親は、子供を叱る事すら許されない。しかし、トゥーリナの母親は、父親と一緒になって怒鳴りながら、鞭を振るっていた。彼女が手をあげるのは、トゥーリナに対してだけだ。奴隷だからなのだろう。
トゥーリナは、お尻を鞭で打たれる痛みを堪えながら、ターランを呪っていた。
トゥーリナは、いつもの川にいた。お尻が酷く痛かった。2・3日は、家へ帰れないだろう。凄く悔しいのに、仕返しが出来ないのが辛かった。
「あの…。」
ぐったりと寝ているトゥーリナに、憎たらしい声が聞こえてきた。その声は、間違いなくターランだった。
「殺されないうちに消えろ。」
本当だったら、ぶん殴ってやりたい。でも、今度はお尻を鞭で殴られるくらいでは済まないかもしれない。だから、言葉だけで追い返すつもりで、トゥーリナは言った。
「ご・ごめんっ。僕…、今日帰ってから、生まれて初めて、お祖父ちゃんにお尻を叩かれたんだ。喧嘩で負けるなんて情けないって。目が覚めたってお祖父ちゃん、言ってた。僕を甘やかして駄目にする所だったって。君んちにお父さん達が怒りに行ったよね?お祖父ちゃんが恥ずかしい事をするなって、お父さん達のお尻を叩いたんだよ。」
「…。」
こちらを向こうとしないトゥーリナへターランは、必死で言った。
「僕、最初は、頭に来たよ。怒られるのだって初めてだった。でもさ、怒られてお尻ぶたれて、皆の気持ちが分かってきた。君にも悪いことをしたって、分かった。僕、本当に悪かったって思っているんだ。」
ターランは、うつむく。「どうやったら、許してもらえるのか分からないけど。」
トゥーリナは黙って、ここを去れという意味で手を振った。ターランは、その意味が分からず当惑した表情を浮かべたが、やがて気付き、無言でそこを去った。
数日後。厳しくされるのに慣れていないターランは、毎日、祖父からのお尻叩きを受けていた。父親も、彼に厳しくする様になっていたが、まだ、息子のお尻を叩く所まではいっていなかった。
「痛いよーっ、ごめんなさーいっ。」
ぱあんっ、ぱあんっ。ターランは、ものすごい悲鳴を上げていた。でも、普通の子供達が同じ力で叩かれたら、楽だと思った筈だ。 祖父は、その声には騙されず、無言でターランを叩いていた。勿論、急に気持ちが変わる訳もなく、本当は可哀相だった。しかし、孫には、きちんとした子になって欲しかった。
「お祖父ちゃあんっ、ごめんなさいーっ。」
ぱあんっぱあんっ。ターランは、祖父の気持ちが分かっていたが、でも、こんなに痛いなんて知らなかった。まだまだ、お仕置きされるのに慣れるまでは、時間がかかりそうだった。
「うーっ、痛いよー…。」
ターランは、お尻を撫でながら、トゥーリナの所へ行く。トゥーリナは、両親から許してもらっていた。村長自ら、愚かな息子達と孫について謝ったからだ。それと、トゥーリナは、村長に頼み込まれてターランの遊び友達にされてしまった。
ターランは、まだ一度もトゥーリナからまともに口をきいてもらっていない。彼は寂しかったが、自分のしてしまったことを考えると仕方がないと思っていた。トゥーリナの側に座ると、彼は独り言の様に言った。
「あー、腹減ったな。」
ターランは、手近に生えていた草を良く観察した後、引き抜いてトゥーリナに渡した。
「これ、こうもりなら食べられるよ。僕は駄目だけど。」
トゥーリナは無言でそれを口に入れた。彼が食べてくれたので、ターランは嬉しかった。
「足りねえ。」
「あっちに生えている実も食べられるよ。あ、後あれも。」
トゥーリナが動こうとしないので、ターランが採りに行き、彼にあげた。トゥーリナは、無言でそれらを食べた。彼は奴隷なので、食べ物も十分に貰えていないのだった。
ほんの数日前まで大勢の子分を従えていたターランは、奴隷扱いされているトゥーリナの為に、一所懸命に動き回っていた。
