5月9日 P.M 12:51―――――――――――――――――――――――
「ここまで来れば大丈夫ですかね?」
1分ほど全速力に近い速さで走り続けてきた滝沢の足が徐々にその運動スピードを緩めていき、それに伴い、腕を引っ張られていた高崎の足の動きも滝沢に合わせるようにペースが遅くなっていき、最後に運動量が0になっていく。
2人が人込みの中を実に器用に走り抜けてきた先は公園のほぼ南側を走る国会通りに面した公共施設、三角形の形が印象的な都立日比谷図書館。
今日は休館日なのか、多種多様な人で賑わう公園の中でこの場所だけ次元単位で切り取られたかのように水底にも似た静寂の時間が満ちている。
が、いくら人の気配を感じないとは言っても、ここは立ち入り禁止区域でも何でもないのだ。滝沢はひとまず軽く周囲に視線と気配を巡らし、自分達以外に人がいない事を確認してから、
「もう、すごく驚きましたよ。まさか高崎さんとあんな場面で一緒になるだなんて」
全速力で走ってきたとは到底思えないほど整った呼吸で、そう高崎に向かって言葉を投げかけてくる。
して、その高崎はと言うと、体力を使い果たしてゴールまでたどり着いた陸上選手のように両手を膝にかけ、肩どころか身体全体で荒い呼吸を繰り返しており、心臓が口から飛び出しそうになるほど激しい伸縮運動を繰り返している。
滝沢の言葉に対しても顔を上げるかわりにかろうじて右手を軽く前に出してくるのみだ。おそらく「ちょっと待て」の動態言語(ボディランゲージ)の意味だろう。
そんな高崎の行動に、滝沢は溜息、というにはやや軽すぎる息を1つ吐き出した。
「あそこからここまで走ってきた程度で息が上がってるようじゃ、トップアイドルとして体力不足ですよ」
そう滝沢は断言してくるが、この場合全速力並みの速さで1分近く走り続けてきたにも拘らず、息1つ乱さない滝沢の方が異常に違いない。
それは置いておいて。
少々の時間がかかったが、高崎の体力の方もどうやら喋れる程度にまで回復してきたようだ。
「んな、全速力で、ここまで、走ってきて、息切れ、しない方が、おかしい、だろ」
まだ文節で途切れた喋り方をする点から完全に体力は戻ってないようだが、それでも意味は十分通じる。
一呼吸ごとに大きな息の塊を吐き出す高崎に、
「あ〜ら、トップアイドルってそんな体力なしで勤まるものなんですか? それとも、貴方もしかして高崎龍のそっくりさんとか?」
揶揄と言う小さな棘が含まれている滝沢の言葉が高崎に小さな攻撃をしかけてくる。
が、この程度の攻撃など、体力がほぼフルにまで戻った高崎にとっては攻撃のうちにも入らないようだ。
「ったく、あんたそんなに口悪かったのかよ」
もし高崎龍のファンが聞いたら間違いなく自分の耳の機能を疑うであろう、よく言えばくだけた、通常は言葉遣いの悪いというのが正しい高崎の口調。
しかし、滝沢の方も高崎の口の悪さをある程度わかっているようだ。そんな高崎の口振りにも、まったく驚くことなく、
「トップアイドル様ほど悪くはないつもりですよ」
「にっこり」という表現以外に適切な言葉があったら是非とも教えてほしいほどの、実に鮮やかな滝沢の笑顔。
どうやら口の応酬では滝沢の方が1枚上手のようだ。降参とでも言いたげに高崎は軽く肩を竦めるが、
「しっかし、こっちだって驚いたぜ。まさかヤク中のまん前にあんたがいきなり現れるんだからな。あ、そういや、腕大丈夫か? さっき俺が気を逸らせちまったから」
先程のヤク中との乱闘を思い出し、高崎がやや慌てたような声を出す。
だが、当の本人はと言うと、今の今までその事を忘れていたようで、
「腕? あぁ、これ? 大丈夫。服をちょっと切られただけですから。いくら高崎さんの声にびっくりしたからって、腕まで切られるほど鈍くないですよ。これでも格闘技にはちょっと自信があるんですよ」
一文字に切られた痕の残る右袖をたくし上げ、怪我をしてない証拠だと言わんばかりに右へ左へと何度も右腕を回してくる。
確かに滝沢の言うとおり、服を裂かれただけで怪我はしてないようだ。露になった白磁気のように滑らかな肌には傷どころか黒子1つ見受けられない。
それを見て、高崎は安堵の息を1つつくと同時に、ここまで走る結果となった名前を繰り返して滝沢へとぶつけてきた。
「そっか、良かった。で、あんた本当に『セイ』なのか?」
高崎の中では既に「目の前の人物=セイ」という図式が99%成り立つと考えているが、残り1%の「他人の空似」という確率を拭いさる事ができない。
その1%の確率を打ち消すために滝沢へと放り投げてきた質問だったが、彼女はすぐに答えることなく、羽織ったパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、足先で軽く輪舞を踏んでくる。
