九段下
靖国神社
所在地:千代田区九段北3−1−1(東京メトロ九段下駅徒歩5分)
HP:http://www.yasukuni.or.jp/
入場料:(遊就館)大人800円. 大学生500円 中学・高校生300円. 小学生100円
開館: 9:00〜17:30(4〜9月)、9:00〜17:00(10〜3月)



靖国神社
 拝殿と中門鳥居
 


 毎年8月15日の終戦記念日になると、世間を騒がす神社がある。それが靖国神社である。その時々の内閣総理大臣が公式参拝をするかどうかが焦点となる。
 とりわけ、中国や韓国といった海外から、いささかヒステリックとも思えるような否定的意見が飛び出す。第二次世界大戦後の東京裁判において処刑されたA級戦犯の魂が合祀されているというのがその理由である。

 そもそも、靖国神社というのは、明治維新・戊辰戦争の戦没者の霊を弔うために1869(明治2)年に東京招魂社として創設された。1879(明治12)年には「靖国神社」と改称され、西南戦争(1877年)、日清戦争(1894〜95年)、日露戦争(1904〜05年)、
太平洋戦争(1937〜45年)に至るまでの戦没者の霊が納められている。 ちなみに太平洋戦争で戦死した僕の曾祖父も、靖国神社に合祀されている。なお、合祀対象者は軍人・軍属、準軍属およびその他となっており、戦没者であっても反乱側に属する者は合祀され ていない。つまり、戊辰戦争であれば新撰組や彰義隊、西南戦争であれば西郷隆盛(1828〜77)らが対象外だということになる。 軍属でなくても、対馬丸事件(1944年)の犠牲者やソ連抑留中の志望者は合祀対象になっている。面白いのは、殉職した外務省等職員、JICA職員および青年海外協力隊員、日系海外青年ボランティア隊員というのも合祀の対象になっているということ。つまり、僕がネパールで死んでいたら、今頃は靖国神社に祀られていたことになる。まったく知らなかった。
 A級戦犯は「サンフランシスコ講和条約の第11条にある裁判・判決によって死亡した者など」という資格で合祀されている。
    



大鳥居
 


 ここは靖国問題について語る場所では無いので、これくらいにしておいて、靖国神社を観て歩くことにしたい。
 九段下の駅を降りて坂道を登っていくと、すぐに大鳥居(第一鳥居)が見えてくる。1921(大正10)年の創建当時は日本一の大きさだったそうで、高さは25メートルである(現在の日本一は熊野本宮大社で33.9メートル)。なお、現存のものは1974(昭和49)年に再建されたもの。
 ここから石畳が敷かれた参道が本殿まで続いている。
  



さざれ石
 


 参道には様々な物があり、それを見て歩くのは楽しい。
 大鳥居のすぐ右の脇に「さざれ石」がある。表示板も何も無いのでついうっかり見落としてしまいそうだが、裏に回ると、石に「さざれ石」と彫りつけてある。さざれ石は国家「君が代」の中で「さざれ石の巌となりて」と詠まれているもの。石灰岩が雨で溶けて、コンクリート状に固まったものだそうである。
 「君が代」の中でのさざれ石とは、小石の意味で、それが巌(岩)になる程の永い年月という比喩的な表現で使用されているものなのだが、実際こうして存在しているのである。
   



常陸丸殉難記念碑
 

 
 そのすぐ先に、「常陸丸殉難記念碑」が建っている。常陸丸は、陸軍の徴用陸軍徴傭船で、日露戦争中の1904(明治37)年6月15日、玄界灘を航行中に、ロシアの艦隊によって撃沈されている。イギリス人3名を含む乗務員1063人が戦死した。戦死者は、靖国神社に合祀され、その年の10月30日に記念碑が建てられた。この記念碑は太平洋戦争後、GHQによって撤去されてしまっていたが、都営新宿線の工事中に地中から碑が発見され、1965年に再びここに設置されたそうである。
  



