青砥
葛西城址
所在地: 葛飾区青戸7−28−17(青砥駅 徒歩15分)



 葛西城址
 


 都内の城跡には今日では遺構の類が全く失われてしまったものも多い。江戸から東京と、近世以降この街が大きく発展してきた証拠ともいえよう。
 葛飾区青戸にあった葛西城もそうした城の1つで、現在まったく遺構は残っていない。
  
 葛西城は、京成線青砥駅で降りて、環七通りを北へ10分ほど歩いたところにある。
 葛西城がなぜ葛飾に? 僕が最初思った疑問 だ。なぜなら、葛西という地名は現在、江戸川区にある。だが調べてみると、葛西とはかつては千葉県西端から、北は茨城県までの広大な地を指していた。その葛西の地を支配していた葛西氏の居城が葛西城であったのだ。
  
 現在その跡地は中央が環七通りによって分けられ、東側の葛西城址公園と西側の御殿山公園になっている。
   



環七通りから見た葛西城址公園(右側)
 


 まずは本丸の跡地である葛西城址公園の方へ行ってみた。
 ここは何の変哲もない公園で、城跡を思わせるものは何もない。
   





葛西城址公園
 


 もう1つの御殿山公園のほうは、緑もあってもう少し雰囲気がある。
  



葛西城址公園から見た御殿山公園


御殿山公園
 


 葛西城は葛西氏の後、北条氏の居城となり、北条氏康(1515〜71)が里見氏を攻略した国府台合戦(1538年、1563〜64年)の際には戦場となっている。 その後、秀吉の小田原攻めの際に落城し廃城となった。
 徳川時代となってから葛西城の跡地には「青戸御殿」が建てられ、将軍の鷹狩りの際の宿所となっている。
  



御殿山公園
 


 御殿山公園にはいろいろな碑も建っている。
 最も大きく目立つ碑は「葛西城を偲ぶ」碑。1989(平成元)年に建てられたもの。
  



「葛西城を偲ぶ」碑
 


 また、「青砥藤綱城跡碑」や「青砥史蹟復興之碑」の2つが建つ。これらは鎌倉時代末期に活躍したとされる青砥藤綱にちなんだものらしい。一説には青砥藤綱の屋敷がこの地にあったとされるが、信憑性は低いそうだ。
    



青砥藤綱城跡碑


青砥史跡復興之碑
 


 葛西城が注目されたのは1972(昭和47)年、環7通りの道路建設の際である。地下から遺構や遺物が発見された。だが、再び埋め戻され、遺跡は地下に眠っている。

 最後に近くを流れる中川の土手に登ってみた。葛西城はいわゆる平城だが、かつてはこの川に面した、天然の要塞であったのだろう。
  



中川
 

(2013年5月21日)


戻る