そして、
「懐かしいですね。その名前で呼ばれるの。何年ぶりかな」
直接的ではないが、間接的な高崎の質問に対する肯定。
滝沢の輪舞を描く足は止まらない。しかし、その姿にどこか哀愁が感じられるのは高崎の気のせいだろうか。
そんな滝沢の後ろ姿が少し気になったが、あえて気付かないフリをして高崎は言葉を綴り続けていく。
「もし今このグループが活動していたら、日本の音楽業界トップは確実に彼らだっただろうと噂されるほどの実力を持った伝説のグループ『F-Dimention』。今でも業界で知らなきゃモグリか無知って言われるぐらいだからな」
高崎はここで一旦言葉を止めて、サングラス越しに滝沢を観察してみるが、特に大きな変化は見られない。
メトロノームのように一寸の狂いもない正確なリズムで、ジーンズに包まれたモデル顔負けの長い足が一定の速度を刻み続けていく。
「未だに業界で語り継がれてるさ。黒人並みの喉の強さと歌唱力を持つ『アーク』と、6オクターブなんてとんでもない広音域の声を持つ『セイ』の2人が、声のハモリによる共鳴だけでレコーディング室のあの分厚いガラスを割っちまったって逸話」
その後に、高崎が「ま、嘘か本当かわからなねぇけど」と続けるより早く、
「げっ。まだその話消えてなかったんですか? そんな昔の事、当に忘れられてると思ってたのに」
滝沢の方が動きを見せ、その逸話が本当だという事を暗に認めてくる。
声だけでガラスを割るだけの実力がありながら、何故「F-Dimention」というグループは今の音楽業界にその活躍の足跡を刻んでないのだろうか。
高崎は前々から気になっていた事を、滝沢に向けて直球ストレートを手加減することなく投げつけてきた。
「…どうして、デビューしなかったんだ?」
正確に言うと高崎のこの台詞は正しくない。「F-Dimention」は一度メジャーデビューした事があるのだ。しかし、デビューと同時にCD1枚どころか新曲1曲発表することなく解散、そして引退。当時でも日本武道館レベルを満員に出来るだけの実力があったにも関わらず、メジャーであった期間は僅か1週間。
決してデビューしたくなかったとか、音楽活動がイヤだったわけではないだろう。現に一度高崎がお忍びで彼らのインディーズ時代のライブに行った事があるが、その時の彼らの、そして客の人数と盛り上がり方は尋常ではなかった。
本当に音楽が好きで、歌う事が、演奏する事が何よりも好きな、生粋の音楽バカ達が揃ったグループ、そんな表現がぴったりと当てはまる程であった。
そんなグループが突然姿を消してしまい、高崎としても気になっていたのだが、その頃はちょうどいくつものドラマを抱えていた時期であり、自分の事だけで精一杯で、他人や他の事に意識を向けていられる状況ではなかった。
それ故、一段落着いた時には彼らの解散の真実は深遠の彼方へと飛び去ってしまっており、ボーカルがクスリをやっていて逮捕されたからだの、海外のレコード会社に引き抜かれたからだの、どこまで本当かわからない噂の群れが勝手に一人歩きしてしまっている状況であった。
そんな高崎の問いに、滝沢が見せた微笑は、
あまりにも儚くて。
あまりにも切なくて。
思いがけない滝沢の素顔に、高崎はほんの刹那の時間だが、呼吸の方法を忘れてしまったような錯覚を覚えた。
ザァ…ッと、木々のざわめきを伴って、風が2人の髪を乱すように吹き抜け、透きとおる空間の間を通り過ぎていく。
そんな空白の時間を壊したのは、滝沢の方であった。
「高崎さんご存じなかったんですね。4年前、デビューが決まったその日に『アーク』がひき逃げ事故にあって死んじゃったんです」
顔は笑っているが、心は号泣しているのが聞こえる滝沢の告白。これが3流ゴシップ週刊誌の見出しなら、『衝撃の事実が今、明らかに!』などと言う陳腐極まりない言葉が並んだに違いない。
予想だにしなかった滝沢の言葉に、高崎の中で「絶句」という2文字が支配するが、すぐに体勢を整えてくる。
「ひき逃げ? じゃあ犯人は…」
「捕まったのか?」と高崎の唇が動くより早く、
「兄さんの命を奪った犯人は未だに捕まってません。完全に迷宮入り事件ですね」
滝沢の整った唇が開いて、高崎の唇の動きを封じてしまった。
そして、いつの間にか滝沢の「アーク」の呼び方が、「兄さん」に変わっている。滝沢にとっては、やはり歌手としての「アーク」ではなく、肉親としての「兄さん」の思いの方がはるかに強いのだろう。
高崎自身、10年前に警察官であった父親を何者かによって殺害され、未だ犯人が逮捕されていないというある意味滝沢と同じ状況ではあるのだが、時間という優しい流れが長かった事と唯一無二の弟がいる分、肉親を失ったという悲しみはだいぶ希釈されてきている。
