旧制第一高等学校寮歌解説

瑞雲罩むる

昭和15年第50回紀念祭寮歌 

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1、瑞雲()むる九重に       映ゆる護國の柏葉旗
  咫尺に拜す大君の       かしこきみこと尊みて
  若き男の子のはげむなる   丘に五十の春は來ぬ

2、三年を經にし聖戦(みいくさ)や      御稜威は(つち)にあまねくて
  君の御楯に靖國(やすくに)の       英靈(みたま)となりしつはものに
  同じ傳統(つたへ)呼吸(いぶき)せし      我が同胞(はらから)も多かりき

3、北海波は荒うして        ラインのほとり風寒く
  正義の星の地に堕ちて    魔界と化しぬ歐州や
  廿年(はたとせ)のかみ讃へにし      平和の夢は今何處

8、陽は不二ヶ()に落ち果てゝ  夕に浮ぶ四つの城
  四海の(うしほ)轟として        此の丘の上に響く時
  今宵祭の火は(あかく)く       祝歌(ほぎうた)天にどよむなり
3段5小節1・2音は、複付点4分音符であったが、ソフトが対応していないので、2音としタイで結んだ。
ハ長調・4分の2拍子で譜に変更はない。左右のMIDI演奏は、全く同じである。
 寮歌の伝統的タータタータ(付点8分音符と16分音符)のリズムが基本。「わかきをのこの」(3段4・5小節)は、最初の「わ」を4小節にもっていき、弱起としている。「春爛漫」の「とりはさえずり」で歌い崩し弱起とした同じ手法である。この箇所を除き、小楽節(4小節)単位でみるリズムは全く同じである。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
瑞雲()むる九重に 映ゆる護國の柏葉旗 咫尺に拜す大君の かしこきみこと尊みて 若き男の子のはげむなる 丘に五十の春は來ぬ 1番歌詞 瑞雲の立ちこめる宮城に、国を守る護国旗の柏葉が映える。天皇のお近くに拝して、畏れ多いお言葉を賜った。若き健児が励む向ヶ丘に第50回紀念祭の春が来た。

「瑞雲罩むる九重に 映ゆる護國の柏葉旗」
 「瑞雲」は、めでたいしるしの雲。皇紀二六百年を祝す。「九重」は、皇居、宮城。
 昭和14年5月22日、「陸軍現役将校配属令15周年記念行事」で、「青少年学徒ニ賜リタル勅語」が下賜され、全国1800校の代表3万2千5百人、執銃・帯剣で二重橋に参集して、天皇の親閲を受けたことを踏まえる。
 「一高は、三年生代表100人が、この親閲式に参加した」(「一高自治寮60年史」)。

「咫尺に拜す大君の かしこきみこと尊みて」
 「咫尺」は、(「咫」は周尺で八寸)近い距離のこと。「かしこきみこと」は、畏れ多い天皇のお言葉、具体的には「青少年学徒ニ賜リタル勅語」。たんに「護國旗」とせず、「護國の柏葉旗」としたのは、皇居を守る柏木、陸軍現役将校配属令15周年記念行事に鑑み、一高の武の象徴「柏葉」を意識したからである。
  「青少年学徒ニ賜リタル勅語」
「國本ニ培ヒ國カヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ而シテ其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年学徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ気風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ」

「丘に五十の春は來ぬ」
 向ヶ丘に第五十回紀念祭の春を迎えた。
三年を經にし聖戦(みいくさ)や 御稜威は(つち)にあまねくて 君の御楯に靖國(やすくに)の 英靈(みたま)となりしつはものに 同じ傳統(つたへ)呼吸(いぶき)せし 我が同胞(はらから)も多かりき 2番歌詞 支那事変は三年たち、天皇の威光は地上にあます所なく及んでいる。支那事変で戦死し、国を守る英霊として靖國神社に祀られた兵士に、同じ自治の傳統で育った一高生も多くなった。

「三年を經にし聖戦や 御稜威は坤にあまねくて」
 「聖戦」は、支那事変。盧溝橋で日中両軍が衝突して、支那事変が始まったのは、昭和12年7月7日である。「御稜威」は、天皇の威光。「坤にあまねくて」は、昭和12年12月の南京陥落、同13年10月の武漢三鎮などを踏まえ、戦線が中国全土に拡大したことをいう。。「あまねくて」は、あますところなく及んでいること。

