旧制第一高等学校寮歌解説

曙に捧ぐ

昭和17年 征米英寮歌 

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1、月を背にして黙々の     涙の歩み幾千里
  今黎明の胎動に       地平はるかにみはるかす
  おゝ感激の朝ぼらけ

2、決死猛爆三千里       神州男子傳來の
  破邪の秋水玉ちれば     妖雲忽ちはれわたり
  魑魅魍魎は影何處

3、さはれ決死のつはものゝ   往いてかへらぬ忠魂に
  一度思ひよするとき      風蕭々の南海は
  易水寒き朝なりき

5、ローマは亡びギリシャ失せ  花のパリーははた何處
  歴史の使命(せめ)にうちふるふ   この日ひとしくあふぎみる
  皇謨悠々數千載

7、見よやアンダロ・サクソンの 文化の園はたそがれつ
  今こそ吾等盟邦と       新しき世の指標なる
  文化の塔をたてんかな
*「アンダロ」は昭和50年寮歌集で「アングロ」に訂正。

、山雨至って崑崙(こんろん)に      今大風のみつるとき
  迎ふる紀念のまつりこそ   健兒無限の感懐を
  涙しうたふときなると

9、人生意氣に感じては     成否を誰か(あげつら)
  今し男子(おのこ)のふるふとき    護國の旗に集ふ健兒()
  あふるゝ涙に死すべかり
譜に変更はない。左右のMIDI演奏は、全く同じである。
作詞作曲とも樋口芳朗。同一寮歌を一人で作詞作曲は珍しい。他に「一高音樂班班歌」(箕作秋吉作詞作曲)がある。
ハ短調4拍子で、伝統的な付点8分音符と16分音符を繰り返す護国調のリズム、それでいて哀調を感じさせるのは、短調のメロディーのせいである。


語句の説明・解釈

 昭和16年12月8日、帝国陸海軍は西太平洋ならびに東南アジア方面において米英軍と戦闘状態に入り、ここに太平洋戦争が始まった。一高でも、12月13日、護国旗を先頭に、校長以下全校生徒が戦勝祈願の武装行進をして、皇居・靖国神社・明治神宮を巡拝した。
 第52回紀念祭寮歌は、既に応募を打切った後であったが、戦勝祈願のため、特別に「征米英寮歌」を募集することにした。この「曙に捧ぐ」と「寒風颯颯」の二篇が入選、他に寄贈歌として「嗚呼東の」1篇が東大から寄せられた。
 この寮歌の歌詞は、一高寮歌にしては珍しく、海軍兵学校の「江田島健兒の歌」の歌詞から語句を借用している箇所がある(5・6番)。
 「同日(12月8日)早朝、ラジオ放送は西太平洋における戦闘の開始を告げ、11時半、宣戦の詔勅を放送した。ついに来るべきものが来たという感覚は当時の大多数の国民が抱いたところであり、続いて真珠湾攻撃成功の報に寮にも歓声が起こり、これまでの長い間の何か重苦しい気分がふっ切れたというのが寮生多くの正直な感想であった。委員は寮務室窓ぎわにラジオの拡声器を据えて放送を弥生道に流し、これに聞き入る寮生も多かった。
 12月13日、戦勝祈願の全校生徒の武装行進が行われた。午前7時校長以下整列、7時半、護國旗の正旗を岡委員長が捧げて先頭に立って出発、宮城・靖国神社・明治神宮を巡拝して午後1時半帰校した・・・・・。
 この間、文丙2年片山正義の応召があり、同月22日、昼食時に壮行会が開かれた。その際、同君が述べた。『私一箇は問題ではありません。私は喜んで行って参ります。私は私の出征なぞより、戦後の文化建設の任務を有する諸君の責任の方がずっと重いと思っています。私のことは私にまかせて下さい。』という言葉は多くの寮生に感銘を与えたが、安倍校長も感動し、翌年2月の『第52回紀念祭に臨みて』と題して『向陵時報』に寄せた一文の中でも、同君の言葉を『たのもしく耳底に残って居る』として紹介した。」(「向陵誌」昭和16年度)
      

語句 箇所 説明・解釈
月を背にして黙々の 涙の歩み幾千里 今黎明の胎動に地平はるかにみはるかす おゝ感激の朝ぼらけ 1番歌詞 未明の攻撃に備え、夜間、空母からの発着を何回も繰り返し訓練を積んだ。猛訓練によく耐え真珠湾攻撃に至った。今、大東亜共栄圏の誕生に向かって一歩が踏み出された。地平遙かを見晴らせば、大戦果に相応しく感激の朝があけた。