しかし、滝沢の場合は兄を失った年数は、高崎が父親を失ってからの年数の半分すら経っておらず、
「私のせいなんです。あの時、私がレポートを理由にしていなければ、兄さんは死なずに済んだんです」
ほとんどうわ言のように呟いた滝沢の空に向けて放り投げていった独り言の意味を、高崎は完全に把握する事はできない。
だが、4年経っても兄の死が未だに彼女の心で癒えない傷となっている事、その傷をえぐり続けているのは他ならぬ滝沢の呵責である事は容易に想像できた。
ふと、滝沢の胸の内から、涙にも似た紅い液体状の軌跡が流れ続けているのが見えたのは、高崎の気のせいだろうか。
「そっか…」
としか、高崎は返せなかった。
理由も良く知らぬまま「あんたのせいじゃない」と言っても説得力がないどころか、下手をしたら傷つけ続けている滝沢の心を余計に傷つける状況になりかねない。
口の中が酷く、乾く。
風の音が深く、響く。
「そういやぁ、あんた今何してるんだ? この辺で働いているのか?」
沈黙の重さに耐えかねたかのように、高崎の言葉が妙な軽さを伴って唇を滑り落ちていく。
滝沢の方も、そんな高崎に触発されたようだ。
「ん? 今ですか? 今は…」
今までの悲しみを微塵にも感じさせない口調で高崎の問いの答えを紡ぎ出そうとすると、途中でその動作が一時停止する。
滝沢が少々慌ててポケットより携帯を取り出すと、表面のランプが緑色に短い点滅を繰り返していた。
どうやら電話がかかってきたらしい。彼女が2つ折りの携帯を手首のスナップを利かせて片手のみで開けると同時に、受話器ボタンを押して、向こうの相手と通話状態にさせていく。
「はい、もしも…」
と、滝沢が応対するよりも早く、
「んっのバカヤロー! いつまで外にいるつもりだ!! こっちの方は全部片付いたから、とっとと戻ってこい!!」
もしこれがマンガだったら、スピード感を現す効果線をバックに、特大の吹き出しが出ているように描かれたに違いないほどの男性の大声が、携帯から文字どおり飛び出してきた。
あまりの大声に、滝沢が反射的に携帯を耳から離したほどであるから、その怒声の大きさは大凡予測できるかと。
「わかりましたよ。すいません、すぐ戻りますから!」
そう返していった滝沢の言葉も、携帯の向こうの男性の声につられてか少々大きくなっている。
携帯が「謝るぐらいなら…!」とまだ何かを伝えようとしていたが、滝沢はあえてそれには気付かないフリをして、そのまま携帯の通話状態を一方的に切断してしまう。
小さいが軽快な電子音と共に沈黙の世界に沈んだ携帯を再びポケットにしまいながら、少々早口にこう告げてきた。
「ごめんなさい、高崎さん。そういうわけですぐに職場に戻らないといけないんで」
「あ? あ、あぁ…」
普段なら「何がそういうわけなんだ」とツッコミの1つをした高崎であったが、携帯から噴出された先程の男性の怒鳴り声と、滝沢の早口に気圧されて、思わず曖昧な返事を返してしまう。
「じゃ! 高崎さんも仕事頑張って下さいね!」
そんな高崎の不安定な返答を片手で軽く弄びながら、滝沢は右手の人差し指と中指だけで軽く敬礼のポーズを取って、ネコ科の動物のような実にしなやかな身体の動きで走り出していく。
が、
「あ、そうそう」
滝沢の足が一瞬その場に止まり、そのまま後ろ走りで高崎の方へと戻ってくると、携帯性の高い小さな手帳より1枚の厚紙とペンを取り出し、厚紙に何かを手早く書き込んでいく。
「私が今何をしているかの件ですが、これの裏面を弟さんに見せてみて下さい。多分これでわかると思いますので」
滝沢がその厚紙を差し出し、反射的に高崎が受け取ると同時に、今度こそ本当に彼女は走り出し、高崎が事の自体を完全に理解した時は、彼女の姿は気配と共に完全に消失してしまっていた。
高崎はしばらく滝沢が走り去った方向にぼんやりと目を向けていたが、手にした厚紙に視線を落とすと、それは1枚の名刺だった。
どうやらプライベート用の名刺らしく、肩書きのない、本当に必要最低限の情報しか書かれてない、非常にシンプルな名刺。唯一のデザインと言えば、左上角から中央に向かって薄い蒼色のグラデーションが印刷されている事ぐらいだろう。
その名刺の裏を見てみると、先程超特急で書かれた事をその身をもって証明しているような、お世辞にも綺麗とは言えない字で『S』と『警視庁の化け物』の2つの単語が存在を静かに主張していた。
これを見て、高崎は思わず素っ頓狂な声を出してくる。
「何だ、これ? 功にこれを見せろって?」
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