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洗濯物を干し終えた猫が、戻って来た。彼は、玄関近くに並べられた自分の所有物を避けて家の中へ入って来ると、食卓にある椅子に座り、こちらを見た。
「俺の名はシーネラル。」
「俺はクーイだよ。ねえ、あんたもしかして俺と暮らす気?」
猫、いやシーネラルが笑う。
「どうやって説得しようかと思っていた。」
「どうして俺なの?」
自分の何が良かったのか、分からない。クーイは不思議だった。
「殺されるかもしれない時に、ほっとする奴なんて、初めて見たから。」
「…。」
「この鼠は、どんな闇を抱えているんだろうと思った。俺の肖像画を見たか?」
クーイはこくんと頷いた。
「なら分かると思うが、その人間達と暮らしていた頃、俺はとても幸せだった。お前と一緒なら、また幸せになれるかもしれないと思った。」
「今はどうして一緒に暮らしていないの?」
クーイの問いに、シーネラルの表情が暗くなった。
「人間はすぐ死ぬ。それはほんの100年前の物なのに、一番小さな子供ですら、もういない。」
「あ。」
クーイは俯いた。「人間を愛しちゃいけないね。」
「そんなことはない。確かに喪失感は強いが、一緒に過ごした時間は消えない。」
シーネラルが、胸を指した。「ここに何もかも残っている。」
「そう。」
寂しそうなシーネラルに飲まれて辛くなったクーイは、今の言葉を聞いて少しだけほっとした。
「で、どうなんだ?」
シーネラルが気分を切り替えるように訊いてきた。
「何が?」
「俺と暮らすこと。」
「…ああ。そうだったね。その話をしていたんだった。」
クーイは言った。「うん、いいよ。一緒に暮らそう。」
「後悔しないな?」
クーイがあっさり了承したので、シーネラルは拍子抜けしたようだった。
「しないと思うよ。ただ、お尻はもう少し優しく叩いて欲しいな。」
シーネラルが目を丸くした。彼の顔に笑みが浮かぶ。
「分かった。」
「じゃ、洗濯機を買いに行こう。」
シーネラルは立ち上がると、クーイの手を引いて、立たせようとした。
「そんなに洗濯機が欲しいの?手洗いでいいじゃない。」
「人間界で贅沢してたら、手洗いが嫌いになった。」
「それって、100年近く前の話なんでしょ?いい加減手洗いに慣れたんじゃ。」
「人間界の洗濯機はな、全自動って言って、洗濯物と洗剤を入れれば、後は干すだけの状態になるんだ。それを乾燥機に入れれば、後はたたむだけ。」
クーイは目を丸くした。妖魔界の技術が一番だと思っていたのに。
「人間界ってそんなに凄いのか…。妖魔界にそんな物ない…。」
「知ってる。洗うのは手動だし、絞る必要もある。でも、全部手洗いよりマシ。」
シーネラルの言葉に、クーイが言った。
「ねえ、その人間界のを持って来られないの?」
「電気が妖魔界にないから、動かない。」
「電気って何?」
クーイは不思議そうに訊いた。「餌か何か?」
「そう。人間界の機械は、その電気って餌がないと動かない。」
「面倒だ。」
クーイは洗濯機が餌を食べている所を想像した。ご機嫌をとる必要もあるかもしれない。色々想像していたら、シーネラルに立たされた。彼に諦める気がないらしいので、クーイは、「俺、お金を持っていない。」
「俺が持ってる。」
仕方ないなあと諦めていると、シーネラルに手を握られた。クーイは照れくさくなったが、よーくシーネラルの顔を見ると、実は彼も照れているらしい。クーイが笑い出すと、シーネラルが微笑んだ。二人は仲良く町へ繰り出した。
こうして、シーネラルとクーイの生活は始まった。
ここは結構大きな町なので、シーネラルはクーイの案内に耳を傾けた。おのぼりさんのように辺りを見回していたシーネラルは、鞭屋に目を止めた。クーイともっと親しくなったら、ここに来ようと決めた。
シーネラルは、機械屋に行こうと思っていたが、クーイは、食糧を買いたいと言い出した。そういえば、冷蔵庫が空だったと、彼は思い出す。
「まず八百屋。今日はネスクリさんの八百屋に行こうかな。」
「今、何て言った?」
今、とてつもなく嫌な名前を聞いた気がする。
「ネスクリさんのやっている八百屋だよ。人間界や聖魔界の野菜があるんだ。凄いよね。入手ルートは秘密なんだって。」
シーネラルの様子には気付かず、クーイは明るく言った。
「あの蛇が、こんな町に…。」
低く呟いたのでクーイには聞こえなかったらしく、彼は、こっちだよと先に立って歩き出す。「顔を見たくない…。」
でも、行かないわけにも…。仕方ないのでシーネラルはクーイの後を追って行く。
ネスクリ経営の八百屋に着いた。相変わらず繁盛していて、奥様達の熱い視線が彼に注がれている。すとーむちゃんはといえば、娯楽もない奥様達には目の保養が必要よねなんて呟きながら、野菜の補充をしている。むしろ、かっこいいネッスィーを見て見てと言いたい位だ。こんな素敵な男性がわたしの夫なのよ、と。彼女は幼い子供達の面倒を見つつ、忙しく働いていた。