「月を背にして黙々の 涙の歩み幾千里」
 「月を背にして黙々の」は、未明の攻撃に備え、夜間、空母からの発着を何回も繰り返し訓練を積んだこと。「涙の歩み幾千里」とは、猛訓練によく耐え真珠湾攻撃に至るまでの苦労の多かった長い道のりをいう。(海兵出身の鈴木正美一高先輩のコメントを参考とした)。

「今黎明の胎動に 地平はるかにみはるかす おゝ感激の朝ぼらけ」
 「朝ぼらけ」は、夜がほんのりと明けて、ものがほのかに見える状態。多く秋や冬に使う。春は曙という。
 昭和16年12月8日未明、太平洋戦争の火蓋は切って落とされた。マレー半島コタバル上陸作戦、真珠湾攻撃、マニラへの空爆で戦争が始まったことを踏まえる。
決死猛爆三千里 神州男子傳來の 破邪の秋水玉ちれば 妖雲忽ちはれわたり 魑魅魍魎は影何處 2番歌詞 波濤遙か三千里を越え、決死の猛爆を行なった。神州日本の男子が先祖から受継いだ破邪の剣をキラリと抜き放つと、妖雲はたちまちにして雲散して晴れ渡り、敵軍の影は、どこにも見えない。

「決死猛爆三千里」
 昭和16年11月26日午前6時、択捉島単冠湾を空母6隻・戦艦2隻を基幹とする機動部隊は、ハワイ・オアフ島へと向かった。12月8日未明、2波にわたって空母を飛び立った360機の飛行機は、午前3時25分(ハワイ時間7日午前7時55分)から約2時間にわたり、ハワイ・オアフ島の真珠湾軍港と周辺飛行場を奇襲攻撃した。米側に戦艦4隻沈没、飛行機188機喪失、死者2400名余の損害を与えた。「三千里」は、択捉島からハワイまでの凡その航行距離。
 *機動部隊の編成は次のとおり。
南雲忠一中将が指揮する航空母艦6隻(赤城、加賀、蒼竜、飛竜、翔鶴、瑞鶴)、高速戦艦2隻(比叡、霧島)、大型巡洋艦2隻(利根、筑摩)、軽巡洋艦1隻(阿武隈)ほか駆逐艦9隻、潜水艦3隻、給油船7隻、総数30隻である。

「神州男子傳來の 破邪の秋水玉ちれば 妖雲忽ちはれわたり 魑魅魍魎は影何處」
 「破邪の秋水」は、「破邪の剣」のこと。「破邪」は、誤った見解を打破ること。「秋水」は、秋の頃の澄み渡った水の流れのことだが、転じて、曇りなく研ぎ澄まされた鋭利な刀。「玉ちれば」は、刃先が光るさま。刀を抜くこと。「魑魅魍魎」は、山中の怪物と水中の怪物。いろいろな化物。ここでは米英軍のこと。
  「破邪の劍を抜き持ちて 舳に立ちて我よべば 魑魅魍魎も影ひそめ」(明治35年「嗚呼玉杯」5番)
 「抜き放ちけり秋の水 夕月落ちて霧白し」(明治36年「綠もぞ濃き」5番)
さはれ決死のつはものゝ 往いてかへらぬ忠魂に 一度思ひよするとき 風蕭々の南海は 易水寒き朝なりき 3番歌詞 とはいっても、決死の覚悟で飛び立って、二度と帰らない勇士達の英霊に、いま一度、思いをいたそう。昔、中国で、壯士荊軻が秦の始皇帝暗殺のために易水を旅だった朝のように、出撃の南の海は、風がもの悲しく吹いて寒々しい朝であった。

「さはれ決死のつはものゝ 往いてかへらぬ忠魂に 一度思ひよするとき」
 「往いてかへらぬ忠魂」は、戦死者。日清戦争以降、対外戦争の戦死者は靖国神社に英霊として祀られた。「忠魂」は、まごころ。忠義を尽くして死んだ人の魂。

「風蕭々の南海は 易水寒き朝なりき」
 「風蕭々の南海」は、風がもの悲しく吹く南の海の戦場。「南海」は、南方の海、また東洋史上、南方諸島を指していう。マレー半島上陸、真珠湾攻撃、フィリピン空襲で始まった太平洋戦争の南方諸島を含めていうと解する。「易水寒き朝」は、中国河北省西部の川。燕のために秦の始皇帝を刺そうとした壮士荊軻が、ここで燕の太子丹と別れ、「風蕭々として易水寒し、壯士一たび去ってまた還らず」と詠った故事を踏まえる。ここに、「易水」とは、実際にある中国の川を指すのではなく、「風蕭々の南海」である。
 「『南海』は、中国の南の海のことであるから、当たらない区域をさすことになる。あるいは、そこでも河北省の易水の寒さが思われるほどに寒いと述べているか。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
友よアジヤの黎明に (まなじり)決し立つの秋 記せよ壯士のをたけびを  『興亡何か夢の跡 消えざるものは只まこと』 4番歌詞 友よ、欧米列強からアジアを解放する戦いのために、決然として起つべき時である。壯士荊軻の雄叫びを銘記せよ。「国の興亡などは、一時の夢、いつか人に忘れられる。後世に残るは、ただ、まことの心のみである」と。