田中支隊忠魂碑
 


 常陸丸殉難記念碑と並んで「田中支隊忠魂碑」が建っている。第一次世界大戦中の1919(大正8)年2月25日、シベリアのユフタにおいて田中勝輔少佐率いる田中支隊は、圧倒的な敵に包囲され、約350名が戦死している。
   



慰霊之泉―戦没者に水を捧げる母の像―
 


 さらに、その並びには「慰霊之泉」なるオブジェがある。「戦没者に水を捧げる母の像」というオプションがついているが、特にそのような像はない。なんでも、戦没者の多くが、故郷の母を思い、水を求めながら亡くなったことから、清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を、抽象的に表現したものであるそうだ。
    



大村益次郎銅像
 


 参道の真ん中に建つのは、「大村益次郎銅像」。大村益次郎(1824〜69)は、長州出身の勤皇の志士。第二次長州征伐(1866年)、戊辰戦争(1868〜69年)では長州軍を率いて、勝利の原動力となった。
 維新後は兵部省(現・防衛省)の初代大輔(次官)を務めているが、兵部省の最高官・兵部卿の仁和寺宮彰仁親王(後の小松宮)は名目上の存在だったため、事実上は大村が最高指導者であった。つまり、彼は近代日本陸軍の創始者とも言える存在である。また、彼は靖国神社の創建にも尽力しており、1893(明治26)年、日本最初の西洋式銅像として、彼の像がこの地に建てられた。
  



第二鳥居
その奥が神門
 


 参道の突き当たり、第二鳥居をくぐって靖国神社の中へと入って行こう。第二鳥居は1887(明治20)年。こちらは青銅製の鳥居としては日本一の大きさとのことである。
  



神門
 


 第二鳥居の先にある神門は、1934(昭和9)年の創建。中央の扉に菊花の紋章がついている。これはもちろん、皇室の御紋である。
   



拝殿
 


 第二鳥居をくぐるとその先には、さらに3つ目の鳥居・中門鳥居が建っている(写真一番上参照)。
 その奥の建物が拝殿である。1901(明治34)年創建。普段、参拝できるのはここまでで、残念ながらその奥にある本殿は、拝殿から拝むしかない。なお、本殿は1872(明治5)年創建ということで、境内に現存する建物の中では最古の部類に入る。
    



元宮
 


 本殿には行けないが、そのすぐ近くにある2つの小さな祠には参拝ができる。これらが一般公開されるようになったのは2006年10月というから、ごく最近のことだ。
 その一つ元宮は、幕末期に勤皇の志士の霊を祀るために京都に密かに建てられていたものを、1931(昭和6)年にこの地に移されたという。その精神は靖国神社の前身ともいうべきものであったため、「元宮」と名づけられた。
   



鎮霊社
 


 その左にある鎮霊社は、1965(昭和40)年創建と、比較的新しいが、戦争や事変で亡くなったものの靖国神社本殿には合祀されない国内・諸外国の人々を慰霊することが目的である。
  



能楽堂
 


 再び中門鳥居を出て、左手(神門入って右手)を振り返ると、能楽堂がある。
 能楽堂は1881(明治14)年に芝公園に建てられたものだが、1903(明治36)年、靖国神社に奉納・移築された。神霊を慰めるための能や日本舞踊などが取り行われる。
  



力士像
左奥に相撲場がある。
 


 そのまま能楽堂を右に見ながら左手に進んでいくと、突き当たりに遊就館(ゆうしゅうかん)があるが、ここは最後に観ることにして、左に曲がって本殿の裏手の方へ進んでいく。
 靖国神社と言えば、奉納相撲が有名。毎年4月に行われるが、そもそもの起源は1869(明治2)年の鎮座祭に際して相撲が奉納されて以来の伝統を誇る。
 相撲場の方へは行けなかったが、入口に力士像が建っているのが見えた。
  



神池庭園
右奥が靖泉亭
 


 靖国神社一番突きあたりには、回遊式の庭園がある。それが、神池庭園(しんちていえん)。明治の初めに造られたものを、1999(平成11)年に復元。
 その池を取り囲んで、洗心亭、靖泉亭、行雲亭の3つの茶室がある。僕は大学時代は茶道部に所属していたのだが、何回かこれらの茶室を使って茶会を催したことがある。
  



