えおとペテル
このお話には、虐待が出てきます。割り切って読める人だけ読んで下さいね。
1 愛する者を奪われた悲しみは、憎しみへと変わる
“あれ”は、物。多少機嫌が良くない時に当たったとしても、わたしの物。だから何の問題も無い筈。それなのに…。それなのに…、どうして倒れている“あれ”を見て、わたしは涙を流すのだろう…。
「お腹に子供が出来たって分かった時、至福の中にいたのにね。あれほどの幸せは、もう二度と感じないね、きっと。」
18歳のザンは、病室のベッドの上で、弱々しく微笑んだ。
結婚して2年が経った頃、ザンとタルートリーの夫婦は、待ち望んでいた子宝に恵まれた。二人は温かい家庭を欲していた。ザンは母に愛されずに育ち、タルートリーは父に酷く打たれながら、育った。二人の求めている家庭には、たっぷり愛される子供が必要な存在だった。それなのになかなか出来ずにいたのだ。だから、子供が出来たと知った時の二人の喜びは、とても大きかった。
しかし、喜びは不幸を連れてやって来た。
「今回は諦めれば良かろう?わたし達は若い。お前だって、妊娠しにくい体でもないのだし、治してから、また励めば…。」
精一杯明るく振舞おうとする妻へ、タルートリーは叶わぬ夢を語り、彼女の心をかき乱す。
「現実逃避をしないでよ。この子を堕ろしたって、わたしの病気が消え失せる訳じゃない。…あんたはいいよ、わたしが死んだ後、新しい女との間に10人でも子供を作れるから。でも、わたしは違う。わたしは、この子を置いていかなければなんない。この子におっぱいを上げることも、喧嘩を教えてやることも出来ない。この子の成長を楽しめないっ。」
「喧嘩を教えてやるか…。お前らしい言葉だ。」
タルートリーが微笑み、ザンの堪忍袋の緒が切れた。
「出て行けっ!!!結局お前は自分のことしか考えられねえんじゃないかよっ。俺はどうでもいいんだろっ!?死ぬのはてめえじゃねえもんなあ…。そうかよ。てめえにとって、俺はその程度の人間だったってことかよっ。俺が死んだら、お前は、せいせいするんだろ。」
「そうではない。お前が事実から目を背けるから、そういう解釈になるのだ。子供を堕胎すれば、お前は今よりずっと長生きが出来る。さすれば、体力をつけ直して、新しい子供をだな…。」
「この子があたしの命を吸い取る悪魔だとでも思ってんのかよ?妊娠していなくたって、いずれわたしは自分の体の病魔に気がついたかも知れないんだぜ?むしろ、この子が今、わたしの中にいるのを感謝すべきだろうがよ。それなのに、どうして、てめーは、俺が命を削ってでも生もうとしているのを反対すんだよ?どうせ死んでしまう女の子供はいらないって言いたいのか?」
「違うと言っておる。わたしの言いたいことは変わらぬ。お前は、子を堕胎しなさい。普通の女とて、妊娠すれば、体に負担がかかるのだぞ。わたしには、今のお前がその子を産めるまで生きるとは思えぬのだ。」
「医者は、この子を堕ろせばわたしの余命が伸びるとは言ってない。」
「しかし…。」
「わたしが死ぬのは変わらない。うちの木村家とあんたの遅坂家が大金をはたいて探した最高の医者ですら、わたしは治らないと言ったんだ。世界中探したのにだよ?ま、白人の医者がジャップの血が混じった女なんか治療したくないとでも言ったんなら別だけどね。」
「お前はすぐそういうことを…。」
「目を背けたって人種差別はなくならないよ。…んなことより、この子が人の形とならない前に叩き潰されてわたしの間を流れていったって、健康な男の子として生まれて来たって、わたしが死ぬのは変えられない。どうせこの世から、消えていかなきゃならないのなら、何か形を残していきたいよ。わたしが生きてて良かったんだっていう形がさあ…。」
「…。」