「友よアジヤの黎明に 眥決し立つの秋」
 「アジアの黎明に」は、大東亜共栄圏の建設に。欧米列強からアジアを解放する戦いのために。「眥を決す」は、目を見開くこと、怒ったり決意したりした時にいう。

「記せよ壯士のをたけびを『興亡何か夢の跡 消えざるものは只まこと』」
 「壯士」は、血気盛んな男。ここでは、3番歌詞の「往いてかへらぬ忠魂」を荊軻になぞらえる。 「記せよ」は、書きとめよ。記憶せよ。
 昭和維新の歌『9番』 「功名何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう」
 晩翠『星落秋風五丈原』 「功名いづれ夢のあと 消えざるものはただ誠、心を尽し身を致し 成否を天に委ねては 魂遠く離れゆく」
 陶淵明『詠荊軻』  「奇功遂に成らず 其の人(荊軻のこと)已に没すると雖も 千載餘情有り
 史記『刺客列伝』 「曹沫より荊軻に至る五人。ここにその義は、或いは成り、或いは成らず。然るにの意を立てること較然として、その志を欺かず。後世に名を垂れたるは、豈に妄ならんや。
ローマは亡びギリシャ失せ 花のパリーははた何處 歴史の使命(せめ)にうちふるふ この日ひとしくあふぎみる 皇謨悠々數千載 5番歌詞 西欧文明の源となった古代ローマは亡び、古代ギリシャは歴史上から消えた。花と謳われたフランスのパリは、今やドイツに占領された。大東亜共栄圏の樹立に一歩踏み出した今日のこの日に、大和民族の歴史の使命に身がうち震い、国民は皆、神武天皇以来三千年の長きにわたって日本を統治してきた皇統を仰ぎ奉るのである。

「ローマは亡びギリシャ失せ 花のパリーははた何處」
 「ローマ帝国」は、395年東ローマ帝国と西ローマ帝国に分れ、前者は1453年まで続くが、後者は476年傭兵隊長オドアケルに滅ぼされた。「古代ギリシャの都市国家」は、前4世紀マケドニアによって征服された。その後もビザンツ帝国、オスマン帝国の支配を受け、バルカン半島では、諸民族の侵入と共生が繰り返されたため、近代のギリシャ人は古代ギリシャ人との血のつながりはないといわれている。「花のパリー」は、昭和15年6月14日、ドイツに占領された。
 「藝術の華と誇りたる ラテンの都今何所」 (昭和16年「北海浪は高うして」1番)

「歴史の使命にうちふるふ この日ひとしくあふぎみる 皇謨悠々數千載」
 「この日」は、大東亜戦争(太平洋戦争)を始めた日。「皇謨」は、天子のはかりごと。「數千載」は、皇紀数千年のこと。昭和15年は皇紀2600年である。
 「有史悠々数千載皇謨を仰げば弥高し」(「江田島健兒の歌」1番)
玲瓏聳ゆる東海の 芙蓉の峯を仰ぎては 悠久永久(とは)に流れつぐ 神州男子の熱血は 今渾身にたぎるなり 6番歌詞 日出づる日本の国に、神代の昔から玲瓏として聳える富士山を仰いでは、神州男児は、祖先から連綿として引き継いできた赤い血を、今、全身に滾らせている。

「玲瓏聳ゆる東海の 芙蓉の峯を仰ぎては」
 「玲瓏」は、美しく照り輝く。「東海」は、中国から見て東の海に浮ぶ日本。「芙蓉の峯」は、富士山。 
 「玲瓏聳ゆる東海の 芙蓉の峰を仰ぎては」(「江田島健兒の歌」2番)

「悠久永久に流れつぐ 神州男子の熱血は 今渾身にたぎるなり」
 「悠久永久」は、悠久も永久も永く久しいの意。「今」は、開戦の時。「渾身」は、全身。
 「神州男子の熱血に わが胸さらに躍るかな」(「江田島健兒の歌」2番)
見よやアンダロ・サクソンの  文化の園はたそがれつ 今こそ吾等盟邦と 新しき世の指標なる 文化の塔をたてんかな 7番歌詞 見よ、アングロ・サクソンの文化圏は衰退し、終わろうとしている。今こそ日本は、ドイツ・イタリアの盟邦と、英米主導による旧体制を打破し、新しい国際秩序体制を築く中心的役割を果たさなければならない。