神池庭園
右奥が洗心亭
 


 最後に、遊就館を見学して帰ることにした。遊就館は、靖国神社に祀られた人たちの遺品などを収蔵・展示する博物館である。
  



遊就館
手前左のオブジェは鳩魂塔
 


 遊就館に入る前に、その前の広場を見てみよう。いろいろなオブジェが飾られていて楽しめる。下の写真は、1854(安政元)年に地震の津波によって沈んだロシア軍艦ティアナ号の大砲である。
    



ロシア軍艦ティアナ号の備砲
 


 戦争で死んだのは人間ばかりではない。戦争では軍馬や軍犬、伝書鳩も多く命を失っている。それらの軍馬や軍犬の慰霊のために建てられた像も建っている。「軍犬慰霊像」と「戦没軍馬慰霊」、「鳩魂塔」(写真)。例えば大東亜戦争(太平洋戦争)だけで軍馬20万頭、軍犬1万頭以上が戦争に導入されたそうである。中でも軍犬利根(とね)の物語は有名で、文部省唱歌となり、当時の教科書にも載せられた。
  



軍犬像(左)と軍馬像
 


「軍犬利根」(文部省唱歌)

1.行けの命令まつしぐら
  かわいい軍犬まつしぐら
  カタカタ カタカタ カタカタ
  ダンダンダン 弾の中

2.あの犬うてうて うちまくれ
  のがすなのがすな うちまくれ
  カタカタ カタカタ カタカタ
  ダンダンダン 敵の弾

3.よし来いよし来い 利根来い来い
  わたしだわたしだ 利根来い来い
  カタカタ カタカタ カタカタ 
  ダンダンダン 弾の中

 



母の像
 


 「母の像」は、戦争で夫を失い、3人の遺児を抱え力強く生き抜く母を表した像である。
  



パール博士顕彰碑
 


 「母の像」の右隣には「パール博士顕彰碑」が建っている。パール博士とは、1946年から始まった極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判 において判事を務めたインドの法学者ラダ・ビノッド・パール(1886〜1967)のことである。
 東京裁判では判決を受けた25人の被告のうち、死刑となったのは東條英樹元首相(1884〜1948)、広田弘毅元首相(1878〜1948)ら7人。松岡洋右元外相(1880〜1946)、小磯国昭元首相(1880〜1950)ら獄中死した7人を加えた計14人が現在靖国神社に合祀されている。
 パール博士は、東京裁判において、裁判官の中で唯一、全被告無罪の意見書を出し、勝者が敗者を裁くが公正に欠けると批判した人物である。 そのため、2005年6月、靖国神社に顕彰碑が建てられた。
 もっともパール博士自身は国際法を遵守したまでであって、必ずしも日本を弁護することが目的ではなかったと言われているから、さぞかし地下で苦笑していることであろう。
  



遊就館入口
 


 遊就館に入ると、復元されたゼロ戦が出迎えてくれる。ここは、古代から現代に至る日本の軍隊の歴史を展示している場所なのである。主に明治維新以降、大東亜戦争(太平洋戦争)までの展示が中心となっており、大砲や映画「戦場にかける橋」 (1957年英)でもおなじみの泰緬鉄道を走った蒸気機関車などを見ることができる。人間魚雷「回転」などもある。もっとも、軍隊では無いという位置づけからか自衛隊に関する展示は無いのだが…。
 



ゼロ戦
 

 
 どちらかというと戦争の勇ましい部分ばかりを強調していて、悲惨な部分にはあまり触れていない感じがする。中国の関係者がここを訪れて激怒したという話もあり、そのことが遊就館の最大の問題点ではないだろうか。
 もちろん遊就館の視点を100%肯定する気も否定する気も無いが、やはり展示を観る側の僕らが、自分自身で考えるという姿勢を持つことが最も大切なのではないだろうか。
          



泰緬鉄道機関車
  

(2010年1月26日)


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