「あんたがこいつを育てたくないってんなら、施設にでも入れてよ。こいつは捨てた父と死んでしまって守ってくれない母を恨むだろうさ。それでも、生まれる前に死ねば良かったとは思わないよ。たとえ大していい生き方も出来ずに死んだとしても、わたしはこいつを待っててやるさ。…でも、あんたが何を言おうとも、こいつをわたしより先に逝かせたりはしないっ!絶対に守ってやるっ。あたしがこの子にしてやれるのは、それくらいだからねっ。」
タルートリーは、圧倒されて何も言えなかった。
本当にザンは、後悔をしなかったのであろうか…?“あれ”を生まねば、数ヶ月、いや一年、もしかしたら数年は、長く生きられたかも知れぬというのに…。わたしだって、“あれ”がいらなかったのではない。ただ、見たこともない子供より愛しい妻がいなくなるのが惜しかっただけ…。ザンの寿命に何の問題もなければ、あれほど欲しかった子を諦める筈などないではないか…。わたしは…。わたしは、良い夫ではなかった。でも、あの時、わたしだってわたしなりに最善の道を選ぼうとしたのだ…。たとえそれが、誰を傷つけようとも…。わたしは利己的だったのであろう。死に逝く者の望みより、自分の望みを優先しようとしていたのだから。でも…。…いや、わたしが悪かったのだ。ザンの人生は終わりに近づいていたのに、わたしはまだまだ先がある。だから…。
息子を産んだ後、ザンは精一杯の力を出して、息子の頬に触れた。抱く力はなかった。タルートリーが言った通り、ザンは、息子を産むまで生きられそうになかった。それでも、医者を驚かせながら、ザンは生き続け、息子を産んだ。
「可愛いあたしの子…。育ててあげたかったな…。…ルトーちゃん、この子を愛してあげてね…。あたしの代わりに…。絶対、ぜっ・たいに…愛して…。おねが……いね…。」
それが最期の言葉だった。
あれほど頼まれたのに。でも、わたしはどうしてもいらない。わたしの心の支えを奪った“あれ”を。愛す必要もなかろう?ザンとわたしの子ではないのだから。二人の子なら、あんな風ではない。“あれ”は…。いや、武夫は…。全てを奪った。わたしの大切な人を三人も。
そして、順調に動くはずだった歯車が狂い始めた。
「くすっ、くすくすくす…。」
タルートリー、千里、ミレー、木村、アトルの皆が悲しみに泣いている中で、似つかわしくない声が響いた。表面上は何の変化もないドルダーと武志を含む皆がそちらを見た。
「千里…?」
千里が笑っていた。とても嬉しそうに。
「ザンちゃんって、演技が上手だもの。皆を悲しませて笑ってるのよ。」
「何を言ってるんだっ。」
「だって、そうだもの。」
千里が笑う。「だって、あんなに元気なザンちゃんが死ぬ筈ないもの。ミレーよりわたしの方が“まま”だって言ってくれた、わたしの可愛い娘が、わたしを置いて逝く筈ないもの。」
「…母上。」
千里はザンの頬を撫でる。
「ね、ザンちゃん…?…どうして冷たいの。嘘でしょ…だって、わたしを“まま”って言ってくれたじゃない。ザンちゃんの理想のお母さんだって言ったじゃない。…どうして?どうしてわたしを置いて逝くの?ねえ………。」
くすくすっ。千里が笑い始めた。先程とは違う笑い方。
「母上っ。行かないで下さいっ。あなたにまで行かれたら…。」
タルートリーの言葉に、皆戸惑う。千里はそこに立っていた。くすくす笑いながら。
「何がそんなに可笑しいのよっ?!」
ミレーは叫んだ。
「母上っ、母上っ。…ーっ。」
側にいた武志が気付いた。次に冷静だったドルダーが。木村も。アトルにも理解の表情が浮かんだ。ミレーだけは分からなかった。
「<何なのよ…?千里はどうしちゃったの?>」
思わず母国語で呟いたミレーに、木村が説明しようと口を開く。
「違うっ、木村殿っ。母上は、違うっ。」
タルートリーが叫んだ。認めたくなかった。千里を抱きしめて叫ぶ彼の肩を武志が叩く。
「千里は狂った。」
武志がぽつりと言った。
「?…え…。…!」
「千里は娘を強く欲していた。子供が出来にくい体で、やっとタルートリーを生んだんだ。もう2度と妊娠は出来ないと言われて…。ザンが娘になっていつも浮かれていた。…耐えきれなかったようだ…。」