「君の御楯に靖國の 英靈となりしつはものに 同じ傳統を呼吸せし 我が同胞も多かりき」
 「君の御楯に」は、国を守るために。
 明治の日清・日露戦争、大正の第1次世界大戦の時とは違い、支那事変・第二次世界大戦は、直接、一高生に影響が及び、出征・戦死という大きな犠牲が強いられた。
北海波は荒うして ラインのほとり風寒く 正義の星の地に堕ちて 魔界と化しぬ歐州や 廿年(はたとせ)のかみ讃へにし 平和の夢は今何處 3番歌詞 ドイツ軍がポーランドに侵攻し、英仏両国がドイツに宣戦して、第2次世界大戦が始まった。万国の労働者やインテリゲンチアが正義の星と憧れたソ連が、こともあろうにドイツと手を結んで、ポーランド、フィンランドに侵攻した。まさに「欧州狀勢は複雑怪奇」の様相を呈して魔界と化した。20年の昔に、世界平和を夢見て、国際連盟が多くの人に讃えられて設立されたが、一体あの夢はどこへ消えて行ったのだろうか。

「北海波は荒うして ラインのほとり風寒く」
 第2次世界大戦の勃発をいう。昭和14年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻(「北海波は荒うして」)、同月3日英仏が、ドイツに宣戦して(「ラインのほとり風寒く」)、大戦は始まった。
昭和14年8月23日 独ソ不可侵条約。
9月 1日 独軍、ポーランド侵攻。
3日 英仏、対独宣戦、第二次世界大戦勃発。
17日 ソ連軍、ポーランドに侵攻。
11月30日 ソ連軍、フィンランドに侵攻。
12月14日 国際連盟、ソ連を除名処分。

「正義の星の地に堕ちて 魔界と化しぬ歐州や」
 「正義の星」は、ソ連のこと。
 「北方の星は冴えたり 夜を通し黙示さゝやく」(昭和4年「彼は誰れの」3番)
 昭和14年8月23日、ソ連は、こともあろうに反共のはずのファシズム国家ドイツと不可侵条約を結んだ。この条約は、反ファシズム運動勢力をはじめ世界に衝撃を与えた。日本の時の宰相・平沼騏一郎が「歐州情勢は複雑怪奇」との声明を発し、内閣が総辞職したのに象徴される。
 「魔界と化しぬ」とは、このような複雑怪奇で理解し難い欧州狀勢をいう。昭和14年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻した時、ソ連もドイツとの不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にポーランドに侵攻、ポーランドは、独ソで分割占領された。さらに11月30日にフィンランドに侵入、ソ連は12月14日、国際連盟から除名処分を受けた。翌昭和15年8月、ソ連はバルト三国(リトアニア・ラトヴィア・エストニア)を併合した。独ソ間で、ポーランド、フィンランド、バルト三国の領土的・政治的変更の場合、両国で利益範囲を分割することを密かに決めていたのである。
 「正邪の差違も消えぬ 嗚呼現世惡修羅の巷」(昭和15年「朝日影」3番)

「廿年のかみ讃へにし 平和の夢は今何處」
 「廿年」は、第1次世界大戦と第2次世界大戦の両大戦間の二十年のこと。「かみ」は、昔。
 第1次世界大戦後、初の世界的な、集団安全保障を中心とする平和維持・国際協力機構として国際連盟が設立されたが、戦争は阻止できず、第2次世界大戦が勃発した。「平和の夢は今何處」である。
闇、西山を浸せども 此處東海は朝ぼらけ 昇る朝日の紅に 混沌の夜を荒びたる 禍神(まがつみ)の影消え行きて 建設(つくり)の鐘は鳴り()めぬ 4番歌詞 ヨーロッパは、闇の覆う夜であるが、、ここ日本はほのかに朝が明けた。登る朝日の輝きに、混沌とした闇の世界で恣に暴れていた禍の神の影は消えて行って、新東亜建設の鐘が鳴りだした。