数年後。お尻を叩かれるのにも、粗末な服を着るのにも、祖父や父に鍛えられるのにも、すっかり慣れたターランは、今日もトゥーリナの為に、こうもりが食べられる植物を採っていた。
堕天使は、元天使だけあって高価な物しか食べられないのか、ターランは植物の殆どが食べられず、トゥーリナと同じ物を食べられなくて、とてもつまらなかった。しかし、トゥーリナ自身は、ターランを自分の思い通りになる子分ぐらいにしか考えていなかったから、喜んでくれることはなかったろう。
ターランは、トゥーリナがどんなに冷たくても、一緒にいられるのが嬉しかった。ターランが恐れているのは、トゥーリナから嫌われること。まさかそれが恐ろしい結果を生むなんて、ターランは、なんにも知らなかった。
「トゥーっ、一緒に遊ぼうよっ。」
いつものような無邪気さで笑いかけるターラン。仲良くするようになって、いつからか、彼はトゥーリナをトゥーと呼ぶようになっていた。そんな明るい友に、トゥーリナは、冷たく言い放つ。
「俺は、この村を滅ぼす。もう、奴隷でいるなんて真っ平ご免だ。」
「え?」
何を言われたか訳の分からない顔をしているターランの問いを無視して、トゥーリナは続ける。
「お前は、俺と協力するか?しないなら、お前も殺す。」
「トゥー…リナ?それ、どういうこと?」
「お前は自分の家族だけ、殺せばいい。後は俺が殺る。どうするんだ?」
ターランは、呆然としていた。意味が分からないとは言えなかった。実際、本当は意味が分かっていた。ただ、信じられなかった。今までもこれからも、ずっとこの平和が続くのだと思っていた。トゥーリナがそんなに苦しんでいるなんて知らなかった。
ターランは、目の前が暗くなった。何も音が聞こえない。しかし、彼は、口を開いた。
「トゥー…、僕は……。」
深夜。叫び声と燃える音と家屋が崩れゆく音。ターランは、自分の家の中で、真剣を持って震えていた。皆と一緒にトゥーリナに殺されるか、祖父や両親を切り殺すか。もう始まってしまった。どちらも嫌だなんて言えない。
「ターランっ。あ・あの、お前の友達のこうもりが、村に火を放って、村人を襲っているんだっ。」
父親がターランの部屋に入ってきた。「くずくずしている暇はない。逃げるぞっ。」
父親は、息子の腕を引いて連れ出そうとした。…しかし、息子は、信じられない行動に出た。
止めてくれると思っていた。まだ子供である自分が大人を殺すなんて出来ないと思っていた。剣を取り上げられて、お尻を叩かれて、叱られて終わるんだと思ってた。しかし、ターランは、両親と祖父の血にまみれて立っていた。
ふらふらと魂の抜けた人のように歩いているターランの耳に、トゥーリナの哄笑が聞こえた。振り返ると、トゥーリナが笑いながら、人を襲っていた。狂気に満ちた笑いではない。本当に心から嬉しそうに笑っていた。まるで、鬼ごっこか何かをしているように、逃げ惑う人を追いかけていた。
「おい、さっさと起きろよ。」
トゥーリナの声で、ターランは、目が覚めた。いつのまにか空は、青く澄み渡った夜空から、星が瞬く赤く暗い昼間に変わっていた。いつ眠ったのか覚えていない。しかし、充分に寝たであろうに、体がだるかった。心は暗く、死にたい気持ちになっていた。
「おはよ、トゥーリナ。」
トゥーリナは、今まで一度も見せた事がない爽やかな明るい顔で、ターランに話しかける。
「すっとしたなあっ、昨日は。人殺しがあんなに気持ちいいなんて、知らなかった。もっと早く始めれば良かったぜ。あいつ等、今まで俺をこき使ってやがった。ちょっと、楽に死なせ過ぎたな。」
トゥーリナは、延々とターランに、自分がどのように人を殺したかを楽しそうに語っていた。ターランの重苦しい表情に気付かずに、ほんの幼い子供とは思えないほど、酷薄に。