「<…嘘。>」
タルートリーの大切な二人目が失われた。
「わたしはずっと、長男に、武夫と名付けたかったんだ。本当なら、お前が武夫になっていたんだが…。千里がどうしてもと言うから、タルートリーなんてどこの国のものかも分からん変な名をつけてしまったが…。」
初孫を抱きながら、武志は言った。ザンもタルートリーも一人っ子(厳密に言うとザンには兄がいるが…。)だったので、木村も武志もミレーも、生まれた子を競い合うように抱いていた。
「かまいませんよ。どんな名でも。父上のお好きな様にして下さい。」
タルートリーは素っ気無く言った。父親の言葉としてはおかしいが、誰も変だとは言わなかった。同じ日に大切な二人を失ったタルートリーをそっとしておいた方がいいと皆が思ったからだ。
赤ちゃんは武夫になった。
その日から6年間、わたしは“あれ”と殆ど接しなかった。ミレー殿が育てると決まり、会う必要がなかったからだ。時々は父上に叱られて仕方なく会った。その度毎に、ミレー殿の目を盗んでは、尻を打ってやった。罪状はいくらでも作れた。わたしがいる時だけ急に悪い子になる武夫。ミレー殿はわたしの心にあるものに気付き、あまり会って欲しくないようだった。わたしも会いたくなかった。だから、武夫は6歳までは殆ど苦しみとは無縁でいられた。
「ねえ、わたしが今まで通り、ちゃんと面倒を見るわ。」
ミレーは、武志に言った。武夫を渡したくなかった。タルートリーが武夫を愛していないどころか、憎悪しているのが不安だったから。
「手のかかる時期だけ任せ、後はわたし達が引き取るなんて考えは悪いと思っている。しかし、この子はタルートリーの子供だ。」
「そうじゃなくて…。」
「いつでも会いに来ていい。当然の権利だから。」
「武志…、そうじゃないのよ。わたしはタルートリーが…。」
「父親だけじゃ不安なのか?」
「そんなんじゃないのよ。タルートリーは武夫を憎んでいるの。ザンと千里を奪われたと思って。」
「杞憂だ、ミレー。」
武志は一笑に付した。ミレーはとても不安だった。子供の虐待は遠い世界のありえない作り話ではないのだ。身近にだって…悲しいことだけれど。でも、実際にタルートリーが武夫に酷くした所を見たわけではない。はっきりと本当だとは言えなかった。タルートリーは厳しいし、本当に躾の為に叩いたのかも知れない。ミレーは何も言えなくなった。武志は元気付けるように笑った。
ミレー殿は先を見越す力があった。いや、物事を正確に見ていたのだ。武夫に痣が増えていった。理由はいくらでもあった。わたしは思いつく限り罵り、拳を振り下ろした。尻も打った。自分なりに区別していた。誰が見ても悪いことは尻を打ち、それ以外は尻以外の場所を懲らしめた。そうこれは懲らしめ。武夫はわたしの大切な人を二人も奪ったのだから。
ミ・デーモンの兄、悪魔大王の長男ダーク・デーモンは、人間にとりつこうと思っていた。彼は次期悪魔大王となる為に、様々な悪魔になっていた。今は、人間に寄生して悪事をさせる寄生悪魔だ。自分にふさわしい強い心の人間はと彼は探していた。
強いオーラを感じて下りていくと、1人の男を見つけた。やっていること自体はつまらなかったが、それでもその闇の深さに惹かれた。ダークが中に入ろうとすると、タルートリーの守護霊が僅かな抵抗をした。しかし、守護霊にレベルの高い悪魔を防ぐ強さはなく、ダークは難なくタルートリーの心に棲みついた。
「うー…?」
武夫がうなった。お父ちゃまの中に何かが入るのが見えた。「お母ちゃん、あえ、らに?(訳=あれ、何)」
「馬鹿な男。悪魔にとりつかれやがって。…えお、おとうちゃまに近づくんじゃないよ。今まで以上に酷くされるから。」
「りゅー…。」
「五月蝿いぞ!静かに出来ぬのか!?」
