壊れたラルスが生きている世界

19話

 武夫が水溜りに触れた。映像が浮かび上がってきた。傷跡だらけの大きな赤い背中。ラルスの心臓がどくんと、痛いくらい激しく鳴った。小さな手が、その背中をこする。
「ラルス、もっと強くこすってくれ。」
 シースヴァスの声がした。ラルスの胸は懐かしさと悲しみで一杯になった。現実のラルスの瞳から涙が零れた。


「泣き始めちゃったよ。とうとう精神攻撃が始まったのかな。」
 ザンが興奮する。
「いや……、辛くて泣いているようには見えない。泣くほど辛い攻撃なら、あんな穏やかな顔にはならない。」
「俺もそう思うなあ。なんか懐かしい記憶でもあったんじゃないの?」
「ってーことは、武夫ちゃんはトラウマを探している最中なわけね?」
「だろうな。」


「強くこすったら痛くない?」
 子供のあどけない声がする。
「ラルスじゃ、力いっぱい殴られても痛くないな。」
 シースヴァスが笑い、体が震えた。
「そうなのー?」
 感心しているような、ちょっとつまらないと思っているような子供の声。
 『僕の声ってこんなだったっけ。』
 自分の記憶だから、自分の姿は見えない。傷一つない小さな手が、力を込めて赤い背中をこするのが見えるだけだ。
「そう言えば、お父さんも本当のお父さんも赤鬼なんだよね。」
 ギンライは朱に近い赤で、シースヴァスは桃色に近い赤だ。イメージのせいかは知らないが、ギンライは攻撃的な赤に思え、シースヴァスは優しい赤に思えてしまう。
 シースヴァスが振り向いた。ラルスの胸が一杯になる。もっとよく顔を見ようと思ったのに、
「気持ち良かった。ラルス、有難う。」
 視界が動く。抱き上げられたようだ。「よーし、次はお前の番だな。」
 また視界が動き、川が見えた。父の顔を見たいと切望するが、背中をこすられているので見られない。ラルスはもどかしさでいらいらした。
 と。
 映像が消えた。武夫が水溜りから手を離してしまったのだ。もっと見たいと言おうとしたラルスは、開きかけた口を閉じた。武夫の気がいっそう黒くなっていた。
「今の映像の何が不満……。」
 途中で気づいた。父親に虐待され無視されて育った武夫が、育てとはいえ愛情豊かな父親像を見て喜ぶはずがないのだ。ラルスへの激しい嫉妬と怒り。動くことの出来ないラルスは、初めて本気で武夫が怖いと思った。
 しかし、武夫は何もしなかった。少なくとも今は。
 彼は動き、今度は浮いている雪に近づいた。水溜りが幸せな記憶なら、雪は辛い記憶ということになる。一見綺麗だが、邪悪な気配を放っていたのも頷ける。
「この変な世界って僕の心なんだ……。僕の心が映像化されたものか……。そうか、だから反対なんだ。壊れている僕には、いい記憶が悪い物に見えて、悪い記憶がいい物に思えるんだ……。」
 では、あのひときわ大きな雪は……。あれからは物凄く恐ろしい気配が漂っている。しかも鍵がついている。紐が巻きつけられて、真ん中に鍵。普通なら鎖の真ん中に鍵を連想しそうだが、武夫は鎖を知らないので紐になったようだ。雪は透明な部屋に入っている。頑丈に封印されているということは、やはりあれは……。
 武夫は一番小さな雪に触れた。映像が浮かぶ。神父が立っている。彼に叱られている記憶だった。頬を一回叩かれただけでその記憶は終わった。それほど辛くない記憶だから、小さいのだろう。
 武夫が別のに触れた。今度はシースヴァスにお尻を叩かれていた。彼は素晴らしい父親だが、妖魔界の躾は体罰と切り離して考えることがないので、彼にも結構叩かれた。体罰が当たり前の世界に育ったラルスにとっては、二つとも別になんてことはない記憶だ。妖魔界では叩かないで育てる方が変人扱いである。聖書じゃないがむちを惜しむな、なのである。
 武夫は少しためらった後、少し大きい雪に触れた。サツマイモ男が現れた。
「あー、えおさ、それ見ないほうが良いよ。多分、君は吐く。」
 自分が初めて殺した男。ラルスは父が殺されたと思い込み、彼を一刀両断にしたのだ。それとも、何回も切りつけてぼろぼろにしたんだったろうか。見ていないので記憶があやふやだ。
 武夫は忠告に従った。今度は顔をしかめながら水溜りを見ている。さっき触れたのと色が違う水溜りがいくつかあるからだろう。色の違う水溜り全てから、なぜか幸せだけではない気配がする。
「理由は分かる気がするなあ。」
「ぶ?」
「壊れてからの幸せなんだと思う。簡単に言うと、大量虐殺と生きたまま、あるいは死んでから美味しく食べる記憶。」
「う?」
「分かりやすく言うとね、妖怪さんたちを沢山殺してるの。その後、その妖怪さんたちをむしゃむしゃ食べてるの。まだ生きている妖怪さんを食べている、胃に優しい映像もあるよ。」
「ぶーっ。」
「僕に怒らないでよ。好きで壊れたんじゃないんだから。……それとも胃に優しいっていう皮肉が気に入らなかったのかな。」
 ラルスは息をついた。「……しかしさあ、僕ってば君をみくびっていたよ。君がこんなに凄い奴だなんて、思いもしなかった。シーネラルさんにお尻を叩かれそうになった時にバリア張るとか、怒った時にペテルをぶっ飛ばすとか、人の心を読むとかしか出来ないと思ってた。まさか、人の心を映像化して、記憶を自由に引き出せるなんてね。しかも、大まかに分類もしてるんだから……。」
 ラルスはにっこり微笑んだ。
「君に出来ないことなんて、何もないんだろうね。妖魔界にいる限り、君は無敵なんだ。」
「ちな(訳=違う)。」
「なんでさ? そりゃ悪魔祓いは出来ないかもだけど……。人間界じゃ魔力を吸い取れないし、仕方ないんじゃない?」
「ちな。トゥーちゃん、ザーちゃま、つよ。」
「あの二人は別格でしょ。妖魔界最高峰だし。人間の君にはさすがに無理だよ。でも、あの二人にトラウマがあれば、何とかなるかも……。」
「トゥーちゃん、なーよ。ザーちゃま、あうけろ、こわ(訳=あるけど、刺激した後が怖い)。」
 武夫の言葉にラルスは吃驚する。
「トゥーリナ、トラウマないのー。恵まれた兄貴と違って、俺は辛い育ち方したって言ってたのにー。……っていうかさ、すでに調べた後なんだね。」
「ぶ。」
「君って動作はとんでもなくのろいのに、仕事は速いね。」
「……。」
 武夫は何も言わなかった。彼があらぬ方向を見たので、ラルスは彼の視線を辿り、不安と恐れで青くなった。
 あの、頑丈に封印された雪があった。それは多分、シースヴァスが殺され、自分が耳と片目を失った最悪の記憶に違いなかった。
 ラルスは武夫を見た。楽しく会話したと思ったのに、彼はまだラルスを攻撃する意思を失ってはいないのだ。怖い子供だなーとラルスは改めて思った。



08年10月4日
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