「闇、西山を浸せども 此處東海は朝ぼらけ」
 日本は、第二次世界大戦の戦場から遠く離れて平和であるの意。「西山」はヨーロッパ。「東海」は、中国から見て東の海。日本のことである。「朝ぼらけ」は、夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態、またその頃。
 「東海波は太平の 御世豊樂の美し秋」(大正4年「御大典奉祝歌」1番)
 昭和14年9月4日 政府、欧州戦争に不介入を声明。

「昇る朝日の紅に 混沌の夜を荒びたる 禍神の影消え行きて 建設の鐘は鳴り初めぬ」
 「禍神」は、人間に禍や不幸をもたらす神。ここでは中国国民党政府軍や中共軍をいうか。「建設の鐘」は、7番の「友よ東亞に朝は來て・・・興亞の鐘を撞かん哉」の「興亜の鐘」。昭和13年11月3日の近衛首相の東亜新秩序建設声明、同12月16日の興亜院設置、同30日の汪兆銘対日和平声明、昭和14年9月1日から始まった興亜奉公日(毎月1日)等を踏まえる。日本が主導する新東亜の建設が始まったの意。
 「登る朝日に露消えて 東亜の覇業成らん時」(明治37年「都の空に」10番)
 「当日全国民ハ挙ツテ戦場ノ労苦ヲ偲ビ自粛自省之ヲ実際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亜ノ大業ヲ翼賛シテ一億一心奉公ノ誠ヲ効シ強力日本建設ニ向ツテ邁進シ以テ恒久実践ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」(昭和14年8月8日閣議決定「興亜奉公日設定に関する件」趣旨)
悠久二千六百年 神代の定め遠けれど 尊く強き生命(いのち)とて 脈々として相傳ふ 赤き心ぞ潮の如 秋津島根を浸すなる 5番歌詞 万世一系の天皇が我が国を永遠に統治するという神代の定めは、我が国民に強く尊ばれ、建国以来2600年という長い間、連綿として今日まで伝えられてきた。我が国には、皇室に対する偽りのない誠の心が、潮の如く満ち満ちている。

「悠久二千六百年 神代の定め遠けれど」
 「神代の定め」は、万世一系の天皇がこの日本を永遠に統治するという定め。
 「捲去りし時劫の波の 春秋や二千六百」(昭和15年「嚴白檮の」2番)

「脈々として相傳ふ 赤き心ぞ潮の如 秋津島根を浸すなる」
 「赤き心」は、偽りのない心。まごころ。「秋津島根」は、日本国の異称。
 
強き(おのれ)と知らずして 秋霜の()を歩み行く 紅の()の旅人に 三年の憩ひ夢なれど 橄欖香り柏咲く 泉のほとり忘れ得じ 6番歌詞 頬紅の一高生は、人生を強く厳しく生きたいと、向ヶ丘で三年の間、秋霜の降りた冷たい野を真理を追究してきた。三年が終って向ヶ丘を去っても、知恵と正義(まこと)と友情を育んだ橄欖の香が高く、柏の花が咲く向ヶ丘のことを忘れることはない。

「強き己と知らずして 秋霜の野を歩み行く 紅の頰の旅人に」
 「強き己と知らずして」は、自分をもっと強くしたいと人生を強く厳しく生きたいと。「秋霜」は、冷たく厳しい秋の霜。自分に試練を課す意。「旅人」は、一高生。人生の旅の途中、若き三年を真理追究と人間修養のために一高寄宿寮に旅寝する旅人。

「三年の憩ひ夢なれど 橄欖香り柏咲く 泉のほとり忘れ得じ」
 「橄欖」は、一高の文の象徴。「柏」は一高の武の象徴「柏葉」の柏。「泉」は、「知恵と正義と友情の泉」(大正15年「烟争ふ」1番)。「泉のほとり」は、向ヶ丘。7番最初の歌詞「智慧と誠は浄くして」に続く。
 「たまゆらの、三年が憩ひ 吾がおもひ、語り得果てず」(昭和2年「たまゆらの」1番)
智慧と誠は浄くして 新たなる火は胸に燃ゆ 友よ東亜に朝は來て (かけ)音四方(ねよも)に冴ゆるなり  いざ逞しき(かひな)して 興亞の鐘を撞かん哉 7番歌詞 一高生の知恵と誠の心は清く、新東亜建設の情熱は胸に燃えている。一高生よ、東亜の朝は明けて、夜明けを告げる鶏の声が四方にはっきりと響き渡った。日頃鍛えた逞しいその腕で、新東亜の建設に進んで奉公して、興亜の鐘を撞こうではないか。