タルートリーは武夫を怒鳴りつけた。「ザンはお前が殺したんだ。居ない者と会話をしてるように見せかけて何が面白いのだ。」
「お母ちゃん、りる。お父ちゃま、にえなーの?(訳=お母ちゃんは居るよ。お父ちゃまは見えないの?)」
「えおっ、逃げなっ!」
ザンが叫んだ。武夫の動作は緩慢で、タルートリーの拳は、武夫を捕らえた。殴られた武夫は吹っ飛び、壁にぶつかった。
「おっと、間違えた。嘘吐きは尻を打ってもいいのだった…。」
タルートリーはそう言うと、武夫の側に行くと、床に座り、うめいている彼を膝にうつ伏せにした。ズボンとパンツを下ろし、手加減無くお尻を打ち据え始めた。まだ小さい武夫には、強すぎる力で。武夫が悲鳴を上げた。
「わたしの武夫から、手を離せっ。あたしは貴様にこの子を愛してって言ったんだよっ。」
「無駄だよぉ。悪魔が僅かな良心さえ、食べちゃうから。」
「あんたが悪魔を追っ払わなかったからじゃねえかよっ。」
のんびりと言うタルートリーの守護霊に、ザンは怒鳴りつけた。
「死んだら、何も出来ないの。聞こえないから怒っても疲れるだけよ。」
武夫の守護霊が、ザンに言う。「それにわたし達にも限界があるんだから、無理言っちゃ駄目。」
ザンは怒りと無力感を感じた。そう、本当に何も出来ない。霊感が強くて、自分が見える武夫と話す以外…。
死んだ時。苦しみから介抱されて、肉体から抜け出した。皆が泣いているのが嬉しかった。こんなに愛されてた。千里の心が遠くへ行ってしまったのは辛かったが…。
天使達が下りてきた。てっきり自分は地獄行きだと思っていたから、驚いた。
「さあ、天国へ行きましょう。あなたの旅は今終わりました。魂に一時の安らぎを与えるのです。また新しく生きる為に。」
子供の天使達がくすくす笑う中、大人の天使がザンに言った。ザンは言われるまま、ついて行こうとした。皆の顔をもう一度見てから…。それで気付いてしまった。嬉しそうに笑っている千里を抱きしめながら、タルートリーが恐ろしい表情で赤ちゃんを睨んでいることに。
天使達は何度も止めた。でも、ザンは天国へ行かなかった。赤ちゃんに付くと決めた。成仏しないと、白いワンピースを着られないのだと知った。お盆なんかで霊達が帰る時、皆は白いワンピースを着ていた。中には着物の人もいるけど。そして、遅坂家には、武実と言う武志の末の弟が居ついているのも知った。武実とは友達になった。
「また喧嘩してるの。」
武実も成仏していないので、普通の服を着ている。大抵はランニングに短パンだ。
「だってこの馬鹿ガキの所為でタルートリーに悪魔がとりついたんだよっ。」
「あの悪魔、ダーク・デーモンなんだ。悪魔大王の一の息子。僕はまだ守護霊歴が短いからそんな強いの追い払えなかったのに…。ザンったら、文句ばっかり言うんだ。」
「ザンったら、あなた自己中心的過ぎよ。…それに、もうお尻叩きが終わっちゃったみたいよ。」
武夫の守護霊に言われて、ザンは武夫の方を見た。酷く打たれたらしく、所々、血が流れていた。
「えおちゃんっ。」
ザンは飛んで行った。霊体になったら空を飛べるようになった。
「お母ちゃん…。」
武夫が涙でぐしょぐしょの顔でザンを見た。小さな手をザンの方に伸ばしてきた。でも、触ることも出来ない…。
「まだ言うのかっ!?」
タルートリーが怒鳴りつけた。武夫がびくっとする。ザンは声をかけたのを後悔した。タルートリーは、いつ持ってきたのかベルトを手にしている。それは武夫の可哀想なお尻に振り下ろされ始める。
「今回悪いのは、ザンだよね。さっきだってタルートリーの居る所でえおに声をかけたから、えおは殴られてお尻叩かれたんだから。」
「何も出来なくて八つ当たりしたいみたいだけど、迷惑よね。」
「えおが可哀想だとは思うけど。」
武実はうんうんと、守護霊達とうなずきあう。ザンは空しくタルートリーに怒鳴りつけている。自分の姿がタルートリーに見えれば、虐待を止められるのにと思いながら…。