「アンダロ・サクソンの文化の園はたそがれつ」
 第1次世界大戦直後、ドイツの文化人類学者シュペングラーは、主著「西洋の没落」を刊行し、ヨーロッパのキリスト教文化は終末に近づいていると断言し、第1次世界大戦後の危機感を背景に、大きな反響を呼んだ。ここに、「アングロ・サクソンの文化圏」(「アンダロ」は昭和50年寮歌集で、「アングロ」に訂正)とは、「米英文化圏」をいうものであり、盟邦ドイツ・イタリアを含むものではない。
 「榮華は古りし二千年 殿堂それは衰へて 廢墟にむせぶ秋の風」(大正12年「榮華は古りし」1番)

「今こそ吾等盟邦と 新しき世の指標なる 文化の塔をたてんかな」
 「文化の塔」は、新たな国際秩序形成の司令塔。「文化」は、文徳で人々を教化すること。
 昭和15年9月27日 日独伊三国軍事同盟調印。
山雨至って崑崙(こんろん)に 今大風のみつるとき 迎ふる紀念のまつりこそ 健兒無限の感懐を 涙しうたふときなると 8番歌詞 山雨は崑崙山に至って、今、暴風雨となり、東南アジアに、南太平洋に広がった。こういう時期に迎える紀念祭こそ、一高健兒が無限の思いに感涙し、尚武の意気を示す時である。

「山雨至って崑崙に 今大風のみつるとき」
 「山雨」は、昭和12年7月の盧溝橋事件に始まった支那事変。「崑崙」は、チベットと新疆ウィグル自治区の境を東西に走る大山系のことだが、唐・宋の頃には、マレー半島・インドシナ半島方面の総称であった。「大雨」は、暴風雨。「今大風のみつる時」は、大東亜戦争(太平洋戦争)が、真珠湾攻撃と共に、マレー半島コタバルへの上陸・マニラの空爆で始まったことを踏まえると解す。日本の南進政策により、戦域が支那事変の中国からマレー半島・フィリピン・グアムなど東南アジアから南太平洋方面へと広がっていった。
 「『崑崙』は中国西南の崑崙山脈をさすが、ここでは中国の象徴としていっている。そうして、当時の大東亜戦争と関係して、中国が『今大風のみつるとき』であると述べている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 許渾沌『咸陽城東楼詩』 「一たび高城に上れば萬里愁う。 蒹葭(けんか) 楊柳 汀洲に似たり。溪雲初めて起って日は閣に沈み、山雨来たらんと欲して風は楼に滿つ。鳥は綠蕪(りょくぶ)に下る 秦苑の夕、蝉は黄葉に鳴く 漢宮の秋。行人問う莫れ 当年の事、故国 東のかた来たりて 渭水は流る。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」参照)

「迎ふる紀念のまつりこそ 健兒無限の感懐を 涙しうたふときなると」
 「迎ふる紀念のまつり」は、第52回紀念祭。
 「今年の春の紀念祭 健兒無限の(おもひ)あり」(明治37年寮歌「都の空に」8番)
人生意氣に感じては 成否を誰か(あげつら)ふ 今し男子(おのこ)のふるふとき 護國の旗に集ふ健兒()は あふるゝ涙に死すべかり 9番歌詞 人生は意気に感じるかどうかで決するのであって、勝つか負けるかなど誰が問題にしようか。今こそ男子の奮起すべき時である。校旗に護國の旗を戴く一高健兒は、明治の日露戦争で、大先輩が「其旗の下我死なん」と歌ったように、感激に溢れる涙で死ぬぐらいの意気を持つべきだ。

「人生意氣に感じては 成否を誰か論ふ」
 魏徴『述懐』 「季布に二諾無く、侯嬴は一言を重んず。人生意氣に感ず、功名誰か復た論ぜん。」 *季布は漢初の楚人、侯嬴は戦国時代魏の隠士。ともに信義に生きた。
 晩翠『星落秋風五丈原』 「人生意気に感じては 成否をたれかあげつらふ
 「人生意氣に感じては たぎる血汐の火と燃えて」(明治40年「仇浪騒ぐ」4番)
 「成否を誰かあげつらふ のぞむカナンは遠からじ」(大正15年「生命の泉」5番)
 「今となっては没理性とも見える開戦への受けとめ方も、当時、ABCDラインに包囲され、在米資産凍結、対日石油禁輸という経済宣戦布告までうけて追いつめられた日本の立場からすれば、今日では想像もできない当然の国民的感情の爆発ということもできよう。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

「今し男子のふるうとき 護國の旗に集ふ健兒は あふるゝ涙に死すべかり」
 「護國の旗」は、一高の校旗「護國旗」のこと。柏葉橄欖の徽章の真ん中に「國」の字が入る。
 「あはれ護國の柏葉旗 其旗の下我死なん」(明治37年「都の空に」9番)
                        

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