「智慧と誠は浄くして 新たなる火は胸に燃ゆ」
 「新たなる火」は、興亜、すなわち西洋列強からアジアを解放し、アジアの興隆を図ろうとする情熱。新東亜建設の情熱。

「友よ東亜に朝は來て 鷄の音四方に冴ゆるなり いざ逞しき腕して 興亞の鐘を撞かん哉」
 「東亜の朝」は、アジアの西洋列強からの解放。「鷄の声」は、前述した近衛首相の東亜新秩序声明、汪兆銘の対日和平声明をいう。「興亜の鐘を撞かん哉」は、新東亜建設に奉公しようとする一高生の昂揚した意気をいう。昭和14年9月から、支那事変下、国民精神の引き締めを図るために、国民精神総動員運動の一環としてとして興亜奉公日(毎月1日)が設けられた。
 「こぞり立ち力盡さむ 東洋の盟主われらは」(昭和15年「清らかに」9番)
 「柏葉兒今し立たずば 東洋は何時か再繁らん」(昭和15年「嚴白檮の」3番)
 「『興亜』はアジアの国々の勢いをふるいおこし盛んにする意で、戦争の目的とも言われていた。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
陽は不二ヶ()に落ち果てゝ 夕に浮ぶ四つの城 四海の(うしほ)轟として  此の丘の上に響く時 今宵祭の火は(あかく)く 祝歌(ほぎうた)天にどよむなり 8番歌詞 太陽は、西の彼方富士山に没して、四つの寄宿寮が夕陽に映えて浮んでいる。時代の波が大きな音を立てて向ヶ丘に押し寄せているが、今宵、赤々と燃える篝火を囲んで歌う寮歌の声は、天に鳴り響いている。

「陽は不二ヶ嶺に落ち果てゝ 夕に浮ぶ四つの城」
 「不二ヶ嶺」は、富士山。「四つの城」は、南・中・北の三寮に、昭和14年9月6日に開寮した明寮を加えた4棟の一高寄宿寮。この年から一高の定員が1学年300人から400人に増員された。

「四海の潮轟として 此の丘の上に響く時」
 「四海の潮」は、支那事変、太平洋戦争間近のひっ迫した非常時の波。「此の丘の上に響く」は、向ヶ丘に押し寄せる非常時の波の音。具体的は、第50回紀念祭について、時節柄、火災予防と物資節約の観点から、紀念祭の飾り物廃止の強い要請が学校当局からあったこと等を踏まえる。

「今宵祭の火は明く 祝歌天にどよむなり」
 「祭の火」は、紀念祭の篝火。「祝歌天にどよむなり」は、篝火を焚いて催した寮歌祭の声。向ヶ丘に打ち寄せる時代の波の轟音をかき消す程大きく、それを「天にどよむ」と表現した。
 「15年度には時局の進展に伴って再び飾り物廃止の要請が、特に学校側から強く打ち出された。これに対して、向陵の伝統を昔ながらに追い求めようとする寮生の意向は逆に高まって、大勢は第50回紀念の大祭を昔のように飾り物を復活して盛大に実施すべきであるという方向へ傾いていった。」(「向陵誌」昭和15年)
 こうして2月2日午後4時、紀念祭の一般公開を終了した後、午後6時30分頃まで飾り物を燃やして寮歌祭が実施された。

 「この寮歌の生命は、第八節にある。最初の二行の視覚的の叙景から、次の聴覚的心理的の二行が特に秀れており、最後に再び紀念祭の夜の篝火に、青春の歌声を上げている。この『轟として』の音韻の齎す詩的効果は大きい。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

                        

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