両国
本所松坂町公園吉良邸跡
所在地:墨田区両国3−13−9(両国駅徒歩7分)
開館:



吉良邸跡
 


 都内の赤穂浪士関連史跡としては、泉岳寺と並んで、敵役・吉良上野介義央(1641〜1703)の屋敷跡がある。吉良邸は現在、両国に本所松坂町公園として整備されている。 
   
 



本所松坂町の碑
 


 吉良邸は両国駅から北に行ったところにある。本所松坂町の地名は昭和初期の区画整備で消えてしまったが、京葉道路には1932(昭和7)年に建てられた「本所松坂町の碑」が残されている。ただ、吉良邸があった当時は「本所松坂町」という地名は存在しなかったらしい。吉良邸討ち入りの翌1703(元禄16)年の元禄大地震と、水戸様火事によって町が壊滅状態となり、復興された後にその名がつけられたとの ことである。
   

 

吉良邸正門前に建つ碑
 


 吉良家は江戸幕府において儀式や典礼を司る高家筆頭であった。しかも「忠臣蔵」の物語の中では、浅野内匠頭に賄賂を要求したりとがめついイメージがある。その屋敷は相当の規模だったろう。
 ところが、現在の吉良邸跡はかなり狭い。これではとてもじゃないが47人が討ち入ることはできそうにない。現在の吉良邸は29.5坪(約98u)で、当時の1/86の規模に過ぎないのだそうだ。現在はだいぶ離れてしまっているが、討ち入り当時は回向院とも接していた。
     



吉良邸内
 

   
 吉良上野介は、もともとは鍛冶橋にあった屋敷で生まれているが、その後1698(元禄11)年の火事で焼失し、呉服橋(現・八重洲)に移っている。しかし、浅野内匠頭の刃傷事件の後、赤穂藩士が討ち入るとの噂があったため、本所松坂町へと移って来た。したがって上野介がこの地に住んだのは1年半に満たない期間であ った。
   



吉良上野介義央公座像
 


 公園内には吉良上野介の像が鎮座している。これは、愛知県吉良町にある1690年頃に50歳の上野介自身が作らせた木像をもとにしているそう である。
   



みしるし洗い井戸
 


 公園の隅にある井戸は「みしるし洗い井戸」。これは、赤穂浪士が打ち落とした吉良の首を洗ったものらしい。
     



吉良上野介追慕碑


吉良家家臣二十士碑
 


 この地で死んだのは上野介だけではない。清水一学(1678〜1703)や小林平八郎(〜1703)といった赤穂浪士と戦って死んだ家臣もいる。彼ら20名の名を記した碑も園内に建っている。
  



松坂稲荷
 


 園内には松坂稲荷がある。これは、この地にもともとあった上野稲荷と、徳川家がやってきた後に祀られた兼春稲荷を合祀して1935(昭和10)年にこの地に建てられたものだそう だ。
 上野介の死後、屋敷は幕府に没収され、その後は住宅街となっていた。1934(昭和9)年、地元の有志が「みしるし洗い井戸」を中心に土地を購入して、公園として整備した 。
       



飯澄稲荷
 

 
 吉良邸の門から見て右手の方に、小さな神社があった。飯澄稲荷神社とあるが、何気なく見ると、興味深い説明書きがあった。そこは「鏡師 中島伊勢住居跡」だったそうである。中島伊勢は、葛飾北斎(1760〜1849)の養父であった人物である。一説には北斎は伊勢の妾腹の子であったとも言われているが、母は吉良家家臣の小林平八郎の娘という説もあるそうなのだ。つまり、北斎も「忠臣蔵」とかなり縁が深いのである。
  



玉屋
 


 赤穂浪士は、討ち入りに先だって蕎麦屋に集まったと言われる。もっともそれは明らかにフィクションである。だいたい47人もの人間が1つの店に集まったのなら目立ってしまう。最悪、討ち入り前に発覚なんて可能性もあるではないか。実際は2〜3人ずつ 別々に集まったようだ。
 しかし、吉良邸の近くに来たのだから、そばが食べたくなるのは気分の問題。
 すると、京葉道路の向こうにいかにも由緒のありそうな蕎麦屋を見つけた。「元禄二八そば玉屋」。さすがに元禄時代とはいかず、大正時代の創業というが、それでも老舗であるのは間違いない。

 なるほど、メニューには「義士御膳」「討入り定食」といったメニューがある。今回は「義士御膳」を注文した。天丼と肉や野菜の入ったお蕎麦がセットになっていた。これは「辛み」のある蕎麦と、「酸味」のある天丼で、「辛酸」をなめた義士を偲ぶものらしい。ボリュームもあって美味しかった。
  



義士御膳
 

(2012年8月1日)

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