ネスクリ自身は、年代問わず誰でも必ず不快にさせていた、その頭の回転の速さと良く回る口を駆使して、珍しい野菜についての口上をしていた。時々、昔のヒーローかなんかみたいに歯を煌めかせ、奥様達をうっとりさせながら。
クーイが現れると、ネスクリは彼に声をかけた。
「クーイさん、お久しぶり。今日のお奨めは、玉葱ですよ。生でも良し、焼いても良し、煮ても良し。ちょっと癖があるけど、万能野菜なんです。いかがですか?」
「へーっ、なんか凄そうだね。…ちょっと変な匂いがするけど。」
「沢山切ると手の匂いがなかなか取れない。でも、使い勝手はいい。」
クーイは後ろを振り返った。シーネラルが彼の手から、玉葱を取った。「傷がある。サイズも小ぶり。慣れない妖怪の為か?」
「詳しいですね、新顔のお客さ…。」
ネスクリはそこまで言いかけて、はっとした。「シーネラル!いつこの町に…。」
「お前の根城だと知っていたら、来なかった。早まった…。」
クーイはぽかんとして、二人のやり取りを聞いていた。そこへ、すとーむちゃんがやって来た。
「ネッスィー、この猫さんを知ってるの?」
「露出度が高すぎる女…。まともな服も着られたのか。」
「失礼な人ね。…って、ザン様の部下時代を何で知ってるの?」
吃驚するすとーむちゃん。こんな猫は知らない。
「ジオルクの部下だ。口をきけるとは知らなかった。しかもこんな皮肉屋だったとは。」
「えーっ!?」
ネスクリの言葉に、すとーむちゃんではなく、クーイが大声を出した。それがあまりにも大きかったので、奥様達を含め、全員が吃驚した。「あ、済みません…。…ねえ、シーネラルって、第一者ジオルク様の部下だったの?」
「「そう。」」
シーネラルとネスクリの声がダブった。お互いに相手を睨み合う。
「二人は仲が悪かったの…?」
クーイは恐る恐る訊く。
「話せるのも知らなかったのに、仲の悪くなりようがありません。妻を侮辱したから頭にきただけです。」
「人を見下すことにかけては、右に出る者がいない嫌味な蛇。その場に居るだけで、皆が気分を害すほど。元・第二者ザンの部下。そっちの女は、露出度の高い服を好んで着ていて、目の毒。同じく元・第二者ザンの部下。」
「素晴らしい分析能力ねっ。」
すとーむちゃんは怒りながら、ネスクリを見た。「ネッスィー、何とか言って。」
「すとーむ、関わり合っても、ストレスが溜まるだけだ。」
そういうと、ネスクリは何事もなかったかのように、奥様達に微笑みかけた。ちょっと戸惑っていた彼女達は、シーネラルをちらちら見ながらも、ネスクリの笑みに魅了されかけていた。すとーむちゃんはちょっと不満そうにしながらも、夫に従った方が賢明だと判断して、不安そうにしている子供達の所へ向かった。
声をかけ辛くなったクーイは、シーネラルを睨んだ。
「嫌味を言って、人を不快にさせちゃ駄目でしょ。」
ついでに彼のお尻を1つ叩いてやった。シーネラルはその行為自体に文句はないようだったが、暗い表情になった。
「俺は、今以上に何度もあの蛇に不快にされた。」
「ネスクリさん、いい人だけどなー…。」
ちょっとかっこつけに見える時もあるけど、気のいい人だと思っていた。
「…。」
シーネラルがとことこ歩き出したので、クーイは慌てた。
「ちょっと、買い物くらいさせてよ。」
「洗濯機を見てる。」
クーイの手にお金を投げつけると、シーネラルは行ってしまった。クーイは呆れながらも、買い物を続けることにした。ちょっと行きにくかったけど、仕方ない。
機械屋に並べられている洗濯機は、人間界では、骨董品として価値あるかもしれない旧式な物だ。人間達が初めて発明した物くらい原始的な。妖魔界には、人間が今の技術では作れないような物だって存在してるというのに…。シーネラルは深い溜息と共にそれらを見ていた。ただ、手動なので、燃料がいらないという意味ではお得かもしれない。
「電気があれば…。太陽電池なら。」
妖魔界のTVの大半は、高い柱の上に乗っている街頭TVなので太陽電池式だ。TVで出来るなら、洗濯機でも出来るかもしれない。「Gに言って、技術者に開発…。」
いつ出来るか分からない物の為に、ジオルクに会うのは嫌だった。それにあいつはそれを頻繁に会う口実にするかもしれない。諦めて今ある物で満足するしかなさそうだ。
「何をお探しですか?」
シーネラルが暗い表情で洗濯機を見ているからなのか、店員が声をかけてきた。
「洗濯機。」
「こちらにあるのは最新式なんですよ。」
どこが。「今までより多くの洗濯物が入れられる上に、女性でもドレス一枚なら洗える軽さ。手入れも簡単になりました。」
こいつに人間界の洗濯機を見せたら、ひっくり返るかな。ネスクリに会ったせいなのか、随分皮肉屋になったのに気付いて、シーネラルは疲れを覚えた。
「これをくれ。」
その最新式とやらを指差した。
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