石神井
石神井公園(石神井城址)
所在地: 練馬区石神井台1−26−1(石神井公園駅 徒歩15分)



 石神井城址
 


 江戸幕府が成立するまで、東京は武蔵国に属していた。武蔵国は関東の要所として、しばしば戦乱に巻き込まれている。練馬区にあった石神井城もそうである。
 石神井城址は現在、石神井公園となっている。城跡としてより、公園としての知名度の方がはるかに高いだろう。
 石神井城を居城としたのは豊島氏。現在の東京23区北部を支配した。なぜ練馬区にあるのに「豊島園」というのか子供の頃疑問だったが、それは豊島氏に由来 しているわけだ。
  



石神井公園が見えてきた
 


 石神井公園の最寄り駅は西武池袋線の石神井公園駅である。僕はそこからではなく、西武新宿線の上井草駅から石神井公園に向かった。北に向かって20分ほど歩くと、石神井公園が見えてきた。
  
 石神井公園には石神井川が流れ込み、石神井池と三宝寺池の2つの池がある。ちょうど道路によって区切られ、東側が石神井池、西側が三宝寺池である。
  



石神井池
 


 石神井城があったのは三宝寺池の南側なので、そちらに向かうことにした。
 三宝寺池は古来から地下水が湧き出る池として存在していた。井の頭池、善福寺池と並び「武蔵野三大湧水池」としても知られている。
 現在では水量が減ってしまったということだが、今なお満々と水をたたえている。そいえば、20年ほど前、三宝寺池に巨大ワニが出現したと話題になったことがあるが、それもさもありなん。
   



石神井公園入口
(三宝寺池側)




三宝寺池
 


 三宝寺池の中ほどには浮島があり、そこは三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されている。
    







三宝寺池沼沢植物群落
 


 池の南側に渡る橋のたもとに城址であることを示す古碑が建っていた。文字は読みにくかったが、昭和12(1937)年6月という、建てられた日付がわかった。
   



城址古碑
 


 三宝寺池の南側に城址が残っている。
   



三宝寺池の北から見た石神井城址
 


 橋を渡ると左手に石神井城址碑が建つ。ここに城跡があることを知る人は少ないのか、ここには誰もいなかった。
 この碑の背後の小高い部分が石神井城の主郭跡である。
     



石神井城址碑
 

 
 城址碑の右手の階段を登って主郭跡へ向かう。
 ここには土塁と空堀が残っているのだが、保護のためにフェンスで隔てられている。
    



主郭跡へ向かう階段
左手に城址碑が見える


左のフェンスの向こうが主郭跡
 


 説明板によると「当分の間、養生が必要である」という。フェンス越しに眺める主郭は、鬱蒼と木が生い茂り、残念ながら城の様子は伺いにくい。
    







主郭跡
土塁と空堀


主郭の南の道路
 

 
 三宝寺池の周りを散策した。
   



三宝寺池の木の桟道


三宝寺池
 

 
 公園内にはいくつかの神社がある。水神社や厳島神社など、水に関係する神様ばかりである。
   



水神社


厳島神社
 


 対岸から厳島神社その後ろの城跡を眺める。
 ここが東京23区の中だとは俄かに信じられない光景である。
   



三宝寺池と厳島神社(右側の建物)
 


 1476(文明8)年、長尾景春(1443〜1514)が主君の上杉家に対して反乱、いわゆる長尾景春の乱(1476〜80年)を起こす。豊島氏は景春側につき、上杉軍の太田道灌(1432〜86)の攻撃を受け た。石神井城主・豊島泰経は江古田・沼袋の合戦で敗れ、三宝寺池に黄金の鞍をつけた白馬に乗って入水したとされる。
 三宝池の北側にある殿塚が彼の墓とされるのだが、実際には生き残り、後に平塚城で再挙している。
     



殿塚
 


 また、姫塚は泰経の後を追った二女・照姫の墓というが、泰経がここで死んでいない以上、塚の由来も怪しい。
   



姫塚
 


 石神井公園の南には豊島氏が応永年間(1394〜1428)に城内に創建したという氷川神社がある。
  



氷川神社
 


 また、三宝寺池の名前の由来となった三宝寺。
  



三宝寺
 


 豊島氏の菩提寺である道場寺などが周りにあるのだが、いずれも魅力的なので、項を改めて紹介することにしたい。
   



道場寺
 


 この日は休日だったので、石神井公園には家族連れやら、多くの人達が来ていた。都心を少し外れれば、このように自然に溢れる場所がある。石神井城のあった頃に思いを馳せながら歩くのも悪くない。
   

(2013年5月18日)


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