梅田 |
露天神社(お初天神) |
所在地:大阪市北区曽根崎2−5−4 |
HP:http://www.tuyutenjin.com/index.html |
露天神社(お初天神)
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2013年3月…僕は阪神甲子園球場にいた。春の選抜大会に出場していた母校・早稲田実業学校の応援のためである。
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阪神甲子園球場
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早実は優勝候補の仙台育英高校を相手に7回まで1−0とリード。このまま勝つのかと期待させられたが、結局1−4と逆転負けを喫してしまった。
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阪神甲子園球場
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大阪での残念会の後、友人たちは飛行機で東京に帰っていった。まったくタフな奴らだ。タフでは無い僕は、しばらく関西に残ることにした。
梅田に宿を取り、翌朝大阪観光へと出かけた。
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露天神社正門
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ホテルを出て駅に向かって歩いていると途中にあった立派な神社。それが「露天神社(お初天神)」。近松門左衛門(1653〜1725)の「曽根崎心中」の舞台
である。
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参道
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参道を進むと右手に「露の井戸」という名の井戸がある。もともと露天神社のあった地は大阪湾に浮かぶ小島であったという。そこに「住吉須牟地曽根ノ神」が祀られ、この地も曽根崎(曽根洲)と呼ばれた。
南北朝時代に曽根洲は内陸と地続きとなったが、「露の井戸」は真水の少ない大阪において貴重な井戸であったという。
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梅雨の井戸
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露天神社の由来も大変古く、少なくとも850(嘉祥3)年にまで遡ることができるが、6世紀の欽明天皇の頃にはすでに形が整っていたとされる。
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右近の橘
左近の桜
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露天神社の名前の由来は901(昌泰4)年2月、筑紫へ左遷される途中の菅原道真が、この地に参詣し、
露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば
との和歌を呼んだことにちなんでいる。
「曽根崎心中」ゆかりの碑は本殿から見て左手にある。
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奥が曽根崎心中ゆかりの碑
左手が神牛舎、右手が開運稲荷社
曽根崎心中ゆかりの碑
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「曽根崎心中」のモデルとなった事件は、1703(元禄16)年に起きている。堂島新地の天満屋の遊女お初と、内本町の平野屋の手代徳兵衛が、現在のお初天神の裏手にあった天神の森で心中を遂げたのである。
すぐに近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」として発表し、大評判となった。以後、露天神社もお初の名にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになる。そんなわけで、恋愛成就のご利益があるのだとか。
300回忌に当たる2004年にブロンズ製のお初と徳兵衛の像が建立された。
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お初徳兵衛ゆかりの地碑
お初・徳兵衛像
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2人の像の前にある「難転石」は、水の力で回転する丸い石で、これを回すと難が転じるのだそうだ。
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難転石
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ゆかりの碑のすぐ左手に牛の像があるが、これが神牛舎。菅原道真は丑の年(承和12年)の丑の刻に生まれ、死後太宰府で祭祀が営まれたのも牛の年の丑の日(延喜5年8月19日)だったことから、牛との関わりが深いという。
自分の身体の病んでいる箇所と、神牛を交互になでると、身代わりになってくれるそうである。
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神牛舎
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ゆかりの碑の右手に赤い稲荷が連なっているのが、末社・開運稲荷社。
1909(明治42)年の火事で、露天神社にあった四社の稲荷社が烏有に帰した。翌1910年にこの地に四社を合祀したという。
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開運稲荷社
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難波神明社は、天照皇大神・豊受姫大神を祀る。そもそもは821(弘仁12)年2月、源融によって中洲(現・曽根崎1丁目)に皇大神宮を祀ったのが始まりという。社殿が西向きなので、「夕日ノ神明社」とも称された。平安末期の文治年間(1185〜89年)には源義経
(1159〜89)が梶原景時(1140〜1200)と逆艪の論争をした際に、寄付物を奉納し願書を収めたそうである。
しかし1834(天保5)年、1909年とたびたび火事に合い、1910年露天神に合祀された。
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難波(夕日)神明社
句碑
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境内の右手にある大きな神社は水天宮・金刀比羅宮である。
水天宮は1797(寛政9)年に中之島にあった久留米半蔵屋敷内に祀られた。明治維新の後、丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀され、その後各地に遷った末、
1910年に露天神に合祀された。
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水天宮・金刀比羅宮
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それにしてもここは賑やかな大阪の梅田だとは思えないほど閑静として落ち着いた場所である。
しかし、門を出るとすぐ飲み屋などが並ぶ。
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東門
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別の門から出るとすぐに「お初天神参道」と名付けられたアーケード街があった。
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西門
お初天神参道
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(2013年3月30日) |