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●生い立ち

 私は静岡県静岡市で生まれました。父親は会社員で、転勤が多く、よく転居を繰り返したものです。
 物心付いた頃は、静岡県沼津市に住んでいました。近くに「東レ」の工場があったような気がします。東レの「レ」の字に妙な違和感を感じたのを覚えています。

 その後、横浜市港北区日吉に移り、幼稚園は、「長福寺幼稚園」に通いました。

 小学校は、近くの「日吉南小学校」でした。担任の先生は沼田緑先生でした。
 どういう訳か、この時代の住所、幼稚園名、小学校名、担任の先生のお名前を正確に覚えています。

 小学校1年の1学期が終わって、父の転勤のため、東京都渋谷区本町に移りました。小学校1年の2学期からは、「本町東小学校」に転校したのです。担任の先生は、産休でしたので産休代理の先生に連れられて教室に行ったのを覚えています。その先生の名前は佐藤コト先生と言いました。佐藤先生は、ベテランのおばあちゃん先生で、子供たちが騒いでもあまり注意もせず、もっと厳しくてもいいのになあと思ったことを覚えています。新学期になって本来の担任の先生がきました。確か「小汲(おぐみ)」先生という名前だったと思います。若いしっかりとした先生で、てきぱきした指導だったと思いますが、このころから少し記憶が曖昧になっています。

 小学校の3年の1学期が終わると、今度は千葉県千葉市に引っ越しました。そこは新興住宅地であり、まだ小学校ができておらず、少し遠方の地元の「横戸小学校」に転入しました。横戸小学校は、この住宅地に移り住む人たちの子どもが次から次へと転入してきて、転入生派とでも呼ぶべき集団ができてきて、地元の子たちとうまくやっていくのが大変だったように記憶してします。

 小学校3年が終わると、近くに新たに小学校が開校し、4年生からは、そこに通うことになりました。この小学校を卒業するのですが、結局小学校は4校も通ったことになります。

 小学校卒業と同時に、父はまた転勤になりました。この小学校時代は思い出深く、級友達と別れたくなく、転居がわかったときは、泣いた思い出があります。今度は東京都品川区に移り住むことになりました。

 中学校は、東京都品川区立の中学校
 初め、東京の中学生は荒っぽいなあと思い、なじむのにちょっと時間がかかりました。授業中も騒がしく、なんか意地悪な人が多く、こんなんで大丈夫なのかと思いました。
 でも、そのうちに友だちもでき、それなりに楽しい中学校時代でした。初めてバレンタインデーのチョコレートをもらったのもこの時代でした。それほどもてた訳でもないのですが、なぜかモノズキな女の子がいたのでした。

 東京暮らしはやはり便利でこの先、高校、大学と東京を離れずに暮らしました。その間も父の転勤があったのですが、申し訳ないけれど父には単身赴任してもらって、家族は東京におりました。母は、父と離れて暮らすことが、だいぶ参ったようです。今から思うと申し訳ない気持ちがあります。

 高校は、昔の東京府立第八中学校

 大学は、渋谷にある某キリスト系大学です。

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